要の地、本圀寺
―――詩乃視点―――
冬の潮風が堺湊を刺すように吹き抜けていた。
空は薄い鉛色で、海も町も、どこか息を潜めているように見えた。
父上、孫市様、藤孝様、そして雑賀衆五十の武者たちが、
湊の外れに静かに集まっていた。
その後ろには、南蛮船から降ろされた木箱が山のように積まれている。
箱の側面には、見慣れた焼印が押されていた。
——鉄砲。
しかも、数が……多い。
五十人の手勢には、明らかに過ぎる量。
孫市様が私の視線に気づき、片目をつむった。
「五十で二万とやり合うんや。
鉄砲は……多い方がええやろ?」
軽口のようでいて、目だけは冗談ではなかった。
胸がざわつく。
——二百丁あるそうだ。
孫市様は雑賀衆五十人で、四倍もの鉄砲をどのようにお使いになるつもりなのか。
父が私の前に歩み寄った。
その顔は、いつもの優しさのままなのに、どこか遠い。
「詩乃。……留守を頼む。」
ただそれだけ。
けれど、その一言に、どれほどの覚悟が込められているのか分かってしまう。
私は深く頭を下げた。
「……どうか、ご無事で。」
父は小さく頷き、背を向けた。
孫市様は、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「ほな、ちょっくら京まで遊びに行ってくるわ。
詩乃、泣くなよ?」
「……泣きません。
だから……必ず、戻ってきてください。」
孫市様は一瞬だけ目を細め、
「任しとき」と低く言った。
あのキモい視線も今では頼もしく見えた
雑賀衆五十が一斉に動き出す。
鉄砲箱の金具が触れ合う乾いた音が、冬の空気に響いた。
三つの背中が、ゆっくりと堺の町を離れていく。
私はその場に立ち尽くし、
冬の潮風の中で、ただ祈った。
——どうか、無事に。
その願いは、小さな灯のように胸の奥で揺れ続けていた。
―――光秀視点―――
本圀寺の山門が見えたとき、夜気はすでに肌を刺すほど冷たかった。
京の町は眠りに沈んでいるはずなのに、この寺だけが妙に静まり返っている。
門前の松明が、風もないのにかすかに揺れた。
その揺らぎが、光秀の胸にざらりとした不安を落としていく。
——ここは、守りには適さぬ仮御所。
山科本願寺の焼け跡に急ごしらえで建てられた寺。
城ではない。堀も塀もなく、籠城に耐える構えでもない。
光秀は馬を降り、山門の前に立った。
闇に沈む本堂の影は、まるで息を潜めているように見えた。
「……静かすぎる。」
藤孝が低く呟く。その声は夜気に吸い込まれ、すぐに消えた。
門の内側から、怯えた足音が近づく。
将軍家の近習の若者が、蒼ざめた顔で頭を下げた。
「光秀様……! よくぞお越しくださいました。どうぞ、中へ……!」
三人は本堂の縁側に立ち、夜の京を見下ろした。
遠くで犬が吠え、風が屋根瓦を撫でていく。
光秀は静かに言った。
「……この寺は守りには向きませぬ。だが、守らねばならぬ。」
藤孝が頷く。
「三好軍は夜襲を得意とする。だが、こちらが備えていれば、逆に活かせる。
将軍家の命運を、この一夜に託すしかありません。」
孫一は鉄砲箱を軽く叩き、口の端を上げた。
「せやったら――五十で二万を止める景色、見せたるわ。
まずは周りを見て回ろか。」
夜の本圀寺は、静かに、しかし確実に戦の気配を孕み始めていた。
孫市が山門の前で立ち止まり、指で地面をなぞった。
「まず、ここや。」
光秀は門前の狭さに気づく。
大軍が一度に押し寄せられる幅ではない。
「ここに兵を潜ませる。
三好の先鋒が門をくぐった瞬間、左右から挟むんや。」
藤孝が頷く。
「門前で細くなった敵を、まず一度、断ち切るわけですな。」
「せや。
分断したら、前の連中はこっちへ、後ろはあっちへ
戦って逃げるふりをして、敵を”こちらが誘導する”んや」
孫市の声は低いが、揺るぎなかった。
三人は境内へ進む。
本堂へ向かう道は、僧房と倉が左右に並び、複雑に入り組んでいる。
孫市はその地形を見て、口角を上げた。
「ここ、ええな。」
光秀が問う。
「どう使う?」
「最初は本堂へ向かわす。
後のは、本堂が片付くまでは、僧房の裏と倉の影に回して時間を稼ぐんや。
ほんで、本堂が空いたら――“狩場へご案内”や。」
藤孝が静かに言った。
「つまり、“本堂を狩場にする”わけですな。」
「そういうこっちゃ。」
光秀は眉をひそめた。
「しかし、本堂に集めた敵をどうやって……?」
孫市は振り返り、にやりと笑った。
「ほな、本堂へ行こか。 見たら分かる。」
その声音には、すでに勝ち筋を見据えた者の確信があった。
本堂の前に立つと、広場のような空間が広がっていた。
ここだけは、敵がある程度まとまって動ける。
孫市はその広場を見渡し、静かに言った。
「ここを“狩場”にするんや。
山門で分断して、境内くるくるさせて順番きたら、最後にここへ押し込む。
逃げ道は前の本堂しかあらへん。」
光秀は息を呑む。
「ここに誘導された敵は……逃げ場がない。」
孫市はニヤリと口角を上げた
「右も左も狭い道や。塞いでもうたらええ。
前は本堂、後ろは味方が塞ぐ。
ここで――全員、撃ち抜く。」
藤孝が静かに息を呑んだ。
「つまり……ここを、三好方の終の地といたすわけですな。」
「せや。」
孫市は縁側を軽く叩いた。
乾いた音が夜気に響く。
「ここに雑賀衆五十を並べる。
撃つのは雑賀だけでええ。 あいつらは外さん。」
光秀は頷いた。
雑賀衆の腕は、すでに堺で見ている。
「問題は――撃った後の手や。」
孫市は本堂の中央を指し示した。
「二百丁を回すには、二百人は欲しい。 誰を使う?」
藤孝は腕を組み、しばし考えた。
「……若狭武田の兵が適任でしょうな。
ちょうど二百人ほどで 鉄砲の扱いにも慣れております。」
孫市は満足げに笑い、本堂の中へ入り、中央の広い空間を指し示した。
「ここに火薬と弾薬を山ほど積む。
火縄も替えの火皿も、全部ここや。
撃ち手が迷わんようにな。」
光秀はその広さを見て息を呑んだ。
「……ここが、鉄砲の心臓部になるのか。」
「そういうこっちゃ。」
孫市は四本の指を立てた。
「雑賀一人につき、武田の兵を四人つける。 鉄砲も四丁や。」
藤孝が目を細める。
「四丁……?」
「そうや。」
孫市は鉄砲を手に取り、空中で流れを描くように動かした。
「雑賀衆は撃つだけ。 撃ったらすぐ後ろへ放る。
武田の兵が順番に弾を込めていく。」
孫市は四丁の鉄砲が輪のように回る様を示した。
「一丁目を撃つ。 一人目が受け取って弾を込める。
二丁目を撃つ。 二人目が受け取って弾を込める。
三丁目、四丁目……と続く。」
光秀はその動きを目で追い、息を呑んだ。
「つまり、四丁を循環させるわけか。」
「せや。」
孫市はにやりと笑った。
「三つ数える間に、一発撃てるように鍛える。
武田の兵には、今からそれを叩き込まなあかん。」
藤孝が驚きを隠せない。
「火縄銃は、一分ほどかけてようやく一発が常識……
それを三つ数える間に?」
「常識で勝てるなら、こんな夜にここへ来とらん。」
孫市は鉄砲箱を軽く叩いた。
光秀は広場を見渡した。
——これなら、二千足らずでも二万を止められる。
孫市は夜空を見上げた。
「三つ数える間に一発。
それができたら……ここは地獄になるで。
いや、極楽浄土への入口っちゅうとこか」
本堂の裏手では、武田の兵が馬車から荷を下ろしていた。
その中心に、ひときわ背筋の伸びた若武者が立っている。
十六にして若狭武田の当主――武田元明。
まだ幼さの残る顔立ちだが、その瞳だけは、失った領地の重さを隠すように鋭かった。
元明は藤孝と光秀に気づくと、胸を張って一礼した。
「若狭武田、元明。二百、参上仕っております。」
藤孝が一歩進み、穏やかに告げる。
「若狭殿。よくぞお越しくだされた。
この度の戦、将軍家の御身を守るため、諸勢力の力を合わせねばなりませぬ。」
元明は真剣に頷いた。
「若狭武田、力の限り働く所存。」
そのとき、背後から軽い足音が近づいた。
「おお、あんたが若狭の若殿か。」
孫市である。
鉄砲を肩に担ぎ、まるで夜風に誘われて散歩に来たかのような気安さで歩み寄る。
光秀はわずかに眉を動かし、元明の前に半歩出た。
「若狭殿。こちらは雑賀衆の頭領、孫市殿にございます。
鉄砲の扱いにおいて、他に並ぶ者なき御仁にござる。」
その声音は柔らかく、孫市の奔放さを包むような静けさがあった。
元明は一瞬、目を見開いた。
噂に聞く“雑賀孫市”が、あまりに軽やかな雰囲気で現れたからだ。
「……あなたが、雑賀孫市殿であられるか。」
孫市はにやりと笑い、鉄砲を肩で揺らした。
「せや、孫市や。 ......聞いとるで。
若狭から二百も連れてきたんやて? ええ度胸や。十六でようやる。」
元明の頬がわずかに赤くなる。
「……武田の名に恥じぬ働きをするだけです。」
虚勢だ、と光秀は見抜く。
若狭の守護、名門武田氏の本城・後瀬山城は、昨年すでに朝倉義景の手に落ちた。
若狭には、もはや帰る場所すらない。
それでも、この若さゆえの誇りは、戦場では時に力となる。
孫市が鉄砲を軽く叩いた。
「藤孝はんとも話ついとる。
あんたの兵、鉄砲回す役に使わせてもらうで。」
元明は息を呑む。
「……鉄砲を、回す……?」
孫市は元明の胸元に鉄砲を軽く押しつけた。
「せや。雑賀衆が撃つ。
その後ろで、あんたの兵が次々に弾を込めて回すんや。」
元明は戸惑いを隠せない。
「わ、若狭武田は……守護の家。
その兵を、ただの装填役に……?」
孫市は鼻で笑った。
「“ただの”やない。
ここが崩れたら、公方様は終いや。
鉄砲を回す役が、一番大事なんや。」
光秀が静かに補う。
「若狭殿。
そなたの兵は、この戦の“要”となる。
ここが揺らげば、すべてが崩れる。
そなたが定まれば、兵もまた定まる。」
元明は唇を噛んだ。
十六歳の若殿の誇りが、現実と激しくぶつかり合う。
「……この戦の要、か。」
その一言に、誇りも、恐れも、反発も、すべてが滲んだ。
光秀は黙って見守る。
孫市はにやりと笑い、何も言わない。
やがて元明は深く息を吸い、孫市を見据えた。
「……わかった。
武田の兵、務めを果たす。
この“要”、必ず支えてみせる。」
孫市は満足げに笑った。
「おお、ええ顔になったやん。
これで勝てるわ。
――ほな、地獄の稽古、始めよか。」
夜気が震えた。
若狭の若殿は、この瞬間ようやく“戦”の只中へ足を踏み入れた。




