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憎愛   作者: toru
2/2

【後編】

「はい」

愛想のない換金所のおばさんの声が二万五千円を運んで来る。柿谷はその三枚の紙切れを取り財布に突っ込んだ。若者達、老人達が武勇伝を互いに語り合う中で柿谷はひとり静かにパチンコ屋を後にする。若い頃から夢中でのめり込み時間も忘れ、大当りに一喜一憂した感受性の高い純粋な柿谷はそこには居なく、只只時間潰しの道具でしかない機械との冷めた付き合いがそこにある。液晶画面に反射する老けた自分の顔と今までの自分を振り返る。何も成長していない、時間が止まっているような、このまま人生を終えるかもしれない恐怖心がスリルと喜びを無価値なものへと変貌させる。帰り道にポケットから無惨な姿になったタバコを取りだし鉄臭い左手で風をよけながら百円ライターで火をこすりつける。まるでなにひとつ変わらない、全く何も変わっていない。子供のころ思い描いた人生とはあまりにも掛け離れた自分の姿に怒りがこみあげる。美しい妻がいて可愛い子供達に囲まれ家に帰れば暖かいシチューとお風呂が出迎えてくれる。近所にも評判のおしどり夫婦に誰もが羨む家庭を持ち仕事に明け暮れる日々。それは理想なのだろうか?手を伸ばしても到底届かない高嶺の花何だろうか?上位の者しか手に入れることのできない先着順になっているのか?平凡な男には与えられないほど素晴らしいものなんだろうか?気づけば煙草をふかしながらコンクリートを擦る自分の靴ばかり見ていた。一体この靴は何に向かって歩いているんだろう?ちゃんとした未来へ向かっているんだろうか?それともしに場所を探しているだけなんだろうか?冷えきった真っ暗なボロアパートが答えを出してくれる。錆び付いた鍵穴を前に差し出した手をまたポケットに戻す。柿谷は認めたくなかった、自分の人生をまだ終わりにしたくない。そんな思いが柿谷をアパートから引き離す。行く当てなんかあるはずもない。明日の仕事に間に合う核心もない。只、あのアパートの中にいるよりは生きている感じがした。確かに柿谷には感じた、あの押し潰されそうな閉塞感から一歩また一歩遠退くごとに背中が軽くなり高揚する身体からは生が溢れ出す。町外れの静かなアパートから気づけば電飾が賑わう街中まで足を運んでいた。歩道を行き交う人々が柿谷に正気を取り戻させる。スーツ姿を競い合う者達、お洒落を競い合う者達、人知れず脇道を歩く老人…そうだ、俺はこの競争社会から逃げ出したんだ。初めは優しさから人を傷つけることが出来なかった聖者を気取り、いつの間にか何かにつけては優しさを武器に煩わしさから逃げるようになっていった。突き付けられる現実が現実ではないと自分の中で否定しつづけ、気がつけば自分が作った世界でしか生きていけなくなっていた。自分の道から外れた人間は決して認めず、脇道に逸れる事もなく真っすぐ自分が決めた道を行く。自分の頭の中と現実世界との間に明確な境界線を引き決められた言葉を羅列していく。柿谷は人の行き交う歩道の真ん中でふと立ち止まる。そういって今までこうやって見て見ぬフリをしてきた。周りを見ないように必死に足を動かし音も移り行く空間の中で掻き消し見なければならないモノをごまかして生きてきた。なにひとつ自分で決めたことを貫けなていない、ただの一度もやり切ったことがない。言い訳ばかりを探し生きてきた。自分が作ったレールは都合の良いところで溶接し切り離しまた新しい道を作る。それは新しい道じゃなくてただ同じところを回っているだけだ。障害物が置かれたレールを見つければまた違う方向へ、また障害物を見つければまた違う方向へ…一度だって自分でその障害物を退けたことなんてなかった。壁をぶち壊してでも自分の道を突き進む勇気も忍耐力も熱意も持ち合わせていなかった。この歩道を行き交う人は皆、信念を持って生きているのだろうか?それとも恵まれた環境でぬくぬくとただ欲望のままに生きているのだろうか?俺だけが辛い思いをしているのだろうか?皆、笑顔で会話を楽しみここがどこかもわからないくらいに酔っ払いそれを介抱し、それでも笑顔がそこにある。自分にはそれがない。いつも一人きりで、孤独で孤高を目指したが結局一人ぼっちでしかなかった。時間を一生噛み殺して生きる人生にはウンザリし、本当の人生を求めだしていた。そんなときに出逢ったんだ。幼い娘にせがまれ抱き上げた時に振り乱した艶っぽい黒髪の中から覗かせるすこし困ったような優しい笑顔とその心地良い香り…生まれて初めて幸せだと思った。柿谷は信号待ちの自動車の列からどこにでもありそうな業務用トラックに目を移す。いつからか降り始めた雨に車体は夜光を反射させ車内には横一列に若い男達が3人けだるそうにダッシュボードにあしを乗せ座っている。柿谷はそんなありきたりの日常を見ながら段々遠退いていく街の雑踏を感じた。


ピーピーピーオーライピーオーライ…ストップ!ビッ


一台の引っ越しトラックの後ろで大声を上げる若き日の柿谷の姿があった。きちんと真っ直ぐ被った帽子にヨレヨレのつなぎ服が板についていた。柿谷は引っ越し依頼者の元へ挨拶と作業手順の確認のため新米2人を連れて向かう。トラックのダッシュボードの上に置いてある透明ファイルに入った書類を取り駆け足でマンションの一室を目指す。一変のシミも汚れもないモダンな茶色ペンキで塗られた外装に見るからに重量感のあるドアが落ち着いた雰囲気を醸し出す。駐輪場には子供を乗せるカゴの付いた自転車や子供用のカラフルな自転車が所せましと並べられ、その脇には砂遊び用だろうかスコップとバケツが転がっていた。廊下には走り回る子供の叫び声が木霊し近所の人を気遣い叱る母親の低い声が静かに聞こえてくる。柿谷らはエレベーター前で扉に反射する自分の姿勢を正すとアルバイト2人を足元から髪型まで厳しい目でチェックしまたエレベーターに視線を戻した。今朝もアルバイトへの依頼者からのクレームの量が笑えないくらいに多く本所の人からこっぴどく注意を受けた。スピードが求められる時代に正確性と安全性を同時に求めるには無理がある。しかし、そんなことを口走ってしまえば明日の朝には自分の食い扶持も稼げない哀れな姿を直視する羽目になる。ただ全力をを尽くし平謝りするのが一番の解決法なのだ。重い胸の内とは逆に素早く書類に目を通し再確認をする。柿谷はマンションの間取りに比べて持ち出す家具の量が少ないことにある確信を持っていた。離婚だ。近頃、夫婦別々の業者に頼み引っ越しの日をずらして実家に持ち運ぶケースが増えている。柿谷は目と口をポカンと開けたまま天井を見上げた。ため息こそはつけなかったが心臓にズシンと来るものがあった。柿谷が悩むのも無理はない。大抵、クレームが来るのはこういう不幸の引っ越しだ。人はヒトのミスを許せる時と許せない時が存在する。同じ過ちでもその時の感情次第で大事になったり全く見えなくなったり…人はアバウトな生き物だ。だからこそ謝罪が活躍するんだ。人を自分の下に追いやることで自分の価値が上がる。俺たちの様な若造を虐待することで日々のストレスを消化させる。理不尽で不公平な社会で生きていくには只々耐えるのみ…膨れ上がる恐怖で重い人差し指をインターホンに伸ばす。中で木霊するチャイムの音に聞き耳を立てる。赤ちゃんだろうか?甲高い鳴き声がドア越しに聞こえてきたかと思うとすぐに気の強そうな女性の声が耳に飛び込んでくる。

「は~い!ちょっと待ってください!」

暫くすると足でフローリングを打ち鳴らす音が段々近づいてきた。勢いよくドアが開きルームウエアのままの姿で一人の女性が顔を覗かせる。その気迫に押され少し体を反らせた柿谷だったがすぐに気を取り直し帽子のつばを摘まんだ。

「あ、あの山村引っ越しセンターの柿谷と申しま・・」

柿谷が自己紹介の途中に割り込んでくる。

「すいません!もう準備してありますんで!どうぞ!」

そういうとその女性はドアから手を離し颯爽と部屋の中に戻って行く。閉まるドアの音が静寂をもたらし、下の広場で騒ぐ子供たちの声が聞こえてくる。この女性こそが加奈の母親冴子、そして鳴き声を上げているのが生まれて1歳を過ぎたくらいになる加奈だ。これが柿谷と冴子が知り合うきっかけだ。部屋の中にはヨチヨチ歩きで可愛い盛りの加奈が冴子の足元から離れない。人見知りしているのかこっちの方を見て今にも泣きそうな愛らしい表情が胸をくすぐる。純心で汚れを知らない天使のように小さく母親似の白い肌にこの世で代えがたいモノを感じながら気を引き締め作業に移る。育児に追われているのか引っ越し当日というのに雑多な室内が柿谷の男心をくすぐる。柿谷が思った通り男性モノの衣類や雑誌が乱雑に置かれており、冴子の荷物は家電や食器、赤ちゃん用品など生活必需品が目立った。恐らく旦那さんが気を使って譲歩したのだろう、冷蔵庫や洗濯機は最新式で柿谷も欲しくなるほど綺麗で生活感が全くなかった。当時、柿谷は短命の結婚生活に違和感を感じていた。お互い好き同士で結婚をし結婚式で皆に披露し愛を神の前で誓い合う。悩めるときも病むときも変わらない愛を誓ったはずがこんな豊かな時代で破綻を迎える。ましてやあんな可愛い子を不幸にするなんて…到底理解できない愚行だ。離婚は男性に否があるという見方が一般的だが柿谷の身の回りの話を聞いていると一概には言えないし、柿谷も同じ考え方を持っていた。離婚に勝者はいない。いつの間にか冴子に偏見を抱くようになりあらゆる行動が自分勝手で良識のない行動に思えて仕方なかった。荷物の梱包を手伝っている時に何度も髪をグシャグシャにしヒステリック気味に物を乱暴にダンボールに入れる姿を目にした。あらゆる行動が結論に結び付く。なんとか力業でトラックに荷物を詰め込むと予定時刻を30分もオーバーしていた。額に浮き上がる汗を首に掛けたタオルで何度も拭い、胸元をパタパタさせる。柿谷は急いでトラックに乗り込もうと足掛けに左足を乗せ、右手でドアの取っ手を掴み体を引き上げたときだった。まだ3階のマンションの廊下をマイペースで歩く冴子が目に入った。さすがの柿谷もこの状況が何も響いていない冴子の行動に苛立ちを隠せず、眉間にシワを寄せ大声で叫ぼうと大きく息を吸い込んだ。その時、冴子はある部屋で足を止めインターホンをならした。中から一人の中年女性が驚いた顔で出てきて冴子の背中を何度も摩る。冴子は何度も何度もお辞儀をし、ここらからではわからないが涙を流しているようだ。丸めた背中を小刻みに震わせ前を見ることも出来ないくらいうなだれている。柿谷は拍子抜けした。向かい風が急に止んだように前のめりに空を切る感覚、離婚するほど乱暴な決断をする人間に隣人の前で自分を保つことができないほど泣き崩れるような繊細な感情が備わっていることに驚きを隠せなかった。鉄のような心を持つ人間の奇行でしか成り立たない決断、繊細な心を持つ人間ではあれこれ考えて結局終焉まで迎えられない。もし、繊細な人が下した決断なら相当な心労を経て打ち勝ち非難に値しないものであるのかもしれない。柿谷の中で何かが変化していく。駐車場に戻ってきた冴子の目は声をかけるのもためらうほど赤く腫れ上がり、拭き残しの涙が頬を濡らしていた。そして加奈が冴子に抱っこをせがむ、母親が泣いたのを見たのは初めてなのだろうか?不安でたまらない胸の内を母親に託しているのだろうか?泣きそうで不安げな視線を必死に冴子に送りながら小さな両手をいっぱいに伸ばし愛をせがむ。冴子はそんな加奈に少し困ったような優しい笑顔を浮かべながら加奈を持ち上げる。その時乱れた髪を振り払ったときに覗く笑顔が柿谷の心を激しく揺さぶる。決して容姿がずば抜けて綺麗なわけじゃない、どこにでもいそうな女性…そう、どこにでもいる女性だ、そのへんどこにでも歩いてる。言ってしまえば今のオレの彼女の方が綺麗で若い。でも、何か違った。独身女性には感じられない、自分より他の誰かを命に代えても守る揺るぎない強さがすーっと柿谷の心を優しく包みこみ、母親のような安心感を肌で感じることができた。春に吹き込む干上がりの心地いいそよ風のようにいつまででもそこにいたいと願う。それが愛なのかどうかはわからない。ただ一分一秒でも長く一緒にいたい、この人と色んな景色をみてみたい…それだけは確かだった。この時から二人の関係が始まる。それが幸せへの階段であると少なくとも柿谷はそう思っていた。部屋の中にはヨチヨチ歩きで可愛い盛りの加奈が冴子の足元から離れない。人見知りしているのかこっちの方を見て今にも泣きそうな愛らしい表情が胸をくすぐる。純心で汚れを知らない天使のように小さく母親似の白い肌にこの世で代えがたいモノを感じながら気を引き締め作業に移る。育児に追われているのか引っ越し当日というのに雑多な室内が柿谷の男心をくすぐる。柿谷が思った通り男性モノの衣類や雑誌が乱雑に置かれており、冴子の荷物は家電や食器、赤ちゃん用品など生活必需品が目立った。恐らく旦那さんが気を使って譲歩したのだろう、冷蔵庫や洗濯機は最新式で柿谷も欲しくなるほど綺麗で生活感が全くなかった。当時、柿谷は短命の結婚生活に違和感を感じていた。お互い好き同士で結婚をし結婚式で皆に披露し愛を神の前で誓い合う。悩めるときも病むときも変わらない愛を誓ったはずがこんな豊かな時代で破綻を迎える。ましてやあんな可愛い子を不幸にするなんて…到底理解できない愚行だ。離婚は男性に否があるという見方が一般的だが柿谷の身の回りの話を聞いていると一概には言えないし、柿谷も同じ考え方を持っていた。離婚に勝者はいない。いつの間にか冴子に偏見を抱くようになりあらゆる行動が自分勝手で良識のない行動に思えて仕方なかった。荷物の梱包を手伝っている時に何度も髪をグシャグシャにしヒステリック気味に物を乱暴にダンボールに入れる姿を目にした。あらゆる行動が結論に結び付く。なんとか力業でトラックに荷物を詰め込むと予定時刻を30分もオーバーしていた。額に浮き上がる汗を首に掛けたタオルで何度も拭い、胸元をパタパタさせる。柿谷は急いでトラックに乗り込もうと足掛けに左足を乗せ、右手でドアの取っ手を掴み体を引き上げたときだった。まだ3階のマンションの廊下をマイペースで歩く冴子が目に入った。さすがの柿谷もこの状況が何も響いていない冴子の行動に苛立ちを隠せず、眉間にシワを寄せ大声で叫ぼうと大きく息を吸い込んだ。その時、冴子はある部屋で足を止めインターホンをならした。中から一人の中年女性が驚いた顔で出てきて冴子の背中を何度も摩る。冴子は何度も何度もお辞儀をし、ここらからではわからないが涙を流しているようだ。丸めた背中を小刻みに震わせ前を見ることも出来ないくらいうなだれている。柿谷は拍子抜けした。向かい風が急に止んだように前のめりに空を切る感覚、離婚するほど乱暴な決断をする人間に隣人の前で自分を保つことができないほど泣き崩れるような繊細な感情が備わっていることに驚きを隠せなかった。鉄のような心を持つ人間の奇行でしか成り立たない決断、繊細な心を持つ人間ではあれこれ考えて結局終焉まで迎えられない。もし、繊細な人が下した決断なら相当な心労を経て打ち勝ち非難に値しないものであるのかもしれない。柿谷の中で何かが変化していく。駐車場に戻ってきた冴子の目は声をかけるのもためらうほど赤く腫れ上がり、拭き残しの涙が頬を濡らしていた。そして加奈が冴子に抱っこをせがむ、母親が泣いたのを見たのは初めてなのだろうか?不安でたまらない胸の内を母親に託しているのだろうか?泣きそうで不安げな視線を必死に冴子に送りながら小さな両手をいっぱいに伸ばし愛をせがむ。冴子はそんな加奈に少し困ったような優しい笑顔を浮かべながら加奈を持ち上げる。その時乱れた髪を振り払ったときに覗く笑顔が柿谷の心を激しく揺さぶる。決して容姿がずば抜けて綺麗なわけじゃない、どこにでもいそうな女性…そう、どこにでもいる女性だ、そのへんどこにでも歩いてる。言ってしまえば今のオレの彼女の方が綺麗で若い。でも、何か違った。独身女性には感じられない、自分より他の誰かを命に代えても守る揺るぎない強さがすーっと柿谷の心を優しく包みこみ、母親のような安心感を肌で感じることができた。春に吹き込む干上がりの心地いいそよ風のようにいつまででもそこにいたいと願う。それが愛なのかどうかはわからない。ただ一分一秒でも長く一緒にいたい、この人と色んな景色をみてみたい…それだけは確かだった。この時から二人の関係が始まる。それが幸せへの階段であると少なくとも柿谷はそう思っていた。


透き通るような女性のアナウンスが響き渡り、ガヤガヤ騒々しい病院の受付の前で静かにソファーに座る人達の中に吾郎と加奈の姿があった。足元の床に付いたシミを無意味に数える吾郎とぬいぐるみで一人遊びする加奈たちの不協和音が不気味にも不安を駆り立てる。吾郎は今朝どうやって支度したか、どんな道のりで病院まで来たのか、何を会話したのかさえ夢虚で頭の中が膨張し圧迫されるような感覚が次第に高まり、絶え間ない耳鳴りが思考回路を封鎖する。一番恐れていた最悪の事態が目の前に、現実として姿を現す。保育園はどうする?小学校は?中高大学は?結婚、出産はできるのか?俺が死んだら…途方もない事に頭を悩ませる。もしかしたら異常なしかもしれない、ただのストレスで精神疾患ではないのかもしれない。只のストレス?それだけで愛犬を肉の塊にできるのか?只のストレスで…無数の問題を虚ろな目でみつめる頭上で廻しつづける。

「新田加奈ちゃ~ん。」

我に帰った吾郎は背もたれにかけてあったスーツの上着をまとめると加奈の肩をそっと叩いた。

「加奈、さあいくよ。」

ぬいぐるみに没頭していた加奈は一瞬動きを止めると、ぬいぐるみ片手に無言で立ち上がる。そんな二人を待つ看護師は苛立たしいほど笑顔が輝いていた。その傍の壁には「精神科医師 桐谷 正吾」と掲げられ、地獄の門番であることを再認識させられる。今から身に起こることは多かれ少なかれマイナスでしかない、捕虜が銃を後頭部に突き付けられ湿気った弾を交換される無慈悲な時間を待っているように血の気が引きガクガクする膝を押さえ付けるので精一杯だった。

「はい、新田さん。どうぞ。」

看護師が薄青のカーテンを開くと中には眼鏡をかけ、忙しいのかあまり手入れされていない髪をかきあげる人の良さそうな先生が椅子に座ってこっちの方を見ている。

「はい、どうぞ。」

むさい見かけからは想像できない優しい笑顔がその時の吾郎にはどうしても信用できなかった。吾郎は軽く髪が目にかかるくらいのお辞儀をし加奈を先生の前の椅子に座らせた。加奈は桐谷にろくに目も合わせず回転椅子の足元を見ながらグルグル回っている。まるで大人達の思惑をすべて見透かし嘲笑うように椅子がきしむ音が不気味に響く。

「加奈!じっとしてなさい!」

両手で肩を押さえ付ける吾郎の強張る表情とは裏腹に加奈は顔をあげ笑顔を絶やさなかった。桐谷はそんな加奈の笑顔にとびきりの笑顔でお返しする。加奈もまた桐谷の笑顔に負けないように今にも垂れ落ちるほどの目尻と深く大きなえくぼを作って見せた。まるで子供同士が見栄を張り合っているように可愛く奇妙な空気が流れる。そんな間に耐えることができなくなり吾郎が身を乗り出した。

「あ、あの…実はですね、昨日の夜、…」

桐谷は急に左手を挙げ、開いた手の平を吾郎の顔に向けた。吾郎は開いた口をそのままに、桐谷の大きな汗ばんだ掌をまじまじと見つめた。指の隙間から見える桐谷はついさっきまでの笑顔は消え失せ真剣そのものだ。

「お父さん、お話は伺ってます。」

桐谷は吾郎とアイコンタクトをとるとすぐに加奈に目線を落とした。

「加奈ちゃん、ここどこかわかるかな?」

「んーびょういん!」

「そう!よくわかったね!」

「前にもお注射しにきたことあるの。」

「そうか!注射したのか~偉いね!」

「うん…でも注射だいっきらい!!」

「そうだね~先生も注射大嫌い。加奈ちゃんくらいの子は皆泣いちゃうからね~。そうだ!先生とちょっとゲームしてみない?楽しいよ!」

「どんなゲーム?」

「そうだな~記憶力ゲームしようかな~」

「きおくりょくげーむ?なにそれ、へんななまえ~」

「ハハハハ…そうだね、変な名前だね。このゲームはね、今より昔にあったことをどれだけ覚えてるか競うゲームなんだよ。わかったかな?」

「うん、わかった…」

「よし、それじゃあいくよ!まずね、加奈ちゃんのお家はどこかな?」

「えっとね~ここから吾郎ちゃんのお車に乗ってちょっと行ったらあるよ!大きな木があってじいちゃん、ばあちゃんがいるの!加奈ね、おじいちゃんおばあちゃん大好き!」

「そうなんだ~大好きなじいちゃんばあちゃんと一緒に生活してるんだ~!じゃあもっと先生にお話し聞かせて。」

「じいちゃんの車おっきいの!吾郎ちゃんの車もおっきいけどじいちゃんの車もっと大きい!」

吾郎は加奈の後ろで吹き出す笑いを地面に投げつける。

「へぇ~じゃあじいちゃんの車でいろんなところにいけるといいね!」

「行ってるよ!お買い物とかばあちゃんと一緒に行ってるし!じいちゃんなんでも買ってくれるの!この前も…

吾郎は加奈の話を聞くにつれ目に熱いものが込み上げて来ると同時に全身の感覚が戻ってきたように感じた。白黒の世界からちょっとずつ色が付いていく。冷気が通るだけの鼻腔から暖かい香ばしい空気が入ってくるのを感じる。

「楽しそうだね~!いいなあ。じゃあ保育園はどう?保育園も楽しい?」

「うん!楽しいよー!加奈がいないとダメな子が沢山いるの。だから加奈がお母さんになってみんなにいろいろ教えてるの!」

「そうなんだ…でも加奈ちゃんは四才だから保育園でも年下になるんじゃないのかな?ダメな子は同級生や年が上の子にもいるのかな?」

「そうだよ!みんな加奈よりダメな子ばっかり!加奈が一番いい子なの!」

「んー、加奈ちゃんの周りの子はなにがそんなにダメなのかな?」

「…みんな全然守らないの…」

「守らない?…何を守らないの?」

「……」

加奈は急に顔を臥せ、忙しなく足を動かし左右に体を揺らしだす。さっきとは打って変わる加奈の態度に笑顔だった桐谷の表情は潮が引き残された砂のように力無くなっていく。桐谷は一度、吾郎と視線を合わせ軽く頷くと加奈に目線を戻し笑顔を作り直した。

「ごめんね、加奈ちゃん。疲れちゃったね…じゃあ今日はこれでおしまいね。ちょっとそこのお姉さんと一緒に外で待っててね。先生、お父さんとお話ししたいから。」

桐谷が看護師に目で合図を送ると加奈の背中にすっと手を伸ばし待合室のソファーまでエスコートしていく。残された吾郎に桐谷は椅子を差出し、クルッと反転しパソコンに向かい出した。吾郎は恐縮するように椅子に腰掛けると素早く鳴り響くキーボードを打つ音の方をただ見つめる。桐谷はチラチラ吾郎を気にしながらタイプを早々に切り上げ吾郎の方へ向き直った。

「すいません、お忙しいのに。加奈ちゃんですが今日

からちょっとずつ話し合いをしていって病状を探っていきます。お父さん心配されて焦っておられていると思いますが精神科の診療はこうやってゆっくりと本人の負担にならないようにしていくしか方法はありません。只、素行障害といって他者の権利を無視しそして奪う行為を行う精神疾患があるのも事実です。」

「行為障害?…ですか?」

不安げに聞き返す吾郎の目を戒めるように鋭い眼光で桐谷は吾郎の目を見返す。

「幼少期にかかるストレスが原因で発症するケースが多いのが特徴です。つまり、母親の育児放棄やネグレクトが代表的な要因になります。」

「母親の…」

喉になにかつかえる感じを覚えながら胸に左手を押し当てる。自分が思い描く希望なんて今までに当たったことなんて一度もないくせに最悪の自体は面白いように寸分の狂いもなく現実に姿を現す。神の怨みを買ったとしか説明しようのない出来事の連続に腹の底に穴が開いたように腑抜けた吐息が微かな震えと共に吐き出される。止めようのないただただ漏れる吐息と小刻みに揺れる肩はいつしかけたたましい笑い声となって診察室から廊下へと突き抜ける。呆気に取られる桐谷には見向きもせず、ただただ笑う。惨めな自分を隠すように、気づかれないようにより強く、より大きく…吾郎は人知れず過去の世界へ記憶を遡っていた。


「可愛いな。」

吾郎と冴子、二人は出産後退院して間もない加奈をベビーベッドの上から覗き込んでいた。吾郎の柄にもない一言に冴子は吹きだし笑いを隠せなかった。

「どうしたん?(笑)」

そんな冴子の真っ赤な照れ笑いにつられるように吾郎の耳もカンカンに腫れ上がる。

「なんでだよ!可愛いだろ!」

照れ隠しの大きな声に冴子の顔が強張る。

「もう!起きちゃうじゃない!やっと寝かしつけたんだから!」

そう小声で呟きながら加奈の髪をなぞる冴子の顔つきはもう立派な母親だった。そんな冴子の変化に父親としての自覚を再認識する。目の前にいる小さな命は自分達が存在しなければ成り立たない現実に身を締め付けるほどの責任感に襲われる。この無邪気な寝顔は必然ではない、親の保護があって初めて守られるものだ。

「なんか怖いな。」

不思議そうな顔で吾郎を見つめる冴子の左手は加奈の髪をつまんだまま止まっている。冴子は吾郎の真剣な表情に思い改め、また加奈に視線を戻し心深くにある思いをゆっくりと形にしていく。

「どうなんだろ?妊娠して段々と大きくなる自分のお腹を感じて、段々動きづらくなる体を感じて、段々と強くなる手足の力を感じて…嫌でも自分は母親なんだって…今までの自分じゃいけないって…この子が胸を張って自慢できる母親になろうって…お母さんはお父さんより早く親になってるのかもね。加奈のお父さんは大丈夫よ、責任感があって優しい人だから。私は全然心配してないよ…吾郎が立派な父親になること。」

冴子の笑顔が忘れられない。弱気になる場面が何度もある、方向がわからなくなる場面が何度もある…そんな時にいつも冴子の笑顔が道を照らしそこを歩く勇気を与えてくれた。その道が正しいと無条件に信じ込むことができる不思議な力が冴子の笑顔には秘められていた。


 深夜暗く静かな路地に人影はなく、思い出したように設置された外灯がひっそりと雨上りの濡れたアスファルトを照らす。二階の渡り廊下が剥き出しになっているアパートの錆びた鉄柵からは雫が滴り落ち、受け止める水溜まりのぽつりぽつりと悲しげで不気味な音が闇夜に響き渡る。皆が家の床で現実世界から離れている間にひとり未だ離れられずにいる。柿谷はあのドアの前に立ち尽くしていた。短いジャージの裾から覗くやせ細った脛と季節外れのサンダルが小刻みに震えている。ドアノブに手を伸ばし冷えきった鉄を握りしめ、服が擦れる音ですら響く空間で遠慮なく引っ張る。開くはずもない安っぽい木製のドアにあらぬ幻想を押し付け、跳ね退けられたことに矛盾にも安堵感を得た。冷やされ震える右の掌の中に閉まったはずの過去が蘇る。血まみれで常軌を逸した冴子の泣き叫ぶ声に呆然と立ち尽くす加奈…オレはあの悪夢の中でしか生きていけない、現実の中でしか自分は存在しない。彼女達が作り出すオレこそが本当の自分だ。痛みも悲しみも喜びも味覚も存在しない安定した生活は独房に入れられた罪人に過ぎない。

「冴子…」

柿谷は携帯画面を愛おしく見つめる。液晶から目につくほどの光りが柿谷の顔面を照らし付ける。眩しいだけなのか、思考を巡らしているのか…柿谷の目は細く横に伸び眉間には山が連なる。


--このままじゃ終われない--


「ばあちゃん見て!」

加奈は女の子向けの戦隊モノの衣装を着て妙子にスカートの両裾を上げて見せた。

「加奈ちゃん!かわいい~!!」

「えへっ」

加奈は恥ずかしそうに顔を赤らめ俯いて見せ、正座している妙子の胸元につむじを見せたまま飛び込む。そんな加奈の頭を困惑を噛み締めながらゆっくりと摩る。動いているのか止まっているのかわからないほどの妙子の右手は駆け巡る思考とは対照的だった。天井にかかる誇りにまみれ膨張した蛛の糸がゆらゆら動く様を見て、まるで催眠術にかけられるような不思議な気持ちになっていく。

「ばあちゃん知ってる?」

加奈の甘い声に吸い寄せられるようにゆっくりと俯く。

「なぁ~に?加奈ちゃんはなにを教えてくれるの?」

「けっこんって知ってる?」

「結婚?加奈ちゃんもう知ってるの?」

加奈は照れ笑いを浮かべ、妙子の胸元にあるボタンをいじくりながら口元を小さく動かしていく。

「加奈は吾郎ちゃんと結婚したいの…うん、吾郎ちゃんがいい!だってー吾郎ちゃん優しいしー加奈の言うこと聞いてくれるし~…」

「そうなんだ(笑)加奈ちゃんは吾郎がいいんだ。吾郎も加奈ちゃんのこと好きだから喜ぶと思うなぁ。」

加奈は首を傾げながら妙子の胸元に顔を押し付ける。

そんなとき居間のドアが開く。二人は勢いよく振り返り見上げるとそこには疲れた顔をした庄吉が猫背を際立たせ力無く立っていた。そんないつもと違う二人の様子に目を真ん丸にする庄吉。

「ど、どした?」

何事もなかったように二人は庄吉から目線をはずす。庄吉はキョロキョロ胸のモヤモヤの原因を辺りに探し出す。

「じいちゃんには関係ないのー」

「そうそう。」

庄吉は年々広がっていく額を只々虚しく人差し指の爪で掻きむしる。


ポリポリ…


いつもの帰り道…いつも気にしたことなかったな…


寂れた板金工場があってその隣には時代に取り残された酒屋に垢で黒ずんだ鳥居の奥には綺麗に手入れされた賽銭箱…


今日はなんだか今まで気にもとめなかった景色がやけに目に留まる。家と会社を繋ぐただの道…なにも起こらないことが普通でなにも変わらないことが普通の灰色の凸凹した真っすぐ伸びる何の変哲もない道路がいつもより広く愛おしく思える。吾郎は今まで入ったことのない、いや存在すら定かじゃない居酒屋の前でハザードランプを焚いた。下手の赤のれんに三文字の女性の名前…右の掌で顔についた一日の垢を落とすよう額から顎の下まで撫で下ろし煌々と光る居酒屋を細い目でじっと見つめる。左手にはめたシルバーの腕時計は午後7時を射していた。今帰れば皆で食卓を囲むことができる、加奈と一緒にお風呂に入ってアレコレ話しも十分にできる。いつもなら脇目も降らず玄関のドアを勢いよく開け走って来る加奈を抱き上げる。でも今日は違った…全身を伝う脱力感がいままで守ってきた思想を停止させる。父親になってからの吾郎はいろんなしがらみを自らに課して身動きできなくしていた。自分では好んでしていることだと思っていた。自分自身子供は好きで育てることへの苦労は厭わないと…それは苦労ではなく自らに与えられ、与えた義務であると無意識にも意識下にも属しない第三層にあることに何の疑問も抱かなかった。


「佐奈、歯磨きちゃんとしたかー!ちょっと見せてみろ!」

「えーさっきママに見せたもん!」

「パパにも寝る前に見せて!」

「いやーパパ嫌い!」

佐奈はリビングから2階にある寝室へ一目散に駆け出していった。そんな我が子をソファーで新聞とテレビを股にかけた桐谷が眉間にシワを寄せながら勢いよく閉められたドアのガラスごしに見える佐奈の影を追う。

「あーつかれたー」

美樹が風呂上がりに濡れた髪を拭きながら桐谷の足元に座り込む。

「佐奈、歯磨きちゃんとしてた?」

「え?知らない。パパに見てもらうって言ってたよ?」

「さっきママに見てもらったって…」

美樹の髪の毛を拭く右手が止まり、二人は不穏そうな顔つきで見合わせる。考えが重なったところで居心地悪くなったのか美樹がテレビに視線をそらす。

「最近、あの子嘘つくのよね~」

「嘘?」

「そう、この前だって…なんのときだったかな?あっそうそう、あなたが日曜日仕事で真理さんと一緒にランチいったの。」

「真理さん?あー相田の奥さんか!」

「そうそう、相田さんもあなたも精神科医じゃない?佐奈もそのことは知ってるはずなのに真理さんにあなたの仕事のこと聞かれて宇宙飛行士だって答えるの…それも真剣によ。」

桐谷は眉間にシワを寄せながら一旦足元に視線を落とす。

「医者よりも宇宙飛行士の方が上ってこと?」

美樹は驚きとも笑みとも思えるような中途半端な眼差しで桐谷を見つめゆっくりモノ言いたげに頷いた。

「佐奈ってもうそんなのわかるの?」

「そうなんじゃない?だってそのあと二人で何回も確認したもん。パパは精神科医だって言ってたよ。」

「小1でそんなこと気にする?」

「わかんない…でもそうなんじゃない?」

「医者だよ、オレ…」

「わかんないよ、私に言われても…佐奈に聞いてみたら(笑)」

そういい残すと美樹は佐奈の待つ寝室へ桐谷を残しそそくさと消えていく。ひとり残された桐谷は物思いにふける。子供って大人が思うよりもっと早く成長して親に気を遣いながら生きてるのかもしれない。親になにも知らない顔をして安心させてるのかな?オレもそうだったな…いつの間にか忘れちゃうんだな。大事なひとを傷つけたくなくて嘘をつくんだ、大事なひとを守るために嘘をつくんだ。誰も傷つかない優しい嘘を…


「正吾は?もう朝ご飯だろ?」

「夕べも遅くまで勉強してたみたいだからギリギリまで寝かせてあげようと思って…」

「そうか…」

2階の自室で涎で枕を涎で汚しながら寝入る高校時代の桐谷の姿があった。父親はどこにでもいるようなサラリーマン、母親はパートで事務をしている。そんな平凡家庭で育った桐谷だか将来は医師になることを心に決めていた。誰になにを言われようがその志が歪むことは決してなかった。親に望まれた訳ではない、ただ自分の中に芽生えた当たり前の感情だった。

「それで昨日真美と公園で…」

「マジで!お前らどうなってんだよ!付き合ったり別れたりしてさ…」

「まああれだよ…」

「何なんだよ!!」

「ハハハハハ」

朝のクラスで盛り上がる同級生とは距離を置き、ひとり寝癖頭のままで教科書を開く。学校中を探しても桐谷の友達は数えるくらいしかいない。そう、この高校は医学生を輩出するほどの進学校ではなく、ごくごく普通の高校生か通う地元の高校だ。高校を卒業し就職する生徒も少なくなく、勉学に性をだすことは集団との決別を意味していた。勇気がいる行動だ。休み時間も昼休みも教科書に没頭する桐谷に周囲の目は冷ややかだった。桐谷は決して要領のいい方ではなく、勉強時間と成績は必ずしも比例しなかった。学年では上位にいたが要領よく人付き合いをする生徒が桐谷の上に居たため存在意義が薄れ、より孤立した存在になっていく。桐谷は割り切っていた、医学生には薔色のキャンパスライフが待っていること…。ある時、全体集会で校長先生は鼻高々に誇らしげに、まるで世の全てを見透かしたように落ち着き言い放った。

「今遊んで一生苦労するか、今一時我慢し楽に生きていくか…」

桐谷はその言葉を信じて疑わなかった…いや、それが真理でないと都合悪かった。学校長にまで上り詰める人物の言葉に希望と安心感を抱いていた。幼い頃に母親の胸の中で暖かい吐息に撫で下ろされた挙動不審な心音のように段々と平静を保っていく。6限目終了のチャイムがなるとすぐに教科書を鞄に詰め、そそくさと俯き加減で賑やかな教室を後にする。桐谷はこの瞬間が堪らなく好きだったと同時に明日の登校までの死のカウントダウンが開始することも意味していた。だから放課後の時間一分一秒も無駄にできない貴重なものだった。共働きの桐谷家の鍵を開けるのは常に学校帰りの桐谷だ。鍵を開け、そして鍵を閉めると自分の部屋に閉じこもる。そこから自分の世界にどっぷりと浸かっていく。その時間だけが唯一安らぎを感じる時間、生きている実感が湧く瞬間だった。他の子が部活や恋愛にうつつをぬかしている間にひとり将来への扉に着実に近づいていく。将来に存在する理想の自分を思い描きながら自分の生きる道は頭脳であることを繰り返し繰り返し自分に言い聞かす。静かな空間を目覚まし時計の秒針音とノートに書き連ねるHBのシャープペンの音が支配する。母親真紀子がレジ袋の擦れる音と一緒に甲高いヒールを玄関で打ち鳴らし帰ってくる。今まで問題と格闘していた孤独を知らない戦士ですらその音を聞くと急に人恋しくなるのだ。柿谷はトイレに行く振りをして必ず母のいるキッチンに目をやる。真紀子は必ずといっていいほど柿谷に声をかけるが当の本人は心とは裏腹に冷たくあしらう。思春期の強がりか、孤独が産んだ性格なのか…とにかく素直にはなれない。素直になることは今までの自分を否定し、皆にひれ伏すことに他ならない。自分の欲望をどれだけ封じ込めることができるかがその時の桐谷のモノサシになっていた。

「正吾帰ってたの?」

「ううーん。」

「お腹すいた?」

「まあ…でもまだでしょ。」

「そうたけど、先お風呂入っちゃって!」

「今無理、勉強あるし…」

「なんでよ!今入ればいいじゃない!」:

「だから言ってるだろ!勉強があるんだって!」

そう、いつもここでケンカになる。あんなに人恋しかった感情が一瞬にして憎悪に変わり、ただのストレスでしかなくなる。ほぼ自分の支配でジブンのカラダを動かしている桐谷にとって他人の指示を素直に受け止めることなどできるはずもなかった。そして、父親の帰還と同時に桐谷家は夕食に入る。ダイニングテーブルを3人で囲み、話しの中心は父親と母親の中で繰り広げられる複雑な人間関係の話し。柿谷は取り分け自らその話の中に入って行くことはなかった。思い出したように振られる将来の話しにボソッと受け答えするだけ。それで何の違和感もなく食卓は回っていく。父親の平太郎も資本主義全盛期で生きている人間で桐谷が目指す未来を全面的に応援している。人を蹴落としてナンボの世界で生きてきた日本男児にクラスでの桐谷の地位など理解できる訳もなかった。父親は繰り返し繰り返し何度も何度も桐谷に「ひとは信用するな」とすりこんだ。ひとは都合のいい時にしかよって来ない、自分が落ちたとき誰も傍に居てくれるひとなんていやしない。どんなに愛した人、愛してくれた人ですら翌日には他人になる。桐谷も口には出さないが自分の行動は父の意向に沿っていると思っていたし、自分は最高の親孝行者であると自負していた。 国の機関が推し進める教科書に没頭しテストで人一倍いい点数をとる、なんの問題があるんだろうか…友達なんて付録に過ぎないんだ。何度も何度も心の中で言い続ける、何度も何度も問い掛け自分なりの答えを出すがまた次の日の朝には同じ問いが頭の中を駆け巡る。


-ホントにこれで…このままでいいのか?-


「こないだのテストの結果どうだった?」

口元に運んだコロッケの切れ端を頬張りながら平太郎の目を見つめる。

「平均90くらい…」

「そうか、頑張ったな!」

笑みを送る平太郎を拒むように俯き次の皿に箸を伸ばす。クラスの誰からも褒められない桐谷にとって平太郎のこの言葉が1番嬉しかった。桐谷はクラスメイト全員が敵に見えて仕方なかった。皆自分の悪口を言っている…自分より頭の悪い奴からは「気持ちの悪いガリ勉」、頭のいい奴からは「要領の悪い身の程を知らない奴」、似たような点数の奴からはこの世から消えて欲しいほどの憎しみを買われ、ひとりぼっちだった。桐谷は食事を済ませるとひとりまたトボトボと2階にある自室に向かう。もう何回上り下りしただろう?軋む木製の階段を上り、手慣れた様子で部屋のドアを開ける。暗がりの中に燈るデスクのオレンジ色のライトが教科書とノートを照らしつける。まるで本の世界へ誘うように開かれたページは光りを放ちSF映画を思わせるシチュエーションにどこか安堵感を得る。現実の時から抜け出し、秒針のない空間に身を置くことでなんとか平静を保っていられる。この空間が全てのしがらみを解放してくれるただ唯一の場所…時々こう思うんだ、自分の頭はどうかしてるんじゃないかって…みんなの頭の中はどうかしてるんじゃないかって…この世がどうかしてるんじゃないかって、間違ってるって思うたんびに自分が甘えてるだけだって思知らされるんだ。自分が置かれている環境こそ、日本こそこの世で最高の場所だって…でも人間の気持ちはそんな器用じゃない、そんな合理的にはできてないんだ。何度も同じ過ちを犯すし、何度覚え込んでも忘れてしまう…まるで泡のように綺麗に跡形もなくふりだしに戻る自分に無力さ感じるだけ…


カチカチカチツ

居間の真ん中の座卓に両肘を付き加奈は埃の被った黒い古時計の赤い秒針を目で追いかける。隣には座布団に横たわる妙子が静かに寝息をたてる。そんな妙子が怠け者に映るくらい加奈は辛抱強く吾郎の帰りを待ち続けた。痺れる脚の位置をを何度も何度も直しながら見たくもないバラエティー番組と時計を行き来する。そんなとき、外から車のエンジン音か重低音を響かせながらこっちに近づいてくる。加奈は両手で座卓を思いっきり押し立ち上がると玄関にはしった。急いでツッカケを足の先に突っ込み慣れないチェーンと格闘しなんとか鍵を右に捻り勢いよくドアを開けた。そこには吾郎の車と見慣れない軽自動車が止まっていて、帽子を被ったおじさんが助手席の吾郎に話しかけている。

「お客さん!家に着いたよ!おきて!お客さん!」

見たこともないおじさんが吾郎の肩をそっと叩く。加奈は居ても立っても居られなくなり吾郎の元へ駆け出す。

「ごろちゃーん!!」

そんな加奈に吾郎を必死に起こすおじさんが気づき手を止めた。

「ごろちゃん!どうしたの?」

「娘さんかな?お父さん酔っ払って起きないんだよ~もう困っちゃって…」

加奈が助手席を覗き込むと青ざめた吾郎が苦悶の表情を浮かべシートにもたれ掛かっていた。アルコール臭でおかしくなりそうな鼻をツマミながら片方の掌で吾郎の頬を叩きだした。

「パパ~!!起きて!起きて!」

強張った顔面の皮膚にシワが入りはじめ頬骨のところで痙攣を起こしている。

「ん?加奈?あ、そうか…」

荒い息遣いで頭を起こし虚ろな目で左右を見渡す。代行のおじさんと目を合わすと我に帰ったように姿勢を正した。

「すいません…いくらですか?」

「15000円。お客さん飲み過ぎだよ!このお嬢ちゃんが加奈ちゃん?お客さんいろいろ喋ってたよ。」

吾郎は愛想笑いを浮かべながら財布からおぼつかない頼りない右手で支払いをすます。

「加奈ちゃんお父さん頼んだよ。」

代行のおじさんは加奈の頭を笑顔で撫でると相棒の待つ軽自動車に向かう。加奈は手を振って見送ると吾郎の方へ向き直る。

「ごろちゃん大丈夫?」

吾郎は助手席からなんとか抜け出すとふらつく体を必死に正し千鳥足を玄関に向ける。加奈は心配そうに吾郎の傍から離れなかった。

「ごめんな、加奈。パパ遅くなっちゃった。」

「ううん、ごろちゃん大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう。」

玄関の前でまるで恋人同士のように抱き合う。吾郎の腕から伝うか細い加奈の体と心地いい寝巻の甘い匂いが心に安らぎを与えてくれる。いつの間にか吾郎の頬には涙が伝い、鼻水を啜る音と同時に体が小刻みに震え出す。

「加奈…ごめんな…頼りないパパだよな…」

「…ごろちゃん大好きだよ。優しいもん。」

なんの恥じらいもなく二人で心を通わせる。胸の奥底にひっかかった黒いつかえが取れた気がした。迷う問題のないところで何を躓いているのか?そのうち右も左もどっちが上か下かさえわらなくなって闇の中から抜け出せなくなる。吾郎を絶望の淵に追い込むのもそこから救い出すのも加奈にしかできない。アルコールじゃ翌朝に憂鬱と副作用の頭痛を先送りするだけのただの麻薬に過ぎない。耐えて堪えてふみとどまって明日を睨みつける。加奈の左肩に顎を乗せた吾郎の表情は酒気を思わせず、頑なで冷淡とも取れるような目はこれからやって来る邪気を追い払うかのようだった。


「ハァ…ハァ…ハァ」

はや歩きが小走りになり、小走りがいつしか疾走に変わっていった。暗闇の中、河川敷の小道をひたすら突き進む影が映る。向こうに見える橋に時々車が行き交いタイヤとアスワァルトの摩擦音が静寂を切り裂く。桐谷にはそんなことも気にならないくらい目は血走り、荒い拍動音に突き動かされながら不揃いな足音を闇に打ち出す。焦燥感に駆られた柿谷の表情は血の気が引き青白く、神経が抜かれたように動かない顔面の筋肉が足の裏から伝わって来る振動につられて少し震える。その様が小さな砂利とサンダルの裏ゴムとの擦れ合う音に上手く重ならず不気味な存在を周囲に知らしめる。そんな常軌を逸した柿谷の胸元に月明かりを反射させるものがあった。両腕にしっかりと抱えられた鉄の塊がこの不協和音の元凶だ。小道に沿って歩いていた柿谷だが何かにつられるように河川敷をサンダルで降りていく。笹の葉で切れる露出した脛にお構いなしに一目散に駆け降りていく。初めて外に出た子供のようになんの危険も頭にない柿谷は足場が悪いところでどんどんスピードを上げていく。何かにとり憑かれたように脇目も振らずある一点を目指す。そんな柿谷がちょっとずつあたりを見回すように歩くスピードを落としていく。足元が雑草に生い茂る中、一箇所だけ禿げあがった場所があった

。柿谷はその存在に気づくとさっきまで緩めていた足取りを早め、着くやいなや大事に抱きしめた鉄製のスコップを地面に突き刺す。こんなにも固まるだろうか?雨で均された土は固く柿谷は何度も固い土にスコップを弾かれながらも一心不乱に掘り起こしていく。口に入る砂の渋苦い味すら気にならないほど誰も寄り付かない深夜の河川敷に何かを見出だしていた。現実なのか夢なのか、どうか間違いであってほしい…記憶違いであってほしい…なにも出てくるな、なにも…

柿谷はスコップを落とした。腕が痺れるくらい、血豆が掌を彩るくらい強く握ったスコップの柄から手が離れた。手が滑った訳じゃない、無残に変わり果て泥にまみれた頭蓋骨が何かを問いかけるようにこっちを向いている。武者震いする体を温めるかのように両目からは怒涛のように押し寄せる生暖かい涙が喉の奥底から上がって来る高音の鳴き声と一緒に溢れだす。非道さと自分が侵した罪が暗黒の世界への扉を自ら開く。自分が存在する世界にはヒトが存在しない。カラカラに乾燥した顔面の皮膚から雑草のように伸びるタワシのような髭の丈がただ無駄に流れる時間を知らしめる。そんな絶望と虚無感の中、心底遺体を悼む気持ちはあったんだろうか?自分の社会価値が下がるのを悲劇のヒロインというある一定の美談に助けを求めこの場に及んでもまだ自分のことしか考えられない愚かさに自己の存在意義を問いかける。


こんなはずじゃない…こんなはずじゃ…

おれは悪人じゃない、虫も殺せない人間だ。

でもオレは犯罪者なんだ………人殺しの醜い怪物だ。

いや、オレは殺してなんかない!オレじゃない!

一生笑うことなんて許されない、ただ最下層で光りの当たらない苔のように這いつくばって下を見て生きて行くしかない人生を送る自信がなかった…


カラーンッ、ガラス張りの重いドアを開け店内に入る庄吉にウエイターの女性が気づき近寄って来る。

「お客様おひとりですか?」

庄吉はその女性の話を聞くや否やキョロキョロと店内を見渡しはじめる。グルッと店内を見渡し2巡目に入るときに窓際の席に座っていたスーツ姿の青年が立ち上がり庄吉に頭を下げ笑顔を見せる。急いで頭を下げ返し、席を指差すとウエイターを残しテーブル同士の間隔の狭い通路を盗み足で進んでいく。

「すいません、お待たせして!」

「いえいえ!どうぞ。」

庄吉は頭を下げながら物腰低く近づきその青年の対面にある椅子に腰掛ける。庄吉を追ってきたウエイターに愛想よくコーヒーを頼むと再びその青年に目を移す。綺麗に刈り上

げられたサイドにトップはワックスで固められた清潔感ある髪型に淵の厚い眼鏡をかけレンズ越しに覗く目は鋭く内に秘められた野心を感じさせる。

「新田さん、お久しぶりです。」

「いえいえ、こちらこそ。でも、最近東谷さんからの連絡がなかったもんで心配してたんですよ。」

「すいません。ちょっと仕事が立て込んでて新田さんにご連絡差し上げるの遅れてしまいました…で、その件なんですけどちょっと興味深い点がありまして。」

「えっ、見つかったんですか?」

「いえ、まだそこにまでは行かないんですが冴子さんの身辺調査をしていくととある産婦人科に行き着きまして…」

「産婦人科?加奈を出産した病院のことですか?」

東谷は一呼吸置き庄吉を射抜くような眼光で見定めた。

「もうひとりいたみたいなんですよ。お子さん…つまり加奈さんの兄弟になるんです。」

庄吉の目が大きく見開き左手で持っていたコーヒーカップの水面が大きく波打つ。震える手でカップを皿の上に戻すと懇願するように東谷を見つめる。

「吾郎と離婚してからの子という意味ですか?」

東谷は静かに物言いたげに頷く。

「相手は?もしかして吾郎の子かもしれない?」

「恐らく吾郎さんのお子さんではありません。離婚してからひとりの男性と長い間お付き合いしていたみたいです。その男性の子と考えるのが妥当でしょう。」

「加奈の兄弟…え?、じゃあその子はいまどこに?」

「それが冴子さん出産していないんです。」

「え?」

「産婦人科の医師に事件性をチラつかせると話してくれました。冴子さん妊娠5ヶ月の検診を境に出産は愚か全く診察に顔を出さなくなったと…」

「じゃあどこで出産を?」

「詳しくはわかりませんが他の医療機関に問い合わせても冴子さんの記録は出てきませんでした。」

「つまり…家で…自分で…」

放心状態の庄吉は焦点の定まらない目をテーブルの木目に移した。

「申し訳ありませんが詳しくは分かっていません。もしかすれば元気に冴子さんと一緒に生活してるかもしれないし…ただ最悪の自体を否定する証拠は今のところ何ひとつありません。」

「冴子の消息の方はどうなんですか?」

「それが全くといっていいほど…分かったのは加奈ちゃんがアパートで保護された日より前の出来事ばかりで今の足取りは全く見えないんです。その付き合っていた男性も忽然と姿を消してますし…事件性も十分に考えられます。」

庄吉の表情が濁り、テーブルに置いてある煙草の箱に手が伸びる。おもむろに取り出した一本の煙草をコンコンと手の甲に馴染ませると唇に挟んだ。火をつけることも忘れ頭の中を探るために視覚を停止させる。

「加奈…孫娘なんですがちょっとおかしいんです。保育園でも上手く友達と付き合えないみたいで今は家内が家で見ているんですけど…ついこの間、精神科に通うことになって」

「精神科?」

「ええ、だからこの冴子の失踪となにか関係があるんじゃないかと…」

「そうですか…」

間心地悪く東谷がコーヒーカップを手に取る。店内はそんな二人をよそにランチタイム真っ只中の賑わいを見せ、心中混沌とした二人は沈黙の中で四方から跳んで来る笑い声に嫌でも孤立感を感じざるを得なかった。


「おはよう!加奈ちゃん、よく来てくれたね。」

「おはようございます。先生昨日はよく眠れた?」

後ろに立つ付き添いの吾郎はびっくりして咄嗟に体が前に出る。

「加奈!」

桐谷は動じず

「ハハハハ!加奈ちゃんの方が先生みたいだね!はい、よく眠れました。加奈ちゃんはどうかな?よく眠れた?」

「うん!眠れた!」

「そうなんだ!それはよかった!加奈ちゃんの顔色もこの前からみたら良くなったね!」

「ねぇ先生~今日はなにをするの?」

「何もしないよ~先生と加奈ちゃんでお喋りするだけ!」

「おしゃべりすればいいの?なんのおしゃべりするの?」

「そうだなー今日は加奈ちゃんのこと色々聞こうかな?いいかな?」

「うん、いいよーでもはやくしてね。おウチ帰ってしなきゃいけないことあるから。」

「そうなの?加奈ちゃん忙しいんだね。ゴメン、ゴメン。」

加奈は嬉しそうに足元を見つめ左右に椅子をクルクル回しだした。

「それじゃあ急いで加奈ちゃんに質問していくね(笑)なにがいいかな~、そうだ!加奈ちゃんって起きたら一番先になにするの?」

「おきたら?おきたら加奈一番先にお顔洗う!ん?えっと…そうだ!おトイレに一番先に行く!」

「先生も一緒!先生も起きたらトイレに行くなー寝る前にトイレに行っても行きたくなるんだよね。」

「そう!加奈いつも寝る前はなにも飲んだらダメってばあちゃんに言われるの!加奈は飲みたいのに…でもばあちゃんは加奈のために言ってくれてるんだからやさしいね。」

「そうだね。加奈ちゃんもやさしいよ。おばあちゃんと今おウチで遊んでいるんだよね?どんなことして遊んでるのかな?」

「うんとねーおままごととかお人形遊びしてるー加奈がママでばあちゃんが赤ちゃんになるの。赤ちゃんすぐお腹すいちゃうの、加奈が料理作らないとすぐに泣いちゃうから大変!」

「そっかぁ、加奈ちゃんはいつもお母さん役になるのかな?赤ちゃん役もするの?」

「加奈は赤ちゃんじゃないからいつもお母さん!加奈がいないとダメなの!」

「加奈ちゃんしっかりしてるしね!お母さんに向いてると思うよ!じゃあ、赤ちゃんにどんなことを教えてあげるの?」

「んーと、お掃除とかおウチの戸締まりの仕方とかいろいろ!赤ちゃんはお行儀よくしてないとダメ!」

「そうなんだ?赤ちゃんはそんなにお行儀よくしてないとダメかな?ママに甘えたり優しく教えられたりして大きくなっていくんじゃないのかな?」

「ううん、違う!ママの方が偉いから赤ちゃんはママのお世話をするの!ママにお水出したり、ママにお料理出したり、お掃除してママを待ったり…とにかくママに怒られないようにお行儀よくしてないとダメなの!」

桐谷は顔は加奈に向けたまま、後ろに立つ吾郎の目をじっと見つめた。

「そっか…じゃあ加奈ちゃんはママにちゃんとお料理出したり、お部屋のお掃除したりしてたんだ?」

「そうだよ。加奈いい子だもん!」

「保育園で会う他の友達はそんなことしてるのかな?」

「…みんなダメな子ばっかり…だから加奈が教えてあげてるの。」

「そっかぁ、でもみんなママに怒られてた?」

「………」

「加奈ちゃんはどんなことされてたの?」

「別になんもされてないよ、怒られるだけ……」

桐谷はまた五郎に視線を移す。五郎もしっかりとした眼差しで桐谷の目を見返す。

「加奈ちゃんはお母さんのこと好き?」

加奈の眉間に皴が寄り目から生気が失われていく。

「好きだよ…」

「ママはどこに行ったのかな?加奈ちゃんを置き去りにしてママはどこに行っちゃったのかな?」

冷静新着な桐谷も心臓を締め付ける思いで問いかける。

「知らない…ママは知らない…加奈、お行儀よくしてたもん…」

加奈は椅子を反転させ五郎の方に振り返った。

「五郎ちゃん帰ろう、先生嫌い…もう来ない……おウチ帰ろう…」

視線を合わせることなく五郎に訴えかける。青冷めた加奈の表情と首筋を伝い背中に流れ落ちる脂汗がただ事ではない何かを物語っていた。診察室は静まり返り、廊下を行き交う人の声が鮮明に聞こえてくる。


「ヌルくないか?お湯足そうか?」

「…うん…」

いつも笑顔を絶やさない加奈が今日は暗く明らかに様子が違う。桐谷の診察がよほどこたえたのか家に帰ってきてからというものあれだけ好きだった人形遊びも手につかずひとりボーッとテレビの前で座っていた。映像が無駄に加奈の瞳を彩りただ跳ね返す。まるであの忌ま忌ましいアパートから助け出した時のような無表情で五感が鈍り使い古された人形のように無気力でそして不気味だった。

「加奈、覚えてないか?加奈がホントにちっちゃいときパパと二人でよくこうやってお風呂に入ってたんだよ。」

「おぼえてない」

「そうか、加奈がまだ歩けないくらいだったからなぁ…ほらこうやって…このお風呂のボタンあるだろ?加奈、このボタンが好きでよく押してたんだよ。覚えてないか?」

加奈は無言で首を横に振るばかりで吾郎の方を見ようともしない。

「そっか、覚えてないか…その頃のパパの仕事は加奈をお風呂に入れることだけ。後はママの方が上手いから全部ママに任せっきりだった。なにをやってもダメで加奈をいつも泣かせてたんだよ。泣かせた加奈をあやすこともできなかったから…だから、加奈をお風呂に入れるのはパパにとって特別だったんだ。でもそんなこと知らない加奈は風呂場で大暴れ…ヒヤヒヤしたけど、でも本当は嬉しかった。ただの一度も加奈は泣かなかったんだよ。パパの顔を引っ掻いたり、オモチャを投げつけたり…でもいつも笑顔だった。」

湯船の中、そっぽを向いた加奈を抱き寄せる。

「加奈、また笑って元気だそう。今じゃなくていい。パパはずっとそばにいるから…加奈のそばにずっといるからまた笑顔見せてな。パパは加奈のこと大好きだから。」

吾郎は恥ずかしくて加奈の顔を見ることができなかった。ただ、加奈のか細いカラダを強く抱きしめ自分の身を隠す。加奈の思いが聞けないまま無言の静寂に天井からしたたる水滴が浴槽を打ち鳴らし、浴室の外から聞こえてくる下校にはしゃいだ子供たちの声が胸を締め付けた。


--大丈夫、大丈夫…加奈だってきっとやれるさ……ほかの子と同じように育っていくんだ。--


カッカッカッカッ

東谷は一人警察署の入り口の階段を颯爽と駆け上がる。肩には重い黒のショルダーバックを抱え門番のように構える二人の警察官の間を挨拶も程々にすり抜ける。カウンターで待ち構える婦警に息も絶え絶えに詰め寄ると右ポケットから二つ折りの財布を取り出した。婦警は慌てふためく東谷に戸惑いながらも引きつった笑顔を絶やさない。

「私、東谷探偵事務所の東谷直也と申します。名田さんから連絡受けたんですけど名田さんは今どこに?」

「名田ですね?名田は今取調室にいますけど…ちょっと待ってくださいね。」

その府警は慣れた手つきで白い受話器をとり番号を三回押した。一度東谷に笑みを見せると視線を下におろし受話器の向こうに耳を澄ます。その澄ました目つきと鼻筋の通った綺麗なラインに喉を唸らせいつの間にか見とれてしまっていた。あらぬ事を考える頭を振り払い無理やり携帯電話の画面を食い入るように見る。

「お疲れ様です、受付水上です。名田さんに東谷さんという探偵さんがいらしてますけどお通ししますか?……はい……はい、わかりました。」

受話器を置くとまた東谷の方を見上げる。

「名田さんちょうど今手が空いたみたいで…」

婦警が話している最中に右手の廊下から扉が閉まる音が響いた。

東谷が目をその方へ目をやると何やら堅苦しい顔をした名田がこちらに両手を腰につき歩いてくる。

「おお、すまんすまん。」

「で?どうだった?」

「まあ、電話で話した通りの男やわ。お前の探してた男で間違いない。」

「ほんとか!で?何をしたんだ?なんかやったのか?」

名田は受付の府警をチラッとみると東谷の背中に手を回し奥ばった休憩室に静かに促す。名田は東谷の耳に顔を近づけ小声で話し出す。

「殺人だ。」

東谷はひん剥いた目を名田に浴びせる。

「しかも、子供の…」

「子供?」

「ああ、子供って言っても生まれて間もない赤ん坊だ。」

眉間にしわを寄せる東谷が錯乱する思考の中で必死に平静を保とうとする。

「赤ん坊……じゃあ…」

名田はそうだと言わんばかりの目で東谷を見定めた。

「恐らくお前の探している女性の子だろう…」

「でもどうやって鑑定するんだ?母親は行方不明だろう?」

「そうや。だから兄弟鑑定をしようと思ってる…」

「…加奈ちゃん?」

名田が静かに頷く。

「それにその子に話も聞きたい。柿谷は殺害を認めてるがなんせ死体だけでなんの手がかりもない。動機、殺害方法については一切喋らない。遺体は白骨化してるから死後数か月は経ってるだろう…」

「じゃあもう家の方にいってるのか?」

「いや、お前と一緒の方がいいと思ってな。そうだろ?」

東谷は小刻みに何度も頷く。

「まあ庄吉さん、その加奈ちゃんのお爺さんしか俺のことはしらないんだけど…」

「そうなのか?」

「ああ、まあ複雑な問題だからな。旦那とその母親は一生会いたくないらしい。でも良かったよ、担当がお前で…」

「まあな。お前も悪運の強い奴だな(笑)」

東谷は顔を下に向け静かにほくそ笑む。東谷と名田の付き合いは探偵事務所開設の時まで遡ることになる。とはいっても開設したのは5年前だからそんな昔ではないが二人はウマがあうというのかどこか十年台の旧友に会うような感覚でなんの違和感もなくすぐ仲間になり連絡を取り合うようになる。情報が命の二人にとってまるで戦友のように持ちつ持たれつつの関係を続けていた。東谷は探偵という職業を掲げる以上同業者におさまらずあらゆる職種との繋がりを大事にしている。探偵は大学時代悩みに悩んで決めた職業だ。他の仲間のように安易に企業に就職し上司へのゴマスリ合戦を選ぶことはしたくなかった。ただのエゴだったかもしれない…自分の上に人を置きたくなかった。情報が錯綜する中で社会人としての未来に疑問を感じていたのかもしれない。世の中に潜む真実を肌で感じたかったのかも知れない…普通の人なら一生触れ合うことができない世界…普通の人なら一生知らなくていい世界…東谷はそんな世界に飛び込むことをきめた。一度きりの人生で知らなくていいものなど存在しない、それが東谷の出した答えだった。真っ向から人生に立ち向かう、それが自分の望んだものでなくてもそれを受け入れる覚悟はもっていたつもりだった。次から次へと出てくる信じられない真実に叩きのめされながらも何とか平静を保とうとする。夫婦、親子、友人…色々な人間関係の中で生まれる絆がこんなにも脆く、そして規則的だった。愛を信じることが難しい現実を生き抜くには愛が不可欠な存在であるという矛盾が社会システムの欠陥を浮き彫りにする。そこには善も悪もなく、ただ神が作った欲望ゲームに強制的に参加さられる。欲がなくなり下を向いている奴は顔面を蹴り上げられまた見たくもない醜い世界を見せ付けられ引き込まれる。死ぬまで逃れることのできない劣等感と優越感の境界線を来る日も来る日も股にかけ馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。東谷は信じていた、それが本当の世界じゃないと…もっと生きるに値する美しい真実が隠されていると信じるより他なかった。


 真っ白な砂浜に打ち寄せるさざ波を黄金色に輝かせる神秘的な夕日に包まれる海岸に似つかわない荒っぽい潮風が突き抜ける。鼓膜を直撃する強風に落ちつかず、行く当てもない足取りは一層、砂の深みにはまっていった。ふくらはぎが突っ張るほど何回も纏わり付く砂を足先で押し進んでいく。頬を伝う涙と情けなく開いた口からは涎がしたたり黒の制服にら線状の模様をつける。そんなグシャグシャな顔が気にならないくらい、泣き声も届かないくらい遠くに逃げてきた。もうすぐ夕日も姿を消し暗闇があたりを覆い、皆家族で夕食を囲みだす。器から昇る湯気越しに濁る親のしかめっ面を感じながら少しずつ煮汁を喉に通していく。機械的に流れる日常、なに不自由ない日常に平和ボケしながらも生きている実感がない。両親はしっかり働いているし、学校での友達もいるし成績もまずまずいい方だ。彼女は今はいないが二人くらいから告白されている。でもなにか足りない…生きている実感が全くないんだ。時々、寂しくなる…こんなにも周りに人がいるのに、こんなにも笑顔がそこにあるのに…このままじゃダメなんだ、ここにいてもダメなんだって心のどこかで叫び声が聞こえるんだよ。その瞬間、自分以外のものはただの景色に変わるんだ。どこか遠くの…どこかブラウン管の中の出来事のように自分の生きている世界とは違う世界…ただのわがままかもしれないし恵まれすぎてるのかもしれない。将来への不安?ストレス?本当にそうなんだろうか?この世の中になにも説得力のあるものがないように感じるのは俺だけなんだろうか?会社に入って結婚して子供を育て親になる。それだけで満足なのか?みんなに認められたら満足して死ぬんだろうか?自分はなにを悩んでいるんだろうか?友達と遊んでいるときが1番幸せなんて誰が決めたんだろうか?俺が幸せなのはいつなんだ?わからない…でもこれだけはわかるんだ、ここでは死にたくないって…今いるこの場所には間違いなく幸せなんて存在しないんだ。どんなに幸せな家庭だって、どんなに幸せな夫婦だってどこでもいつでもどんな場時でも今いるところに幸せなんて存在しない。

だから俺は歩いている、こんななんにも存在しない真っ暗で不気味な砂浜でもヌクヌクと家でテレビを見ているよりは生きてる実感がある。幸せが見つかるなんて頭ん中にない、ただただ今いた場所から離れるんだ。一歩また一歩遠ざかって来た道を振り返る…さっきまで自分がいた場所があんな綺麗な場所だったんだって戻ることもできないとこまで来てようやく気付くんだ。


--刺激が恐怖が欲しいんだよ。血生臭くてもかまわない本当の自分をさらけ出したいんだ。なにが悪い?おかしい?みんな同じこと思ってんだろ?死にたくないって…どうあがいたって死にたくないんだよ。--


「お帰りなさい?あっこんにちは。仕事関係の方?」

庄吉の帰りを迎える妙子が後ろからついて来る見慣れないスーツ姿の二人に気付く。庄吉は後ろめたそうに妙子に中々目を合わすことができない。

「加奈は?」

「さっきまで遊んでたんだけど疲れて二階で眠ってる…けど?」

「そうか…よかった…ちょっと話があるしお茶入れてくれないか?」

妙子はいつもと様子が違う庄吉と神妙な面持ちの後ろの二人を見て只事ではないと嫌でも感じざるを得なかった。すこし楽になればすぐまた次の難事が舞い込んでくる。妙子はまた胸の上をギュッと強く握り締めた。それは祈りではない、懺悔だ。見に覚えのない自分の犯した罪が存在する。でなければ説明できないほどの苦痛に弱者は苛立ちを越え平伏すことしかできない。妙子は細る声でダイニングに案内し震える手で茶葉缶に手を伸ばした。膝は笑い背筋から走る悪寒に血の気が引いた顔面は強張りピクピクと瞼が痙攣しだす。どうにか三人にお茶を出すと下座の椅子にぎこちなく腰掛け必死に平静を取り繕った。沈黙を庄吉が破る。

「あのな…ちょっと前から皆には内緒にしてたけど冴子さんの捜索をこちらの探偵さんに頼んでたんだ。」

なぜかこの時ばかりは申し訳なさそうな庄吉の表情が苛立たしく感じた。こんな酷い状況に陥れた元凶に対してもなお庄吉は聖人のように中立を保とうとする。大人の対応…今まで妙子はそんな庄吉を誇らしく思っていた。仕事柄、法律に関する知識は長けていて常に正しく理性的に振る舞う。自分の感情を押し殺してまで忠義に尽くす。模範的な国民で讃えられるべき存在…だがこの時の妙子にはそんな優等生の回答など望んでいなかった。ただ、息子に取り付いた悪魔に手を差しのべることは無意味でそして馬鹿げている。団塊の世代に生まれ育った妙子や庄吉にとって人を蹴落とし自らが這い上がることは日常茶飯事だ。その世代の人は皆そうやって自分を守っているし競争してきた。敗者に…ましてや敵に手を差し伸べるなど自らの命をわざわざ危険にさらすだけだ。命を落としてからじゃ正義を叫ぶことすらできないし、誰も弱者の声を聞こうなどという慈善に充てる時間などない。

「そ、そうなの?別に言ってくれればいいのに(笑)」

「ああ、すまん。それで…今この探偵さんの隣にいる人が刑事さんだ。」

「刑事さん?刑事さんも探して下さってるの?」

奇妙な沈黙が流れ不自然に口を閉じる庄吉を見かねてか、名田の目に生気が宿る。

「刑事の名田と申します。今回ですね…大変いいにくいんですが現在、私共の署で冴子さんに絡んだ事件を取り扱ってます。」

妙子の目つきが変わった。

「ほら!見たことか!あんな無茶苦茶なことして!そうなるって思ってたわ!」

肩で息をし興奮する妙子の豹変ぶりを見てその場の誰もが背筋を凍り付かせた。勿論、庄吉も例外ではない。むしろ一番驚いたのは庄吉だったのかもしれない。あんな穏やかな妙子をここまで感情的に、性悪に追い詰めていたとは知らなかった。いつも隣で一緒なモノを見ているつもりだったがそれぞれ見え方は違っていたのだ。理性的な白黒の映像と感情的なカラーの映像では心に受ける衝撃の度合いは火を見るよりも明らかだ。庄吉の想像を絶する心労を妙子にかけていた。庄吉は取り乱した妙子を慰めることもできず、ただダイニングテーブルに置かれた漬物入れを見つめて自分を責め続けた。今朝も血圧の薬を飲んでいた…昼も健康のために始めたウォーキングで隣町まで足を伸ばして。最近太りだして、しわも増えてでもどこか背中は小さくなって…頑張ってたんだ。必死に折れそうになる何かを守ろうとしてたんだ…庄吉の目頭を熱くさせる。その後の妙子には何も耳に入っていなかったのかもしれない。次々に襲ってくる現実離れしたドラマの様な出来事に脳が破綻していた。軸になるべきものが笑えるほど脆く、そして不確かなものだった。現実が幻想の様に、悪夢の中に引きずり込まれ方向がなくなる。自分の身を置く世界がまるで別世界の様に白い泡の様に…すべてはまやかしの様に…洗脳されていたのは自分なのかもしれない。先人が施した幻想の中にいることで身を守り、現実には直接触れていなかった。幻想のフィルターを介して世の中を見ていた。愛などという不確かな存在を馬鹿みたいに信じ込み、結婚に逃避行していた自分を何故か無知で幼稚で惨めに思えて仕方なかった。夫の世話をし息子の面倒をし孫の子守をし自分の時間を犠牲にしてきた自分自身がただ奴隷の様に生真面目に馬鹿らしくなった。

「冴子…子供?」

低く重い声がその場に響き渡る。廊下と居間を繋ぐ扉の前で吾郎が立ち尽くしていた。妙子も庄吉も無言のまま身動きが取れない。

「俺の子?」

吾郎はもう一度問い掛ける。誰も口を開かない重苦しい空気に東谷が立ち向かう。

「いえ、吾郎さんのお子さんではありません。」

「俺の子じゃない?殺人?冴子が?」

「それもまだ……」

東谷は申し訳なさそうに口を濁らせる。全く状況も掴めない吾郎はキョロキョロあたりを見回し答えを捜し求め、無意識に名田に目線を落とす。

「今、被疑者の身柄を暑の方で拘束しています。元奥さんと男女関係のあった男で殺害を認めていますが自供のみで殺害した証拠が何一つない状況でして…それで今回被害者の身元を調べる意味で加奈さんと兄弟鑑定したいと思いまして…」

「兄弟…」

「DNA鑑定で冴子さんの出産した子かどうかハッキリと診断できます。」

「DVって…ことですか?じゃあ加奈も……」

「それはまだ…」

「まだまだって警察は何をしてんだ!取り調べしたんじゃないのかよ!」

鼓膜を突き刺すような罵声が空間を切り裂く。矛先を失った怒りは全くゆかりもない名田の前で弾ける。

「吾郎!落ち着け…怒ったってなにも解決しない。刑事さんはわざわざ家まで来てくれたんだ。」

「そんなこと言ったってどうすりゃいいんだよ。子供殺すってどうなってんだ。どんな神経してんだよ!じゃあ加奈もされてたのかよ…どうなってんだよ、どうなっちまったんだよ!」

吾郎は肩を落とし波打つ鼓動と息遣いを感じた。視線を足元に移すとなにか思い立ったように顔を持ち上げ階段を駆け上がる。

「吾郎!」

庄吉は常軌を逸した吾郎の後をおぼつかない足取りで追いかける。何かにとり憑かれたように加奈の寝ている寝室に急ぐ。

「加奈!起きろ!加奈!」

布団の中に包まり寝ていた加奈がゆっくりと起き上がる。そんな加奈の両肩を後ろから鷲掴みにし乱暴に振り向かせる。

「いた~い……はなしてよぉ…」

寝ぼけ混じりの声を出す加奈は大きな口を開け泣き出す。そんなことはお構いなしに加奈の肩を強く揺さぶり髪が振り乱れる。

「加奈!冴子…ママはどんな男の人と一緒にいたんだ?そいつに叩かれたりしてたのか?パパにしっかり言うんだ!加奈!」

「しらない…しらない…」

「吾郎!なにしてんだ!」

庄吉は羽交い締めするように吾郎を加奈から引き離し暴れる息子を必死に押さえ込んだ。孫娘の前で夫と息子が取っ組み合う光景を両手で口を押さえ涙で霞む視界の中に殺意を感じた。

「コ…シ……ル…」

「えっ?」

東谷は左耳から入ってくる低い男性の様な声に息苦しさと視界が段々狭くなっていくのを感じる。東谷の左には男性などいない。そこには無残な家庭の中でもがき平静を失った老女が佇んでいるだけだ。東谷は思った、こんな良心し従い生きる家庭になぜ不幸など訪れるのか…もっともっと災いが起きてもいい不純な家庭などザラに存在する。仮面で取り繕った自分のステータスでしかない繋がりの方が強固なものになりうるのだろうか?それとも皆、出発地点は同じで何かを諦めそして得たのだろうか?ふと母親の姿が浮かんでくる。いつも強く自分たちを引っ張っていく母、涙を見せ優しく肥えた二の腕で柔らかく包み込む母。

「強くて…優しい…」

東谷はいつのまにか口ずさんでいた。母親の口癖を…


 中学二年の夏、三年生の引退で俺はサッカー部のキャプテンに指名された。別に立候補したわけじゃない、先輩と後輩そして同級生、部員一同で話し合った結果だ。自分で言うのもなんだが俺しかいなかったと思う。なぜなら技術と部員からの人気が人一倍あったからだ。上の奴らは下の奴に頭ごなしに叱りつける。理由がある時もあればないときもある。合理的である時もあれば全く理不尽な時もある。俺はそんな状況をただ見過ごすことができなかった。母親が口癖のように言う「強くて優しい男」に憧れていたのかもしれないし只、ナルシストな自分に酔っていただけなのかもしれない。だが上下関係は上下関係だ、生半可な奴らがそんな偽善を振舞えばリンチをくらって二度と逆らえないように再教育されるのが落ちだろう。でも俺は違った。簡単だ。技術があったんだ。1年の頃から不動のエースで張ってきた俺には部内ではライバルすら存在しなかった。例え上級生であろうが、たとえ汚い手を使われようが監督の評価が覆ることはなかった。弱肉強食だ。そんな扱いづらい後輩が言うことにいちいち難癖をつける馬鹿はいない。コート上では上手いやつが集団に影響力がある。俺は常に美学をもっていた。サッカーに対してもそうだがサッカー部に対してはより強いモノをもっていた。練習内容、部内の規律そしてサッカーに対する愛、集団に対する愛。常日頃、自分がキャプテンならこうするのにとか、このキャプテンより自分の方が勝っていると内心思っていた。そして二年間思い描いた自由が目の前にある。興奮し白い天井に自分の将来を投影し眠れなかった日は1晩や2晩ではない。数えきれないの空想と尻の穴がむず痒くなる日々を来る日も来る日も感じる。そこに失敗は存在しない、だた自分がチームを率い正しい形で美しくそこに存在し得る地位を確固たるものにする。そして、サッカー部を率いる最初の練習を迎えた。照れ隠しのはにかみ声でキャプテンらしく号令をかける。周囲も笑い声が絶えない温和なムードで迎える。

「よっ!東谷キャプテン頼むよ!!」

「うるせー!今までとなんも変わんねぇよ!楽しもうぜ!」

「ハハハハ」

 初日はどこか無法状態だった。勿論、東谷の中には緻密に入り組んだコンピューターの様にしなければならない事やしたい事は頭の中にあった。でもどこかに本心を出せない自分がいる。いつも夜に空想する理想の自分を皆の反応が気になり縮こまる臆病な自分に支配される。自分の取り分を広げようとしない低欲な自分を皆は好いてくれる。そんな心地いいぬるま湯から出ることができない。そんな日が何日も続いたある日、顧問の先生に呼びだされた。いい知らせでないことは何となく気付いていた。気まずく重い心を引きずったまま教員室をノックしゆっくりと横に引く。デスクチェアーにのけぞり足を組み隣の先生と談笑するの先生をみて一瞬の安堵が心を軽くする。先生はこっちに気顧問付くと何も言わず奥にある個室を指さす。あの個室は校則を守れない落ちこぼれの不良か教育方針に異を唱える風のモンスターペアレントが収容される独房だ。とにかくいいイメージがない。東谷は物音ひとつ聞こえない静まり返ったその部屋に置かれた空気椅子を静かに引くと身をすくめ尻をゆっくりと降ろす。横長の机を挟み対面に座る先生の顔はいつも通り厳しい表情に変貌する。

「おう、どうや東谷?キャプテンって呼ばれるのも慣れてきたか?」

「は、はい。慣れたっていうか…」

「そうか…まあこないだなったばかりやしな。俺も練習の雰囲気みてたけど今までにないくらいいいな!」

東谷は俯き加減になっていた顔を上げる。どうやら説教ではなさそうだ。力の入った思考を緩め東谷に笑みが戻る。

「いや、おまえは俺が見てきた中でも人気のあるキャプテンだ。厳しい3年からお前は1、2年のころから仲間や後輩をかばってきたもんな。当然なのかもしれん。だがここ何日か練習を見させてもらったが最低だ。なんで1番人気のあるキャプテンが1番最低な練習をするはめになるんだ?わかるか?」

東谷は頭を打ち抜かれた様にその場に居ることすらままならない。震える二の腕でパイプ椅子の両脇を掴み脇から流れる冷たい汗を感じる。口から言葉を捻り出そうとするが開きっぱなしの声帯と動悸がそれを阻止する。ニヤッと唇を伸ばした先生が大きく息を吸い込み、誰にも聞こえないほど静かに吐き出す。

「お前は優しいって評判だ。後輩や同級生からもそんな話を聞く…だが俺はそうは思わない。」

思わず東谷は硬直した首筋に構わず顔を上げる。

「なぜだかわかるか?お前はチームのことを本気で考えてるか?どうだ?」

流石の東谷も苛立ちを隠せなかった。顧問を睨みつけると痰が絡んで届かない声を咳ばらいと同時に打ち出す。

「か…考えてます!!いつも…そんなことずっとずっと考えて…」

「じゃあどうしたいんだ?」

「今までは先輩が怖くて思うようにプレー出来ない後輩がたくさんいたし…そんなめんどくさい空気は断ち切りたいというか…その方がチームにとって良くなると…」

「うん…でも三年に厳しくしろって言ったのは俺だよ?」

「えっ?」

「うん、俺。後輩に恐怖を教え込む…俺が三年に無理言ってやらせたんだ。」

「なんでそんなことやらせたんですか?本気で部活やめそうになった奴もゴロゴロいたんですよ…」

「で?やめたのか?そいつは?」

「い、いえ…怖くて辞められなかったんです。」

顧問は不適な笑みを浮かべる。

「だろ?(笑)恐怖ってそんな力があるんだ。四の五の言わずに只言われたように行動する。それが悪か?」

東谷は心の底から顧問の言っている意味がわからなかった。

「え…でも…悪じゃないんですか?」

顧問はさっきまでの悪役の顔からいつも見せる先生としての引き締まった顔に戻った。

「東谷、お前は幸運だ。キャプテンって役を与えられる…そんな経験をできる奴は一握りだ。そんな貴重な経験ができる。お前は悪いがこれから一杯苦しむことになる…それは俺が苦しめるんじゃない。お前が大事に守ってきた仲間がお前を死ぬほど苦しめるだろう。例えば今東谷が言った雰囲気のいいチームが目標だとする…つまり上を置かないってことだ。なんのしがらみもない関係、只技術だけを追い求めて分け隔てなく競い合う…お前の嫌いだった三年が仕切ってた頃より退部者が増えるだろうな。東谷!人ってそんな簡単じゃないしそんな甘ちょろいもんじゃない。もっとドロドロした骨肉の争いだ。そんな世界を今のお前がこれから仕切って行かなくちゃいけない…キャプテンはそんな役だ。部員に総スカン喰らうほどの悪役を演じなければいけないし寮母のような優しさで包み込むことだって必要になってくる。いずれにしろ絶対的な権力者じゃないといけない。決して弱みはみせるな。いいか、ヒトを本当に動かしてるものは恐怖だ、忘れるな!」

東谷の激しく鼻を啜る音が静まり返る密室に響き渡る。

「東谷、俺はこの話を歴代のキャプテンひとりひとりにしてきた。皆、最初は戸惑うんだ…今俺が言ったことは親からも先生からも絶対聞くことがない話だからな。でも皆必ず壁にぶち当たる…必ずだ。友達と今まで通りの関係じゃいられなくなるし、もしかしたら誰も信じられなくなるかも知れん。だからお前は幸運なんだ。友達より先に大人になれるんだ。わかったな。大人になれるんだぞ。」

はっきり言ってなんのことか訳がわからなかった。でもなぜか涙がとまらなかった。いつぶりだろう、こんなに泣いたのは…とにかく怖かった。これから起こることが本当に先生の言ったようになるんだろうか…只の先生の思い過ごしだろう、考えすぎだ。そう慰めなんとか平静を保ったが、しかしそんな慰めはなんの意味も成さなくなる。程なくして部員同士で争い事が起きるようになる。その争いは激しさを増しチームを分断した。原因は仲間を思う気持ち、ただそれだけだった。仲間を守りたいという平凡でどこにでも存在する感情が仲間同士の抗争に発展した。恐怖の意味を理解していなかった俺はなんの役にもたたない只のお飾りでしかなかった。俺はサッカー部を辞めた…仲間思いの甘ちょろい考え方の俺にはどちらかを選ぶなど出来なかった。誰も傷つかない選択肢は逃げることしかなかったんだ。いや、違う…自分が傷つかない方法を選んだんだ。自分に都合のいい語択を並べて納得したんだろうか…東谷は今も後悔している、あの時自分がもっと忠実に先生の命令に従っていれば違った結果になったんじゃないかって…答えはどこかにある、必ずどこかに。


「お久しぶりです。すいません、無理言って…」

「いえいえ、こちらこそ。でもまだ空いてて良かったです。只、うちの取り扱ってる賃貸は引き渡しの時から一週間以内にクリーニングが入るのでなにも残ってないと思いますよ。あと、確認したんですけどクリーニングに入ったときに特に変わったものはなかったと…それにもう何日か前に警察の方が捜査の方で入ったのでなにも…」

「いやいや、別に証拠探しに来たわけじゃないんです。…ただ一度見てみたいと思いまして。まだ一度もアパートに入ったことがないんです。加奈とは月に一度、離婚してからも会っていたんですけど外ばかりだったので…」

「そうですか…じゃあどうぞどうぞ。」

佐々木が二階のアパートに向け歩き出したとき五郎の後ろからついてくる東谷に気付き軽く会釈する。

「あっすいません、紹介遅れました。あの探偵さんで東谷さんです。」

「東谷です。よろしくお願いします。」

「佐々木です。不動産業をしています…あっ探偵さんですか…」

「はい。僕も一度拝見させていただきたくて。佐々木さんが第一発見者で加奈ちゃんを病院まで連れて行ったんですよね?」

「ええ…あの時はもう無我夢中で…」

三人は歩きながら佐々木の話に耳を傾ける。そうこうしているとすぐに部屋の前にたどり着いた。佐々木は慣れた手つきでリングに無数に取り巻く鍵の中から一つ選ぶ。佐々木が開けたドアから見える室内はものひとつなく当たり前に殺風景だ。吾郎はいち早く部屋に足を踏み入れゆっくり辺りを見回す。そんな吾郎に佐々木は困惑な表情を浮かべながらも口を開く。

「そこですよ。」

佐々木はキッチンの一角を指差した。

「え?」

「近隣の方から連絡を受けてこの部屋に入ったときそこに加奈ちゃんが座ってたんです。辺りはゴミだらけで…」

「そうですか…」

「元々、異臭で連絡が入ったんですがゴミが散乱しているぐらいで特にかわったところは…」

「血とかは…」

ボソッとつぶやいた吾郎に佐々木はしかめっ面で答える。

「いえ…ちょうど僕と一緒に合田さんっていう警察の方が来られたんですけどそんな類のものはなにも…近隣の人からもあまり変わった様子はないって話で…」

口をつぐみ後ろで見守っていた東谷が会話に入る。

「産まれて間もない子ですからねぇ…」

二人は強張る表情とはにつかわない大きな目見開き声の元を辿る。

「い、いや。刑事さん…名田から聞いたんですけど司法解剖で凶器は鋭利な刃物による刺殺…脊椎まで届くほど深くまで何度も何度も…はっきり言ってどうかしてる。自分の子ですよ?」

「柿谷って男はそんな異常者なのか?」

「それが犯罪歴がないんですよ。それは警察から見ても珍しいらしく、こんな異常な事件を起こす犯罪者の大半は何らかの前科を持ってるらしいんです。柿谷の職場関係をあたったらしいんですが勤務態度が飛び抜けて良かった訳でもないにしろしっかり欠勤もせず出社していた。まあでも人付き合いは良くなかったらしく友人らしい友人もいなくひとりただ仕事と家の往復を繰り返す生活を送っていたそうです。」

考え込む吾郎に佐々木か気を使い合いの手を入れる。

「まあでもよくある話じゃないですか?真面目で暗い中年の男の心の闇が急に一気に爆発した。予定外の妊娠にパニックを起こして頭が飛んでしまった…最近こういう人付き合いの下手な男の事件が多いですよね。」

ひとり暗い表情の吾郎をよそに東谷はズケズケと本心を語る佐々木に愛想笑いで答える。

「人付き合いの悪い奴か…冴子はよくそんな男が好きだったな…好きなのかほっとけないのか…」

「あーでもそういう女性いますよね。母性が強いってことなんですかね?」

「まぁ俺もその人付き合いの悪い男のひとりなんだけど…」

東谷と佐々木はポカンと口を開けたまま顔を見合わせる。

「ごめん、ごめん。さてと、やっぱり部屋に来てみたけどなーんもわかんないね。ただここで加奈は苦しんでたんだ…こんな狭い世界に…逃げ出したかったんだろうな。加奈は冴子の事は一切口にしないけどどうなんだろうな?」

「やっぱり辛い過去があると記憶喪失みたいな感じになるんですか?」

「んー、精神科の先生に聞いたんだけど可能性の話しかしないんだよね。佐々木さんが言ったみたいに記憶喪失の可能性もあるし、ただ加奈の頭の中でしか存在しないのかもしれない。そうだよな…人の頭の中なんて確実って言えるのは何一つないっていうのが本音らしい。大人ならまだしも子供にそんなこと耐えれんのかな?頭の中にあるものすべて吐き出すのが子供だと思うんだけど…」

「もしかして加奈ちゃんは辛い環境だからこそ誰よりも早く大人になったのかもしれませんね。皆が何十年もかけて培うものをこの数年で生き急ぐように…それしか生きていく術がなかったのか…どっちにしろ被害者は加奈ちゃんですよ。」

西日が台所の窓ガラスから差すフローリングの温度を足の裏で感じながらうっすら漂ってくる排水溝の臭いを死臭と錯覚させられるほど吾郎の脳に固定概念は存在しなかった。同じ場所で感じる時間にどれほどの違いがあるんだろう?時計の針音が力無く止まるほどのゆっくりと感じる時間、忙しなく体内を行き交う血液を送り出す心臓の鼓動のように危機迫る時間…人は死ぬ瞬間今までの出来事が走馬灯のように甦るという。可奈や冴子はそんな時を感じたんだろうか?自分と別れて命を危険に晒すまでの価値がその男には存在し、俺にはない。死ぬまで安定した生活を送ることができる価値はそんな危険な恋愛よりも劣ることになるのか?もはや火遊びのレベルではない、冴子も命を落としているだろう…鬼畜な男の蛮行の餌食になる瞬間、一瞬でも俺との生活を乞うたのか?感情で生きる自分を恥じ、改心しこの世を去ったのか?死ぬ瞬間何を思い、自分の人生にどんな答えを見出だしたのか?満足したんだろうか、それとも嘆き生き絶えたのか…吾郎は不謹慎ながらもどこか優越感に浸っていた。一度は愛した人と子が殺されたかもしれない現場の真ん中に立って感じたのは憎悪ではなく、安堵だった。


「加奈ちゃん、これから人に会ってほしいんだ…」

名田が肩を落とした加奈の背中に手を回し優しく語りかける。精気の失った加奈の視線に合わせるように地面に膝を下ろし怖表の慣れない笑みを見せる。

「会うって言ってもあそこにある黒いガラス越しに見るだけでいいんだ。向こうからこっち側は見れないから怖がらなくていいんだよ。大丈夫?できる?」

加奈は下を向いたまま僅かに頷いた。名田は近くの警官に目で合図を送ると黒いガラスが一瞬にして透明に変わった。ガラスの向こうには無精髭で汚らしい精気の抜けた無表情の男がこちらを向いて座り、対面には刑事だろうか背広を着て黒髪をしっかり固めた男が背中を向け座っている。

「加奈ちゃん、顔上げてみてくれないかな?」

加奈は一呼吸置いてからゆっくり顔を持ち上げる。加奈の瞳はその男から背ける訳でもなく凝視する訳でもなかった。只冷淡にまっすぐ見つめる視線は感情を映さない赤の他人をみる目つきだった。

「加奈ちゃん…あの置くにいる男の人見たことあるかな?」

今まで頑なな表情を崩さなかった加奈が今度は名田の顔を見つめ笑みさえみせた。加奈の思いがけない反応に名田は作り笑いを固めたたまま情けない表情になっていた。

「あのおとこの人しってるよ。ママのお友達でしんちゃん。おうちにもよく来てたよ。しんちゃんはわるい人だもん…」

「わ、わるい人?」

「ママの赤ちゃん殺したの…わるい人でしょ。おじさん警察の人なんだよね、しんちゃん捕まっちゃったんだ…」

「…そ、そうなんだ…」

名田は唖然とした…いや呆然とガラス越しの柿谷を見つめていた。今までいろんな惨状を受け止めてきた名田だったが次から次へと襲ってくる鼓動に羞恥心を感じていた。四歳の少女の口から出てくる言葉に今まで自分を支えていた軸のようなものを失った気がした。ボーッと立ち尽くす名田のジャケットがグイグイ下に引っ張られる。そこには笑顔の加奈が名田を見上げていた。

「ねぇねぇ、わるい人はどこかに連れていかれるんだよね…しんちゃんはどれくらいいなくなっちゃうの?」

「ん?んーそうだな…二、三十年くらいかな?」

「ふーん…」


「あっさり認めちゃったな…」

「それ凄い話だよな…ホントに加奈ちゃんが言ったのか?」

居酒屋のカウンター席で名田と東谷は肩を並べる。

「本当だ…でもどうなんだろうな子供って…」

「なにが?」

「いや、目の前で母親が出産した赤ん坊が殺されて…そんなこと頭の中で整理できると思うか?」

「新田さん言ってたけど精神科医の前ではなんにも話さなかったらしい。なんでだろうな?その男を見た瞬間恐怖でポッと口から出たのか…」

「そんな顔じゃないんだよな…逆に小さいときに目に入るもんってなんの先入観なしに見えるもんなんか?」

「それが常識の範囲内になるってことか。でもその精神の先生の前じゃ言わなかったんだよな。言わないってことはダメなことって頭の中で整理されてるってことだよな?警察と病院…何が違うんだ?」

眉間にシワを寄せた名田は手元にある徳利に入った熱燗をグッと喉元に押し込む。

「わからん…」

考え込む東谷の表情がみるみる険しくなっていく。

「あの男を陥れてるってことはないか?」

「陥れる?どういうことだ?自白したのは柿谷の方だぞ?」

「本当は違うってこと…別に犯人がいる。」

名田は腕を組んだまま天井を見上げ暫くしてまた東谷の目を見つめる。

「だれだよ。」

「…それはわからんけど…母親か加奈ちゃん…」

名田は蔑むような目で東谷を見下ろす。

「可能性の話だよ。そうだとすれば納得出来ないか?病院や家で真実を語る必要はないんだよ。医者にも父親にもなんの権力もないんだから。でも警察にはその権力がある。その男を捕まえて刑務所に送る…そして、自分は怪しまれない。」

「んー、でもそれなら加奈ちゃんがアパートで見つかった時に吾郎さんだっけ?に柿谷の犯行を言えばいいだけじゃないか?そっちの方が手っ取り早いだろ?」

「あーそうか…」

「四歳の女の子だぞ?そんな話し聞いたことないわ。」

しかし、東谷の目はまだ諦めていなかった。

「逆に四歳の女の子だから出来たんじゃないか?名田は子供いるだろ?その子がもし殺人を犯して自分しか知らないとする…自分の子を警察に突き出すか?」

「…突き出さないな…只、加奈ちゃんは柿谷の本当の子じゃないんだぞ?いくら愛した人の子だとしても他人の子のために殺人を被るのは重過ぎる。まぁでも警察に柿谷が加奈ちゃんを突き出したとしても信じれないだろうな。」

「んー…辻妻があわんな…」

再び名田が考え込む東谷を見下ろす。

「おい、なんでこんな話しになるんだよ。柿谷が自白して加奈ちゃんも見たって言ってる。それが真実なんだ。まぁ俺から出た話しだけど飛びすぎたな。」

「」

二人並んで徳利を勢いよく煽った。

「まぁでも強い子なんだな…加奈ちゃんは。ただそれだけなんだろうな…」


鉄格子の外窓から月明かりが挿し昭和を感じさせる掛け布団が6枚並ぶ中、一枚の布団にスポットライトを当てる。地獄に横たわった柿谷は暗闇の中でしっかりと目を開き一点を見つめていた。留置所に入って痩せこけた頬の窪みを隠すように布団を被り、その合間から除く二つの瞳が不気味に光る。周りの男達が将来に悲観し寝息をたてるなか一人だけまだ捨てきれない何かをうちに秘める。息を潜めるほどの静けさの中、耳鳴りに交じって綺麗な声が聞こえてる。透き通る小川の中の小石が打ち合うように新鮮な空気に心洗われる。幻聴ともいえる異常な感覚だが、今の柿谷には朝起きたときの暖かい布団の中のようにいつまででも優しく包まれていたかった。次から次へと聞こえて来る。この世界には存在しないほど汚れをしらない真っ白な天使のような声…


---- 「しんちゃん!あそぼ!」「かなのこと好き?」

「加奈ね~しんちゃんのこと好きなの。」-----


「そうだなーお腹すいたな!加奈ちゃん何か作ってくれる?」

「はーい。ちょっと待ってね!今すぐ作るからね~はい!どうぞ!」

一年前、あのアパートの居間で柿谷と加奈は夕食後、部屋の一角に並べられたおもちゃを前におままごとをしていた。

「いやーこれはどうやって食べるんだろう?」

「それはしっかりとお箸で挟んで食べるのよ!わかった?」

「はーい。」

「何してるの?早くして!加奈、忙しいんだから!」

四角い積木をおもちゃの箸でつまんだまま佇む柿谷がそこにいた。加奈は何やらせっせと騒音をだしながらおもちゃ箱の中をあさっている。

「加奈!しんちゃんにあんまり無理言わないの!しんちゃん困ってるでしょ!」

「そんなことないよね?しんちゃん。しんちゃんにおむすびあげたの!ね?」

「あぁ、いいんだよ…」

「ごめんね、ありがとう。加奈、しんちゃんのこと好きみたいなの…」

「ホントに?」

柿谷と冴子が話しをしていると加奈が割って入ってくる。

「あー、しんちゃん次はこのお人形さんになって!」

「もう!加奈!今しんちゃんはママとお話ししてたの!」

「そうなの?しらなーい」

か細く高い声で加奈が悪びれもせずに言い返す。

「チッ」

冴子の舌打ちに柿谷が居心地悪そうに咳ばらいし座る位置をずらす。頭に血が上った冴子は床が抜けんばかりの勢いで台所に向かっていく。柿谷は生唾を飲み込むとスッと立ち上がり冴子とは対照的に忍び足で台所に向かう。

「そんなムキになることないだろ?相手は子供だよ?」

冴子は突然、皿洗いしていた食器をシンクに打ち付け部屋中に破壊音を轟かせる。柿谷は一瞬鳥肌が立つほどすくみ、肩を尖らせた。振り向く鬼のような冴子の顔に心を凍らせるが一転、柿谷に笑顔を見せる。

「ごめんごめん!滑らせちゃった。ごめんね、ムキになって…」

そういうとすぐにまた皿洗いに戻った。脈打つ鼓動がおさまらないまま柿谷はゆっくりと台所を後にする。居間に戻ると加奈は何事もなかったかのように一人遊びしている。そこに何か違和感を感じた。何がそう感じさせるのか、その時の柿谷には分からなかった。でもどこかで感じたことのある空気…決して楽しい思い出の中で感じたような空気ではない。それだけは確かだった。

「じゃあ、今日は帰るね。」

「えっ!泊まって行くんじゃないの?」

「いや、明日仕事早いし、準備しないといけないことあるから…」

「そうなんだ…」

肩を落とす冴子の後ろから加奈が足音を響かせ走ってくる。

「えーしんちゃん帰っちゃうの!?おままごとしよ!ねーねーてば!」

加奈が柿谷の右腕を両腕で掴んで離さない。柿谷は作り笑いで延びたシャツを直すと隣の冴子が加奈の両腕に手をかける。

「加奈!しんちゃんは明日お仕事なの!離しなさい!」

「いやーいやー」

加奈の声にちょっとずつ泣き声と鼻を啜る音が混じり合い気まずそうな柿谷は加奈を優しく抱き抱えた。

「加奈ちゃんまたすぐに来るから、その時またおままごとしよ!」

「いやーいやー」

「加奈!」

柿谷は泣きじゃくる加奈を冴子に渡すと後ろ髪を引かれる思いでアパートを後にする。静かに締めたドア越しにも加奈の泣き声が聞こえて来る。正直柿谷は嬉しかった。こんなにも誰かに自分を必要としてくれる人なんて今までにただの一人もいなかった。携帯画面に残る冴子と加奈の壁紙をお守りのように握りしめ何度も何度も美しい二人を眺める。そして何よりもこの世に自分のほかに自分を愛してくれる人が二人もいるなんてこれ以上の喜びはなかった。しかし、家路の途中で冴子の鬼のような表情が脳裏に浮かんだ。別に親子喧嘩なんてそこたらじゅうの家庭でいくらでも起こるし珍しいことじゃない。でも冴子のあの表情…なにかひっかかる。柿谷だって母親の鬼のような表情を数えきれないくらい見てきた。でもそんな柿谷の母親の表情とはなにか違う…親と子の関係?親は怒るのではなく叱る…そんな関係じゃないのか?加奈を見る冴子の目つき…まるで対等な相手を睨みつけるような目。

「考えすぎか…」

柿谷はそんなことより心が満たされている時間を一秒でも長く感じていたかった。

それからも仕事終わりに週の半分は冴子のアパートに通うようになっていった。時にはコンビニで買ったお菓子をぶら下げ、帰り道寄ったスーパーでは家計を気遣い半額弁当を手見上げに冴子と加奈のもとへ訪れる。そんなありきたりの行動が一人孤独に生きてきた柿谷には新鮮で自分の存在をしっかりと確かめさせてくれる瞬間でもあった。柿谷にとって冴子と加奈は自分を映し出してくれる唯一の鏡だ。どんなわがままを言われようが一切苦にもならなかったしむしろ自分を必要とされることに依存していった。そんなある日、柿谷は仕事で遅くなり急いで冴子らの待つアパートに向かいインターホンを鳴らす。切れる吐息を胸の前で押し潰しながらドアの向こう側に耳を傾ける。暫くすると冴子が驚いた顔でドアをそっと開ける。

「ど、どうしたの?」

柿谷は冴子のよそよそしい態度に拍子抜けした。

「えっ?どうしたのって…今日は一緒に夕飯を食べる日じゃ…」

「えっ?でももう遅いし…食べちゃったんだけど。」

柿谷は急に恥ずかしくなってきた。

「あっ、そっか。そうだよな…ごめんごめん。じゃあまた今度にしようか。」

「うん…なんかごめんね。」

「いやいや…じゃあ、おやすみ。」

柿谷は顔を隠すように急いで冴子の前から去っていった。冴子にこんな惨めな背中を見られないよういつもとは反対方向の道へ風を切って足早に歩いていく。何度も何度もため息をつきながらさらけ出した心に一個ずつ鍵をかけていく。今までのように暗く深い闇の底に心を沈めていく。誰も傷つけられないように…誰にも見つけられないように…。そうやって自分の世界に入り込んで行くうちに身震いが起こるほどの孤独に歩くこともままならなくなってきた。

「帰りたくない…」

心の声が口から転げ落ちる。全身を身震いさせながら人目も憚らず感情に支配される。冴子の冷めた目つきとよそよそしい他人行儀な態度が柿谷の胸を切り裂いた。

「俺はなんなんだ…」

俺のことが好きじゃないのか、いつも一緒に楽しく夕御飯を食べてるじゃないか。ついこの前だって加奈や冴子は俺と離れるのを嫌がっていた…違うのか?俺がなにか気に障るようなことをしたのか?いいや、俺の仕事への理解は人一倍冴子はしてくれているはずだ。なんでだ、なんでなんだ…

「…他に男でもいるのか…」

そうだ!そうに違いない!俺だって毎日アパートにいる訳じゃないし夫でも父親でもない。他に付き合ってる男がいようがとやかく言われる筋合いはない。孤独に震えていた男を今度は憎悪と怒りが支配し全身を震わせる。鼻息も絶え絶えに来た道を足音も立てずに引き返す。早足は次第に小走りに変わり呼吸ですら後ろめたく、そして興奮に満たされていった。柿谷は冴子らの部屋が見えるベランダ側に回り込み膝丈まである庭木に身を潜めた。 煌々と照り付ける蛍光灯の明かりがカーテン越しに桐谷の醜い顔を闇夜に見出だす。普段聞くことのない家庭の会話が静まり返った空間にひっそりと響いていた。夫婦の落ち着いた会話、子供達の泣き声、テレビの音、廊下を歩き軋む音…家庭が織り成す優しく落ち着いた空気が伝わって来る。柿谷は皆の包み隠さない本当の姿が転がっていることに尻の穴を引き締め直した。しかし、肝心の冴子の部屋からはなんの音も聞こえて来ない。それどころか中で動いている形跡すらない。柿谷は携帯電話に映る時計を確認する。

「11時15分か…」

思ったよりも進んでいた時間に安堵を感じながらも張り付くような目でカーテンの向こうに心臓の鼓動を合わせる。しゃがみ込み痺れるふくらはぎを交互に入れ替え、波のように次から次へと押し寄せる便意に耐えていた。しかし、そんなことも苦にならないくらい今の柿谷は冴子、加奈に心酔していた。次々と周りの部屋の蛍光灯が消える中、未だ冴子のアパートの電気はついたままだ。さすがの柿谷にも疲労が溜まってきた次の瞬間、ポッと冴子の部屋の蛍光灯が消える。柿谷は思わず身をかくした。そして、庭木からゆっくり顔をだすと真っ暗なガラスにあらぬ妄想を抱きつづけた。全く人が入った形跡もないし、あろう事か冴子と加奈の話し声すら聞こえてこなかった。普通なら疑った自分を恥じらいそそくさと帰るところだが、柿谷は違った。何故か今晩中に確信がほしかった。冴子が自分を裏切ったという確信が。居てもたっても居られない柿谷はアパートの正面に周り一台一台路駐してある車、駐車場に止めてある車を暗がりの中、見て回った。しかし、どうしても確信が持てなかったし、どうしても一人家に帰ることが出来なかった。浮気していない現場ではなく浮気している現場を押さえたかった。そんな柿谷にある強迫観念が襲い掛かる。

「もう中にいるんじゃ…」

結局その晩、近くの会社の物陰に隠れ寒さを憎悪と興奮で麻痺させながら過ごした。徐々に日が昇り開ける景色とは裏腹に柿谷の目は霞み夜明けを喜ぶ雀の泣き声が頭の中で鳴り響く。もはや今の柿谷には自分の姿が回りに筒抜けになっていることに気づく余裕さえ残っていなかった。一晩中、自分の体を酷使して得たのは元気に幼稚園に向かう加奈とその加奈に付き添う冴子の何一つ代わり映えしない日常の風景だった。そこには昨日思い描いた悪夢は存在しなく…ただ汗くさく髪も髭も汚らしい男が会社にも向かわずひとりトボトボと家路に帰る姿だけだった。帰り道に携帯電話に入ってきた冴子からのメールを素直に信じることが出来なかった。どこか自分を嘲笑っているようで…見下しているようで…だが柿谷はその恥じるべき行動にどこか快楽を得ていた。それから毎晩柿谷は物陰に隠れアパートを監視するようになっていく。もう柿谷には冴子との愛などどうでもよかった。ただ、退屈な日常で感じ得ない新たな欲望を見つけてしまっただけなのだ。長時間野外で薄気味悪い行動をすることに何のストレスも何の違和感も感じなかった。まるで獲物を待伏せる狩人のように一つの欲に神経を研ぎ澄ませる。それは怒りなのか真実を知りたいだけなのか…しかし、その欲が満たされることなく続いたある日、冴子のメールが桐谷の生活をまた一変させることになる。


ーー 妊娠したみたい ーー


この世に耐え兼ねて姿を隠した人間は孤独に耐えかねてまた世に舞い戻る。


「名田さん!これじゃありませんか?」

「んー微妙だな…もっと拡大できないか?」

暗がりの中で名田ともうひとりの新米刑事の武田がモニターに釘付けになっていた。

「もう拡大はできないんですけど…ちょっと進めれば…どうですか?似てません?」

「似てるな…髪も体型も…」

武田の後ろから覗き込む名田は左手に持った冴子の写真とモニターを照らし合わせる。武田ももう一度名田の左手に持った写真とモニターを見比べているとドアをノックする音が響いた。

「はい、どうぞ。」

ぶっきらぼうな名田の声が来客を出迎える。ドアを開けて入ってきたのは東谷だ。

「失礼します。電話で言ってたの本当か?見つかったのか?」

名田は何も言わず東谷をワイシャツを肘までめくりあげた左手で力強く手招きする。東谷は背中を丸めたままそそくさとモニターに近づいていく。

「これか?駅?」

名田は鋭い目つきで東谷の目を凝視し小刻みに頭を震わせる。

「あのアパートから5km離れた駅なんだが…」

「5km?!…で、いつ?」

「柿谷は黙秘を貫いているが赤ん坊の死亡時期と似ている。ただ、当日かどうかはわからない。加奈ちゃんも日時は曖昧だからな。」

東谷は拡大され荒くなった画面上の女性を食い入るようにみつめる。

「これが冴子さん…生きてたんだ…」

粗暴な母親で子供よりも男を取った理性のかけらもない女…いや、ただ柿谷という男を愛しその男が残虐であるがゆえに自らの子を目の前で殺害された被害者なのか?チカチカぼやけたブラウン菅越しにはその真意を確かめることなどできない。ボッとしている東谷を名田と武田は不安そうに見つめていた。それに気づいた東谷は襟を正し咳ばらいする。

「で?これから捜査が始まるのか?」

「ああ。柿谷と女の子の証言だけだと弱いからな。母親がつかまれば間違いない。」

「一体どこに向かってるんだ?」

「んー方角しかわからないが彼女の実家ではなさそうだ。真逆に進んでいるから…知人を頼ったか、それとも全くの新天地に逃げたか。」

「逃げる?」

「まぁ、容疑者でもあるからな。身元がばれにくい夜の世界で生計をたててるか…名前も変えてるかもな。」

「…自分の子を?共犯者?」

「彼女は警察に通報しなかった。もし柿谷の単独犯なら彼女が命からがら逃げてきたとしてもそのあとでどれだけでも通報出来たはず。でも彼女はしなかった。ましてや4才になる愛娘を殺人鬼の元に残して。そんなことありえるか?」

「…柿谷と冴子は共犯で生後間もない赤ん坊を殺害し二人はてんでバラバラに逃走した。しかし、柿谷が罪悪感に耐え切れず自首してきたってことか…でも動機はどうなるんだ?」

「検死で死因は複数箇所の刺し傷による失血死。つまり怨根だ。」

「怨根?生まれて間もない赤ん坊になんの怨みがあるんだよ。」

名田は大きく息をつきながら首を横に振った。名田にぶつけても仕方のない憤りをしまい込むと辺りを不穏な空気が包みだす。

「まぁ…今から各署に情報を流すが時間はかかるだろな。柿谷が捕まったのも知ってるかどうか…」

東谷は腹から力が抜けるように名田を見下ろす。

「あれだけテレビに出れば知ってるだろ。」

「テレビ?」

今まで二人の会話を横で聞くだけだった武田がここぞとばかりに入ってくる。

「名田さんテレビ見ないからですよ。」

名田はポカンと開けた口を二人に交互に見せるように顔を合わせる。

「名田さん…こんな大事件マスコミはほっとかないですよ。」


伸ばし放題の髭を自慢げにさすりながら笑顔で雑談するカメラマンや厳しく尖らせた表情でレンズに訴えかける女性リポーター、携帯電話片手に忙しく動き回るスーツ姿の男。いつもは静かで落ち着きのある住宅街が一変し報道関係者が新田家の前に居座る。周りの迷惑などお構いなし、当事者の生活など知ったことかと言わんばかりの愚行は屍に群がる蛆のように冷酷無慈悲な現実を見せつける。そんな騒々しい雑音をせき止める厚い玄関ドアの向こう側には闇と静寂、そして人の気配すら感じさせないほど冷たく不穏な空気が漂っていた。光りを失ったテレビ、シンクに溜まった食器、跳ねた寝癖に恥じらいもない妙子はキッチンの椅子に、無精髭に覆われる庄吉は居間のソファー、くたびれたぬいぐるみと向かい合う加奈…新田家のなにもかもが生気を失っていた。口を開けば罵り合いの庄吉と妙子達は沈黙という答えを見出だした。堅実に歩んできた二人にとって奈落の底にいることは堪えがたかった。こんなにも外界が妬ましく、あれほど嫌気がさしていた当たり前の生活が如何に不可欠なものだったのか。今の庄吉達にはなにもかもが苛立たしく、責められているようだった。物音一つに敏感な二人だったが独りにだけはなりたくなかった。明日も見えないこの状況に一本の電話が届く。着信音に妙子と庄吉は光るはずもない家電話に目を向ける。悪戯電話、マスコミの執拗な取り立てに電話線を抜いたことを思い出した。着信音に遅れて響くバイブの鈍い音にキャビネットに目を移す。流行から取り残されたシルバーの古びた携帯が空しく光る。庄吉は重い腰を持ち上げると導かれるように携帯を手に取る。相手は公衆電話からかけているらしい。いつもは怪しい電話に出ることのない庄吉だがこの時ばかりは藁にも縋りたい一心で耳に押しあてる。

「はい、もしもし。」

「ザーザー……ザーザー……」

「もしもし?」

受話器の向こうから何やら雑音と無音が入り混じり不気味な空気を感じる。

「もしもし?新田ですが…」

「……ざまあみろ…」

「えっ…」

「ツーツーツーツー」

庄吉は耳についた虫を払うように携帯を離し訳のわからない中傷に身震いさせた。確かに男の声だった。しかも聞き覚えのある声…記憶を辿っていく、そんな昔ではない。どこだろう?そんな遠くではない。あの低い声…誰だ?思い出せない…庄吉は携帯をキャビネットの上に戻すとソファーに再び座り込む。その瞬間、庄吉は未だかつて経験したことのない悪寒に全身が鳥肌で覆われた。思い出した。いや、思い出したんじゃない。無意識に整理された人間関係の中にあの声色をだす人間は庄吉の敵ではなかった。

「…五郎…」

朝、非難にも負けずにいつも通り出勤したはずの五郎は無断欠勤が一ヶ月以上続いているという。庄吉は震える覚束ない手で五郎の携帯を何度も何度も鳴らすが報われることはなかった。意味無名の言葉と身に覚えのない仕打ちに声の主を疑い出した。きっと、只の悪戯電話だ。五郎の声に似ていただけ。この時の庄吉は心に信仰を着せることでしか自分を保つことが出来なかった。


何も隠さずに向き合ってきたつもりが独りよがりの思い込みに他ならなかった。


「俺、子供出来たんだよ…」

庄吉と妙子は後ろから飛んできた唐突な言葉に気づき振りかった。二人は見開いた大きな目と湯呑に唇を半分付けたまま嬉しそうにも困惑したようにも取れる五郎の表情に固まる。

「えっ?誰?」

正直な妙子は頭の中にある言葉をそのまま口に出す。

「ちょ、ちょっと待て…子供!?」

居心地悪そうに頑な表情を崩さないで五郎がボソボソ喋りだした。

「だれって…彼女だよ。」

「あんた彼女なんていたの?全然、家にも連れてこないから…」

間心地悪くソワソワしだす五郎に庄吉が詰めてはいる。

「向こうの親御さんは知ってるのか?妊娠したのいつわかったんだ?」

「え?さっきだよ…さっき電話があって。向こうの親は小さいときに死んだみたいだから…」

「二人ともか?お父さんもお母さんも…」

五郎は静かにうなずく。庄吉は頭の中で整理しながら妙子の方を向く。

「じゃあ、取り合えずその子に会わせて…ていうか連れてきなさい、ウチに。結婚するんでしょ?」

「ああ。まあこれから会いに行って話してくるから。話はそれから…」

「でも結婚するでしょ?子供居るんだから…で、その子は何をしてるの?」

「何をって?」

「仕事よ!」

「ショップの店員だよ。」

「ショップ?なんの?アルバイト?」

頷く五郎を見て二人は顔を合わせる。

「大学は?出てるの?」

「いや。高卒だったかな…」

不穏な表情をする妙子をなだめるように庄吉が笑顔で語りかける。

「まあ、いいじゃないか。そうか、そうか。これから行くんだろ?その子のとこ?まあ、話してこい。話はそれからだ。良かったな!」

庄吉は五郎の肩をポンと叩いた。五郎は顔を隠す様に振り返り携帯電話をポケットに突っ込むと足早に家を後にした。

「ねぇ?大丈夫かしら?」

「ん?」

「両親もいなくて、大学も出てないって…それに家柄も分からないし。」

「んー」

「ねぇ?ホントにちゃんと考えてるの?しかもアルバイトだなんて…」

「まあ、でもしょうがないだろ。デキてしまったんだから。」

「でも今分かったんならまだ間に合う…」

「馬鹿!何言ってんだ?」

「でも…」

妙子は大きくため息をついた。

「大学でとか家柄なんて関係ないだろ?その子がどんな子か。それが一番大事だ。」

恨めしそうな顔で冴子は庄吉を見上げた。視線を振り払う様に庄吉は席を立った。

 数日後、庄吉らは五郎たちの結婚、出産への意志が固まったのを確認すると冴子を家に招き入れた。

「さあどうぞどうぞ。」

愛想良く招き入れる庄吉とは裏腹に冴子の表情は硬く手放しでは喜べない様だった。見慣れない座布団が居間に座卓を挟み二つずつ並び気取った湯呑の受け皿が庄吉らのおもてなしだった。五郎たちが座るのを見計らって静かに庄吉、冴子も腰を下ろす。いつも来客には多弁になる庄吉だが今回ばかりは何かを待っているかのように沈黙の間を設ける。五郎もそんな庄吉に気付きここぞとばかりに一人前の男を演じる。

「こちらに座っているのが坂東冴子さん。」

合わせるように冴子はお辞儀し、庄吉らも遅れて返す。

「坂東冴子と言います。今回は順番が逆になりまして…」

冴子の一瞬の空いた間に生唾を飲み込むと助け舟を出す。

「こちらこそはじめまして…ホントならね、こちらから挨拶に行かないといけないんだけど。冴子さん、お腹の子は?大丈夫?」

妙子は庄吉の優しさに耐えながら平静を取り繕う。

「はい。きのう検診に行ったんですけど…三か月みたいです。」

冴子の小さく高い声が気弱で大人しい印象を与えた。

「そうかそうか。それは何よりだね。確かに順番は逆になっちゃったけど、でも五郎が結婚して父親になることの方が嬉しいんだよ。だから何も気にしなくていい。」

庄吉は同意を求めるように妙子の顔を見る。妙子は鞭打たれた馬の様に笑みを浮かべ話しかける。

「そうよ。順番が逆になっちゃったけど…しょうがないわね。それより冴子さん?ご両親が居ないって聞いたけど?」

「…はい。私が小さいときに離婚して母の手一つで育てられました。その母も私が上京する頃に亡くなってしまって…」

「そうなの…じゃあ親戚関係の方は?」

「いえ、疎遠で…式の方も呼ばないでおこうと思っていまして。」

「じゃあ、冴子さん一人ってこと?」

只でさえ俯き加減で見えるかどうかの顔が全く見えなくなった。

「母さん!」

五郎は妙子を睨みつける。

「ごめんごめん。悪気はないのよ。そうなの…じゃあこれまで逞しく生きてきた…。」

「冴子さん!もう家族と同じだから遠慮せずにね。」

妙子を打ち消す様に庄吉は冴子を労う。庄吉と妙子、そして五郎は共に思い思いの将来を見据えながら冴子に接していく。いずれにしても自分の人生の中で登場する人物が増えることは悪いことではない。時間が経つにつれ否が応にも減っていく人間関係の中で孤独を感じ、再び起きて一歩一歩前進していく。逆に取り分んが減っていくことに対する喪失感が攻撃的にさせる。抑えきれない怒り、憎悪、嫉妬があふれ出し恥じらいもなく相手を罵り快楽を得る。一度得た快楽を人は決して忘れることなどできない。たとえそれが肉親であろうが愛した人であろうが関係ない。あるのは頭の中を支配する恐怖心と自尊心を守るために見境なしに振舞う獣の姿だけだ。


「ほんと愛想ないわよね。」

規則的に聞こえていた爪を切る音が一瞬乱れ止んだ。

「…おい。これからちゃんと仲良くやってかないといかないんだぞ。お前が歩み寄っていかないと…」

「今日どれだけ話しかけたと思う?それなのに…なんかこれさえ言っとけばいいみたいな。本心明かしてないのよ。」

「そりゃそうだろ。冴子さんと会って何回目だ?」

「もう四回会ってるのよ?…五郎が心配だわ。」

「五郎が?なんでた?」

「私にはわかるの。」

「何がわかるんだよ?」

「あなたにはわからないわ。」

俯き考え事をしている妙子を見てため息混じりに首を横に振る。

「頭どうかしてるんじゃないか、お前。」

思い詰めた妙子が急に頭をあげる。

「ねぇ!お腹の子ほんとに五郎の子かしら?あれってdna検査とか言う検査でわかるのよね?」

「馬鹿!何言ってんだ!」

「なによ!なにも知らないくせに!」

呆れ返り力無く立ち上がると妙子を見下ろす。

「お願いだからあの子達に迷惑かけるのだけはやめてくれよ。」

妙子のヒステリーの被害者になった煎餅が轟々たる音で砕かれていく。

「あ~疲れた~」

五郎は新居のソファーになだれ込んだ。周りにはまだ空けていない段ボールがぎっしりと並んでいる。冴子は後ろからゆっくりフローリングに座り込む。

「冴子、こっち来て座れよ。お腹冷えるよ。」

「うん…」

冴子は6か月にもなるボッコリとしたお腹を左手で抱えながら右手で携帯をいじっている。

「疲れた?旦那の実家って…嫌なもん?」

「…どうしたの?そんなことないよ。」

冴子は素っ気なく変わらず携帯をいじっている。五郎は悪戯心と嫉妬心から冴子の後ろに回り込み覗き込んだ。

「ちょっと!やめてくれない!」

別人のような冴子の形相に五郎はなにも言えなかった。心臓を引っこ抜かれた五郎はその場で膝をついたまま情けなく固まる。

「ど、どうしたんだよ。ちょっと見ただけだろ?」

「五郎に全部みせないとダメなの?夫婦って全部さらけ出さないとダメなの?」

「なんなんだよ。隠し事でもあるのかよ。」

「そんなんじゃない。でも全部見せるのは正直しんどい…五郎は?そう思わない?」

「俺はそう思わない。結婚するんだよ?隠し事して一生暮らすことなんてできるのか?冴子こそどうなんだよ。そんな夫婦になりたいか?仮面で取り繕ってそれで救われるか?」

「本心さらけ出し合ったって幸せになんてなれないよ…」

「なに言ってんだよ!俺はお前を愛してるし生まれて来る子だって…」

「そんなんじゃない!そんなこと言ってるんじゃない!」

冴子は五郎を振り払いドアを打ち破るように別室に消えていく。静まり返る室内に五郎の鼓動と冷蔵庫のフィルターの音だけが鳴り響いていた。五郎はゆっくりと腰をあげ冴子のいる部屋のドアの前に立つ。

「さ、冴子。どうしちゃったんだよ…なぁ…冴子?」

五郎は冴子に言われた言葉がまったく理解出来なかった。良き夫、良き父親を目指す自分を愛してくれると信じて疑わなかった冴子の心が分からなくなってしまった。

幸せになれない?…なんでだよ?なんでそんなこと言うんだよ。もうどうしたらいいか、なんて言葉をかけたらいいか…わからない、考えても考えても似たような答えしか出てこない。結婚ってなんなんだ?…周りの奴らがよく話してるありきたりの問いを今まで対岸の火事のように邪険に扱ってきた。自分には関係のない…考えても始まらないテーマをクヨクヨ悩んでる奴らを軽蔑してきた。自分を磨くことすら怠けてる連中がストレス発散にゴチャゴチャ音を出し騒いでる。それが世の中を曲げて見せる元凶であると思ってた。でも違ったんだ…どんなに努力しても覆らない自然の摂理が確かに存在していて解決することも逃げることも到底出来なかったんだ。それこそゴチャゴチャ音を出して自分を紛らわすことが精一杯なんだ。むしろ自分を磨くことはそうやってみんなで愚痴を言い合って、聞き合って自分の糧にして行くことなんだってはじめて気づいた。

翌朝、起きてきた冴子はいつも通りの元気な様子をみせてくれた。特に昨日の過ちを咎める訳でもなく、五郎との距離を置く訳でもない。只、いつも以上にいつも通り振る舞う冴子に昨日の話題を振ることもできず五郎もまたいつも通り振る舞う。 作り物の生活の中に身をおくことに違和感と気まずさを感じながらも突き詰め本心をさらけ出すことが破壊に繋がることを悟る。夫婦にも秘密が必要なんて言葉を信じたくなかったがどうやらホントらしい。決して打ち明けることのできない、分かち合うことの出来ないモノも確かに存在する。でも、そんな大人にはなれなかった…そんな生活を死ぬまで続けることなど無意味だ。冴子の携帯が鳴るたびに動揺する自分、冴子がお風呂に入っている間に襲って来る悪魔を抑えることは出来なかった。弱かった。ある日、冴子の携帯を見ることに決めた。冴子が浴室のドアをスライドさせる音に耳を済ませると寝室に置いてあるバッグに忍び足で近づいていく。呼吸も忘れるくらい音も立てず中身を仕分けていく。化粧品、手帳、ガム、鏡、お菓子…たく、女って奴はこの鞄を持って山にでも登るつもりなのか?その中に緑ランプの点滅が目に入る。あれだけ苦しめた携帯が自分の掌に乗っかっている。感傷に浸っている時間はない。急がないと冴子が浴室から上がってきてなにもかもぶち壊しになる。慎重に焦やりながら二つ折りの携帯電話をこじ開けた。画面上を横歩きする愉快なキャラクターに罪悪感を感じながらメール受信箱を開いた。新規のメールかもう三件も入って五郎の疑心に拍車をかける。一件は女性、一件はスパム、そして最後の一件は男の名前。画面をスクロールして行くうちに移る画面がその男の名前一色に変わっていくのを見て、五郎の疑心が確信に変わっていく。

ーー今の生活サイテー、ホント地獄だわ。ーー

ーーたく、あのババアと一緒になんていれないわ。ーー

震える手の上で発光する四角い物体が放つ誹謗中傷の嵐に五郎は打ちのめされる。五郎は携帯電話をバックに戻すと真っ白な頭を抱え、感覚が鈍り異世界の足を突っ込んだことを悟る。全身の力が抜けソファーに倒れ込む。よくある話しなのかも知れない、我慢するべき問題なのかも知れない…五郎の決心が定まらないうちに冴子がバスタオル片手にリビングに戻ってきた。心なしか冴子の表情が曇っているように見える。バレたか?なぜか守りに入っている自分に気づいた。明らかに非がある冴子に強気になれない。今あるこの関係を壊すことなんて本当に出来るんだろうか?人間関係に乏しい自分に冴子を逃したらこの先ずっと結婚なんて出来ないかもしれない。ましてや冴子のお腹にはもうひとつの新しい命が宿っている。子供のためにも…?、ホントに子供のためなんかだろうか?自衛心と偽善が入り混じり自分の都合のいい選択肢に美化着色を付け加える。

「あのさ今度、どっか行きたいとこある?」

「別に…どうしたの急に?」

「いや、じゃあなんか欲しいモノってある?ほら記念日的なこと何もしてないからさ…」

「別にないよ。それにこれからお金かかるんだから。無理にお金使うことないよ。」

「そっか、そうだよな、これからだもんな…じゃあお休み。」

「おやすみ…」

布団に包まった五郎の目は血走り、興奮した全身の筋肉が眠気を寄せつけない。その夜一睡も出来なかった五郎の怒りの矛先は冴子ではなく、妙子に向かっていた。ほとんど喧嘩すらしたことのない五郎と冴子の間にはなんの障壁もない。妙子の姑面が五郎達の歯車を狂わせている。実の母親がひとりの女に見えてきた。差別にも近い目で剪定する妙子が冴子を悪女に走らせている。そう思えて仕方なかった。

翌朝、五郎は会社に行く前に実家に立ち寄った。眉間にシワを寄せた妙子が出迎える。濁った表情から出てくる労いの言葉に潤されることなく、気づけば噛み付くような目つきで妙子を見ていた。

「どうした、五郎?会社は?」

「あぁ、今からなんだけど…冴子とうまくやってくれよ。」

「どうしたの?まさか冴子さんになんか言われたの?」

「いや、そんなんじゃないって!あんたがそういうこと言うからおかしくなるんだろ?勘弁してくれよ!」

玄関先で声を荒げる五郎の元に庄吉が口に朝御飯をいれたまま駆け寄って来る。

「なんやなんや?どうした?」

「冴子と母さんがうまくいってないから…」

庄吉は言い付けを守れなかった子供を咎めるような眼差しで見つめ耐え切れない妙子は俯き顔をそらす。

「冴子さん何か言ってるのか?」

妻になる人の携帯を覗き見て他の男にメールで愚痴っていたなど言えるはずもない五郎は濁らせながら都合のいい言葉を並べていく。

「冴子はなにもいってないけど…まあなんというかその…空気が悪いって言うか…」

「なにもいってない?」

「まあいいんだよ!とにかく、母さん!冴子とうまくやってくれよ!母さんの時代と違うんだから!」

「違うって…なにが違うの?母さん別に冴子さんをいじめてなんてないわよ。」

「まあ…もう仕事行かないといけないから。そんなことばっか考えていられないんだよ。結婚式も出産もあるんだから。」

五郎は苛立ちと恥じらいで冷静にはいられない様子でドアに右肩をぶつけながら出て行った。妙子はため息混じりに肩を落とす庄吉を残し逃げるようにキッチンに消えていく。シンクの前で両手をつきうなだれる妙子は小刻みに震えていた。


「携帯なってるよ?」

身重の冴子に変わりフライパンを振るっていた五郎は冴子が差し出した携帯に気づく。

「誰から?」

「お義父さん…」

「あー、じゃあ後からかけ直すからそこ置いといて。」

「えっ、今すぐ出てよ…」

「なんで?今手がふさがってるから…」

眉間にシワを寄せた冴子の危機迫る表情に出かけた言葉を押し戻す。水滴をのせた手で泣きわめく駄々っ子を受け取った。

「はい…どうしたの?」

「おお、五郎か?今大丈夫か?」

「うん…で?なに?」

「いや…結婚式も大変だろ?」

「うんそうだけど…急がない話なら…」

「あ、あのな…母さんを悲しませることするな。」

いつもの声色とは違う庄吉に五郎にも緊張感が伝わってきたが何事もなかったように振る舞う。

「なに?どういうこと?」

「母さんも悩んでるんだ。」

「そんなこと言ったってさ!…」

受話器越しの世界に入り込み冴子の存在を忘れていた五郎だが咄嗟に小声でリビングを後にする。

「もしもし?もしもし?あのさ、そんなこと言ったって俺だって板挟みになってるんだよ!勘弁してくれよ!」

「母さんが悩んでるからな…」

「俺だって悩んでんだよ!」

「まぁ、そういうことだから…」

「どういうことなんだよ!」

「じゃあな。結婚式がんばれよ。」

一方的に切られた携帯電話を睨みつけると興奮気味にリビングに戻った。リビングのドアを開けると冴子が心配そうに立っている。

「どうしたの?大丈夫?」

安っぽい作り笑いがバレる前に冴子の横をすり抜けた。

「いいんじゃない?お母さんにはお父さんがついてるんだから。」

聞き取れなかったような表情を繕いゆっくりと振り向く。

「お母さんはお父さんが守ってくれる。でもわたしは?五郎が守ってくれないと誰が守ってくれるの?」

冴子の目の周りはいつのまにか赤くなり鼻を啜る音が五郎の胸を熱くする。

「ど、どうしたんだよ…」

五郎は冴子が何を意図しているかわかっていたが敢えて気づかないふりをした。だがそんな五郎を冴子は許さなかった。無言で張り詰めた気まずい空気を五郎に味あわすかのようにチープな慰めに対して無関心を貫く。

「俺が冴子を守るから…そんなん、当たり前だろ?」

中立な八方美人なんて甘い考えは許されない。人の感情はそんな割り切れるもんじゃない。俺はこの時初めて単純に生きることに決めた。冴子が殴れといえば殴るし、嫌いと言われればその嫌いな友人関係も疎遠になっていった。言いなりの甲斐のないダメ夫だ。ただ、そこから夫婦関係は良くなった。常に外部に敵をつくり悪口を言い合う…ダメだと知りながら、しかしそれ以外に方法がない。自分の母親も例外ではない。いつしか、両親と俺達に溝が深まり大人の関係になっていく。一緒な空間にじっといれない大人の関係…相手が何を考えているか、腹を割って話せない。そんなもんなんだろうか?でも、俺は決めたんだ。妻を守る、母親なんだからわかるだろう。我が子の将来に妻は欠かせない…自分らだってそうじゃないか。祖父母とよく争って自分達の意見を曲げなかったじゃないか。それと同じだよ…俺たちだって曲げられないものがある。五郎と冴子に新たな絆が生まれた…互いに敵から守り合う。それが例え肉親であっても、出来た絆に違いない。

「まだきてないの?五郎には前もって何回も連絡してたんだけど。」

「ああ、もう一回連絡してみるか。」

庄吉が携帯電話を片手に老眼を気遣うように目を細めた瞬間玄関の引き戸が鳴った。

「あっ!来たわ!」

両手に鞄をぶら下げた五郎が礼服に身を包み狭く開いたドアからすり抜けるように入ってくる。

「五郎!遅いじゃないの!もうお坊さんみえてるのよ!」

「ごめんごめん、道込んでてさ。それに、途中で一回戻ったんだよ。」

「もどった?なんで?」

そんな五郎と妙子の後ろから両手で生まれて間もない加奈を抱えた冴子が頭を下げて入ってくる。

「すいません。法事遅れてしまって…」

「あら、冴子さん。…加奈ちゃん?あら、寝てるわね。暑いでしょ?ほら入って!入って!」

「すいません。」

靴を揃えて上がり框に後ろ向きで足をかける冴子を見守る五郎は加奈が落ちないか心配で両手を広げて傍に立っていた。

「五郎?!なにしてる?」

庄吉が不思議そうな顔で爪楊枝片手に立っていた。

「いや、冴子が躓くといけないからさ…」

「ハハハ、お前も心配症だな。どれどれ。」

庄吉が冴子の胸に眠る加奈を覗き込む。

「加奈ちゃん?眠いのかな?ハハハ」

「親父飲んでるだろ?」

「ハハハ、お前も飲むか?」

五郎は軽蔑するような目で庄吉を見下ろすと居間に消えていく。愛想笑いする冴子は五郎の背中を追いかけようとするが酔っ払った庄吉が行く手を阻む。

「お義父さん、すいません。法事のほうに遅れてしまって。」

「あーいいんだよ。もう始まってるから。お坊さんに読んで貰ってみんなご馳走食べたら満足なんだから。」

脳天気な庄吉にほっとする冴子をよそに仏壇間では親族が集まり坊さんの低い声が響き渡る。最前列に滑り込んだ妙子と五郎の隣の座布団は空のまま、遠くからわざわざ来ていただいた遠戚の方に失礼ないようホストとしての勤めを果たす。慣れない正座に悪戦苦闘しながらもいつ終わるやもしれない異国の音に耳を傾ける。頻りに庄吉の居所を探すように妙子は辺りを周囲にばれないように見回す。そんな苛立ち落ち着かない妙子を肌で感じながら五郎もまた酔っ払いの庄吉に苛立ちを隠せなかった。そんな庄吉は後ろの方で冴子と加奈に絡んで離れない。よほど孫が可愛いのか目尻に寄せたシワが消えることはなかった。そんな庄吉に気づいてかどうか…結局、庄吉がホスト席に戻ることなくメインのお経がお開きになる。待ってましたと言わんばかりに親類関係に加奈を自慢して回る庄吉はまるでおもちゃを買い与えられた小学生のようにおどけて見せた。いつもは堅苦しい表情を崩さない庄吉のギャップに皆、子を宥める親のように優しく包み込む。お坊さんも呆れ笑いを浮かべながら見守る和やかな雰囲気だがそんな茶番じゃおさまらないほど煮えたぎった腹を抱えた妙子が息も絶え絶えに拳を握りしめ睨みつける。世間体と本能が摩擦しあう中、妙子はもう理性を保つことが出来ない。ドタドタ足音を鳴らすと庄吉のワイシャツを後ろから鷲掴みにし廊下に引きずり出した。なにが起こったかわからないまま妙子の怒鳴り声が轟く。

「しっかりしなさいよ!」

度肝を抜かれた庄吉は体裁と混乱の中、必死に自分を取り留めようとする。

「なんや!…あたま大丈夫か!」

「なんやじゃないわよ!しっかりしなさいって言ってるの!」

潮が引いたように静まり返る群集からひとりの女性が飛び出して来る。

「妙子さん!どうしたの?!」

仲裁に入ったその女性は妙子と庄吉を引き離すと妙子の背中を摩りながら奥の部屋まで連れ添って行った。残されて面子丸つぶれの庄吉は痒くもない頭をかきながら引き攣った苦笑いを浮かべる。選択肢のない群集は死よりも怖い沈黙をぎこちない笑い声で乗り切る。そんな群集の中、冴子だけ頑な表情を崩さなかった。落ち着かない様子で周囲を気にする冴子に五郎が気づき居間の方へ手招きする。

「お義母さん大丈夫?」

「ああ、なにイライラしてんだか…」

静かな居間から興奮した 妙子の声が隣の部屋越しに聞こえて来る。知らぬ間に耳を澄ます二人のところに張本人が花瓶を割ったような顔で近づいてきた。

「なんかごめんな…どうなったんだろうな、アイツ…」

「親父が酒飲んでヘラヘラしてるからだろ?」

「そんなこと言ったってたまの休みだからなー」

「知らんよ。でも怒ってんだから。」

「ハハハ」

「ハハハじゃないよ。」

五郎と庄吉の他愛のない呑気な会話が冴子を和ませる。

「お義父さん!ちゃんと謝ってくださいよ!」

緩んだ表情を無理やり締め直した不自然な真顔で冴子が庄吉を諭す。台風の目のように嵐の中で訪れた一瞬の安堵に何故か笑ってしまった五郎も後押しする。

「冴子が気つかってるだろ。もう、知らないからな。」

子供二人に詰られた庄吉が小さくなっているのがおかしくて堪らなかった。中々、庄吉が行動しないのに痺れを切らし一瞬五郎が後ろを振り返った。いつからだろう…妙子がこっちを向いている。これまでみたことのない凍てつくような目…母親である妙子は同時に嫉妬に狂った一人の女でもあった。妙子は声をかけることもなく廊下を一人真っすぐ進み親類が待つ宴に戻った。まるで何事もなかったかのように振る舞う妙子の笑い声は怒りを発散させるかのように大きく尖っていた。円を囲むように突っ立った三人の背中に突き刺さる妙子の大声は思考回路を破壊する。当て付けのような笑い声には当て付けのような笑い声を返す。三人は面白くもない話しに取ってつけたような笑い声を添える。それは次第に大きくなり部屋中を、いや家中を巻き込んだ。殺気立つ異様な空間を包むのは幸せの象徴…笑声だった。隣の小さな笑いは更に大きな笑いになり、大きな笑いは誰しもの理性を奪うほどの爆声に成長する。既存の人間関係をぶち壊すほどの、新規人間関係を構築するぼとの力がそこにある。新田家の場合、それが最悪な方向へ転がり込む。今まで守ってきた慣習の創造物が更地になり行き場を失った亡霊が新たな創造物を模索する。


「頭おかしんじゃないの?」

ゲームコントローラーを両手で包みながら画面に夢中になっている五郎が目をまん丸にして声の主冴子の方を見る。

「なにが?」

「なにが?って(笑)…本気で言ってるの?それよ!あんたが今やってること!一日中そんな事ばっかりして何考えてるの?」

「なにって…なんも…休みなんだからいいだろ?仕事ちゃんとしてるんだから!」

冴子は呆れた様子で肩で興奮した鼻息を押すと両手を腰に当てどこから手を付けようか尻ごんでいるようだった。

「仕事してればいいわけ?」

さすがの五郎も頭にきた。

「なんだよ?お金ないと生活できないだろ?それにこれから加奈の」

「仕事って大事だろ?」

「稼いできてやってるってこと?最低…」

「そういう意味じゃないだろ!でも平日 遅くまで働いて休日の過ごし方までとやかく言われたくないんだよ!」

「もういい…」

冴子はなにか決心したように加奈の眠る寝室まで行くと何やらゴソゴソしだした。嫌な予感に五郎は寝室まで滑るフローリングに足を取られながら急いだ。

「なにやってんだ?」

五郎が声をかけたときにはショルダーバッグを肩にかけベビーベッドに眠る加奈を抱き抱えているところだった。冴子は眠ったままの加奈を左胸に抱くと五郎の横をすり抜ける。

「冴子…」

加奈の前で大声を出すことなんて出来ない五郎は蚊の泣くような声で冴子を呼び止めようとするが一切の沈黙を貫く冴子に届くことはなかった。一人残された五郎は玄関ドアの前で冴子の残像に目を奪われ一歩も動くことができない。嫌でも高鳴る鼓動の中で冴子に浴びせた言葉を思い返す。そしてなにひとつ間違ったことを言っていないと確信した瞬間、絶望感にうちひしがれる。

「なにが間違ってたんだ…」

その夜、冴子が戻ることはなくそれどころか連絡すらつかなかった。居ても立っても居られない五郎が闇雲に走り回ろうが功を奏するはずもなく眠れぬ一夜を過ごした。妻、娘のいない我が家は堪えがたいほどの静けさで独身時代には味わったことのない孤独が襲い掛かる。震える体の中は空虚感で充たされ自身の存在すら感じることが出来なかった。未だ温もりが残る寝室で喪失感に拍車をかけるよりもリビングの硬いソファーで身を戒めた方がまだマシだった。暗闇の中、頭に浮かんで来るのは冴子・加奈の笑顔ばかり…

「なんだよ…ふざけんな。俺はひとりでも生きてけるんだよ。」

五郎は携帯電話でアダルトサイトを開くと右手でゆっくり股間を摩りだした。いつもは消音で押さえ込んだ欲望を解き放つ。今の五郎の行動を非難する理由などどこにもない。でもどうしたんだろう?全く機能しない…男の嗜好でもあるその行為が出来なくなっていた。惨めで情けないその行為を行えるほど今の自分の地位は高くない。妻、娘に出ていかれ独り身になったいい歳した惨めな男がそんな惨めな行為を出来る余裕などない。その瞬間、五郎は悟った。冴子の言っていた意味…今まで自分は結婚し娘を設けたことに安堵していた。それで満足感を得ていたんだ。冴子・加奈が去った今、自分に残ったものはなにひとつない。残ったものどころかこれから先、なにを目標に生きていくか…検討もつかなかった。人付き合いも良くない無趣味の自分に妻と娘はそのあとの人生の全てだ。

「それが愛だろ?マイホー厶パパのなにが悪い…」

五郎は自分に言い聞かすように言葉を発しながらそれが偽りであると隠し思っていた。自分は結婚に逃げたんだ、煩わしい競争社会の人間関係で自分の存在価値が希薄化したことに焦り「夫、父親」という博をつけた。結婚を道具のように扱い、ひとりで金銭の安定を求め、幸せに近づいたことに自己満足していた。それが自分の幸せで冴子の幸せではなかった。過ちに気づいた瞬間、いや心の奥底に隠した真実を受け入れた瞬間、怒涛の睡魔が襲って来る。五郎は硬いソファーの上で落ちるように今夜の葛藤に幕を閉じた。

 翌朝、昨日の続きのような重怠い体を持ち上げ深いため息をつき頭を抱える。頼みの綱の着信履歴は更新されず、世界から切り離された被害妄想が肥大していく。五郎は取り憑かれたように冴子の携帯を鳴らす。不通を知らせる女性の声色が五郎の焦燥感を逆立てた。後ろ髪を引かれる思いで出社し、一日中鳴ることのない携帯のバイブレーションを太股で感じる。合間を見つけてはトイレに篭り冴子の携帯に電話をかけつづけた。仕事のことが全く手につかない状態で定時の5時を迎えるのは簡単な事ではない。秒針の号令と共に逃げるように退社し家路を急ぐ。帰ってきてるだろう…自宅へ直行し流行る気持ちと父親として夫としての体面でブレーキをかけながら小走りとも早歩きともとれる速度でマンション廊下を突き抜け玄関ドアを開ける。夕方過ぎの薄暗い室内から明かりがこぼれてきた。ホッと胸を撫で下ろした五郎の顔つきはほら見たことかといわんばかりの一家の主としての形相を取り戻しゆっくりとスリッパに足を通す。動揺を必死に押さえ込んだ顔で居間に入った瞬間、独りよがりの誇大妄想であることに膝を砕かれた。今朝と全く手付かずの空間にただの消し忘れであったことに気づく。馬鹿らしい自分の行いに気の抜けた笑い声が細高く鳴り響き気の抜けたコーラのようになんの存在意義のない五郎はソファーにへたり込む。ソファーの上辺に首筋をもたれ灰色の瞳で真っ白な天井を見上げる。鳴る気配のない携帯に必要とされていない自分の希薄化を感じながらもどこか自分に対する愛情を捨てきれずにいた。全てが停止した部屋の中で時計の針音だけがいつもと変わらず規則正しく時を刻んでいた。そんな針音に浸りかけたとき静寂を撃ち破るけたたましい単音が鳴り響いた。息が止まるほどの早さで携帯を手に取り画面に写る着信相手の名前に興奮した。

「冴子か!どこにいる?」

受話器越しに加奈の耳につく泣き声が聞こえて来る。余裕のなさを感じさせる早口と苛立ちの気張った冴子の声に我を忘れ激昂する。

「なに考えてんだ!そんな小さい子を抱えて!一体どこにいる?そんなことしなくても解決する方法は一杯あるだろ!もう子供みたいなことするのはやめろ!」

突き放す勇気などない癖にしがみつくようなことは出来ないというこの期に及んでまだ男として父親としてのプライドに賭ける。

「子供はそっちでしょ?別にかけ直さなくてもどっちでも良かったんだけど…着歴尋常じゃなかったから…」

五郎の訴えが全く響かない冴子の態度に最悪の事態が脳裏を過ぎる。

「で…どうしたいんだよ、お前は。」

「とにかく…しばらくは帰らないから。」

「別れるってことか?」

「うーん、まだそこまではわからないけど。」

落ち着き放った冴子に焦燥感に駆られ五郎はすべてのプライドを捨てた。

「た…たのむよ、冴子。帰ってきてくれよ…お前なしじゃ、加奈なしじゃ何のために生きてんのかわからないんだよ…なにか嫌なことあるんだったら直すからなんでも言ってくれよ!たのむよ…」

五郎の真の訴えに動じたのかどうなのか、手に汗握る携帯の受話口からは雑音しか流れてこない。

「…無理。」

「なにが無理なんだよ!勘弁してくれよ!…加奈はどうすんだ?父親のいない不幸な子にする気か?」

「私はそう思わない。仲の悪い夫婦なら離婚した方が子供にもいいと思ってる。」

「仲悪い夫婦って…みんなそんなもんだろ?好きで一緒にいる訳じゃなくなってくるんだから。お前も大人になれよ!」

「あんたこそ…もう無理だから。」

「なにに怒ってるんだよ。お前より大変な嫁さんはいくらでもいるんだから。何が不満なんだ!」

「自分に聞いてみれば?じゃあね…」

「おい!まて!」

一方的に切られた電話に腹が立ち携帯を投げつけ、両手で頭を抱え込む。

「マジかよ…離婚かよ…俺がなにしたって言うんだよ。」

それから一切冴子から連絡がくることはなかった。数少ない共通の女友達に居場所を聞いてみるが教えられないらしい。皆頑なに口を拒む。友人というより部下なんだろうか?冴子は女性の中でそれほどまでに力を持っていたのか?でもそんな綺麗事で諦めるなどその時の五郎には出来なかった。なりふり構わず頭を下げつづけなんとか一人の友人と食事ところまでこぎつけた。何かに恐れるように承諾してくれたのは冴子と1番仲の良かった翔子。二人は高校からの同級生で五郎とは結婚式で初めて知り合った。この子もまた活発な子で今も夢を追い書道家への道を脇目も振らず突き進んでいる。容姿端麗で色白のモデルさんのような男にとっては高嶺の花のような存在で五郎も冴子の友達でなければ一緒に食事になど行くことが出来ない。

子洒落たカフェに落ち着かない様子でコーヒーを啜る五郎は自分の世界と現実を行ったり来たりしていた。30秒置きに玄関ドアの方向を見る。ハイヒールをうち鳴らす音がすれば不整脈をひとつ足すくらいの心臓に悪い時間を過ごす。辺りを気にばかりしていると一組のカップルの話し声が聞こえて来る。

「ハハハ!へぇーじゃあその時タクは?」

「えっ?それがさシンジの浮気相手の相手するのに冷や汗もん!シンジは彼女追っかけて店出ていくし、浮気相手の子は泣き崩れてるし。なんかまったく知らなかったらしいんだよ。」

「シンジ君に彼女いること?…ハハハ」

五郎は今時のチャラチャラした若者が大嫌いだった。浮気で別れまた復縁して友達を裏切り…動物のようになんの道徳も倫理観もなくただ欲望の向くままに生きる子達を軽蔑していた。ボッーと自分の若い頃を思い描いていた。なんの取り柄も友達も少ない暗い過去…無難に真面目になんの反抗もせずに歩いてきたありきたりな軌跡に疑問を持ち出す。冴子に怒っているんだろうか?冴子が自分の人生から居なくなったって冴子の責任なんだろうか?離婚なんて今の夫婦にはザラにおこりえるし、なにも五郎達にだけおこったもんじゃない。自分の人生を終わらせるだけのことなんだろうか…

「ごめん!五郎さん待った?」

五郎が現実世界に戻った時、そこにはもう翔子が申し訳なさそうな顔で屈んでいた。翔子は結婚式の時と変わらず綺麗であの時から見ればちょっと大人びた雰囲気を醸し出し待ち行くイイ女になっていた。

「いやいや、こちらこそ。ごめんね!忙しかったんじゃないの?」

「全然!今も全然仕事ないの…前よりはマシだけど(笑)」

「なにか頼もうか?コーヒー?」

「うん、ありがとう。」

五郎は震えた手でメニューを下ろすと引き攣った笑顔でチラチラと翔子を見る。五郎とは対照的に翔子は落ち着き払いバッグの中身から手慣れた様子で手鏡を取り出す。アイラインと口紅を色んな角度で確認する仕草に魅とれてる自分を戒めるように二、三回首を振る。

「ホントに久しぶりだね…今も書道の方頑張ってる?」

「うん、そうねーん…それしかできないしね(笑)」

「いや、すごいね。まだ夢追いつづけてるんだから。それで…」

「冴子のことだよね?」

翔子の五郎を見る目つきが鋭さを増す。そんな目つきに後押しされるように五郎が胸の奥の突っ掛かり物を押し出す。

「うん、そうなんだよ…最近連絡あった?」

「あの…今会ってることも、今から話すこともなかったことにして欲しい。冴子とはずっと仲良くやってきたし…今もそうなんだけど…」

「それは約束する。絶対に誰にも話さない。」

翔子は小さく頷くと喉元に手を当て唾を飲みこんだ。

「でも、冴子は責めないでほしい。冴子は五郎さんとの結婚生活ですごい悩んでた。べ、別に五郎さんを責めてる訳じゃないの。結婚自体に悩んでた…なんか一回すごい剣幕で電話して来たことがあって。言いにくいんだけど…五郎さんのお父さんのこと…」

「…おやじ?えっ?」

突飛な人物に想像とのギャップが埋まらないまま耳鳴りする使い物にならない耳を傾けるしかなかった。

翔子はアイコンタクトをとるように五郎の目をじっと見つめ深く頷く。

「なんか…五郎さんのお父さん…別れてくれって…」

「は?」

思いがけずに出た恥ずかしいほどの大声に動じることもなく五郎はただ頭の中にある想いを並べていく。

「ど、どういうこと?おやじが?俺の親父?…どういうことだよ…」

「五郎さん達って出来ちゃった婚じゃない?…それで…」

「えっ?そうだけど…それがどうして?」

「私も冴子から聞いた時驚いたの…意味がわからなかった。今でもわからない…」

五郎は固唾を飲み翔子を見守り、翔子は逃げるように視線をそらす。

「順番が違うって…」

長文を待っていた五郎はあまりにも少ない単語に拍子抜けする。

「えっ?それだけ?」

翔子は黙って頷く。五郎は背もたれによしかかると天井を見上げ固まる。

「冴子必死に我慢してたみたい。冴子言ってたよ…怖い、怖いって…」

生気の抜けた五郎は顔だけ声の方向に向ける。

「結婚してすぐに言われたみたい。私もなんて声かけたらいいかわからなかった。本当は冴子の電話も出たくなかったの。独身の私には何の助けも気持ちもわからなかったし…ただ冴子の話をうん、うんって聞いてあげるだげ…」

「親父は賛成してたんだ…おふくろは反対してたけど親父は笑って…ただの一言も悪態なんてついたことなかった。なんで?結婚式場だって親父の知り合いのとこを…いつも笑って俺達を見守ってくれてたんだ…」

そのあと無言のテーブルに雑踏のbgmが焦りと不安と、そして混濁をより一層引き立てていった。まるで二日酔いで迎える朝のように身動きする理由が見つからず、ただその場で時間をやり過ごすよりほかになかった。


ダークブラウンの本棚に並べられた法律関連書、デスクの上には万年筆、シャープペン、ボールペンが役割事に規則的に並べられポストイットで彩られた書類の数々はアートにすら感じさせる。塵ひとつない不気味なほど整頓された室内は静まり返り全てが統制されている。そんな化石のような部屋のドアが静かに開く。廊下で室内のスリッパに履き替えゆっくりとデスクに向かっていく。過ぎ行く全ての物が定位置でそれぞれの役割を果たしていることに支配欲を感じながらゆっくりと高級感溢れる皮張りの椅子に腰掛ける。まるで一国の王が限られた者しか座ることの出来ない特別な椅子に身を置くように優雅にそして誇らしく。庄吉は至福の時間を味わいながらポケットからタバコ、ライター、携帯電話を取り出し縦横均一間隔に置いていく。静かで全てが意のままの空間では呼吸すらおこがましい。目を閉じ胸郭を目立たせぬよう口閉じ鼻で冷めた気体を温め吐き出す。しかし、幻想に浸れる時間は長続きしない。けたたましく廊下を走る音が鳴ったと思うと勢いよくドアが開く。ドアが開いた風圧でデスクに置かれたメモ用紙がズレ、ポストイットが右床に落ちた。こめかみに血管を浮かべながら笑繕いする。

「どうした、五郎?そんなに息切らして。」

「どうしたって…どうしたじゃねぇよ。こっちが聞きたいんだよ。」

「どうした?そんな興奮して…まぁそこに座りなさい。」

庄吉のデスクの前にある応接用ソファーに五郎を促すがそれ所ではない。五郎は庄吉を睨みつけ息も絶え絶えに傷つけられた自尊心を取り戻そうとしていた。

「冴子に別れろって言ったんだろ?なんでだよ?」

狐につままれたような顔で白々しく五郎に伺立てる。

「別れろ?それはどういう…まぁここに座れよ。」

五郎の肩に伸ばした庄吉の手を振り払う。

「知ってんだから話せよ。前から思ってたんだよ。俺をいつまで子供扱いすんだ。俺のいないとこでコソコソ話し進めやがって!どういうことだよ!話せよ!」

庄吉は大きくため息をつくと自らソファーにどっぷりと浸かる。

「そうだ…冴子さんに別れて欲しいって言った。それは事実だ。でも良かったって思ってる。」

「息子か離婚して良かった?そんな言葉どこの親がぬかすんだよ。順番が違うってなんだよ…」

「父さんな…お前から子供が出来たって聞いたとき嬉しかったんだ。それに嘘はない。だから結婚式の費用も喜んで出した。」

「ならいいじゃねぇかよ。なにがだめなんだよ。」

「ただ…順番が違うんだよ、順番が…物事には慣習がある。先代から引き継いだこの家にも、近所、親戚との付き合いにも昔から守られている掟だよ。それをお前達は破ったんだ。」

「できちゃった婚なんて今どこにでもあるじゃねぇかよ。」

「歪みって奴は最初わからなくても結婚生活の中で段々に大きくなっていくもんだ。冴子さんは出産して加奈は今元気に成長している。もう父さんの役目は終わった。五郎…今度はこの家の後を継ぐお前を支えてくれる人を探しなさい。」

「なにわけわかんないこと言ってんだよ…お前のせいでめちゃくちゃな目にあってんだよ!絶対に冴子を取り戻すから…もう俺のことにはかまわないでくれ。」

振り向き出ていこうとする五郎を庄吉は呼び止めるが振り払うように部屋を後にする。

「五郎!順番だぞ!順番!」


あれから三ヶ月…

冴子とは先月正式に離婚が決まった。喪失感の中で生きる屍にほかならない自分の体に鞭打ち会社にだけはなんとか行っていた。他の女性を考える気力もなくただ過ぎていく途方もない時間に死の恐怖すら感じさせる。このままじゃダメだと思いネットを通じて色んなサークル活動を知った。フットサル、バンド、cleanビーチ…みんなプライベートの時間を有意義に過ごしている。どの写真も笑顔で楽しそうで活気溢れてる。そんな写真を見る度に自分が哀れで仕方なかった。自分は誰からも必要とされてなくて誰ともうまくやれない。仕事ではそこそこの人間関係は出来るが職場を離れればからっきし駄目だった。自宅に引きこもり自分の部屋から出ることも嫌になった。三十を過ぎて仕事しかしない生き方に自分の存在を考える。なぜ生まれて来たんだろう?そんな途方もない悩み事を抱えた自分の目に写る親父の笑顔をどうしても許すことが出来なかった。女性関係が苦手な自分の一生に一度になるかも知れない結婚が破綻した原因が父親であることに気持ちがついていかない。今まで父親を嫌いになったことはないし…どちらかといえば尊敬していた。だがどうしても冴子な笑顔と加奈の温もりが忘れられない。どんなに忘れたいと思っても…復讐したい、見返してやりたい。親父の支配が俺にきかないことを証明してやる。暗い自分の部屋の中で縮こまり震えながら一階に悠々と座っている実の父に怨念をかけように深く暗く。


順番?慣習?世間体、地位…全て奪ってやる…


「五郎ちゃん…ママに叱られちゃう…」

「なんで?でもママ男の人と遊んで帰ってこないんじゃない?……ほら、そうだろ。なら五郎ちゃんと一緒に居よ?」

ハンバーガーを頬張りながら静かに頷く加奈の頭を優しく撫でる。五郎は冴子の生活を調べあげ夜外出する時間に加奈を誘い隠れて会っていた。ほとんどは24時間営業のファミレスで加奈の好きな物をごちそうした。日々、家事もろくにしない冴子ことだから加奈もろくな物を口にしていないだろう。五郎はありったけのごちそうと加奈の好きな物を買い与えた。そのうち加奈から冴子の悪口がボロボロ出始め五郎も感じるほど加奈は五郎に懐いていった。女の子は小さいながらに大人だ。

「加奈、ママって自分勝手だな。加奈を一人にしてどこにでも行って…加奈のことなんてどうでもいいってことだよな。」

「ママなんているのかな?加奈はいい子だし、大人だしママなんかよりずっと偉いと思うけどな…」

五郎は加奈を洗脳していく。加奈は冴子よりも地位が上であると刷り込んで行った。しかし、五郎は驚いた。加奈は冴子よりも自分が優れていると感じながらも世間体的には冴子を立てた。そんなしたたかさも備わっている。そんなある日、冴子に子が宿ったことを聞いた。復讐と嫉妬に駆られた五郎は加奈にあることを刷り込む。

「加奈はもうお母さんから可愛がられることなくなるな。今よりもっとどうでも良くなって行くかもな…でも五郎ちゃんは加奈の味方だよ!でも新しい赤ちゃんが生まれたらもしかしたら五郎ちゃんも加奈のこと…」

「えっ?五郎ちゃんも!いや!絶対にいや!」

そんな加奈を見る五郎の目はまるで庄吉が五郎を見る目になっていた。


そしてあの事件が起きた。


加奈は冴子の子を殺した。


庄吉も世間のかぜをうけ事務所を畳みすべてを失った。


新田家に関わるそれぞれの欲望が肥大した結果、弾けたんだ。まるで空気を入れすぎた風船のように大きな音を立て吹き飛んだ。


均衡した生活を生涯に渡って維持し続ける時代は終わったのかも知れない。死から1番遠ざかった場所が幸せなんて作り話を誰も信じなくなった。リスクとスリルがスパイスになり人生の質を上げるという常識離れした一部の認識が定説となり一つの場所に落ち着いていることなど出来なくなった。利他主義から利己主義へ移行する副作用が慣習の恐怖を超越し統制することなど誰もできない。愛国心が薄れる中で巨大化した自我が小集団を形成し活発化する抗争の中で子を育てることが必ずしも本能を肥大化させる訳ではない。常にうごめく人の思想の中に漂いながら生きていくことに生きている実感が湧かない恐怖が明日の自分の原動力となる。信仰により孤独に耐え乗り越えた自尊心は世俗人から怠け者のレッテルを貼られたみすぼらしい負け犬と思われ朽ちていく。人を危めデスゲームを楽しむ人に魅せられ自己の命を守ることに罪悪感を感じながらも日々生き抜くことしか出来なくなったどうしようもない孤独に打ち勝つことが出来ない。今日の夜、安眠できること以外に大事なものはない。例え誰が傷つこうが誰が祈っていようが誰がすがって来ようが関係ない。ただ目の前に広がる惨状に怯えて目をつむり震えながら歌を口ずさみ現実逃避する自分すら受け入れられずにいる。ただ、正しい事がしたかった。美しい景色がみたいだけなんだ。見えるもの全てに死神が宿り呼吸すらままならない。どこかに希望があるはず…この世のどこかに間だ見ぬ美しい世界があるはずなんだ。

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