幸せな記憶
――意識を失ってる間、私は夢を見ていた。
夢と言っても昔の記憶を見ていた。
昔の記憶で思い出せるのは、5歳ぐらいからの記憶しかなかった。それより昔の記憶は、ちょっとの断片もない。
でも、記憶力が悪かったわけではない。今まで作ってきた料理のレシピならちゃんと覚えている。自分で言ってもいいくらいに、記憶力はいいと思う。けれど、『君』の話を覚えるのに必死で、昔の記憶は、容量がパンパンになった脳から流れ出て行ってしまった。
夢で見たのも、5歳ほどの頃からの記憶だった。
浮かんでは消えて。浮かんでは消えて。
だけど私は、一瞬で消えていく自分の記憶を、大事に眺めては、忘れないようにと、必死になって抱きしめた。
私はほかの家よりも、貧しい家に生まれた。
今日も、いつも通りの服を着て、いつも通りのご飯を食べる。そして、いつも通り外に出て、きれいな花を見つけたら摘んで、母に見せる。
服はいつも、Tシャツと、スカートだった。靴下は、数が少なくて洗濯が間に合わないから履く日と履かない日がある。近所の女の子たちの服を羨ましいと思ったことがないと言えば、嘘になる。けれど、まだ幼い私は、自分も大きくなればそのうち、みんなと同じ服を着れると信じて、特に気にも留めなかった。
ご飯はいつも、パンとスープだけだった。でも、他の子の家で食事をしたこともないので、それが普通だと思っていた。そんな少量の食事でも半分を残すぐらいに私は食が細かった。
外に出て花を摘みに行く時、近所の大人達は私を見た途端、私の方を向く子供たちの視線を、無理矢理私から別のものへ変えようとする。それがなんのための行動なのかは分からない。自分が相手にどう思われてるかなんて、考えなかった。だって、
それが当たり前だと思っていたから。
摘んできた花の匂いを嗅ぎながら家に帰る。近所の人は相変わらず、出かける時と全く同じ反応をする。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
母の優しさを含んだ声を聞いた瞬間、一気に体の力が抜ける。母のもとに駆けつけて、
「今日もお花とって来たの。」
「あら、綺麗な花ね。」
母は皿洗いの手を止めた後、笑顔で花を受け取って、瓶の中に挿した。
その瓶は、どこにでもあるごく普通のジャムの瓶だけれど、花がたくさん入れてあって、まるで飾り物のようだった。
その時、外から笑い声が聞こえた。きっと誰かが立ち話をしてるのだろう。そう思って、瓶から離れた瞬間、
「そういえば、あそこのロウントゥリーさん家のことなんだけどね、」
という声が聞こえた。私は聞こえていないフリをしながらリビングの椅子に座り、話に耳を澄ました。立ち話を盗み聞きすることは初めてだった。気分で盗み聞きしているわけではない。ただ、ロウントゥリーという単語がはっきり聞こえたからだった。ロウントゥリーは、私の苗字だ。
「あぁ、あそこの家の事?」
「そうそう。あそこの子供が毎日外に出て遊びに行くからよく見かけるんだけどね、子供の服装がいつも色落ちしてて、いっつもTシャツを着てるの。それに、骨なんじゃないかと思うくらいガリガリで、毎回毎回見るのもつらいくらいひどいの。絵に描いたような貧乏で。」
「可愛い服を着させてあげたり、ちゃんとした食事を食べさせてあげるお金もないなんて、そんな家にうまれた子供が可哀想ねぇ。」
近所の大人たちの話は、どう考えても同情して話しているわけではなかった。そのわざとらしい口調は、まるで私の母をバカにしているようだった。
母の方を見ると、丁度洗い物が終わったところだった。母は悔しそうにしていた。俯いていたので、どんな目をしていたのかは分からない。私が下から母の顔を覗き込もうとしたとき、母がはっとしたような顔をして顔をあげた。そして、
私の元に来て抱きついてきた。
「ごめんね。こんな家に産んじゃって。」
ひどく荒れてしまった母の手が私を更にきつく抱きしめる。
「かわいい服も着させてあげられなくてごめんね。たくさんのご飯も作ってあげられなくてごめんね。」
母は泣いていた。母の泣き顔を初めて見た。私は返す言葉が分からなくて、ただ抱きしめられるままだった。
あの日から私は、母の手伝いをよくするようになった。少しでも母を楽にしてあげなければならない。そんな使命感を感じていた。
それから数か月が経って、私は小学生になった。入学式では、忙しい母もずっと一緒にいてくれたが、今日は学校に着くとすぐに家へ帰ってしまった。
自分の教室へ行くと、メンバーで集まっている子がたくさんいた。自分の机を見つけてすぐに授業の準備を終えたら、余った時間で教科書を読んで予習をした。
両親が頑張って、教材のお金を払っているのだ。無駄にするわけにはいかない。
むしろ感謝して、両親の期待に応えなければならない。
「何? いい子アピール?」
周りはこっちをチラチラ見ながら、コソコソしていたが、そんなこと気にも留めなかった。
学校が終わって、下校する時間になった。結局、今日は誰とも話さなかった。
別にそれでも良い。学校は勉強するところだ。友達の事が気になって集中できなかったらなにもできない。だから友達は作らない方がいい。
そう自分に言い聞かせた。
「あ! あのいい子ぶりっこじゃん。」
「貧乏も忘れるなよ。」
「マジあり得ないよなー。あのファッション。」
「センス悪ッ。」
同じクラスの男子グループがそばを通って行った。
どう考えても私のことを言っていた。
「なぁ~? お坊ちゃん?」
「金持ちから見りゃあんなヤツ、ただの貧乏だろ?」
「え、え? そうかなぁ?」
おどおどして、黒髪の男の子が答える。
きっと甘やかされて育てられてきたのだろう。あの男の子も、私の母をバカにした隣人と同じなのだ。
あんな人のいう事なんて無視すればいいだけの事だ。
私が早足になってその場を去った。
「もしかして、今の話全部聞こえてたんじゃね?」
「まぁ別にいいけどな。」
ほかの男子がゲラゲラと笑うなか、黒髪の男の子だけが、早足で去っていくセシリアを不安そうに見つめていた。
「どうだった?授業は。」
「楽しかったよ。」
「そう。」
母は綺麗な笑顔を見せてくれた。
私は、その笑顔を見るだけで幸せだった。自分の生きる意味が分かる気がしてくるからだ。
そして、今日も空が暗くなって、夜が明ける。
次の日の事だった。
「昨日の話、聞こえてた?」
昨日、男子に囲まれていた黒髪の男の子が気弱な目つきで突然訊いてきた。
「・・・。」
「聞こえてたんだね。」
呆然として黙る私の顔を見て、察したように言う。
何も聞いていないと言おうとして、口を開きかけた時、
「ごめんね。」
男の子が俯きながらそう言った。
「なんで謝るの?」
「僕、何も言い返せなくて。」
訊くと、男の子は困ったような顔をしてそう答えた。
「本当にごめんね。」
「・・・。」
なんと返せばいいのか分からなかった。
母に謝られた時もそうだった。謝られると、どうしても気まずくなって黙ってしまう。自分が悪いと思ってしまうから、謝られるのは苦手だった。
黙ったままでいると、チャイムが鳴って私の代わりに話を終わらせる。
男の子は戸惑いながら、自分の席に戻った。
その日からその男の子はよく声をかけてくれるようになった。
「勉強で分からない所があったら教えるよ。」「たまには気抜いたらどう?」「あんまり無理しないでね。」
「友達になろうよ。」
その言葉を聞いて、私は茫然とした。断る理由がない。
そのうちに、私と男の子は仲が良くなっていった。そして、彼の事もたくさん知った。
男の子の名前は、「ルーファス・オールディントン」という名前で、みんなからは「ルポス」と呼ばれているらしいが、たまにふざけて「お坊ちゃん」と呼ばれることもあるらしい。
彼は「ルーファス・オールディントンって変な名前だよね。」と苦笑まじりに言っていたが、私は、素敵な響きだと思った。
ただの黒髪だと思っていた彼の髪の毛は、よく見ると海のような紺の色だという事が分かった。
金持ちだからといって、勝手に悪いヤツと決めつけていたころの自分が恥ずかしい。
――隣人と同じだったのは、私の方だったのだ。
二人で外で駆けまわったり、花冠を作ったり。一緒に遊んでいるうちに、クラスの子達とも馴染めるようになった。高学年になると、二人で買い物に行ったりした。
頑張って勉強したのに、11歳で卒業できなくて泣いた時も、ルポスは一緒にいて慰めてくれた。
――いつしか、自分のルポスへの想いは、友情の境界線を越えていた。
翌日、ルポスはセシリアにプレゼントがあると言って、ルポスの家に誘ってくれた。きっと昨日の事で、慰めようとしてくれているのだろう。そう思うと、自然と笑顔になれる。
きっと私は浮かれていたのだろう。じゃなかったらあんなことにはならなかった筈だったのだ。
――さっきと同じ光景、空気、音、痛みが繰り返された。




