888 【 RHYTHM 】
あずさは時間を気にしながら、何とか待ち合わせ時刻ギリギリに学校へと戻って来た。
断熱材としても使用されている、エコにも優しい天然繊維の羊毛を下地に織られた、生成色の上下の合わせを着ていた。上下どちらにもポケットが幾つか付いており『探索爆弾』などの様々なアイテムが収納されていて、手荷物は特に何も持ってはいなかった。
走る足は休む事はなく、竜代と待ち合わせている理科室へと向かっていた。明かりの点いている校内は中夜に近しと言えどもまだ電気などの供給を自動ストップさせてはいないらしい。おかげで あずさは迷う事はなく、昼間に記憶していた通りのルートで目的地へ辿り着く事ができたのだった。
あずさは理科室へ入る。しかし絶対に先にいると思い込んでいた竜代の姿は何処にも見当たらなかった。
「あれえ……?」
と、寝ぼけたような声を出す。狐にもつままれたような顔をしていた。「おかしいなあ」
竜代は時間に正確なはずだった。あずさは首を傾げる。そして「ああ! そうか!」と頭を抱えてパニックになった。
「もしかして場所を間違えたのかも!」
自分でも充分に有り得ると思ってしまった。うおおおお〜と叫び声を上げる。すると。
「合ってるよ」
と、あずさの背後から声が聞こえた。
「……」
「ご苦労さん」
振り返ると、腕を組み入り口付近に体をもたれかけてあずさを見ている竜代がいた。
「せ、先生! なあんだ、いたんじゃないですかあ」
びっくりして竜代の前まで近寄った。あははと少し誤魔化し笑いをしながら竜代の顔を見上げている。竜代は何かを考えながらブツブツとひとり言を言い出した。
「捜していたんだが……」「?」
「考え方を変えてみようと思う」
意味がわからない事を言い出した。あずさの頭上にクエスチョン・マークが浮かぶ。
「どういう事でしょう? 先生」
と、聞かずにはいられずに聞いてみたあずさ。「例えば――」
チラ、と竜代があずさを見る。視線、表情それはとても意味深な仕草だった。片腕の上にのせ立てたもう片腕の先の人差し指を。当てていた口元から離して、ゆっくりと、その指は――。
……あずさの、口元に。
(へ?)
手は広げてあずさの首筋にかかり、頬に。
(はい?)
やがて竜代の両手が、あずさの顔を包み込むように、優しく……自分の顔へと近づけていった。
いくら鈍いあずさといえども、これにはたまらず。最速で顔が真っ赤になった。だがしかしあずさは拒否ができない。「……!」
そのまま竜代の瞳の中へと吸い込まれていった。
しかし。
「い、い、加、減、に、しやがれいっ!」
バコチーンッ!
鈍く嫌な音がした。頭蓋骨でも真正面からぶつかり合ったような音。
その通り。頭と頭がぶつかったのである。
バタリ。相手……あずさに近づいて迫っていた竜代は、思いがけない頭突きの攻撃にあって廊下の窓際に打ちつけられるほど飛んでいった。額からは煙が細く上がっている。
「……」
あずさはクタリと腰を床に落とし、正面で倒れている竜代を見た。自分は何もしていない。一体何が起こったのだろう、と。目が点になり始め何も理解ができなかった。
「あーくそ。敵の策にはまっちまった。厄介な敵だな、どーしてくれよう」
あずさの頭上で声がした。
聞き覚えのある声。聞き間違えるはずのない声だった。
あずさは、眼球だけを動かして真上を見てみた。すると。
「せ……?」
名前を呼ぶのに躊躇った。無理もない。
その姿は人の形ではなかった。何と、餅が伸びたか、もしくは魂となって頭から抜け出したかのような姿形をしていた……竜代。天井近くまで伸びていた餅か魂の先に丸い、幼児にも見える竜代の可愛い頭がついていた。ミニサイズ竜代、略してミニ竜代としておこう。
どうやらミニ竜代の尻尾(?)の先は、あずさの前髪に繋がっているようだった。
「せ、先生。何故……」
まだ半信半疑で頭上を見上げていた。受け入れるのに非常に時間がかかるらしい。
「何故……私の前髪に……」
やっと疑問が言えたと思っていたら、今度は前方。上半身だけを起こしてあずさ達を見ている、人の形をした方の竜代から声が返ってきた。
「そこにいたのか水島竜代。校内中を捜しても見つからないはずだな」
そう目の前の竜代は言った。
(???)
さっぱり経緯がわかっていないあずさを置いて、竜代対ミニ竜代の会話は続く。
「捕まえたと思ったらアッサリと抜け出して。ずっと教え子の近くで俺を見張ってたのか」
人型の竜代が言う。これまでの会話の内容から察するに、どうやら本物はミニ竜代の方である事が判明した。あずさは頭の中を整理する。「捕まった……? 先生が?」
全く知らない。恐らく『敵』である人型の言う事に少しショックを受けるあずさ。
要するに自分の知らない所で、本物の竜代は敵と一度対面し。竜代は敵に捕まって、だが抜け出して。そしていつの間にか自分の所に。
そういう事だった。
丸い顔のミニ竜代は、激しく敵を睨んでいる。
「……そうだ。お前が俺の姿で堂々としてるもんでしばらく様子を見ようと思ってな……知性のあるバグ化生物なだけに厄介な奴だ。一体何を企んでいる!?」
真に迫って聞いた。敵は答えた。
「別に。面白かったんで」
涼しく余裕だった。
「おおい!」
ミニ竜代は吐き気を催した。
「先生ぃ……」
あずさの冷や汗が止まらない。
そんな茶番が繰り広げられている合間に、敵は静かに変化しつつあった。まずは長い髪。風もないのにザワザワとなびき出していた。
「……悪いのはそっちだぜ、水島竜代」
敵の黒い瞳の奥に光るものがあった。涙ではない、それは。
「最初に俺と戦った時に――」
思い出されるは竜代が敵にぶつけた瓶の中の液体。
“感情”を意味する言語のラベルが貼られていた、瓶の中身。
「俺に、変な薬品をぶつけやがった。そのせいで俺は」
何か全く違うものへと、『生まれ』変わってしまったのだろうか。だとしたらそれは、敵にとっては幸なのか不幸なのか。わからない。
「悪いな……」
ミニ竜代の表情は影を落とした。冷ややかに相手を見据えるしかなかった。
敵は、内部から風を起こして立ち上がり、変貌していく。
シュワアァ……
炭酸が湧き出たような音とともに髪を含む体毛という体毛が全て立ち上がり、敵の竜代の顔は人でも何でもなくなっていった。もはや衣服を着た中身は、化け物そのもの。深い皺が刻まれた皮膚は今にもそこから血が出そうで気持ちが悪かった。
えくぼを作って笑っている。
愉快で面白そうに、笑っている。
「バグった奴を元の形に戻す試薬だったんだが……どうやら上手くいかなかったみたいだな」
ミニ竜代は目を閉じた。
「16ME4U=10−910−9××……」
アルゴリズムを唱える。すると額から眩い光が輝き始めて、ミニ竜代はその姿形をみるみるうちに変えていった。変えて、というより戻った、という方が正しいのだろう。あずさの前髪と繋がっていたものは断ち切られ、元の人の形である竜代になった。
「先……」
「悪いなあずさ。先走って……お前を信用してなかったわけじゃないんだ」
あずさの隣に並ぶ。あずさの方を見ようとはせず、目の前の敵だけを難しい形相で見ていた。簡単にこれまでの事情を説明する。
「先に下調べしてた最中に奴とバッタリ遭遇して、まんまとしてやられた。こっからは第2Rとなる。――基礎はOKだな?」
ざっと急ぎ足で話し終えて、あずさに同意を求めた。あずさは……。
「……」
少し考えて間が空いた。だが。
「はい!」
快く返事をした。
あずさは、敵と竜代の間に何があったのかを全く知らない。しかしあずさは竜代を疑ったりなど微塵にも思わなかった。
心の底から竜代の言葉を信じている。それだけだった。
あずさと竜代は戦闘態勢に入った。廊下に出て、間合いを数メートルとった。敵は粗悪に形成された細胞の体で、骨ばった指からは黒く変色した、鋭く細長い爪が生えている。大きい口はこめかみにまで裂けて、耳は尖り、歯は黄色。臓器から湯気が立っているようにも見える。
本人は、何にも動じてはいない。なるようになればと、堂々としていた。
何処からかメキメキと木が裂け割れたに近い音が聞こえている。
「いいかあずさ……細かく指示を出す暇はない」
あずさの隣でボソボソと竜代は話す。あずさはしっかりと聞いている。
竜代は続けた。
「お互いがお互いのサポートを……しろ」
あずさはコクン、と頷いた。息を呑む。
「最初は奴の急所探しだ。『探索爆弾』は、幾つ持っている?」
竜代の問いかけには正確に。「6個です」
焦りと緊張に押されながら。敵からは2人とも目を離さずに。
「『オ・バード』作戦だ、行くぞ!」
それが合図。
あずさの足は地面を蹴った。「はい!」
敵に目掛けてまっしぐら。あずさのスタートダッシュを受け止めようと、敵は待ち構えていた。しかし。
ピョイ。
あずさの体は転回するように、宙に浮く。手を何処にもつかずに体の軸を使って後方2回宙返り1回ひねり(月面宙返り[ムーンサルト])とまではいかないが、匹敵するほどの鮮やかさで高く敵の頭上を越えてジャンプした。
「!?」
敵の視界からすれば、突然あずさは消えたように見える。
あずさは消えたが、代わりに視界の中に映ったものは。
『探索爆弾』を右手で包みかけて持ち、相手に手の平は広げているように構えてそれで左手で右腕を支えている態勢をとった、竜代だった。
「『探索……破砕』!」
ドオンンッ! 従来の使い方とは異なった『探索爆弾』は、竜代ならではのプログラミング・アレンジで、結果。遠距離から猛威となって拡散エネルギーが放たれた。オオオ……。残響がおとなしくなっていく。
直撃は避けられなかった。猛威、とは言ったが破壊力の大まかを敵の体で受けており、周囲の破壊規模は比べて小さく。壁や器物などはあまり損壊されてはいなかった。
敵はかなりのスピードで吹っ飛んでいった。
一方、先に着地していたあずさ。少し離れた地点に敵は飛んで落ちてきて、廊下の硬い地面に沈む。「……さすが……」
タラリ、と汗が出るあずさ。竜巻アタックなバレーボールでも受けたように凹んでいる敵の腹。そのダメージはやはり見た目通りに攻撃が強力だったせいか、敵は全然動かなかった。
「さすが先生……『オ・バード(おとり)』作戦、成功〜……」
そんな事を言ってみる。「はは……」
(怖いよおお〜……先生の『探索爆弾』、強化版!)
改めて師匠の恐ろしさを知る。しかしそんな悠長な態度でいる場合ではなかった。
「あずさ、攻撃だ! 叩け!」
「え!?」
竜代の叫びがやって来る。あずさは四つん這いになったまま慌てて敵を見た。
敵――野獣の仰向けになった体。額に、くっきりと『5』の数字が表れている。
(いけない!)
「はい!」
5回、急所を叩け――。
あずさはスウ、と呼吸をして落ち着けた後。片コブシを額に叩きにかかる。
それはリズムにのって。のって。……のって。
1回。ボグッ。1。
1回。ボグッ。2。
1回。ボグッ。3。
1回。ボグッ。4。
1……。
「!」
あずさの振り下ろした手を受け止められる。最後の攻撃は防がれた。「――!」
受け止めた、骨に薄皮がくっついているだけの屍のような手の向こう。敵の顔が……ニヤリと笑う。