【前編】
命の重みは皆一緒だろうか?軽視されていないだろうか?知らぬ間に優越をつけ重要な人とそうでない人を区別する。自分の利得になるように順位付けしキャラクターを割り振る。容姿端麗であればなんの理由もなく上位に位置し、容姿が劣れば人に見向きもされない。人一倍努力し生きるために集団に尽くし猿山のボスに腹を差し出しおどけてみせる。自分の位置を死守するために上位を利用し、下位の顔を踏みつける。下位に位置するものはその厳しい現実を全て受け入れるしか選択肢は残されていない。どんなに間違っていようとどんなに理不尽で非人道的であったとしても上位に媚を売るしかないのだ。順位が下に行けばいくほど死が近づいてくる。死を肌で感じることだってできる。寝ても起きても変わらない殺風景な部屋が自分の存在を消していく。誰も知らない深い深い海の底に落ちていくように一層孤独を強め、1日1日寿命が尽きて行くのを只待つよりほかにない。そこにはなんの尺度もなんの評価も存在しない自我と空間しか存在しない。そこに感情はなく、麻痺した唇の渇きを潤す舌にこびりついた唾液が信じられないくらい冷たく体温を奪っていく。生きているのか死んでいるのかも分からない荒んだ感情がカラダを蝕んでいく。誰も近寄らない、誰も知らない、誰からも必要とされない人間がこの世には何千、何万と居るということを知ろうともしない。そこに皆が求める答えがあるのに・・・
―耳鳴りがとまらない。風邪を引いたのかな。なんにも考えられない。お腹すいた。ママどこいったの・・―
汚れっぱなしの台所にいつ浸けたのかも分からない食器とダイニングテーブルにはカップラーメンの残骸が山の様に積み重なり異臭を放っていた。蠅は縦横無尽に飛び回るがそんなこと一切気にならないほど五感は鈍っている。痩せこけガリガリになった細い二の腕をかきむしり、肩までかかるボサボサの髪の毛を弄んでいる小学校に行かないくらいの女の子が気怠そうに柱によりかかりボーっと前を見つめていた。その少女は何度も何度も同じ光景を頭に思い浮かべる。小さい頃、父親と母親が仲良くしていた頃を。朝起きると居間には新聞を広げた父親が優しくこちらを見つめ、キッチンではセカセカと朝食を作る母親がいた。静かな空間で落ち着いていて父親のひざ元で朝起きかけのだるいカラダを預ける。父親の寝巻からは柔らかく優しい匂いがより一層眠気を誘った。その匂いが溜まらなく好きだった。父親の大きな手と母親の諭す様な優しい声がずっと続いていくと信じて疑わなかった。当たり前だった幸せが幻想の様に姿を消す。まるで夢を見ていたように厳しい現実が目の前にある。いつからだろう?パパとママが喧嘩するようになったのは・・・。月に一回の喧嘩が週に1回になり、気付けば毎日のように顔を見合わせれば喧嘩するようになった。次第に父親の姿を家で見ることが無くなっていった。いつも機嫌の悪いママと二人っきり。寂しかった。保育所でパパに迎えに来てもらう友達が羨ましかった。何でウチにはパパがいないんだろう?加奈が悪い子だから嫌いになっていなくなったのかな?もうずっと会えないんだろうかと思うとたまらなく寂しくなった。たったひとり取り残されたような背中がソワソワするような思いが容赦なくその小さな体を襲う。そのうちパパが大嫌いになった。自分にこんな寂しい思いをさせたパパが嫌いで嫌いでたまらなかった。パパなんかいらない!もともとパパなんて好きじゃなかった!そう思う様になっていった。それからちょっとして家に知らない男の人がよく来るようになっていった。すごいイケメンで若くて、そして優しかった。加奈の言うことは何でも聞いてくれてママとも仲良しだった。もうパパなんていらない。だってこんな素敵な男の人が傍にいてくれるんだもん。もうパパなんて・・・。
思い切ってその男の人の膝に顔を埋めてみた。でもその男の人からはきつい鼻につくような香水の匂いしかしなかった。パパのような優しいあの匂いとは全く違うよそよそしい匂い。その匂いを嗅げば嗅ぐほど寂しい気持ちになった。すぐにどこか行ってしまうような心がここにない笑顔が怖かった。甘えれば甘えるほど離れていく、まるでお風呂に浮かんだおもちゃの様に手を潜り抜けてどこあに行ってしまう様な気がした。本当の思いを隠す様になり、強がりを言うようになった。ひとりでおもちゃで遊ぶのが好きな自分を演じなりきった。母親がその男と二人で出かけるのを笑顔で見送る。自分の心を隠し、ありったけのひきつった笑顔で傷つく心に上塗りする。勢いよく閉まったドアの音の後に襲いかかる孤独の深い静寂がたまらなく恐ろしく、ひとり毛布に包まり何度も何度も同じアニメをセリフを覚えるくらい見入っていた。
―― ボクはひとりでもコワくなんてないやいっ!ひとりがコワいのはコドモなんだぜ!ボクはひとりでもへーきへーき。だってオトナだもん。オトナになるにはツヨくなくっちゃね! ――
そんなアニメのセリフに親しみを覚え心を熱くした。この世に存在しないブラウン管の中のキャラクターと友達になったような安心感で満たされた。現実ではない空想の世界に居場所を見出す。全ては頭の中で起こっていた。好きな風に解釈し皆、自分の味方になる。自分が周りの中心になり必要とされ愛される。その空想こそが唯一の身の置き場になる。母親は自分ではなく知らない男を選んだ。幼いながらに母親の醜い部分を悟る。一方通行の愛は行き場を失い、異なる道に歪んだ形となって流れ込む。自分のいけないところを必死になって考える。母親に一回でも怒られた記憶を遡り、自分を責め続けた。自分が悪いからこんな寂しい目にあわされるんだ、そんな思いがふと自分の中に生まれた。一歩外に踏み出せば楽しそうに父親と母親に甘える自分くらいの子供を嫌でも見てしまう。皆、しっかり言うことを聞いているからあんなにも甘えられるし一緒にどこでも連れて行ってくれるんだ。自分がいい子にしてないから・・・。
自分以外の子達が賢く優れて見えた。と同時に自分がなんてダメな子なんだと自分を否定し続けた。お片付け、お勉強、大きな音を出さない、駄々をこねない・・・母親の嫌がることはしないようになる。母親の顔を見て自分の行動を決めていく。自分を抑え自分から離れて行かないように必死に縋り付く。都合のいい子供になっていた。外に出れば母親の自慢話をし仲のいい親子を演じ、家に帰れば母親が疲れないよう機嫌が悪くならないよう家事を手伝う。男遊びをする母親を笑顔で見送る。でも不安で不安で仕方なかった。もう二度と帰ってこないんじゃないかと。遅くなると何度も何度も家の外に出て母親の姿を探す。外は寒いのに短パン半袖で夏用のサンダようなルを乱暴に履き、急いでアパートの下まで降りていく。身を切る冷気に高鳴る鼓動を紛らせながらカタカタ震える体に耐えきれず片方の足の裏で逆のふくらはぎを摩る。何分か静まり返った真っ暗な道を眺め渋々、ひとり孤独の待つアパートへ戻り時計を見る。そんなことを繰り返し、母親が帰ってくるのは決まって疲れ果ててソファーで寝入った頃だった。酔って帰ってきた母親は勢いよく玄関のドアを閉めその音に飛び起きる。今にも泣きだして母親に縋り付きたかった。
―― ママ!もうどこにも行かないで!加奈のそばにいて!いい子にしてるから!ギュッと抱きしめて一緒に寝て! ――
そんな言葉を押し殺し加奈は母親に笑顔で言った。
「ママおかえり!今、お水持ってくるね!」
― いい子にしてないとママどっかいっちゃう。
加奈がいい子にしてないと・・・――
どこか遠い記憶に感じる。遥か昔のまるで他人の出来事の様に薄い断片的なものしか思い出せない。水辺に移る自分の顔の様に不確かでファジーな妄想とも現実とも取れる思い出に一層自分の影を薄めていく。今、現実にこの薄汚いアパートにいるのは私ひとりきり。このまま死んでいくのだろうか、全身から力が抜けていく。全身に冷気が走るように身をすくめた。身動きが取れなかった。何も食べていないからだろうか?粗暴な母親が帰ってくると信じているからだろうか?安アパートのうす壁なのに外界の音は一切聞こえて来ない。一歩踏み出す勇気がない。立ち上がろうとするが手にも足にも全く力が入らない。立って歩かないと間違いなく死んでしまう。なんとかなんとか立ち上がるんだ。加奈は前に会ったダイニング用の椅子に手を伸ばし何とか四つ這いの姿勢になった。顔には力なく痩せこけた頬にしわが入る。呼吸は乱れ、心臓は破れるくらい大きな音で鳴り続けたが体が全く反応しなかった。右足を立て踏み込んだ時、体重を支えきれず椅子と一緒に倒れこんだ。
ドンッ!
「いたぁ・・」
大きな声も出すことができずフローリングの床に這いつくばるよりほかになかった。加奈は床に右頬を付けたまま早く何度も肺を膨らませてはまた萎める。その先には2,3歩先のドアがあまりに遠く、頑丈で大きく見えた。牢屋の鉄格子の様に強靭で今の加奈には太刀打ちできるものではない。加奈は絶命を確信すると同時に瞳には大粒の涙があふれ出した。大声で泣き叫びたかった。こんな惨めな自分、他の子は公園で元気に走り回って遊んでいるのに床から立つことすらできない。あんなにいい子にしていたのに。あんなに努力していたのに・・・。
どんどん意識が薄れていく。視界が狭まり、耳鳴りが一層強くなっていった。ついには目を開けていることすらできなくなり暗闇中に沈み込んでいった。
「はいもしもし赤沼不動産ですが・・・えっ?隣の部屋から異臭がする?」
営業部の佐々木は一本のクレームを受け取った。周りの社員はその電話口の声を聞き煙たそうに佐々木の顔を見た。そんなことを知ってか知らずか佐々木の声はだんだんと小さくなっていく。
「はいわかりました。すぐ伺います。」
佐々木はデスクの中をあさり問題の物件の資料を音を立ててあさりだした。
「あ~あったあった!。」
その書類を片手に持つとデスクチェアーに掛けた紺色のスーツジャケットを乱暴に取り一目散に職場を後にする。この類のクレームを聞くのは一度や二度ではない。今、単身で生活している高齢者は数多くおり警察立会いのもと朽ち果てた遺体を目の当たりにするのはよくあることだ。佐々木は営業車に向かいながら最寄りの警察に同行を願った。
「あっ、すいません。赤沼不動産ですが・・・ちょっとウチの物件で異臭騒ぎがおきまして・・・今から向かうところなんでがちょっと御同行願えないかと思いまして・・・」
電話口の職員は冴えない返答だ。
「あ~またですか・・ちょっと遅くなるかもしれないけど行きますわ。住所は?」
「え~住所は・・・・」
佐々木は助手席に置いてある資料に手を伸ばし急いで中身を出す。勢い余ってすべての書類が助手席に散乱し佐々木は顔をゆがめる。その散乱した書類の中から賃借契約書を見つけ出し住所を読み上げていった。
「すいません!住所は・・・」
佐々木は住所を読み上げている間に住人欄の名前にふと目をやった。高齢者だと高を括っていた佐々木は目を見開いた。
―賃借人 坂東 冴子(35歳)、同居人 長女 加奈(4歳)―
佐々木は気が動転し住所を急いで読み上げると勢いよく言い放った。
「高齢者ではありません!35歳の母親と4歳の娘の親子の住まいです!なんとかすぐに来てもらえませんか!!お願いします!」
そういうと一方的に電話を切りエンジンをかけるや否やアクセルを踏み込み現場へ急いだ。社内にはシートベルト着用を促す警告音が鳴っていたが佐々木の荒い息遣いがかき消していた。急げば急ぐほど赤信号につかまり何度もハンドルを両手で叩いた。ようやくアパートに着いたのは会社を出てから15分後のことだった。駐車場に前向きで勢いよく止めるとすぐにドアを開け、車から身を乗り出した。部屋の前には近所のひとだろうか2,3人の中年の女性でが何やらひそひそ話をしている。駆け足で階段を音を立てて上っていく築35年は超えているだろうか錆びた鉄制の階段と白いペンキが茶色に変わったコンクリートの壁を見ると誰が見てもお粗末な住まいであることがわかる。階段を抜けると足音に気付いたのか中年女性のひとりがこちらを見て手招きする。二入とも鼻を右手で押さえ厳しい表情で問題の部屋を指さす。
「すいません!遅れました、不動産の者です。警察の方はまだ?」
「まだ誰も来てないわよ!この匂いひどいでしょ!」
確かに鼻につく強烈な匂いはドア越しからも伝わってきた。佐々木も片手で鼻と口を覆い中年女性の方を見直した。
「確かここは若い女性の親子が住んでいるんですよね?」
中年女性のひとりがイラッとした顔つきで佐々木を睨みつける。
「いいから早くドアを開けて何とかしてよ!本当に迷惑なんだから!!」
佐々木はその声に尻を蹴られたように急いで鍵を取り出すとなれない手つきでカギ穴に差し込み、恐る恐るドアを引いた。ドアの隙間あら一層強くなる異臭が鼻を襲う。佐々木が顔をゆがめた瞬間、ゴミに埋もれた室内に少女が倒れているのが目に入った。佐々木の胸騒ぎは的中した。急いで少女に駆け寄ると痩せ細った体を抱きかかえ息を確認した。
「きゅっ、救急車呼んでください!!早く!!」
佐々木は中年女性むかってありったけの大声をぶつけた。中年女性たちは慌てふためきながらも自分の部屋に駆けこんだ。佐々木は少女の口に耳を当てるとかすかに吐息が聞こえる。
「大丈夫!?今救急車来るからね!!」
大きな呼びかけに瞼がかすかに動く。どうやら声はなんとか届いているようだ。それにしてもこの痩せこけ方は異常だ。何日も、いや何十日も何も食べていないんだろう。それにしても何なんだこの荒れようは・・母親はどこに行ったんだ!色々な思いが頭を柵奏する。
佐々木はふと近くにある棚の中をガラス越しに見る。そして驚いた。その棚にはまだ手を付けていないお菓子、パンがぎっしり並んでいた。キッチンからはちょろちょろ流れる水の音。佐々木は少女を見直した。なぜこの子はこんなに痩せこけるまで手を付けなかったんだろう。物思いに耽っている佐々木の元に警官を連れた中年女性が戻ってきた。
「救急車に連絡したから!すぐに着くわよ!」
中年女性が話し終わらないうちに警官が佐々木と少女に近づいてくる。
「大丈夫ですか!?」
「ええ。意識は戻っていませんが息は落ち着いています。」
警官は少女をまじまじと見つめると佐々木に問いかけた。
「お、親はどうしたんだ?こんな小さな子一人では住んでいないでょ?」
佐々木が目を少女に落とし考えていると後ろから中年女性がしびれを切らしたように口を開けた。
「私、隣に住んでる斎藤言うんやけど、この子の母親全然帰ってきてないわよ!このアパートじゃ噂の的。夜に男と出かけて朝まで帰ってこないの。だからみんなで心配してたんだから・・ろくに挨拶もしないしね。」
佐々木と警官は顔を見合わせた。警官は職業柄かすぐさま質問を返す。
「で、一番最近いつ見ましたか?」
斎藤は考え込んだ。
「ん~私も別に張り付いてるわけじゃないし何時とかは分からないけど・・・ここ数日は気配は無かったわね。だからどっか子供も連れて行ったのかと思ってたけど・・・」
そう話して居る間に救急車の音が遠巻きに聞こえてきた。佐々木は少女を抱きかかえると部屋を出て救急車が乗りつけることができる駐車場まで急いだ。いつのまにかその少女の右腕は佐々木の首の後ろをしっかりと掴んでいた。佐々木は救急隊に簡潔に経緯を伝えると少女と一緒に救急車に乗り込みその場を後にした。
佐々木は閑散とした病院の救急救命室の前にあるソファーに座り少女をおぶった感触を忘れられずにいた。テレビで見慣れた外国の難民の様に痩せこけた少女を実際に目の当たりにしショックを隠し切れずにいた。飽食の日本にこんな状況に陥ることなんて想像もしていなかった。親が子供の世話をしないなんて自分のいる世界には存在しないと思っていたし、実際なんでそんなことができるか理解できないし、理解したくもない。次第に、怒りとはまた違った情けなさ、申し訳なさが佐々木を襲う。あの子の母親はちょうど佐々木と同い年に当たる。佐々木はまだ結婚してはいないが子供を設け、育てることは十分に人生設計の中に存在する。安易には結婚という重大な選択をしないだけで独身を貫くつもりはない。そんな佐々木だからこそ真剣に他人の問題にこれほどまでに深く関わることができるのだ。
「あの子の様子はどうですか?」
佐々木が顔を上げるとあの時の警官が心配そうに立っていた。
「ああ、お疲れ様です。今治療中でもうすぐ終わると思うんですけど・・・」
「そうですか・・・あの子の引き取り手なんですが母親は居場所が掴めないし、母親の実家はもう誰も住んでないみたいなんです。それで別れた夫に連絡してみたんですけど仕事中みたいで繋がらなくて、それで最後に夫の実家に連絡することにしたんです。そしたら今、あの子のおばあちゃんが病院まで来てくれるそうです。いやいや、複雑で・・・」
佐々木は胸を撫で下ろした。
「そうですか!それはよかった!あの子もしかしたら施設に送られるんじゃないかと思いまして・・」
「そうですね。この手の母親の場合、父親も同じような性格の人間が多いんですが珍しく父親はしっかりしているみたいです。勤め先を聞いたんですが結構有名企業の管理職さんみたいで・・。それで実家の方もご両親ともご健在のようです。」
「・・・それならなんで母親がこの子を引き取ったんですかね。もし、子供を放って遊び呆けたいんなら父親の方へ親権を譲ればよかったと思うんですが・・・」
「まあ・・・、今の時代の女性は分からんですわ。」
「そうですね。でもちゃんと引き取り手がいることに安心しました。」
「あっすいません。自己紹介が遅れました。私、山海交番所勤務の合田と申します。」
そうこうしていると救命救急室から看護師が顔を覗かせた。
「あの・・坂東加奈ちゃんのご家族の方ですか?」
看護師は佐々木の顔を見て歯切れ悪そうに話しかけた。
「あっ、いやいや私不動産の者でご家族の方は後で来られます。」
「でも一番に発見した方ですよね・・・」
「そうです。」
「先生がお話ししたいとおっしゃってるんですけど・・警察の方もご一緒にどうぞ。」
佐々木と合田は顔を見合わせ看護師に引きつられるように診察室に入っていった。診察室に入るとそこに少女の姿はもうなく40代くらいだろうか青い救命服とマスクを身に着けた端正な顔立ちの男医師がパソコンに向かっていた。
「先生、お連れしました。」
看護師の声に反応し勢いよくこちらを振り向く。
「あっ、はいはい。どうぞお座りください。」
佐々木達はその医師の前に置かれた椅子にゆっくりと腰掛けた。
「えー私、常盤病院救命救急科医師の内藤と申します。第一発見者の方ですね?」
内藤は佐々木の方を見て問いかけた。
「そうです。私、あの子の住んでいたアパートの不動産会社の者でして近隣の方から連絡を受けて現場に駆けつけるとあの子が床に倒れていました。」
「は~そうですか。救急隊の方からちょっと話は聞いていたんですが母親が行方不明だそうで・・・。」
佐々木と合田は床を見下ろす。
「あの子の状態ですが、やはり極度の栄養失調です。恐らく数週間何も食べていなかったんでしょう。今高栄養の点滴で治療行っていますがまず命に別状ないと思います。数週間で退院できるでしょう。」
「あ~そうですか。よかった。」
合田の表情に笑顔が戻る。しかし、佐々木は何か思いつめたように眉間にしわを寄せていた。
「先生、ちょっと気にかかることがあるんです。私があの部屋に踏み込んだとき戸棚の中にはパン、お菓子ではありますが食料はまだありました。それに水道も止められていた訳ではなくちゃんと流れていたんです。なぜあの子はこれほどになるまでその食料、飲水を行わなかったのでしょうか?どうもそこが分からなくて・・・」
内藤は一瞬顔を曇らせ頭の中を整理すると佐々木に向けて順序立てて話し始めた。
「ん~どうでしょう。もしかすれば心的な代償が大きいのかもしれません。食料がなくて食べなかったというよりは食べる意欲が減退していたのかもしれませんね。母親が居なくなったことがショックで何も喉が通らなくなった。そして、本当に体が栄養を欲した時にはそこにたどりつくまでの力は残されていなかった。脳も栄養、エネルギーで動いています。つまりどこに食料があって、どこに水かあるかも分からなくなるまで体に栄養を与えなかった。体が死を迎える前に自分の中で死を先に受け入れていたんではないでしょうか?」
佐々木は息を呑んだ。
「あんな小さな子がそんなことまで考えていたんでしょうか?」
「ん~真相は分かりませんが・・・」
あんな小さな子をそこまで追い詰める母親は今どこで何をしているんだ!佐々木の中に沸々と怒りが沸き起こる。合田が思い出しように内藤に尋ねる。
「あの子は今どこに?」
「今2階の内科病棟の集中治療室にいます。では私は仕事がありますので失礼いたします。」
佐々木と合田は内藤に深々と頭を下げると診察室を後にした。印刷室を出るとそこに警備員に連れられた70代くらいの女性がこちらを見ていた。
「さっき救急車で運ばれた子のあばあちゃんらしいんですが関係者の方ですよね?」
警備員が佐々木達に話しかける。佐々木達が無言で頷くとその女性はこちらに歩み寄ってきた。
「すいません!お手数掛けまして!!あの子の祖母新田妙子と申します。あの子は、加奈ちゃんは無事ですか!!?」
佐々木達は今までの詳細を伝え加奈のいる2階の集中治療室まで連れ添った。合田は交番に戻らないといけないため救急室の前で別れた。佐々木と妙子は集中治療室へ急いだ。道中、妙子の表情は重く落ち着きなく独り言を言っているのか口元が忙しなく動いていた。
エレベーターのドアが開けるや否や足早に飛び出し、集中治療室は逆方向へ進む妙子を佐々木は呼び戻した。集中治療室に着くと近くにいた看護師にガウン、マスクを手渡され加奈の待つベッドへ案内された。そこには酸素マスクに、何本もの点滴を吊るされて穏やかに眠っている加奈がいた。佐々木が見た顔面蒼白の加奈とは違いしかり血色が戻っていた。しかし、祖母妙子は痩せこけた孫の顔を見て両手で口を押え溢れ出る涙を止めれずにいた。ゆっくりと妙子は加奈に近づいていく。しわしわの年老いた手で加奈の髪の毛を優しく摩っていく。目には涙を浮かべたまま眠ったままの加奈の目をまじまじと見つめ話しかける。
「加奈ちゃんどうしたの~なにがあったの?こんなになって~」
妙子は痩せこけた加奈の頬に手を当て、枝木の様に細い指を壊れ物を扱う様に握りしめた。
「加奈ちゃん、おばあちゃんよ。わかる?」
妙子は何度も何度も加奈の手を握り閉める。結局、その時に加奈が目を覚ますことはなかった。状態の安定しない患者が置かれる集中治療室の面会時間は長くはなかった。すぐに看護師に退出を求められん名残惜しい妙子を何とか佐々木は連れだし明日また来るようになだめた。しかし、なかなか妙子は心の整理がつかない様子で集中治療室の外のガラス越しに何とか映る妙子のベッドの方から目を離すことができずにいた。佐々木はそんな妙子に困惑しながらもどこか安堵感に包まれていた。この子をこんなにも思ってくれる家族が近くにいることにようやく肩の荷を下ろすことができたのだ。父親はまだ来ていないが仕事が終わり次第病院に駆けつけてくれるとのことだ。佐々木は妙子に仕事に戻ることを告げるとその場を後にした。妙子は佐々木が見えなくなるまで何度も何度も悪い腰を折り曲げた。佐々木は笑顔で答え、近日中にそのアパートの賃貸について話をしに伺うことを約束しその場を後にした。
「すいません!常盤総合病院までお願いします!」
オフィス街でタクシーに飛び乗るスラっとした中年男性がいた。片手には携帯電話を持ちどこかにどこかに連絡している。辺りをキョロキョロと見回し落ち着かない様子で乗り込んだタクシーの中で尻の置き場を決めれずにいる。そう彼こそ加奈の父親新田五郎である。
「もしもし?母さん?で、加奈の様子はどうなの?そうかそれならよかった。今タクシーで向ってるから!」
そういうと電話を切り、そして何やらまた携帯電話をいじりだし耳に当てる。
「ったく!何してんだよ!」
五郎は忙しく携帯電話を耳から離し怒鳴りつけた。携帯電話からは音信不通の女性アナウンスが漏れていた。五郎は分かれた妻冴子に何度何度も連絡していた。五郎は1カ月に1回は加奈に面会し3人で食事を共にすることになっている。今まで冴子との連絡がつかなくなることなんてなかった。タクシーの後部座席の足置き場に目を落しながらいつしか冴子のことを思い出していた。
あれは確か何年か前のクリスマスの夜、彼女・彼氏のいない寂しいメンバーでパーティーをしていた。そこにメンバーの知り合いで冴子が顔を出した。初めて見た冴子は容姿端麗で明るく部屋中が冴子の笑い声で満ちるほど陽気な女性で力強さもそこにあった。どちらかというと物静かな五郎は自分とは正反対の彼女に心惹かれるようになる。当時、30歳だった五郎はタイミング的にももうそろそろ身を固めようとしていた時期で絶好の機会となった。そこからなんとか連絡先を聞き出し互いに連絡を交わす様になり次第に親密になって行く。だんだん五郎から近づいていったはずがどちらかというと冴子が引っ張っていくようになる。デートを重ねていくにつれ冴子の色々な面を見ていく。五郎が風邪で寝込んでいるときには当時独り暮らしをしていたアパートに来ておかゆを作ったり、独身貴族で飲み歩いてばかりの五郎を気遣い内緒で貯金していたり、そんなしっかりした家庭的な面やテーマパークでは子供の様に無邪気にはしゃぐ感情豊かな子供っぽいところのギャップに五郎は心底のめり込んでいった。結婚の一番の決め手は付き合ってから一度も高額なプレゼントを要求されたことなんてなかったことだ。五郎が冴子にプロポーズをしない理由は一切見当たらなかった。それどころかこんな彼女となら日々楽しい家庭生活を送れるに違いない、彼女ほど結婚相手にふさわしい女性はいないだろう、本気でそう思った。結婚して間もなく加奈を授かり無事出産した。五郎も家庭を顧みない父親ではなくしっかりと冴子をサポートしていた。冴子も加奈を可愛がり決して弱音など吐くような弱い母親では、その時はなかった。しかし、出産し育児をしていく面で状況が変わってくる。冴子の長所の感情豊かな部分は気性の荒い不安定な妻へ激変し、五郎は家庭で安堵することなど出来なくなっていった。それでも五郎は一時的なものだろうと冴子をサポートし続けた。いつか昔の陽気な冴子に戻ってくれる、そう信じて疑わなかった。ある日五郎が仕事から帰ってくると、そんな甘い考えを打ち砕くように机の上に1枚の緑色の紙がひっそりと置かれていた。離婚届けだ。その横には冴子の字で加奈を連れて実家に帰る旨が記されていた。五郎は落胆し、決して離婚は認めなかった。それもそうだろう、五郎は離婚の原因となるような愚行は一切行っていない。浮気は勿論、飲み会だって結婚してからは控えるよう努力していたし、冴子からもそのことでなじられたことは一切なかった。離婚の理由がまるで見当つかなかった。冴子に何度聞いても「あなたとはこれ以上一緒に生活できない」、「あなたは悪くない、私の問題。」何を聞いてもその1点張りだった。では加奈は?加奈に会えないなんて考えられない、もしお前のわがままで離婚するなら加奈をこっちで引き取ることはできないか?そんな五郎の申し出も足蹴にするように一切の要求に応じる気配はなかった。勿論、裁判を起こすこともできた。しかし、現在の日本の法律では母親が子を育てることを全面的に支持しているし、このまま泥沼化することが一番怖かった。裁判が長引けば長引くほど冴子の負担にもなるし冴子の負担になれば加奈の育児にも影響が出てくるだろう。五郎はそうなることだけは避けたかった。なんの罪もない加奈を苦しめることだけはどうしてもできなかった。新田家は妻冴子のせいで煮え湯を飲まされることになる。五郎は払う必要のない養育費まで払っている。五郎の意思だ。加奈に何不自由ない生活を遅らせてあげたい、ただそれだけだった。その甲斐あってか離婚してから五郎と冴子の関係は比較的温和に保たれていた。月1回ではあるが五郎と加奈が会うことに嫌な顔をすることは一度もなかった。五郎も離婚してからの冴子の生活を詮索しないし意見を言うこともなかった。風の噂で冴子に親しい男がいることは聞いていたがどこ吹く風の話だ。月に1回元気な加奈の笑顔が見れれば冴子たちの生活はうまくいっている、そう信じて疑わなかった。それが甘かったのかもしれないが、その時はそうするよりほかに手立てはなかったんだ。自分が出向いて彼女たちの生活を監視する、そんなことできるはずもない。そんなことすれば今までいい関係を築いてきた土台を崩しかねない。彼女が加奈を俺たちに会わせなくさせる方法は五万とある。別れた夫は手出しなどできない、それがこの国の法律だ。
五郎はタクシーが止まるや否や料金を払いおつりは受け取らず病院に駆けこんだ。妙子から聞いた2階の集中治療室に駆け込み看護師に面会を申し出た。通常なら面会時間はとうに過ぎていたのだが事情も事情なだけに看護師は主治医と相談の後、面会を許可した。加奈のベッドにゆっくり近づいていく、色々な思いが頭の中を駆け巡り心臓の高鳴りを抑えることができなかった。恐る恐る顔を上げ加奈を見た。その瞬間、五郎は今まで自分がしてきたことが誤りだと気付いた。別人の様に痩せこけた我が子を目の当たりにし自分の考えは甘い者だとようやく気付いた。ここまでになるまで、こんな近くにいるまで気付くことができなかった。もしかしたら加奈を一生見ることができなかったかもしれない。言い知れない恐怖が五郎を襲い、もう二度と加奈を離さないことを決めた。五郎は加奈の胸に手を当てしっかり動いてる心臓の鼓動を感じた。小さく弱いが確かに規則的に優しく動いている。その小さな小さな鼓動が五郎を落ち着かせていく。ゆっくり優しく諭されるように五郎はまたちょっとずつ父親の顔つきになって行った。
「おつかれさ~ん」
佐々木は昼間の事件で会社を離れた分、遅くまで残業していた。積もる書類の傍らにあのアパートの書類が置いてある。佐々木は何かに誘われるようにその書類を手に取る。デスクチェアーにうなだれ、右手で髪をかき上げながら書類に目を通していた。
「はぁ~、それにしても母親はどこにいったのかな・・」
佐々木の心の声が自然と漏れる。そんな時、後ろから手が伸び佐々木の両肩を勢い良く叩いた。
「昼間のアパートの件か?」
佐々木は驚きのけぞり座っていた椅子から落ちそうになる。なんとか踏みとどまり後ろを振り返った。
「か、課長!驚かさないでくださいよ(怒)」
そこにはイタズラ好きの少年の様な笑顔で佐々木を見る堤下課長がいた。
「大変だったな!うまくいったのか?」
「はい。倒れていた子は命に別状ないみたいで一安心してます。」
「そうか~それは何よりだ。でも本当にひどい母親だな。そんな小さな子を残して遊び歩いてるんだろ?俺らの時代じゃ考えられんな。俺らの時代はほとんどが親と同居してるからそんなことは起こらないんだ。姑の目があるだろ?嫁さんにはストレスだろうが子を持つということはそれほど責任があるってことなんだ。大の大人が本気で喧嘩しあって子供一人を育てていく。でも今の若い子には無理だろうな~(笑)」
佐々木はにやけた堤下を一喝する。
「笑いごとじゃありませんよ。俺は母親が子供よりも大切なものが世の中にあること自体驚きなんです。もしかしたら死んでた、いや殺してたかもしれないんですよ?我が子の命より大切なものがあるなんてどうしても考えられないし、考えたくもない。」
真剣な面持ちの佐々木に圧倒されながら堤下は照れ臭く口を開いた。
「ん~俺は男だからあんまりわからんが女性はあるらしいな・・・」
「あるらしいな?」
「いやいや、女の人って何してても楽しそうじゃないか?たとえば女子会とか、酒も飲まないのに店が壊れるくらいの大声出して・・・」
「は~そういえばそうですね。男じゃ考えられないっすね。飲み会じゃないと集まることはないですよ普通。」
「そうだよな。だから女性は男より人生楽しんでるのかもな。でも子供を見殺しにしていいわけじゃないからな。まあ男ができると周りが見えなくなるんだろうな~」
佐々木は返す言葉がなかった。床を見下ろす佐々木に堤下は元気づけようと両肩を勢い良く叩いた。
「まあ思いつめんなよ!!俺たち刑事でも福祉局でも何でもないんだから!ちゃんとアパートさえしっかり管理できればそれでいいんだから。住んでる人の人生まで管理することはないぞ。じゃ、お疲れさん!」
そういうと堤下は足早に職場を後にする。そんな堤下に聞こえないほど小さな声で佐々木は挨拶するのがやっとだった。元気づけようとしてくれた堤下だったが佐々木は未だ納得できなかった。仕事でも自分の人生とは切り離し割り切る人間と自分の人生の一部として扱う人間がいる。勿論、佐々木は後者の方だ。もしかすれば一生会うことない子かもしれない。こうやって悩むのは偽善だという人もいるだろう。しかし、佐々木は悩まずにはいられなかった。苦しむ人を放っておくなんてことはできない。何の解決にもなんの力にもならないし意味もないのかもしれない。あの子の親でもなければ知り合いでもない。でも自分の人生に関係があるように思えて仕方なかった。あの子を非常にも突き放した母親はもしかすれば未来の自分の妻になる相手かもしれない。女性が皆、そうではない。その母親が異常なのだろう。でももし、世の女性が同じ願望を抱き、それを抑制できる人、できない人の2種類しかいないのであれば結婚はすごいリスクを負う選択になる。独身の佐々木にとって結婚は憧れである。暗く誰もいない殺風景な部屋に妻は暖かさとあかりを灯してくれる。そういう存在だ。今の時代にはそぐわないのかもしれない。男の自分勝手な理想なのかもしれない。でもそんな幸せを抱く男は少なくないだろう。古き良き時代は男の話、女は差別と偏見に悩まされ生きづらい人生をなんとか乗り切っていただけなのかもしれない。自由を手にするには自制が必要になる。権力から逃れ好きに生きることは非常に危険な選択だ。佐々木は向き直り仕事に戻った。何も考えず仕事に打ち込むことが自分を守る唯一の手段だった。
「加奈!聞こえるか、加奈!」
翌朝、五郎は仕事を休み、妙子と加奈の入院する病院に朝から来ていた。加奈は昨日とはまるで違い顔色も呼び掛けに対する反応も好転していた。今にもひっくりかえるような状況に五郎も妙子も目を離せなかった。医師も意識はもう戻ってもいいころだと太鼓判を押している。なにより別れた悪妻から取り上げられた宝物が今、目の前の手の届くところにあることが何よりの幸せだった。何度会いたい気持ちを抑えてきたことか。新田家の唯一の内孫は加奈だけだ。言わずとも何よりもかけがえない可愛い子だ。そんな加奈の瞼が小刻みに震えだし今にも瞳を見ることができそうだ。そんな様子に五郎も妙子も加奈の名を呼ばずには居られなかった。か細い手を握りしめた妙子が異変に気付く。握り返してきたのだ。
「加奈、わかるの?おばあちゃんよ!新田のおばあちゃん!」
そんな呼び声に答えるように加奈は瞼と格闘する。思い思い瞼をなんとか持ち上げると焦点が定まらない中、必死に光に順応しようとする。五郎は身を乗り出し加奈の視界に入ろうとする。
「加奈!見えるか?パパだよ!」
加奈は力ない目で必死に声を追い、五郎の方を見つめると乾ききった唇に引っ張られながらなんとか口を開けた。
「ぱ、ぱぱ?」
「そうだよ!パパだ!カラダつらくないか?」
「ぱぱって?おじさんダレ?」
五郎も妙子も凍り付き顔を見合わせる。
「な、何言ってるんだよ?パパは加奈のパパだよ!」
「ぱぱってママ?おじさんはママじゃないよね?」
「・・ははは。加奈疲れてるんだな!よしよし。加奈の目が覚めてくれて安心した!加奈はもうちょっと休んでるんだよ。ほら目を閉じて。」
そういうと五郎は加奈の頭を撫で目を閉じさせた。加奈はまたスヤスヤ寝息を立て布団に体を沈みこませる。五郎も妙子も一安心し集中治療室を後にした。二人は部屋を出たところで立ち話を始める。
「加奈ちゃん大丈夫かしら?五郎のことわからないって・・」
「疲れてるだけだよ。寝ぼけてたんだ。ほらまたすぐに眠りだしただろ?また休んだらもうちょっとしっかりしてくれるよ。加奈も大丈夫そうだから仕事に戻るよ。」
「あ、ああ。」
「心配しなくても大丈夫だって!また夕方来るから。」
妙子はなにか悪いことが起こる気がしてならなかった。加奈の目、いつもと変わらない目だけど何か違う。まるで別人のような、大人の様な目だった。妙子は集中治療室を振り返り見るといつもと変わらない可愛い孫の寝顔がそこにあった。考えすぎだろう、妙子はそう言い聞かせ一旦、自宅に戻ることにした。
高く聳え立つビルに液晶を貼り付けたコンクリートの塊が携帯電話を片手に持ち、せかせか道路を行きかう人々を見守る。喜び、怒り、焦り、悲しみ多様な人間の感情を冷淡に見つめ微動だにしないその存在が皆の生活の基軸になる。多くの人々が3色に従い動き出し、後ろにつかえた人に追われるように一心不乱に歩く。その人ごみから抜け出るようにガードレールにもたれかかる一人の青年がいる。破れたジーンズに黒のダウンコートに身を包み舗装された道路を見つめながら力なく煙草を吸う。慌しく鳴り響く雑踏にも動じず自分の世界に入っていく。ふと震える右手をポケットから取り出した。掌には乾いた朱色に染まり、乾いたカスが黒色の球を作り無数に点在していた。彼はその汚れた手を見つめながら血色の悪い顔を引きつらせる。そんな時、携帯電話のバイブレーションに気付き左手でポケットを漁り取り出した。取り出した携帯電話の待ち受けには一人の女性と、少女、そしてその男の笑顔がそこにあった。男は思い出したように電源を切ると粗暴にポケットにしまい込んだ。両手で頭を抱え、ボサボサになるまで頭を掻きむしった。
「にげよう・・・大丈夫だ。」
男は両手で勢いよくガードレールを押し、慌しく行き交う人ごみの中に入っていった。その男もまた何かに追われるように足早に人の流れに、歯車の一部になっていく。背中にまとわりついた亡霊を振り払う様に大きく振った腕が脇でこすれダウンジャケットの鋭い音が小刻みに鳴っていた。
廊下にまで賑やかな笑い声が響き渡る。静かで無色の病院の個室の一室が多彩な花が咲き誇るように生の息吹を感じさせた。そんな賑やかな一室の中には元気な笑顔をみせる加奈と五郎、妙子そして祖父の庄吉の姿があった。加奈は未だ点滴の管をぶら下げてはいるが点滴の量はかなり減ってきている。痩せこけた頬に変わりはないが顔をクシャクシャにして笑う笑顔で病人らしさを感じさせない。
「加奈覚えてるか?おじいちゃんと海行ったんだぞ。小さいときだったから覚えてないか。」
「覚えてるよ!なんかすっごい寒かった!!」
「そうよ!!あんな寒い日に加奈を海に連れ出して!ほんとに馬鹿なおじいちゃんねぇ?」
妙子が夫の庄吉をなじる。加奈はそんな二人を笑顔で見守る。
「でも楽しかったよ!あんな荒れてる海みるの初めてだったし!」
「そうだな。荒れてたな!あの時加奈はおじいちゃんのズボンにしがみついて離れなかったんだからな~可愛かったんだぞ~」
他愛なくとりとめのない会話が次から次へと絶え間くあふれ出し笑い声が絶えなかった。そんな空間をひとり冷静に五郎は見ていた。加奈の楽しそうな顔がなにより五郎の不安を払拭する。一時は命の心配さえした加奈がこんなにも元気な笑顔を見せてくれる。まるで悪夢のように今まで起きた出来事の記憶は薄れていった。五郎も庄吉も妙子もアパートで起こった事については一言も触れなかった。触れたくなかった悪母の愚行を早くに忘れさせてやりたかった。現実逃避にも思えるこのやり方は今自分たちにできる最大の愛だ。1秒でも多く加奈には笑顔ていてもらいたい、ただそれだけだった。加奈は大人たちの身勝手な行動に振り回された被害者なのだ。その罪を傍観していた五郎たちにも責任はある。しかし、五郎は内心ほっとしていた。離婚してから地獄のような仕事漬けの生活の中に一輪の花が咲いたのだ。する必要のない仕事を無理やり作り、いかにも仕事人間面をする必要もなくなった。これからは加奈と一緒に生活を共にすることができる。夢にまで見た一時は諦めかけた父親という役割を果たすことができる。運動会にもビデオカメラをもって出かけることができるし小学校にも、中学校にも、高校にも結婚式にも・・・夢が広がる。五郎は加奈を優しい目で見つめると膝の前で組んでいる手を引き離すと勢いよく両膝を叩いた。
「さあ!加奈!寝る時間だぞ~ちょっと調子良くなったからって無理しちゃだめだ。さあ布団に入って。」
そういうと五郎はベッドの上に座っていた加奈を寝かせ上から布団をかけた。
「ねぇ、パパ。加奈が寝るまでそばにいてね。」
「うん、わかったよ。だから安心して寝るんだよ。」
五郎は加奈の髪を撫でベッドのそばに置いてある椅子に腰かけた。加奈が安心して眠れるように優しく優しく髪を撫でる。加奈は少しづつ目を閉じていった。そんな様子をベッドの足元から庄吉、妙子が目に涙を浮かべながらそっと見下ろす。
「なんで加奈がこんな目に合わないといけなんだ。こんな小さい子を残してどこに行ってるんだ。」
庄吉が妙子に小声で話しかける。妙子は頷き、頬を流れる涙を指でふき取る。
「私たちでしっかり育てましょう。もし、あの女が現れても絶対に離さないわ。離婚の時だって・・あんな女に育てられるわけないのよ。」
妙子はこみ上げる怒りを押し殺し震えた吐息で胸の内を吐き出した。
庄吉と妙子は五郎に静かに小さく手を上げると部屋を後にした。妙子は加奈を起こさないよう物音を立てずドアを閉めると庄吉の後を追い廊下を歩いていった。そして、ナースステーションの前に差し掛かった時、ひとりのスーツ姿の男性が何やら看護師さんと立ち話している。妙子はどこか見覚えのあるその男性の顔を見た。
「あら!?佐々木さん!」
庄吉もその男性も驚いて妙子の方を見る。庄吉は妙子の視線の先の男性の顔をまじまじと見つめた。
「お父さん、この方が加奈を一番先に見つけてくれた人よ。」
「あっ!そうなんですか!その節はありがとうございました。何とお礼を言っていいのやら・・・私は加奈の祖父の新田庄吉と申します。」
そんな低姿勢の庄吉に改まり佐々木も深々と一礼する。
「いえいえ!こちらこそ、加奈ちゃんの容体が落ち着いて何よりです!私、加奈ちゃんのアパートを管理しています赤沼不動産の佐々木と申します。」
佐々木は慌てて内ポケットに入っている名刺入れを取り出し庄吉に差し出した。庄吉は老眼の目を近づけまじまじと見つめた。
「あ~不動産屋さんですか?」
「はい!ちょうどよかった!今冴子さん名義で賃貸されているアパートを今後どうされるかお聞きに伺ったんです。」
庄吉と妙子は顔を見合わせた。庄吉は落ち着いて話すことができる病院内の喫茶店まで佐々木を案内した。佐々木は二人の対面に座ると鞄の中から賃貸契約書を取り出し二人の前に丁寧に差し出した。庄吉は妙子から老眼鏡を受け取るとじっくり契約書に目を通していた。
「冴子さんのアパートの保証人は元旦那さんの五郎さんになっています。」
「ええ、彼女のお母さんは3年前までご存命だったのですが病気で亡くなられました。お父さんは確か彼女が高校生の時に亡くなったそうです。兄弟はいなかったよな?」
庄吉は妙子の方を見た。妙子は思い出したくない冴子の身の上話を佐々木の前で必死に取り繕うとしていた。
「え、ええ。一人っ子よ。」
愛想のない妙子の返事は佐々木にも伝わっていた。その微妙な空気を壊すかのように庄吉が頭の中で整理をしながら話し始めた。
「息子に権限があるわけですね?」
佐々木は静かに頷いた。
「勿論、解約よ!あんなアパート2度と見たくないわ!」
我慢できななくなった妙子が横から口を挟む。
「ちょっと黙ってなさい!」
庄吉は妙子を睨みつけると、一転笑顔で佐々木に笑いかけた。
「すいません、家内はちょっと感情的になってまして。でもその通りです。加奈もあのアパートにいい思い出はないでしょう。解約して新規一転、私たちの家で育てていくつもりです。」
「そうですか・・・お気持ちお察しいたします。それでは正式な書類につては後日郵送させていただきますので。それでは。」
そういうと佐々木は席を立った。庄吉たちに一礼すると喫茶店を後にし病院を出る。空には青空が広がり気持ちのいい日差しが背中をポカポカ温めていた。大きく両手を伸ばし背伸びすると一息ついた。
「おかあさんか・・・いらないのかもな。」
佐々木はふと田舎の母親を思い出していた。いつも台所に立っていた母親。休んでいるところをあまり見たことがない。働き者で笑顔を絶やさない母親に頼りっぱなしだった。なにも言わなくても欲しいものを差し出してくれる。いつも自分より他人のことを考える母親が当たり前だと思っていた。加奈の母親の様に自分を優先する女が一つ屋根の下で権力を握っているなど地獄以外の何物でもない。そんな母親ならいっそ居ないほうが幸せなのでは・・・変わりゆく時代に寂しさを隠せずに、水滴で黒ずんだ白い営業車に勢いよく乗り込んだ。
真っ青な空の下、加奈は芝生が生い茂る公園に一人たたずんでいた。
「ん?ここどこ?」
加奈は辺りを見回すが誰一人居らず、昼間の公園だというのに音ひとつななく、あるのはそよ風が木々を揺らす音だけだった。加奈は戸惑いながらも1歩ずつ前に向かって歩き出した。気持ちいい風が加奈の顔に当たり心地いい匂いが加奈の体の中に入っていく。その心地いい空間に不安や恐怖は一切なくなっていた。加奈は歩くのをやめ綺麗に生い茂る芝に大の字になって寝転がる。大きく深呼吸し開放感のある空を只見つめていた。ここがどこで、今何時で、何のためにここにいるのか?考える気にもならない。今ここにいることがすべてだった。加奈は眠気に襲われゆっくりとゆっくりと瞼が降りてくる。
ーポツッ、ポツッー
加奈の頬に水滴が付く。加奈は静かに目を開け掌で拭った。空を見るとさっきまでの青空が嘘の様に真っ黒な雲が一面を覆い辺りはすっかり暗くなっている。
「いっけない!寝ちゃった!」
加奈は慌てて飛び起き辺りを見回すが電燈一つなく暗闇に包まれていた。加奈を孤独と恐怖が襲う。そんな加奈に追い打ちをかけるように雨脚は次第に強まっていった。加奈はなんとかそんな雨から身を守るために森に向けひたすら走った。
「そうだ。あの森なら雨宿りできる。」
加奈が思ったよりもすぐに森の中に入ることができた。思った通り生い茂った木々の枝が雨を遮り屋根の役割をしてくれていた。一安心した加奈はひたひたと滴り落ちる水けを両手で絞り森の中を見回す。思った通り辺りは真っ暗で不気味にすら感じた。
「もう、ここどこなの?どうすればいいの?」
加奈はその場にしゃがみこみ泣き始めた。雨に濡れた床に落ちた古枝が鼻につく匂いを醸し出す。加奈はまだ泣き続けていたが誰も慰めてくれる人はいない。昼間のそよ風とは別な荒く乱暴な風が木々を揺さぶる音は恐怖以外の何物でもなかった。加奈はその恐ろしい音に耐えきれず耳を塞ぎ目を閉じた。こんな時、頭の中に思い浮かぶのは母親が待つ暖かい家と大好きなシチューが頭から離れない。
「まっまぁ、ママ、ママァ~!もぉーマァマァ!!」
加奈は暗闇が広がる森にぶつけるように母親を呼び続けた。しかし、返ってくるのは木々がぶつかり会う音とたまに訪れる静寂のみ。加奈は完全にひとりぼっちになっていた。力なく地面に座り込み項垂れる。スカートから露出した肌に枝が食い込むが恐怖と孤独がかき消していた。流れる涙もなく只々、湿った黒美りする地面を見つめることしかできない。そんな時あることに気付いた。辺りが明るくなってきたのだ。加奈は雨で湿り乱れた髪を直すこともなく夜空を見上げる。
「あれ・・お月様あったっけ?」
綺麗にまんまるな月を見上げ加奈はつぶやくように語り掛ける。
「どうしたらいいの?おしえて・・・」
そんな時、一瞬暖かい匂いが鼻に入ってくる。どこか懐かしい、芯から温まる優しい匂い。加奈は何度も鼻から大きく息を吸い込み匂いが漂ってくる方向へ歩き出す。真っ暗闇の中、月明かりとその匂いだけを頼りにしてもつれる足をかばいながら・・・。まるで夢遊病者が頭の中を散策するように、薄く開いた目が少女の体力の限界を物語っていた。
「どこかでかいだことがある匂い・・懐かしい。」
加奈は道なき道を突き進む。その匂いを嗅ぐと不思議と力が湧いてきたのだ。
「あれ?」
加奈が進む目の前の丘の向こう側から空へ向かって明らかに光が差していた。加奈はオアシスを見つけた旅人の様に光の方向へ突き進む。すり傷だらけの足を構いもせず、ぬかるんだ地面を力強く蹴り、一刻も早くこの暗闇から抜け出したかった。なんとか丘の上まで駆け上がり、興奮した眼差しで見下ろしたがすぐに加奈は座り込んだ。加奈が家だと思った光は、月の光を反射した湖だった。全身の力が抜けていく中、心臓の鼓動だけが力強く鳴り響く。加奈は死を覚悟した。このまま、私はここで死んでいく。そんな現実に抵抗する気力も残っていなかった。しかし、絶望の眼差しで見る湖は月明かりを反射し今まで見たことのない幻想的な美しさを見せつけた。風で漂う水面に反射した光が加奈の寂しげな顔を照らす。
「きれ~なんでだろう?もうすぐ加奈死んじゃうのにね・・・」
加奈は不規則に反射する光を無意識に目で追っていた。そんな時、その光が一瞬、何かに当たって遮断された。
「えっ?」
加奈は暗闇の中、目を凝らしその方向を見る。そこには、確かに人影があった。湖の方を向いて突っ立ている。加奈は勢いよく立ち上がり大声で叫んだ。
「お~い!だれかいますか!!」
森中に加奈の声が木霊する。しかし、明らかに聞こえているはずのなのにピクリとも動かない。加奈その人影がある方へ駆け出していく。だんだん近づくにつれあることに気付く。
「オンナのコ?」
加奈に笑顔が戻った。自分くらいのその女の子と出会えほっと一安心した。
「きっとこの近くにおうちがあるんだ。」
そしてその子の真後ろにまで近づくと洋服がかなり汚れていることに気付く。
「あの・・・この辺におうちがあるの?加奈迷っちゃったみたいで・・・あなたのおうちまで連れて行ってくれる?」
そういうとその子は湖を向いたままか細い、甲高い声で答えた。
「ウン・・イイヨ。ジャア、ツイテキテ・・・」
こちらを振り向くことなくその子は水辺に沿って歩き出す。とぼとぼ力なく歩き出すその子の背丈はちょうど加奈と同じくらいだった。加奈はひとりでそそくさと歩いていくその子に置いて行かれないよう必死についていく。加奈は無言で歩く時間に違和感を感じ必死に話しかける。
「この辺に住んでるの?年はいくつ?お名前は?」
「・・・・・」
その子は話し返すどころかこっちを見向きもしない。加奈は全く手ごたえのない会話をあきらめた。仲良くしたくないのかな、でも助けてくれたんだし・・・そう思い、また二人の足音だけが辺りを包む。そうして暫く進むと森の中から明かりが見えてきた。体を折り曲げて光の方を見ると一軒のコテージが見えた。
「わぁ~あそこがあなたのおうち?きれ~!」
そういって加奈がその子の方に目を向けるとその子は急に立ち止まった。あまりに急すぎて加奈はその子の背中にぶつかってしまった。
「キャッ!ごめん!大丈夫・・・つ、つめたい・・・」
加奈はぶつかった頬から伝わるその子の体温が異常に冷たいことに驚きを隠せなかった。
「ソウ、アソコガオウチ・・・ワタシハイケナイカラ・・・」
「えっ??」
そういうとその子は足早に森に消えていった。加奈そんな異常な行動に唖然としながらも暖かそうな家に誘われるように歩いていった。小道を抜けるとその家の庭だろうか円形に短い草が伸び、奥の方には薪置き場と大きなブランコが目についた。木製の大きなドアの前に3段の階段があり、加奈は1段1段ゆっくりと登りドアノブに手をかけた。ドアの向こうからは物音ひとつ聞こえない。勿論、勇気がいるがここ以外に行くあてがない。心を決めると勢いよくドアノブを回し、ゆっくりとドアを引いた。少しづつ部屋の中が見えてくる。暖炉に気持ちよさそうなソファー、ダイニングテーブルそしてなによりドアの隙間から流れ込んでくる暖気に笑顔がこぼれた。しかし、次の瞬間ドアが勢いよく開き、加奈の手を置き去りにしたと思えば頭の上から大きな声が飛んできた。
「加奈!どこいってたの!!」
「えっ・・・その声は・・・」
加奈は恐る恐る顔を上げるとそこには心配そうに見つめる冴子がそこにいた。
「ま、ママ~!」
加奈は冴子の胸元に飛び込んだ。
「あらまあ・・こんなにびしょ濡れになって・・もう・・」
「ママァ~あったかい。」
加奈は冴子の胸元に顔をうずめるとそこから離れなかった。そんな加奈を優しく抱きしめる冴子はエプロン姿に身なりもきっちりしていて如何にも優しい母親像そのものだった。
「さぁこれで体を拭いて。風邪ひくわよ。」
冴子は大きな白いバスタオルを手渡した。加奈は濡れた体をバスタオルで拭きながらこの説明できない状況を整理しようとしたが頭に浮かぶのはここに案内してくれたあの女の子のことばかり。
「ママ、女の子にここまで連れてきてもらったの・・・あの子だれ?」
髪を勢いよく拭きボサボサの髪の毛の間から冴子の方を見ると冴子は小刻みに震えていた。
「ママ・・?大丈夫?」
加奈が話しかけた瞬間、大きな皿の割れる音が空間を切り裂く。
ガシャーン
「あの子に会ったの??ねえ加奈!あの子に会ったのね!!」
鬼の様な剣幕で冴子は加奈に詰め寄る。加奈は冴子の鬼気迫るものに身震いが止まらなかった。
「う、うん・・でも・・」
加奈の話の途中で冴子が両手で頭を抱え奇声を上げ始めた。そして冴子は加奈の方を見ると何かにおびえるように加奈の方を指さし床に尻もちをついた。
「ああ、ああああんた!どっから入ってきたの!!」
加奈が急いで振り向くとあの子がびしょ濡れの乱れた髪で顔を隠し、薄汚れたワンピース姿のまま立っていた。その異様ないで立ちに加奈の全身を鳥肌が襲う。しかし、加奈よりも冴子の方がその子を恐れているようだ。その子はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「こ、こないで、来ないでぇ~!!お願いだから!!いやぁぁぁー」
「キャーーーー!!」
寝静まる病院内で加奈の叫び声が響き渡る。うとうとしかけていた夜勤の看護師が気付き、加奈の個室に急いだ。勢いよくドアを開けると電気をつけた。そこには点滴の管を全てはずしベットの上でうずくまる加奈が絶叫を上げている。
「加奈ちゃん!?どうしたの!」
急いで看護師は近づい加奈の肩を強く掴み揺さぶった。どうやら寝ぼけているようだ。
「加奈ちゃん?!怖い夢でも見たの??大丈夫だから大丈夫だから。」
優しく加奈の体を抱きしめ髪を優しく撫でる。加奈は次第に正気を取り戻し泣き叫ぶ。
「ママ~ママァ~さみしいよぉ~・・・」
看護師はかける言葉が見当たらず、加奈を抱きしめることしかできなかった。
「加奈が?・・・・」
「そうなんです・・・ずっとお母さんを呼んでいて・・」
「・・・そうですか・・」
ナースステーション前で五郎と昨夜の夜勤看護師が立ち話をしていた。
「やっぱり寂しいんでしょうね。まだまだお母さんが必要な年です。新田さんにこんなこと言うのは酷かもしれませんがあの子の心の傷は一生癒えないくらい深い傷だと思います。それをあんな小さな体でこれから背負っていくしかないんです。それが可哀そうで・・」
五郎は返す言葉が見当たらない。加奈の笑顔に安心し粗暴な母親などの何の価値もないモノだと勘違いしていた。一切、家事も育児もしない母親よりも自分たちの方が優れていると過信していたのだ。どんな母親でもあの子にはたったひとりのかけがえのない存在なのだ。五郎は胸の締め付けられる思いで一杯になり、ひとりの子を育てる責任を痛感した。
「昨夜はお手数掛けまして・・これから加奈に何かあればいつでもウチに連絡してください。何時でも構いませんので。」
「はい。私たちもできる限りのことは致しますので・・」
五郎は一礼すると加奈の待つ病室に急いだ。勿論、不安と戸惑いで向かう足は重たかったがそれにも増して加奈を思う気持ちのほうが強かった。自分はこれから一生加奈の人生を受け止めなければならない、こんなことで負けてはいられない、そんな気持ちが五郎を奮い立たせていた。加奈の病室に着くと迷うことなくドアを開け笑顔で部屋に入った。加奈は朝食の途中で目を大きく開き五郎を見る。
「おはよう!朝ごはんうまいか~!えらいな、ちゃんと食べてるな!」
「おはよう、パパ。ごはんくらいちゃんと食べれるよ(怒)」
五郎が思ったより加奈は明るく元気だった。昨夜の出来事を感じさせないほど自然に五郎を迎える加奈に甘えそうになったが五郎はここで一度ケジメを付けることにした。いつまでも加奈の強い心に甘えるわけにはいかない。五郎は加奈に近づくと顔を引き締め話しかけた。
「加奈・・やっぱりお母さんが恋しいか?そうだよな、まだまだ加奈にはお母さんが必要だもんな。でも加奈、お父さんとお爺ちゃん、おばあちゃんはいつでも加奈のそばにいるから・・もう寂しい思いはさせないから安心しなさい。これからは今までの生活は忘れてお父さんの家で4人で暮らそう。今日、先生に聞いたらもうすぐ退院できるらしいから。」
加奈は口の中に入っている食塊を飲み込むとゆっくり箸を置き落ち着いた目で五郎を見た。
「加奈ね、ママがいなくても平気だよ。寂しいけど平気!だっていつかママは戻ってくるから・・・それまで加奈、パパのとこでいい子にしてる!」
加奈は五郎に満面の笑みを見せつけた。五郎はまた加奈の強さに救われたのだ。弱みを見せないわけでもない、孤独に優っているわけでも劣っているわけでもない。ただ、この信じがたい状況に必死に適応しようと頑張っている、そんなことがこんな小さな子にできるんだろうか。こんな強い子にいつの間に成長したんだろう、我が子ながら誇らしかった。五郎は笑顔で加奈の髪を撫でると部屋を後にし職場に急いだ。五郎が足早に過ぎ去る病院の廊下を行きかう人々が皆幸せそうに微笑んでいるようにその時の五郎には見えて仕方なかった。
「うわぁ~なんだこれは。」
庄吉は軍手をはめた手で鼻と口を押さえながら加奈のアパートのドアを開けた。あの一件以来、ドタバタに紛れ手つかずだった掃き溜めの様な一室を妙子ともに掃除しに来た。もう加奈にこのアパートの存在を思い出させたくない、数日中に退院するまでにこのアパートとは綺麗さっぱり縁を切りたかった。
「ひどいわねぇ~」
庄吉の後に続き妙子も鼻と口を押えながら部屋に入った。想像以上のごみと悪臭が二人を襲う。ふたりは顔を見合わせると靴を履いたまま居間に上がった。居間には加奈のおもちゃ、ぬいぐるみが乱雑に置かれており、テーブルの上にはいつ飲んだかもわからないカップに入った半分のコーヒーとその周りにはビールの空き缶が所狭しと並べられていた。これだけ見てもどれだけ生活が荒れていたか察しがついた。テーブルは埃まみれでここで食事をしていたとは思えないほどであり、居間の隅に置かれたベッドは洗濯した物かしてない物かわからない衣服で埋め尽くされていた。そのベッドの下にはもう一つ布団が敷いてあり、そこには加奈のものだろうかぬいぐるみが転がっていた。
「加奈がここで一人で寝てたのかな?」
庄吉が妙子の方を振り返り、眉間にしわを寄せ問いかけた。妙子もまた眉間にしわを寄せながらぬいぐるみの寝る布団を見つめる。
「まさか・・・そのベッドが荷物置き場だから二人で布団で寝てたんじゃないの?」
納得のいかないまま庄吉と妙子は片手にごみ袋を持ち掃除を始めた。見る見るうちにゴミ袋が一杯になって行く。二人はゴミ袋が一杯になると玄関を出てアパートの前に置き、また新しいごみ袋を持つと部屋に戻った。そんなことを何回もくりかえし行いようやくゴミらしきものは全て部屋の外に出すことができた。後は冴子、加奈の私物の整理だ。ふたりは冴子の私物を引き取りたくなかったが捨てるわけにもいかずやはり、自分の家で保管することに決めていた。勿論、妙子はその事を快く思っていない。母親の責任もろくに果たさない者の荷物など捨ててしまえばいい、そう本気で思っていたが庄吉になじられヒトとしての守るべき道は外さずに済んだ。庄吉はまずベッドの上に載っている大量の衣服から整理することに決め一枚づつ冴子、加奈の衣類に分けていった。女性だけあって衣類だけでも相当な量だ。なんとか二人力を合わせ整理を終えた時、庄吉は子のベッドに何か違和感を感じた。
「ん?なんか変だな・・」
妙子はそんな庄吉を不思議そうに見つめる。
「どうしたの?」
「ん~なんかこのベッド変じゃないか?」
妙子は庄吉の顔を伺いながら再びベッドに目を移す。しかし、別になんの変哲もないシングルベッドがそこに置いてあるだけで何も不思議に思う点などなかった。
「やっぱりここで寝てなかったのかな?だって普通ベッドに寝るときでも敷布団は引くだろ?それに掛け布団もない。なんかここに寝てた感じがしないよな・・・」
「そう言われるとそうね。下で二人で寝てたんじゃないかしら。まあいいじゃないの、それより急がないとすぐ暗くなるわ。加奈には悪いけどなんかこのアパート気味が悪くて長居したくないの。」
妙子が心持悪そうに庄吉に訴えかける。それから二人は急いで整理していくが年老いた二人での仕事量には限界があり、一日で全てを終える事ができず、明日また来ることにした。
「はぁ~それにしてもすごいごみだな・・」
庄吉はアパートの外に並べられたゴミ袋の山を見てため息をついた。見ているだけで具合が悪くなるほどのごみの中で生活してきた加奈のことを思うと心が痛んだ。加奈は庄吉、妙子にとって初孫だ。かわいくてかわいくて仕方がない。そんな孫と離れ離れになるのをどれだけ悔やみ涙を呑んだことか冴子には分からないだろう。離婚が決まったとき庄吉は初めて五郎の前に涙を見せた。庄吉は銀行を定年まで勤め上げ今は社会保険労務士として小さいながらも事務所を立ち上げている。そんな強い父親も息子の離婚、孫との別れは想像を絶するほどに辛いものだった。生きる糧は家庭にあり、そんな原動力ともなる身内が揺らぐことが自分の人生をこんなにも揺るがすとは本人庄吉ですら頭になかっただろう。しかし、そこからまた自分を奮い立たせ今の人生を歩んでいる。孫のいない人生を模索し残り少ない時間を意義のあるものにするため日々四苦八苦しながらも精一杯生きてきた。ようやく心が落ち着きだしたころにこんな事件が起き心境は穏やかではないが加奈が自分の人生の一部になることが何より庄吉の明日を支えていた。庄吉と妙子はその山積みのごみ袋をなんとか一階のごみ置き場まで運び、年老いた体を二人で笑いあった。地味ながらも二人で正しい事を信じ守ってきた。投げだして自由になりたいと思ったことは一度や二度ではない。しかし、いろんな困難も夫婦で支えあい乗り切ってきた。恋愛から始まったふたりの愛は、いつしか性別を超えたかけがえのない物に変わっていく。その絆は罪では消えず、生が続くまで、意識が続くまで消えることのないこの世で唯一の絶対であると信じて疑わなかった。そんな愛を五郎や冴子にも味わってほしかった。欲望が姿を変え愛であると騙されたままの錯覚に惑わされ、人生を生きていくほど酷なことはない。しかし、その愛に気付くまでには時間も知識も経験も必要だ。勿論、何度も何度も訪れる試練もある。思想の中に世界が存在し、目で見る外界は欲望が映し出す地獄に過ぎない。その地獄の中で助け合うのが家族であり、夫婦であり、親子である。庄吉は無性に加奈の笑顔に会いたくなり妙子と共に疲れきった体で病院に車を走らせた。
「お客さんウチの店初めて?」
「・・・」
「観光客?」
「・・・・」
男は何も言わず煙草を吹かすだけで、心ここにあらずだった。ベッドの上で若い男女が裸を白いシーツで隠し束の間のひとときを味わう。
「無口だね・・」
男は何も言わず財布からお金を抜き取るとテーブルに置いた。
「これでいいだろ?もう帰ってくれ。」
女は顔をしかめるとその男を睨みつけ、乱暴にシーツを退けると衣服を素早く取りホテルの部屋を後にした。そんな女には目もくれず只々、煙の行く末を虚ろな目で見つめる。一三階に借りた部屋からは外の喧騒も聞こえず只々、静寂だけがたちこめる。大事に吸った煙草を消すと夜景の見える窓辺にたった。窓辺からは駅とそこからつながる線路、駅を囲むビル群がみえる。こんな大きな都市にどれくらいの人間がいるんだろう。自分の存在が希薄化されるにつれ男の安心感は満たされていく。こんなに人がいるのに自分のことを知っている人間なんて一人もいない。偽善者の支えあいで弱さを隠し、その恐怖心で世の中は回っている。誰だって自分の人生を肯定するだけで正しいかどうかなんてわからないし分かろうとだってしていない。そんな無責任な社会で俺を否定などできるもんか、誰だって罪は犯してる、五〇歩一〇〇歩の鬩ぎ合いで命を落とす。こんな卑屈な感情はもう捨てたはずだった、まっとうに生きていくはずだったんだ。人に言えない仕事は辞めて昼間の仕事に就いたはずがもう闇の中を見つけて歩く生活だ。どうやら俺は神に嫌われているらしい・・・男はフッと笑った。自分が必死になればなるほど、自分が真面目になればなるほどこんな滑稽で惨めな姿になる。こうなるはずじゃなかった、こんな人生を歩むはずじゃなかった。俺にだって幸せになれる権利はある。何が間違っていたんだろう、何がいけなかったんだろう。気づけば逃げるように見知らぬ土地に来てたった一人暗闇で目の前も見えない迷路に迷い込んでいる。たったひとり希望の光を照らしてくれた人はもうこの世にいない。愛してた人もいないこの世に未練などないはずが未だ首の皮一枚でぶら下がってる。恥じも何も感じない、感じれない鈍った感情が現実とも幻想とも取れる空間を作り出しその場に自分の居場所があると信じ込んでいる。今の自分の心を癒すのは未来ではなく、頭の中にある都合のいい言い訳だけだった。そんな男の思いとは裏腹に、窓辺から見える夜景は美しく輝きその男をあざ笑うかのように長い闇夜は更けていった。
「おめでとう!」
ナースステーションの前で数人の看護師が私服姿の加奈に笑顔と拍手を送る。それに答えるかのように加奈ははにかんだ笑顔でお返しをする。加奈はまだ頬がこけて体重も同年代の子の半分くらいしかなかったが経口から三食食べれることと病院よりも早く次の生活に慣れてほしい希望も含め予定よりも早く退院が決定した。加奈の後ろから五郎、妙子、庄吉も深々と看護師に挨拶し笑顔で名残惜しいその場を後にする。五郎はいつまでも振り向き手を振る加奈のあたまに手を回し優しく連れ添った。加奈はしっかり五郎の服を掴み離さなかった。五郎はその心地いい感触を背中で感じながら加奈の方を見る。加奈はの表情は硬く、不安なのか足取りは重かった。そんな加奈に哀愁を感じ、痩せ細った体を引き寄せた。
「加奈、今日は何が食べたい?なにかおいしい物食べに行こう!」
加奈は笑顔で五郎を見つめ、一瞬頭の上に視線を移し答えた。
「加奈ね~お鍋が食べたい!」
「お鍋?」
「うん!お鍋!お肉が一杯入ってるお鍋!」
「肉がいっぱい入ってる・・・・あっ!すき焼きか!」
「うん!」
そんな会話を聞いてた妙子が目を輝かせ振り向いた。
「じゃあ帰りに買い出し行かないとね!うんといいお肉を買っていきましょ!加奈ちゃんとお鍋できるなんておばあちゃん幸せ!」
皆、笑顔だった。こんな幸せは何年振りだろう。子供一人が周りの大人を笑顔にすることができるパワーを持っている。大人にはない子供にだけに許された能力だ。大人も皆、昔は子供だった。素直で皆に愛嬌を振りまくかわいい子供だった。いつしか知恵をつけ損得勘定でしか世界を見なくなる。ヒトと一緒に居ることだけで楽しいことなんて忘れ、まだ見えもしない明日のことを心配し眠れる夜をやり過ごす。子供はそんな愚かな大人に気付かせてくれる。本当の幸せと生き方を生き急ぐ大人にそっとブレーキをかけてくれるんだ。
その夜、新田家からは笑い声が絶えなかった。食べきれない料理を次から次へと出す妙子にテーブルからのけぞりお腹を摩る加奈、そしてそんな様子を見守る庄吉と五郎。こんな幸せな家族がなぜ今まで引き離されていたんだろう。そこに意味はあるんだろうか?これが家族のある形で、身勝手な母親のもとで苦労する子供なんて見たくない。俺は父親なんだ、父親の愛情を遮る理由なんてこの世に存在しない。勿論、母親は子にとって誰も代わりの勤まらない唯一無二であるのかもしれない。片思いの女の子の様にどんなに愛情をかけアプローチしても好きな女の子には勝てない。でも悪い女に騙され人生を棒に振るのをみすみす見逃すわけにはいかない。どれだけ心酔していようが大切な人を守る努力をすることは誰にだってできるんだ。加奈の笑顔を何回作れるだろう。そのたびに俺がここに存在する意義は必ずある。加奈には立派な大人になってほしい。立派な母親にもなって欲しい。人が人に愛情を傾け、愛情をかけられた人はまたそのお返しをしていく。それは技術、お金なんかの名声よりももっと美しい人間として生きるための糧になる。加奈と五郎は夕食後、一息ついてから一緒にお風呂に入った。離婚したのは加奈が一歳くらいの時だから加奈は覚えていないだろうが仕事から帰ってきていつもお風呂に入れていた。あの頃はまともに喋れず泣いてばかりいてどんなに苦労した事か・・・。今はまるで別人の様に自分の足で歩き、衣服を脱ぎ、しっかり自分で体を洗うことだってできる。
「加奈、今日はどうだった?疲れたか?」
二人で湯船に浸かりながら五郎が加奈を気遣う。
「全然!すごい楽しかったよ!ちょっと食べ過ぎで気持ち悪いけど・・」
「そうかそうか。じゃんじゃん食べてしっかり太れよ~(笑)またおばあちゃんなんでも作ってくれるから。あっ!あと明日日曜日だから一緒に買い物いこう!加奈の日用品もいるからな!」
「うん(笑)」
加奈は笑顔で返事をすると一瞬沈黙が訪れた。五郎は何か違和感を感じる。自分の子なのに何かよそよそしい感じがした。会話とか仕草とかではない。見た目はどう見ても親子で会話だって仲のいい家族だ。でも何か足りない。時々訪れる加奈の寂しげな表情を見るたびに怖くなり、疎外感を感じる。この子の本心は未だ聞けていないのではないか。気を遣わせているのではないか。まだ本当の親子になるには時間が必要だった。一緒に時を重ね、無くてはならない存在にちょっとずつなっていく。自然に手を取り、素直にもたれかかり、わがままをいい、怒って家出をする。そんな娘を一晩中寝ずに探し回り、朝になって帰ってきた娘の頬を引っ叩き強く抱きしめる。壊れるぐらい締め付けられた体の痛みから子を思う親の苦しみ、不安を悟る。そんな普通の親子になれるまで一緒に歩んでいこう。ゆっくりでもいい、二人の間にできた溝を二人で少しずつ埋めて行けばいい。積極的に五郎は加奈に話しかけ、絶えず会話をするよう心掛けた。加奈に過去を思い出させないために、加奈に自分のことをよく知ってもらうために。五郎は加奈をお風呂から上げると体をふき、用意した新調のパジャマを着せ寝床に連れて行った。加奈は疲れていたのかすぐに寝息を立て寝始めた。無理もない色々なことがこの子の身に起こったんだ。五郎は加奈を起こさないようドアをしめず少しだけ開けたま居間に戻った。そこには心配そうに五郎を見つめる庄吉、妙子がお茶をすすっていた。
「五郎も飲みなさい。」
何か言いたげな二人に五郎は居心地悪そうに向かい合って座りワザと目をそらしお茶をすすった。無理もない離婚してからの新田家は罪の擦り付け合いだった。世間では当たり前になった離婚も近隣では未だ偏見が付きまとう。人生に失敗した人間、甲斐性なしの男のレッテルが張られ生きづらい生活を余儀なくされていた。そんな息子を持つ父親、母親の責任が新田家に暗い影を落とす。口では言わないが自分たちの夫婦像を幼いころから見てきた五郎が結婚に失敗することは自分たちを否定されているようで仕方なかった。新田家は今では珍しい亭主関白であり、五郎はその関係をまじかに見てきた。いつも怒っている父親に納得のいかないまま従う母親、しかし、それが普通ではない事は分かっていた。反面教師の様に自分は父親のようにはならないという自我が芽生え母親の手伝いをよくする子になった。確執とまではいかないが父親の考え方に賛成できず、距離を置いた状態が続きあまり会話のない家庭であった。愛情表現の苦手なぎこちない関係がいつしか居心地のいい空間に変わり深い話などここ何年もしていない。しかし、そんな父親も孫には甘いらしい。孫の誕生を心から喜び会話の種になる。そんな孫を生んだ嫁に対する扱いも丁寧で妙子はその事もよくは思っていなかったが黙認していたのだ。自分たちだけでは会話もろくにできない家庭では家の外からやってくるお客がなによりの話のタネ、逃げ場となる。
「五郎、加奈のこれからのことなんだけど・・・」
「加奈?なに?」
「保育園は近くのに代えたほうがいいんじゃないか?今まで通ってたとこは遠いし、小学校も違う管轄だからな。」
庄吉は真剣な眼差しで五郎の方を見る。横では心配そうな表情で妙子がお茶をすすりながら見守る。
「いや。保育園はちょっと遠いけど今までのところに通わすつもりだ。今、何もかも変わった環境の中で友達関係も全て白紙にするのは加奈に負担が大きすぎると思うんだ。そんな簡単に過去を捨てられるもんじゃない。できれば少しずつ加奈の心の整理を付けてやりたいんだ。」
「そんなこと言っても小学校に上がったらそこの友達には会えないんだぞ。今ならこのタイミングで保育園も変えて新しい人間関係も作れるんだ。いいから言う通りにしなさい。」
五郎は庄吉を睨みつけた。
「いつまでも子ども扱いすんなよ!俺は今の加奈の状態を考え抜いて出した答えなんだ。あんたに指図される覚えはない。俺が父親なんだ!」
そういうと勢いよく座布団から立ち上がり加奈の待つ二階にある自分の部屋に駆け上がった。居間に残された二人は沈黙のまま苦いお茶を啜るしかなく、テレビから聞こえてくるバラエティ番組の笑い声だけが場違いに流れていた。
「おはようございます!」
五郎は加奈に連れ添い、加奈の通いなれた保育園にやってきた。五郎の声に気付き若い保育士が駆け寄ってくる。
「あら加奈ちゃ~ん!おはよう!」
「おはよ~」
「じゃあ加奈、パパお仕事終わったら迎えに来るからね。いってらっしゃい。」
加奈は黙って頷くと足早に中に入っていった。五郎が覗くと中で友達らしき園児たちと楽しそうにおもちゃで遊んでいる。そんな五郎と一緒に保育士も加奈の方を見ていた。
「加奈ちゃん明るくてすごくいい子なんですよ~友達も多いし。」
「そうですか。私もここに来るのは初めてで・・・あっすいません。自己紹介がまだでしたね。私加奈ちゃんの担当の内藤と申します。」
内藤はうつむき加減で言いづらそうに五郎を上目づかいで見た。
「聞きました。冴子さんの行方がわからないって・・・加奈ちゃん、変わりありませんか?お母さんの事大好きだったから。」
「ええ。やっぱり戸惑いはあるみたいで時々夜中に母親を呼ぶ時があるんですがだんだん今の生活にも慣れてきたみたいで。ちょっとここからは離れてるんですけど加奈の友達のいる保育園が一番かと思いまして当分はここに通わせるつもりです。」
「そうですか。私たちもできる限り加奈ちゃんをサポートしていきます。加奈ちゃんはしっかりしていて保育園の中でもお姉さんキャラなんですよ。だからそんな加奈ちゃんならきっと大丈夫!」
五郎の表情に笑みがこぼれた。
「また何かあったらいつでも連絡してください。それでは。」
五郎は保育園の中庭で何人もの保護者にあったが結構父親が送り迎えしていることに安堵した。五郎の子供の時、決まって母親が送り迎えしていたものだ。時代の移り変わりと子供の送り迎えに悪戦苦闘している父親たちの姿が滑稽に見えた。
「おっ、やばいやばい。」
五郎は見慣れない保育園の空間に見とれて時間を忘れていた。急いで車に飛び乗ると颯爽と駆け出していった。
新田家の離れに藍色のプレハブ小屋がありそのチープな外観からは似つかない輸入机に革張りのデスクチェアー、応接用のソファーが並ぶ。壁際には難しそうな本が本棚に所狭しと並べられていて如何にも信用できそうな人物像を演出する。外には大きな文字で「新田庄吉社会保険労務士事務所」なる看板が掲げられており、これは庄吉の夢でもあり、ありったけの見栄だった。銀行勤務を30年したのちに念願の夢であった個人の事務所を開きなんとか自分の力で食べて行っている。いわば庄吉の終着地点だがプレハブ小屋に変わりはない。今朝もスーツに着替えた庄吉が事務所の引き戸を開ける。
「おっ!はやいね、美紀ちゃん。」
「おはようございます。今コーヒー入れてました。」
「いつも悪いね~」
庄吉よりも早く事務所に来ていたのは近所に住んでいる笹倉美紀、彼女の両親もよく知っていて庄吉が事務所を出すことを話すと是非娘を働かせてほしいと強く押された。正直、仕事量がどれだけあるか、どれだけ収益を出せるか分からない状況で誰かを雇うなんて勇気が要ったが近所付き合いもあり簡単には断ることができなかった。それに美紀はいじめが原因で引きこもりになり高校を中退している。高校は県内でも有数の進学校であったが大学も諦め家から出ることができなくなっていた。庄吉は幼いころから知っていたし、おとなしいが優しく真面目な子であることは認めていた。小さい事務所ではあるがここから社会へのつながりを深めていってほしいとの願いも込め一緒に働くことを決意した。働いてみれば庄吉が思った通り要領がよく、しっかりとした仕事をこなすので庄吉は助かっていた。
あと美紀が煎れるコーヒーの味は格別に美味しかった。
「庄吉さん、コーヒーです。」
美紀がデスクにゆっくり湯気だったコーヒーカップを置く。
「いつもありがとうね。さあ、美紀ちゃんも飲んで。」
「はい、ありがとうございます。」
ふたり静かな空間でコーヒーを啜る。普通の会社では考えられないゆっくりとした時間が流れる。最初、美紀はやはり会話が苦手なようで美紀から庄吉に話しかけるのは仕事の話以外にはなく、いつも庄吉から世間話を振ることがほとんどだった。しかし、徐々に慣れてきたのか今では気さくに話し合える仲になっていた。
「美紀ちゃん、お父さんたち今何してる?最近、あまり見かけないけど・・」
「今、弟の大学受験で色々飛び回ってます。」
「卓也君?あ~もうそんな年か~おじさん小さい時しか見てないからあんまり想像つかないな。確か美紀ちゃんと同じ高校だったね。」
「はい。あんまり私が言うのもなんですが大学中々見つからないらしくて・・・親は医学部に入れたいらしいんですが難しいみたいです。」
「医学部!そりゃ大変だ。そうかそうか。笹倉家はお父さんもお母さんも学校の先生だからきっとうまくいくよ!大丈夫!」
美紀は微笑みながらコーヒーを啜った。美紀は寛大で優し父親のような庄吉が大好きだった。
「そういえば、五郎さんの娘さん来られてましたね。今朝も五郎さんと出かけたみたいな・・どうされたんですか?」
庄吉は目をまんまるにしてコーヒー片手に美紀を見た。
「あ~そうそう。美紀ちゃんにも話しておかないといけないね。加奈なんだけどいろいろあってね、ウチで引き取ることになったんだよ。だからこれから迷惑かけるかもしれないけどよろしく頼むよ。」
「いえいえ、こちらこそ。・・・じゃあ、賑やかになってよかったですね。庄吉さんも加奈ちゃんには目がないようですしね。」
「ははは。」
庄吉は顔を赤らめながら照れ笑いを隠せなかった。
「じゃあ、外回り行ってくるから美紀ちゃん留守番よろしくね。」
「は~い。いってらっしゃい。」
庄吉は追われるように事務所を後にし営業車兼自家用車に乗り込み車を走らせた。フロントガラスから入る車道の脇に綺麗に規則的に並べられた木々の葉の合間から覗く朝日がいつもより眩しく見え透き通るような空が一面に広がり心洗われるようだった。
五郎は経済学部を卒業した後、大学院にまで進み実家の近くにある証券会社に勤めてもう10年になる。高層ビルとまでは言えないが8階立てのスマートなビル一棟を五郎が勤めるR.B.証券が所有している。決して歴史のある証券会社ではないが社長は海外でも実績のあるエリートで凌ぎを削るこの業界でなんとか生き抜いて来ている。社員層も仕事に熱意のある者が多く、夜中まで明かりが消えないことは日常である。温かみのある空間というよりは男のロマンを人生をかけて追い求める場ともいえる職場は常に気が抜けない雰囲気で活気があった。独身社員も男女問わず多く、家庭から出る生活感は感じられなかった。五郎は離婚した時、家庭の事情を色々聞かれないこの職場の雰囲気に助けられながら、かえって居心地がよく何も考えず自分の仕事に打ち込むことができたのだ。朝、いつもより遅く出社した五郎はブリーフケースをデスクに素早く置くと所属部長でもある近藤のデスクに急いだ。近藤もどうやら今出社したみたいでコートを脱いでいるところに滑り込んだ。
「近藤部長おはようございます。」
「おお、おはよう。どうした?なんかあったか?」
「ええ、あの私的な事なんですが娘と一緒に暮らすことになりまして・・」
「娘?あ、あの奥さんが引き取った子か?えっ?なんで?」
「え~ちょっと妻のほうが引き取れなくなったものですから代わりに私の実家で引き取ることになりまして。」
「そ、そうなのか。・・でもよかったな。奥さんに何かあったのか?」
「・・・え~複雑でして・・」
「そうか。でもよかったな、一緒に暮らせるんだろ?」
「はい。これから何かとご迷惑おかけするかもしれませんがよろしくお願いします。」
「うん。これから色々大変だと思うけど頑張れよ。育児は簡単じゃないからな。まあ俺は仕事仕事で逃げてきた身分だから偉そうには言えないけどな・・」
「そうですね。部長もお子さんいらっしゃいましたよね。高校生でしたっけ?」
「そうだよ。来年大学受験でえらい目にあってるよ。馬鹿なのに女房は見栄でいいとこいいとこ探すから学校の先生も困ってるよ。家に帰れば夫婦喧嘩ばかりだからな~夫婦も善し悪しだよ。」
「ははは。そうですか、そんな風には見えませんけどね。優しそうな奥さんで何回か声をかけてもらったことがあるんですが・・いやしっかりした奥さんで羨ましいです。自分はひとり親なんで、しかも娘ですし実際どうなるか不安ですけど頑張ります!それでは。」
いつもより凛々しく活気がある五郎の背中をほほえましく近藤は見ていた。離婚してから五郎の背中には悲しみしかにじみ出ていなかった。近藤も五郎の結婚式に出席し祝いの言葉を述べた責任を感じていた。自分が関わった結婚式、部下には幸せになってほしかった。五郎は真面目で不器用な性格と知っていたし、曲げられないものを心に秘めていたの知っている。人間として男として真の通った五郎は今の時代にそぐわないかもしれない。しかし、昔のよき父、夫を目指す心意気は近藤の同年代の男なら誰しも胸打たれるものがある。理想主義の馬鹿なオジさんの戯言かもしれないがそこに男の意義が存在する。お喋りばかりのフワついた男が女性の心を掴む現代に抗い生きているのではない。志というものはこの世のものでは比較できないほど希少で尊く美しいものだ。それが例え愛するヒトであっても守るべきものがそこにある。頼りがいのある五郎の背中を横目で見ながら近藤はパソコンに向かった。
「加奈ちゃん、一緒にあそぼ!」
加奈が一人でおもちゃが雑多する部屋で遊んでいると一人の女の子が声をかけてきた。背丈も服装も加奈によく似た子で名札には”杏理”と書かれている。杏理は加奈が入所したころからの友達でいつも一緒に遊んでいた。母親同志の付き合いもあり何度か4人でご飯を食べに行ったことがある。家にも行き来するような仲でもある。
「いいよ~!杏理ちゃん、ここに座ってこのお人形動かしてね。」
「うん。わかった~!」
杏理と加奈は二人でお人形遊びをしだした。杏理は子供役、加奈はお母さん役だ。
「杏理ここで待っててね。ママお買い物行ってくるから。ちゃんとお留守番してるのよ。」
「は~い。」
加奈がお母さん人形を動かし家の外へ出ていく。そのお母さん人形はトコトコ歩いていくと恐竜の前で止まった。
「あら、待ったぁ~!ごめんね。さあ、一緒に行きましょ!」
その様子を看ていた杏理がつまらなそうに加奈の方を見ていた。
「加奈ちゃ~ん!杏理つまらな~い!」
杏理は加奈の方を泣きそうな目で訴えかける。
「ごめんね~!もうすぐ帰るからもうちょっと待っててね。ちゃんといい子にお留守番してるのよ~!」
「はぁ~い。」
そこからおかあさん人形と恐竜はどこかのお店に入っていく。
「さあ、お酒飲みましょ!あなたは何を食べるの?」
加奈はその二つの人形の前に果物とコップを置いた。
「さあ、食べましょ!今日ね、こんな楽しいことがあったの!おかしいわね!ははは。」
お母さん人形とその恐竜は楽しそうにご馳走を囲み楽しそうに談笑している。その傍ら、杏理の動かすこども人形は狭い家の中で退屈そうに留守番している。勿論、動かす杏理の顔も楽しそうじゃなくどこかふてくされた表情だった。加奈はそんな杏理の顔を横目で見てさらにおかあさん人形と恐竜の楽しい食事を演じる。家に帰る素振りは一切ない。杏理はっもう我慢の限界なのか立ち上がりこども人形を乱暴に投げた。
「杏理おもしろくない!あっちで遊んでくる!」
杏理が向こうを向いた瞬間、加奈の罵声が飛んできた。
「何言ってるの!お母さんがお留守番してって言ったでしょ!!」
杏理は今まで聞いたこともない杏理の大きな声に驚き泣き出した。しかし、加奈はそんな杏理には構わずさらに大きな声でまくしたてる。
「ちゃんと掃除はしたの!ちゃんと宿題はしたの!!何もしてないじゃない!お母さんが返ってきたらお水出すでしょ!そんなこともできなの!!」
加奈の目はつりあがり、別人の形相で杏理を睨みつける。加奈は急に立ち上がり杏理の髪を掴むと人形のところまで引きずって歩いた。杏理は大声で泣き叫び足をバタバタさせ抵抗した。そんなことお構いなしに加奈は杏理を叱責した。
「はい!ここ掃除して!早く!こんなことで泣いてんじゃないわよ!!」
異様な雰囲気に内藤が駆けつける。そこには泣きじゃくる杏理と鬼形相で睨みつける加奈の姿があった。
「ど、どうしたの?」
杏理が内藤のところに泣きながら飛びついた。そんな杏理を見てまだ加奈は続ける。
「どこいくの!!まだ掃除がまだでしょ!!戻ってきなさい!!」
加奈の大人びた口調に内藤は驚いた。
「どうしたの?」
内藤は杏理と加奈を交互に見合わせる。杏理が内藤のお腹に顔をうずめたまま口を開いた。
「おままごとしてたら急に加奈ちゃんが怒りだしたのぉ~・・」
内藤は杏理の方から加奈の方へ目をやる。
「加奈ちゃん、ケンカだめよ!どうしてそんなに怒っているの?良かったら先生に聞かせて?」
加奈は杏理を睨みつけるのをやめ、冷静な目で内藤の方を見た。
「先生!杏理ちゃん悪い子です。おかあさんが外で遊んでいるのにちゃーんと留守番しないんです。掃除もしてないし、宿題もしてないし、帰ってきたお母さんにお水も出さないんですよ。だから加奈怒ったの。だってそうしないと、ちゃんといい子にしてないともうお母さん帰ってこないから・・」
内藤は加奈の言った意味が一瞬分からなかった。しかし、時間がたつにつれ加奈がなんでそんな事を口にしたのか察した。内藤は杏理を向こうに行かせると加奈に近づき、きつく抱きしめた。加奈がこれまでどんな生活を送ってきたのか、どんなに寂しい思いをしてきたのか。加奈は必死に母親に嫌われないようどんな言いつけでも守ってきた。破れば狭いアパートで死ぬよりもつらい孤独が待っている。そんな恐怖心を加奈に植えつけながら自分は外で好き勝手していたのだ。こんな小さい子を奴隷の様に扱い、平気で居れる親がいることに愕然とし、涙が頬をつたう。
「加奈ちゃん。お母さんは戻ってくるよ。いい子にしててもしてなくても加奈ちゃんのところに必ず戻ってくる。子供のこと嫌いなお母さんなんてこの世にいないんだから。先生と一緒に待ってようね。」
内藤は加奈を引き離し顔を見るともう加奈は眠り込んでいた。さっきの表情とは別人のようにかわいいいつもの加奈に戻っていた。内藤は加奈を抱きかかえると昼寝用の布団を取り出し静かな個室で寝かしつけた。ぐっすり寝入った加奈の目じりから一筋の涙がスッと流れ落ちた。
「そうですか・・・加奈がそんなことを・・・」
五郎は内藤から手渡された加奈を抱いたまま今日の出来事を語る内藤に耳を傾けていた。
「加奈ちゃん、やっぱり相当ひどい目に遭っていたようなんです。」
五郎は加奈を見つめ話し出す。
「俺も後悔してるんです。離婚するとき裁判を起こしてまでも親権を取るべきだった。妻の負担になれば加奈に悪影響が出るんじゃないかって・・・間違ってた。」
肩を落とす五郎に内藤は優しく手を差し伸べた。
「新田さん、一緒に頑張りましょう。」
「すいません。お恥ずかしい・・」
内藤に挨拶すると家路についた。家の玄関を開けると心配そうに庄吉、妙子が出迎える。加奈は夕食も取らずにそのまま二階の部屋で眠り続けた。一階の食卓では大人三人の重苦しい空気が流れる。味噌汁を啜る音と漬物を噛み砕く音だけが不規則に鳴るばかり。そんな空気を打ち砕くように五郎が口を開く。
「冴子を探してみようと思うんだ・・」
驚いた二人は端を止める。
「そんなことする必要ないわ!何言ってるの?」
妙子が心情穏やかでないトーンで怒鳴りつける。
「母さんも聞いただろ!加奈がおかしいんだよ!頭に来るけどアイツにしか加奈に起きたことを説明できないだよ!そうだろ?」
「そんなことする必要ない!あんな女の力なんて必要ない!」
「おい。ちょっと落ち着け!」
庄吉が興奮した妙子をなだめる。
「加奈ちゃんはちょっと戸惑ってるだけよ。時間が解決するわ。だから五郎も落ち着きなさい。もうあんな女とかかわり合うのはやめるのよ。」
妙子は息も絶え絶えに沢庵を口にほおばり、心を落ち着けるようにゆっくりと噛みだした。五郎は悩んでいた。確かに妙子の言うこともわかる。考えすぎなのかもしれない。妙子の言う通り時間が経てば笑い話に過ぎない出来事なのかもしれない。五郎だってできれば子供をほっぽり出して逃げた母親にすがるなんてしたくなかった。でもどうしても加奈の心深くに潜む闇を取り出してやりたかった。ただ、その時の五郎には加奈が普通の素直な子供に戻るには過去が必要だと直感的に感じたのだった。その思いを流し込むように味噌汁を一気に喉元に駆け込む。その夜、五郎はと一緒の布団に横たわり一睡もできなかった。
五郎はとある休日、庄吉たちには嘘をつき一人街はずれにあるカフェに来ていた。テラスからは綺麗に刈られた芝とその芝を囲い込むように木々が立ち並び、辺りには風が草木を揺らす音だけが静かに鳴り響いていた。そんな新鮮な空気を吸い込みコーヒーカップを片手に日常の疲れを洗い流す。テラスでくつろぐ五郎の元へ一人の女性が近づいてくる。その女性はストレートの髪を肩までのばし、首元には真珠のネックレス、赤のワンピースに身を包み履きなれた様子で高いヒールを打ち鳴らしていた。その音に五郎も気付きその女性の方に振り向く。女性は笑顔で手を振り小走りで五郎の前まで駆けこんできた。
「久しぶり!元気だった?」
「久しぶり!!変わらないね~前より綺麗になったんじゃない(笑)」
「も~五郎ちゃん!」
その女性は五郎の肩を強く叩き満面の笑みを見せる。彼女は五郎の大学時代の友人の後藤沙紀。大学時代はグループが一緒でよく遊びに行っていた。見た目からは考えられないようなサバサバした男っぽいところがとっつきやすく男性陣からのモテようはハンパなかった。しかし、男性関係はしっかりしていて女性からもあこがれの的だったので交友関係は男女問わず広かった。冴子を紹介したのもこの沙紀だ。
「子供大きくなった?確か小学生だったよね?」
「そうなの~写真見る??」
そういうと沙紀はバックから携帯を取り出し手慣れた手つきで写真を探り出した。
「これ!可愛いでしょ!」
写真には沙紀と沙紀によく似た女の子が写っていた。沙紀らしくお洒落を決め込んでまるでモデルの様な佇まいだ。
「沙紀に似てスタイルいいな~将来はモデルかな??」
「そうだといいんだけどね~これが気が強くて参る。」
「それも似たのかな(笑)」
沙紀は苦笑いを浮かべ右手で自分の頭に拳骨をするそぶりを見せた。
「沙紀はいいよ。若々しくて大学時代と何も変わらないな。」
「なにいってんの!話があるって・・・やっぱり、冴子のこと?」
五郎は真剣な面持ちで沙紀の目を見つめる。
「冴子から連絡あるかなと思って・・・ほら冴子と仲良かっただろ?それに結婚してからもランチとか行ってたから。」
ただ事ではない五郎の表情に不安を募らせながら沙紀は恐る恐る問いかける。
「何かあったの?連絡付かないの?」
「ん、まあ・・・」
沙紀はその続きが聞きたいみたいだがことが事だけに洗いざらい言うのも身が引けた五郎は言葉少なだった。
「そ、そうなの。え~といつだったかな?半年前くらいに加奈ちゃんも連れてランチに行ったことがあってそれが最後かな。でも五郎ちゃん月に一回会ってるのよね?」
「ん~そうなんだけど・・俺はまあ・・もう別れてるからそんな深い話はしないしさ。半年前か・・どうだった冴子の様子は?何か言ってたか?」
「え~ほとんど他愛のない話ばかりだけど・・・二人とも一児のママだから子供のことがほとんどかな~でもなんで?やっぱりなんかあったの??」
もう沙紀には隠せないと思い事の一部始終を話した。沙紀は驚きを隠せない様子だったが胸に手を当て逃げずにこの厳しい現実を受け入れてくれた。
「そうだったんだ・・・ごめん!」
五郎はあっけにとられる。
「どうしたの?急に・・」
「これは冴子のプライバシーだから五郎には話さないでおこうって決めてきたんだけど・・・その半年前に会った時、冴子付き合ってる人がいるって・・・結婚も考えているって・・」
「け、結婚?」
「私も驚いたの・・初めて聞いたから。それ以上は聞かなかった。五郎とも私仲がいいし、聞かなかったって言うか聞きたくなかった。冴子は五郎と幸せな家庭を築いて欲しかったから。」
それから二人を重い沈黙が襲い、沙紀は用事があるからと先に帰っていった。五郎は沙紀の言葉にショックを隠せなかった。と同時に、妙子が加奈をほっぽり出して行方をくらませた原因がその結婚と間違いなく関係していると思わずにはいられなかった。
「加奈が邪魔ってことか・・」
沸々と湧く怒りに握り拳を固め五郎の方は小刻みに揺れていた。五郎はそれ以降、冴子の行方を追うことを辞めた。それどころか記憶から早く追い出すことに決めた。そんな女に自分が一度でも好意を持ったことが許せなく、屈辱的だった。初デートも結婚式の誓いも忌々しい思い出に変わり、冴子の笑顔が全て演じられた作り物にしか思えなかった。加奈に母親はいない、自分一人で立派に育ててやる。五郎はいてもたってもいられず加奈の待つ家に急いで車を走らせた。
「おいっ!新入り、これトラックまで運んどいてくれ。」
「はい・・」
未開封の段ボールがぎっしりと詰められた倉庫の中で作業着に黒い帽子を被った男が気怠そうに返事をする。ふて腐れたように足音を立てながら頼まれた段ボールに近づくと乱暴に自分のところに引き寄せ勢いよく持ち上げた。その男は先輩従業員を睨みつけるとそっぽを向いてトラックの方へ歩き出す。そんな態度に唖然としながら怒りの履け口を隣の同僚へ求めた。
「なんなんだ!アイツは!」
「こっちのもんじゃないらしいな。なんでも都会から来たらしい。」
「都会?」
「ああ。どこかは知らないがこの土地に縁もゆかりもない。それに住み込み寮に泊まってるらしいぞ。」
「それなら尚更だろ!どうせなんかやらかして逃げてきたに決まってる!」
そういうと二の腕を組んだまま早足でその場を後にした。残された同僚は遠目で新入りの男を見ていた。トラックの荷台にもたれながら煙草を吹かすその男の表情はどこか寂しげで心ここにあらずだった。そんな新入りになぜか興味をそそられその男に近づく。
「どうだ?仕事は?煙草一本貰っていいか?」
愛想のない顔で睨みつけると面倒くさそうにポケットに手を突っ込み煙草を箱ごと手渡す。戸惑いながらもクシャクシャになった煙草の箱の中から一本取り出し火を点けた。
「俺の名前しってるか?知らないよな。中根って言うんだ。お前は?」
「・・柿谷・・」
「柿谷か、よろしくな!それにしてもお前もうちょっと愛想良くしろよな。先輩全員敵に回すことになるぞ・・」
「・・・・」
「どっか都会から来たんだって?・・・話したくないんなら話さなくてもいい。誰にだって触れられたくない秘密の一つはある。俺もムショ上がりでここに雇われてる身だからな。まあ、なんかあったらいつでも相談に来いよ。」
中根は柿谷の肩をポンと叩くと吸っていた煙草を投げ捨て倉庫に向かって歩いていく。そんな柿谷の背中を煙草を吸いながら不思議そうに見つめていた。無造作に取り出した携帯電話の待ち受けにはやはり美しい女性と少女の姿があり、それを暫く見入ると空を見上げ胸を落ち着かせた。空には雨上りの虹が広がり、コンクリートで舗装された敷地を囲う草木に水滴がつき、それを照らし付ける光が反射し美しく輝き、柿谷の心情とは正反対の景色が新鮮でどこかホッとさせる力を持っていた。小さい頃、雨降りに友人がそっと相合傘してくれたようにこっ恥ずかしく、そして優しい気持ちになれた。
加奈は杏理との一件以降、保育園で孤立した存在になっていた。部屋の片隅でひとりで遊んでいる時間が多くなった。そんな加奈を遠目で内藤と園長が心配そうに見つめる。
「加奈ちゃん大丈夫かしら?」
「何回かみんなで遊ぶように誘ってはみたんですけど・・・みんな加奈ちゃんのこと怖がって近づかないし加奈ちゃんもあれからほとんど口を聞かないんです。」
園長は内藤の声に耳を傾けると一瞬考え加奈のもとへ歩いていった。
園長は加奈の隣まで来るとしゃがみこんで顔を覗いた。加奈は気付いているのかいないのかひとり遊びに没頭したまま見向きもしない。
「こんにちは加奈ちゃん。なにして遊んでるのかな?」
優しく語り掛けるが加奈は一切園長の方へ顔を向けない。それに逆らう様に園長は加奈の顔をじっと見つめる。よく耳を澄ますと加奈は人形を両手で動かし何やらブツブツ口元を動かしていた。
「おままごとしてるの?先生もまぜてくれない?」
加奈は手を止め園長の顔を見た。顔と顔はすぐ近くにあるのに、加奈の目はどこか遠くを見つめているように冷たく、力なかった。
「うん、いいよ・・・じゃあ加奈ママのお人形さんするから先生はちゃんとお留守番しててね・・」
園長も杏理の一件は内藤から聞いていたのでわざと加奈が怒るように留守番を不真面目にこなす。案の定、加奈は杏理に怒ったように園長にも怒鳴り散らした。まるで杏理のデジャブを見ているように正確に一字一句変わらない問答を繰り返す。園長は加奈を何度も説得するが一向に聞き耳を持たない。それどころか反論することに怒りを増長させ今にも食ってかかりそうな勢いだった。園長は一旦加奈から離れ、その様子を遠目で見ていた内藤のもとへ歩み寄った。内藤も心配そうに加奈と園長を見つめる。
「あの子何かあるかもしれない・・心配だわ。」
「なにか?ですか?」
内藤が聞き返す。
「一回診せたほうがいいかもしれないわね。何かが壊れてる、そんな感じがするわ。」
「せ、精神科ですか?」
園長は静かに頷く。内藤は驚きを隠せず目をまんまるにし加奈を見る。そんな内藤を横目に園長は何かを思い出すように淡々と口を開く。
「私が保育士になってある保育所に勤務することになったの。1年目で右も左もわからない私は先輩保育士を見よう見まねで毎日がホントに辛かった。子供たちにも伝わったみたいでどの子も私に頼らないし寄り付きさえしなかったわ。でもある時、その保育所に通っていたひとりの女の子が歩み寄ってこういったの。『先生一人ぼっちさみしいね。私がお友達になってあげる。』ホントに嬉しかった。それから私はその子とほぼ毎日遊んだの。朝来てから夕方お母さんが迎えに来るまで。別にその子に友達がいないとかそんなんじゃなかったの。だからある時、その子に尋ねたの。『なんで他の子と遊ばないで先生と遊んでくれるの?』って。その子は私とばかり遊んでいたから次第に仲間外れにされていっていたの。『先生ひとりぼっちでも平気だよ』って。そしたらその子こう言ったの。『ううん。先生と一緒にいる。だって先生といると楽しいから』。そんなのウソだってことは気付いてた。子供ってやっぱり子供同士じゃないと理解し合えることができないの。わかるでしょ?でもその子はそのウソを貫き通したわ。その子はそれからも毎日毎日来てくれた。その内みんなの方がしびれを切らしてわたしの所に遊びに来てくれるようになった。その時本当に嬉しかったわ。今でも覚えてる。」
園長は内藤の顔を潤んだ瞳で真剣に見つめた。内藤も感化し胸が熱くなる。
「へぇ~すごい大人で気持ちの強い子ですね。そんな子いるんですね。でもその子と加奈ちゃんとどう関係あるんですか・・?」
園長は潤んだ瞳で遠くを見つめ、また口を開きだした。
「その子、中学校の時に自殺したの。」
「えっ?・・・なんでそんなにいい子が??いじめですか?」
「ううん。中学校でも人気者だったみたいよ。だから誰もなんで自殺したのか分からなかった。むしろ将来を期待させる子だった。自殺した後にその子部屋から日記が出てきたらしいの。そこにはこう書かれていた。『さみしい・・』学校で一番友達のいる子が孤独に追い込まれて自殺したの。誰もが謎だった。何が孤独なのか?人がいれば孤独じゃないのか?その子は母子家庭だった。お母さんは昼間に働いてしっかり保育園にも迎えに来ていたわ。だから福祉局も気付かなかったの。夜、どんなに遊び歩いても朝その子を保育園に送りさえすれば誰も育児放棄していることに気付かない。でもその行いは子の心の傷として表面化されていくの。」
内藤は眉間にしわを寄せながら考え込む。
「えっ?でもその子は先生を気遣うほどしっかりした子で学校での友人関係も良かったんですよね?それなのに心の病なんですか?」
「彼女は夜一人きりされることを罰だと捉えていたの。こんなひどい目に、こんな寂しい思いをさせられるってことは何か自分が癒えないことをしたんだと・・・だから彼女は常に優等生を演じていた。母親がいない時でもどこから見ているかわからない不安に常に駆られながら落ち度のない生活をなんとかやり過ごしてきた。たった一回の母親の愛の言葉で救われたのに・・・彼女はそんな生活に嫌気が差したの。何かに追われ続ける生活に疲れたの・・・」
園長は目じりを人差し指でなぞると鼻を啜った。内藤はうつむき、ただ沈黙の空間に身を置いていた。
「だから今の加奈ちゃんを見てるとその子のことを思い出すの。ただ単純に頭の中にあることを口走る年頃に素直になれないのはこわい。私たちで助けてあげたいけど術を知らないし、責任が重すぎるわ。でもこれだけは言えるの、何か起きてからでは遅いのよ。何か起きてからじゃ・・・」
「桐谷先生!また武田さんが暴れてます!!」
「またぁ?」
ナースステーションの一角でカルテを書いていた精神科医師桐谷を慌てた様子で助けを求める。桐谷は書きかけのカルテを置き去りにし走り出す。そんな桐谷の後ろを看護師が追う様についていく。
「今日3回目だぞ!また幻覚か?」
「はい。いつもの『世界が滅びる』って・・・」
桐谷はため息をつきながらも向かう足取りを緩めない。段々、男の叫び声がドア越しに聞こえてくる。桐谷はその声が聞こえるドアの前に着くなり取っ手を勢いよく引いた。中を見るとその患者と一人の男性看護師が掴み合い立ち往生している。
「先生!もう大変で・・」
「はなせ、コラぁ!俺を誰だと思ってる!!」
患者は興奮し今にも殴りかかりそうな形相だ。そんな様子を目の当たりにし桐谷も抑えにかかる。
「武田さん!!落ち着いて!!どうしたの?先生に聞かせてくれない?」
「どうもこうもねぇよ!こんなとこに閉じ込めやがって!!早く逃げなきゃだめだ!こんなとこにいられねぇ!」
「なんで?どこいくの??」
「早くしないと滅びるんだよ!世界が!」
柿谷は嫌気が差した。こんなやり取りをするのは今日三度目だ。
「だから武田さん、昼間も言ったけど世界は滅びません!納得してたじゃん!!なんでまた夜になったらそんなこと言いだすの??」
「先生も頭いいならわかるだろ!!早く手伝ってくれ!こいつをどかしてくれよ!!」
話のキャッチボールなんてできるはずもなかった。柿谷は看護師から抗精神病薬の注射を受けとると慣れた手つきで患者の二の腕に注射する。それを見た患者は興奮し柿谷に襲い掛かろうとする。
「てめぇ!なにしやがんだ!!お前も敵か!全員敵だ!もうお前らの言うことは・・・」
薬の効き目なのかその患者は段々力なくなっていき、最後には床に肩を落とし座り込んだ。それを見た柿谷達は胸を撫で下ろし看護師二人がかりで抑制帯の付いたベッドに縛り付ける。柿谷はその二人の看護師に黙って右手を上げるとその部屋を後にする。ひとり病院の廊下を背中寂しげに歩いていく。自分の仕事の意義を見失い、対処療法でしかない治療を続けることに嫌気が差していた。自分はいつまでこんなことを続けるのだろう、そう思わずにはいられなかった。現在、世界で精神疾患と診断されている人間は4億5千万人もいるとされ、日本でも3人に1人は罹患していると言われている。成長が止まった飽和した世界で恐怖も薄れゆき生きる方向もままならない中、闇の中から抜け出せない人たちが柿谷ら精神科医師を頼って駆け込んでくる。明確な治療も見いだせないまま患者だけが増え、根治できない病気に対症療法を余儀なくされる。柿谷はこんな世界にもう20年も身を置いている。麻痺することのない無力感、時間が止まったような感覚が脳裏から消えることは一日としてなかった。朝起きると煙草の吸いすぎで面だるい背中に苛立ちを覚えながら更けゆく自分の顔に嫌気が差しながらも力なく歯を磨く。吐き気が絶えない通勤路、夢をなくした同僚、昨日の合コンの話で盛り上がる看護師たち、何もかもが嫌だった。自分の志が現実に叩き潰され、医師もただのサラリーマンだということに気付かされる。病床には身内の厄介者、犯罪者が入れられ見舞いに来る人も数少ない。刑務官のような看護師に監視され一生をここ過ごす人も少なくない。現実を直視できないのか、現実を超越した考えを持っていたのだろうか?柿谷は次第にタブーの世界にのめり込んでいった。精神病なんて存在しないんじゃないか?国が定めた異端児を収容する施設、刑務所といっても過言じゃないかもしれない。勿論、患者の中には高学歴の人間もいるし、一流企業でバリバリ働いてきた人間もいる。皆、国の教えに沿い生きてきた人々だ。子供の頃、綺麗な世界を教えられる。この世の中は素晴らしいもんだってことを親から何回も何回も教えられ人を尊敬し、そして愛す。当たり前の教訓が現実の社会に出てきたときに違和感を感じさせる。自分が信じてきた世界は二重にも三重にも歪んだ、塗りつぶされた仮装舞踏会で死ぬまで踊らされる唯の奴隷に過ぎないことを。人を蹴落とすことで力を得ることしかできず、他の方法を模索しようともしない。自我が育った時にはもう親の言うことも、友達の言うことにも耳を貸さない。唯一の神としか対話できない。その神が世にそぐわなければ拘束されるし、その逆であれば褒め称えられ自負心が育つ。いづれにしよ誰も止めることができず、できることがあるとするなら唯、横で見守ってあげることだけだ。荒れ果てた大海原で72億人がおぼれている状況で本当の意味でヒトを助けることなんてできない。皆、自分の命が一番大切なのだ。誰からも干渉されず自由に生きたい人間が五万といる世界で空虚感、寂しさという持病に苛立ちを覚えるなど愚の骨頂である。ヒトは皆わがままで、そして愚かだ。ゆえに愛なしに生きていくことなどできない。柿谷もそんな一筋の希望があるあらこそなんとかその場に立つことができる。柿谷は書きかけのカルテの続きに字を一字一字丁寧に綴っていく。そんな柿谷とは裏腹に周りの看護師たちは慌しく仕事に追われる。理想を追い求める医師に現実を突きつける看護師が共存する一室で未だ調和されない寒暖の空気が流れ混じりあう。そんな乱れた空間の中に心電図の規則正しい音だけが二つの空間をつなぐ只一つのものだ。
「この子どうだ?かわいいな。」
五郎と加奈は近くのペットショップに来ていた。
「かわいい~!加奈ちっちゃい犬好きなの!」
「小さい犬か~じゃあこの犬はダメだな。大人になったら大きくなるな。」
「そうなの?でもこの子が一番かわいい!この子がいい!」
「大きくなるぞ?大丈夫か?あとから小さい犬がいいって言ってもダメなんだぞ?」
「うん!わかってる!ちゃんとお世話するから!」
五郎は加奈の想いをしっかり確認すると表情を緩め頭を撫でた。五郎たちが飼ったのは成犬になれば20kgにもなる大型犬のラブラドールレトリーバーの子犬だった。甘えるような目と垂れた耳が愛らしく、どこか寂しげで加奈の方をじっと見つめて離れない。加奈は鏡越しでガラスをなぞるとその子犬はペロペロと舐めだした。それが嬉しいのか加奈もその子犬から離れようとしない。五郎は内藤や園長から加奈を精神科病院に診せることを勧められていた。保育園での集団生活になじむことができなくなった加奈を健常な園児としては誰もみてくれなかった。園児たちの親からもクレームが来るようになり、保育園側も加奈を隠すより他なかった。加奈はいつも内藤と一緒に保育園の奥にある個室で一緒に遊んでいた。勿論、保育園を移すという案も出たが今の加奈の状態ではどこにいっても一緒だろう。園児たちを友達という感覚ではなく、子供としてしかみれなくなっていた。命令口調は何度言っても治らず、何か加奈自身の中に生まれた確固たるものが外界からの刺激を遮断していた。それが過ちかどうかは先生たちも判断つかない状態だった。なぜなら加奈の言っている事はそこらの親たちも正しく、一貫性があった。4歳そこらの子が先生たちも唸らせることを同年代の子に教育する。荒々しく乱暴にまるで支配者の様に正していく姿は常軌を逸する。五郎は信じられなかった。家ではどこにでもいるような4歳の女の子と何も変わらなかった。だからこそ精神科病院に連れていくのに悩んだ。もし、何か病気がみつかればこの子は一生、精神疾患患者としてのレッテルを貼られ生きていくことになる。もし、その病気が治ったとしても世間の目はそうは甘くはない。何としても自宅で加奈の心の病を治したかった。五郎はインターネットで動物を育てることが何よりの癒しになる記事を偶然見つけ、藁にも縋る思いでペットショップの門を叩いた。加奈が子犬を見つめる優しい目は本物だろうか?笑顔でそっと抱きかかえる愛情に偽りはないだろうか?不安と期待が入り混じる中、ペットショップを子犬と共に後にした。子犬は加奈の腕の中で安心してスヤスヤ眠っている。何を思っているんだろう?自分が加奈のこころを癒すために飼われたなんて思いもしていないだろう。どこからそんなに安心感が湧いてくるのか、見ず知らずの生き物にすべてを委ねる。五郎はそんな純粋で素直な心が羨ましかった。明日を心配しない生き方をしてみたい、年甲斐もなく弱音を吐きたい自分を抑えるのに必死だった。休日の夕日が沈む寂しさに、闇が訪れる恐怖に心を麻痺させ無表情に車を走らせた。
運送会社の倉庫から道を挟んで向かい側に社員寮がある。柿谷はその寮の二階にひっそり生活していた。社員寮は今どきの若者が住むには見た目にも機能的に古臭い建物で借りているのは中年の男性職員が数人入っているだけだった。洗濯機が立ち並ぶコンクリートの廊下を通ると古びた木製のドアが立ち並び、一室の窓ガラスから光が漏れていた。柿谷の部屋である。柿谷はひとり部屋のソファーにうなだれ、スナック菓子を食べながら借りてきたDVDを見ていた。片肘を背もたれに付ながら目は蔑み、時間つぶしの道具に過ぎないブラウン管の中の殺し合いにうんざりしていた。誰にも会うことなく土日休みの丸二日間こうやってソファーの上で過ごしているのだ。会話することもなく、笑うことも心動かされることもなく只時計がすすむのを待つ。柿谷は正直生きている心地がしなかった。外の音も何も聞こえない部屋では、世界でたった一人取り残された感覚に襲われる。しきりに携帯電話に目を移すが一向に光る気配はない。全く必要とされていない自分が次第に見えなくなっていった。若いころあれほど着飾った洋服も、髪型も一切気にならなくなっていく。もう誰とも会うことはないし、頑張って作り出す未来も全く見えてこない。暗闇で只、死を待つのみの生活しか残されていなかった。刑務所の独房と一体何が違うんだろう?いっそ刑務所に入ったほうが心落ち着くのではないか?世の囚人としての位置づけを貰った方が生きている実感が生まれるのでは?そんな途方もない考えが脳裏をよぎり、どれだけ今まで向こう見ずな生活を送ってきたのか悔やんでいた。柿谷は何度か意味もなく立ち座り行き場のない空虚感に思考能力が停止していた。どこか行きたいが行く当ても目的も今の柿谷には存在しなかった。そんな時、テーブルの前にある一枚の紙切れに気付く。それを手に取ると立ったまま携帯をいじりだし耳に当てる。
「はい、中根です!」
「・・・・」
「・・柿谷か?」
「・・・飲みに行きませんか?」
「い、今からか?お、おう、わかったぞ。どこがいいんだ?」
「ちょっとわかんないんですけど、どこか知ってますか?」
「そうか・・・じゃあ会社の近くにある焼き鳥屋に行くか。場所はわかるな?」
「はい。」
「じゃあ今から支度したら行くから・・」
柿谷は携帯を耳から離し震えた手でポケットにしまい込んだ。洗面台に行き寝ぐせを水で手荒く直すと寝巻を脱ぎジーンズとセーターに手早く身を通し、急いで部屋を後にした。
「加奈ちゃん、ラヴのそばから離れないね。」
ダイニングから妙子と五郎がゲージの中のラヴの寝顔から目を離さない加奈を見つめる。加奈はゲージの隙間から手を伸ばし寝ているラブの体を優しく撫でている。何を想っているのか、五郎の目には目の前にある眩いものに心を魅了された一人の少女にしか見えなかったが加奈の頭の中は加奈にしか分からない。加奈がラヴを見つめるように、妙子もまた加奈を見つめていた。この世に一人しかいないかけがえのない孫が心の病に侵されている。未だに理解もできないし信じることもできなかった。4歳の子供に一貫した行動を求めることにも不信感があった。他の親たちからのクレームにいちいち反応して問題がある子は排除しようとする方針にも腹立たしかった。決められた狭い道しか歩んではならず、その道を外せば皆で非難する。これだけ多様化した社会、ライフスタイルが存在する現代で一つの生き方を強要し、孤独の恐怖を後ろ盾に押さえつける。確かにそれが現実で妙子も五郎もそんな掟を守りながら今まで生活してきた。孫を思う気持ちが盲目にさせているのかもしれない。親ばか、孫ばかな考え方かもしれないが守ることしかできない。想うことしかできない、想わざるを得ない気持ちは父親に祖母になったものしか分からない。
「大丈夫、大丈夫・・・」
妙子がひとり呟く言葉を五郎は静かに胸に受け止め、お茶を啜り加奈の元へ歩み寄り腰を下ろした。寛容だからこそ受け止める孤独や寂しさがあり、狭量ゆえに非難され自己を追いやることで得られる安心がそこに存在する。教育の場面で遭遇する教義が二者択一を迫り、均斉を取ることで世の審判が下される。五郎は寛容を選んだ。加奈を締め付けることは選ばず、自由に動き回らせることを選ぶ。例え他人に迷惑をかけようが縛りつけることなどできなかった。父親としては失格なのかもしれない。有無を言わせず言ううことを聞かせるのが親の役目だ。世間の一員として他人に迷惑をかけず掟に従う忠実な民を育て上げる、そんな当たり前のことが当たり前にできない。五郎は会社でも比較的冷静沈着に物事が見れる人間だ。感情に流されず、是非を判断できる素質を持った人間である。はた目から見れば冷徹な人間に写るのかもしれない。しかし、72億人全ての人が感情で行動すれば火を見るよりも明らかである。そういった人間が世には必要である。しかし、加奈のことになるとそうもいかない。感情が理性を上回り正しい決断ができなくなっている。離婚で悪母と生活を共にし傷ついた責任は五郎にも勿論存在する。罪滅ぼしなのかもしれない。加奈の笑顔が見たい、只それだけなんだ。一分でも一秒でも多く加奈には笑顔でいてもらいたい。ラヴと一緒に居間で眠る加奈の髪を五郎は優しく撫でる。加奈を鎮めるためではなく、自分を鎮めるために何度も何度も加奈の髪を撫でる五郎の姿がそこにあった。
カウンターの奥から立ち上がる煙が漂う中、中年男性達の火照った笑顔が店内を彩っていた。威勢のいい店主の掛け声と常連客の絶え間ない会話の中に安心感を覚えながら、一角の小さなテーブルに柿谷と中根の姿があった。二人とも煙草から手を離すことなく、向き合い座り面と向かうことに恥じらいを感じていたのか見る見るうちにジョッキが開いていく。会話という会話もなく、店に入った時の挨拶と店員に注文するくらいの単語レベルの発話しかなかった。しびれを切らし煙草を灰皿に押し付けながら中根が柿谷に話しかけた。
「どうだ仕事は?きつくないか?」
柿谷は中根の顔も見ずにうつむき加減で答えた。
「いや、体力は自信あるんで・・」
「そ、そうか・・・」
また二人の間に沈黙が訪れる。中根は居酒屋で二人の男が口も開かないままビールを飲むことへの目に耐えきれず話題を必死に探すが一向に出てこない。中根もまたグイグイ引っ張っていくようなタイプの人間ではない。中根は口さみしさに再び煙草の火を点ける。そんな時、柿谷が大きく咳払いをしビールを一気に飲み干した。中根はあっけにとられながらただ減っていく黄色の液体を眺める。
「刑務所の中ってどんなですか?」
柿谷の突拍子もない質問に中根は開いた口が塞がらない。中根はロボットの様に首をぎこちなく回し周りに聞こえていないことを確かめると再び柿谷の顔に目を移す。
「ど、どうしたんだ急に・・・なんかやったのか?」
「い、いや。ただ聞いてみたかったんです。どんなのかなって・・」
中根は再び煙草の火を消すとテーブルに両肘を付き話し始めた。
「俺今33なんだけど21の時に傷害事件で起訴されて有罪になったんだ。刑務所ン中は想像してる通りだよ。番号で呼ばれて規則正しい生活を強制される。看守は俺たちのことを人間だなんて思っちゃいない。いや、看守だけじゃないかもな・・・外にいる奴らは皆俺らのことを・・・まあそりゃそうだよな。皆が大事に守ってるもんを簡単に破っちまったんだから。一番きつかったのは出所してからの世間の目だったよ。刑務所ン中が居心地いいくらいにシャバは生き地獄だった。反省はしてるつもりだったんだがな。一度、壊したものは二度と元に戻らなかったよ。」
柿谷は吸っていた煙草の灰が落ちたことに気付かないくらい中根の話に聞き入っていた。
「で・・中根さんは何やったんですか・・?」
「俺の親が市役所に勤めろって小さい時から言われ続けててさ。そんで高校の時、地元の市役所の試験に合格して高校卒業してからすぐに市役所に勤めることになったんだ。未だにわかんないんだけど、上下関係っていうの?横暴っていうの?それが未だにわかんなくて・・・田舎の人たちでみんな顔見知りの中で働くのはストレスだったよ。弱い者いじめがみんなの娯楽で強要されるんだ。でもなんかそれが嫌でね。そしたら俺がいじめられるようになって・・・田舎の人って陰湿だからさ、それが何年も続いて我慢できなくなったんだ。気付いたら周りの人が大騒ぎしてて目の前に上司が左頬を両手で押さえてうずくまってた。その光景が今でも忘れられない・・・なあ、柿谷。世の中には死んでもいい人間がいると思うか?もうどうしようもなく汚れきった目でしかものを見れない人間がいてさ、自分のこと以外何とも思ってない人間がいると思うか?」
柿谷は中根の気迫に圧倒され一言も発することができなかった。
「いんだよ。世の中には死んでも・・殺されてもしょうがない連中がゴロゴロいんだよ。俺は罪を犯したことは反省してるがその上司を殴ったことにこれっぽっちも後悔なんてしてないよ。今頃、かなり偉いとこまで行ってんだろな・・でもどうしてもどうしても許せなかったんだよ。それが現実なんかもしんないけど・・・へつらって弱い者いじめをする世の中がホントなんかもしれないけど、俺は認めたくなかった。幼いころ親が教えてくれたように困った人を助ける世界を信じたかったんだろな・・そんなもん信じても一円にもならねぇんだけどな。馬鹿なんだな。」
中根は照れ臭いのか笑顔を浮かべ、柿谷におどけて見せた。そんな人のいい中根の笑顔に柿谷も頑なな表情を緩め、いつの間にかテーブルの上にあった熱燗を御猪口に注ぎ中根に手渡した。
「でも俺は好きっすけどね、中根さんのやったこと。俺もそう思います。世の中には死んでも、殺されもおかしくない奴らがゴロゴロいるって。」
「・・お、お前人前でそんなこというんじゃねぇよ?俺の前だけだからな。(笑)」
そんな柿谷の頭を笑顔で小突く中根の目には薄ら涙が滲んでいた。中根も相当悩んだんだろう、相当な孤独を味わったんだろう。そんな経験をしたものにしかわかららない、世の底辺の酷さを味わったものにしか分からない心の強さを感じることができた。信じるモノが蜃気楼であることに気付き、目の前に広がる広大な砂漠を前になす術を持たない旅人が地面に膝を落す。この先何を頼りに何を目標に歩めばいいかもわからないまま、ただ時間だけが過ぎ死が手招きをする。その誘惑を断ち切るかのように何かに向かって突き進まなければならない。もしそれが誰かを傷つけ、悲しませる結果になったとしても足を止めることはできない。生きるとはそういうことだと容赦ない現実がそう教えてくれる。
「加奈、車の中でまってて、ちょっと先生とお話することがあるから。」
「え~早くラヴに会いたい!」
「わかったから!」
「ごめんね加奈ちゃん!お話すぐ終わるからね!」
保育園の玄関前で五郎と内藤が渋々車に足を向ける加奈を見守っていた。五郎は心配そうに、内藤は笑顔で加奈の足取りを目で追う。
「加奈ちゃんペットを飼うようになってからすごくうれしそうで・・・保育園でもその話ばかりするんですよ。なんか前より明るくなったような気がするんです!」
「そうですか・・・このまま元の加奈に戻ってくれればいいんですけど・・ただちょっと病院に診せるのには気が引けて・・・」
「そうですよね、加奈ちゃんが精神科だなんて・・私加奈ちゃんのいいとこ一杯知ってます。明るくて友達思いで・・ホントはたくさん友達がいるんですよ。只今はちょっと混乱してるだけ・・お母さんが居なくなったんですから・・・」
五郎は内藤がうつむき加減になるのを見ずに話を続けた。
「ちょっとこのまま様子見ようと思うんです。もしかしたら病院の助けを借りなくても治るかもしれないので・・じゃあまた明日も宜しくお願いします。」
五郎は一礼すると足早に玄関を後にし、加奈の待つ車に急いだ。
「ごめんな~加奈!さあ、ラヴ加奈のこと待ってるぞ~早く帰ろうな!」
「はやく、はやく!」
無邪気な4歳の女の子にしかみえない加奈を横目で見ながら五郎はアクセルをいつもより強めに踏んだ。自分が信じる道を確かめるようにその右足には迷いがなく力強かった。希望が満ち溢れる家路が鮮明に見えアスファルト一つ一つの窪みまでもが五郎に何かを訴えてくる。こんな迷いのない気持ちにさせてくれるのは加奈のおかげだ。そんな加奈は助手席で身を乗り出し足をバタバタさせ今か今かと帰り道を急かす。そんな加奈を見かねて五郎が加奈に笑いかけた。
「そんなに急がなくてもラヴはどこにもいかないよ。」
「もう、パパが先生と話してるから遅くなったんだからね!ラヴは加奈が居ないと何もできないの~まだ赤ちゃんだから。加奈はラヴのママ!」
「そうかそうか。これからもラヴのこと頼むな!そうだ!躾もしないとな。お手とかおかわりとか・・加奈わかるか?」
「わかんない。パパ教えて。」
「お手は右手を出すこと、お変わりは左手を出すことだよ。ほとんど犬はその芸ができるんだ。でも飼い主が教えてあげないとできないんだ。だから加奈が教えてあげて。」
「そうなんだ・・・じゃあラヴだけできないのは可愛そうだね。加奈がしっかり教える!」
「頼んだぞ!」
五郎は加奈の頭にポンポンと手を乗せ加奈の表情を見る。疑いのない真っ直ぐな瞳と柔らかく伸びる小さな口角が五郎の心を優しく包んだ。どこか懐かしい気持ちになった。遠い昔に感じたことのある安らぎが五郎の胸を締め付けた。忘れ去ったはずの記憶が蘇ってくる。車は違うけど今の加奈に似た笑顔を感じたことがある。
―冴子・・・―
「寒くないか?」
「ううん。大丈夫。ありがとう。」
運転手席で若き日の五郎が助手席に身を縮ませる冴子を気遣う。社内は荒れ始める冬の息吹に追いつかず、うっかり暖房を付けるのを忘れ五郎は慌ててつける。車のフロントガラスには激しく吹き付ける雪とワイパーがせわしく鬩ぎ合う。道路は薄ら白みがかり横に立ち並ぶ木々は冬の強い風に髪を引っ張られる。そんな景色を見ながら道なき道を1台のSUVは進んでいく。五郎は慌しい結婚式の準備、悪阻がひどくゆっくりできない冴子を連れ、湖畔のコテージでゆっくり二人きりで過ごす計画を立てた。冴子のお腹は妊娠五カ月で誰が見ても妊婦だと分かるくらい膨れ上がりマタニティ仕様の洋服がちょうど似合うくらいだった。冴子は助手席で大切そうにタオルケットでお腹を抱え込みその責任は隣で運転している五郎にも伝わるくらいだった。
「お腹は冷えてないか?動いてる?」
「うん大丈夫。今日はすごい動いてるの・・家族三人での旅行が楽しいのかしら。」
五郎は照れ笑いを隠せなかった。今思えばこの頃が希望に満ち溢れた絶頂期だったかもしれない。冴子は妊娠してから以前の活発さや破天荒な性格に丸みがかかり母親の落ち着きが備わりだして来ていた。妊娠すれば誰もが悩み考え込むことがあるだろう、冴子も例外ではなかった。五郎は何度も居間のテーブルを前に座り込み目が虚ろになる冴子を見ていた。その度に冴子の隣に座り悩みを聞こうと努力はするが大丈夫の一点張りだった。そんな冴子に頼もしさを覚えるが内心寂しさも同時に感じた。自分が何か必要とされていないみたいで、まだ自分が知らない冴子がいるような気がしてならなかった。そんな疑念が胸の内にあるままこうやって人里離れたコテージまで足を伸ばしてきた。別に冴子を問いただそうとしているのではない。只、いつもとは違う環境の中でいつも不安そうに悩む冴子の気晴らしや癒しになればと思い連れてきただけだ。
「最近元気ないけど悪阻ひどいの?」
「ううん、悪阻は大丈夫。ただ、不安なだけ・・・」
「出産のこと?」
「・・うん・・・」
「そうか・・そうだよな。でも、会社の先輩が言ってたんだけど陣痛は個人差があるらしいぞ。その先輩の奥さんは陣痛が来てからすぐに分娩台に上がって10分くらいで出てきたらしいから。だからあんまりマイナスに考えることばっかじゃないよ。おれも出産の日は立ち会うからさ。」
「ほんとに!?仕事休めるの?」
「うん、たぶん・・」
「も~ホントに頼りないんだから!」
「しょうがないだろ~中々抜けれる身分じゃなくなったんだから。」
「それって昇進するってこと?給料は?」
「いや、そんな急に昇進するわけじゃないけど。そういうのの積み重ねが大事なんだよ。」
「な~んだ、じゃあ平社員のままか~当分は節約生活だね。」
「・・・そんな寂しいこと言うなよ。どこも同じだろ~そのうち給料も上がるから、そしたら海外旅行でもこの子の塾だってなんでもいけるんだから。」
「塾?必要かな~私行ってないからわかんないけど・・」
「なんか今はすごいらしいぞ~有名な塾に通ってるかどうかが学校の成績にも出てくるんだって。」
「へぇ~そうなんだ。なんか最近の子ってスケジュールパンパンに詰まっててなんか大変そう。いじめとかもネットでされちゃうんだよね・・なんか大変な世の中だね~どうしよ。」
そういいながら冴子は不安そうな表情でポッコリでた自分のお腹を摩りだした。
「そうだよな~俺たちの生まれ育った環境とは全然違うよ。世のなってすぐ変わるし、流行もあるし。でも俺は毎日を楽しめる子に育ってほしい。生まれてきた事に幸せを感じてイキイキ育ってくれればそれでいいんだ。頭の良し悪しじゃないし、友達の多さを競う場でもないと思ってたけど・・・甘いのかな?」
「大甘だよ!女の世界はそんな甘くないんだからね!でも私もそう思う。五郎と同じだよ。優しい子になってほしいな。」
冴子は五郎を見て満面の笑みを見せた。五郎は今もその笑顔を忘れることができない。愛らしく、でも母親のような落ち着きのある心地いい包容感が五郎の中に何か新しいものを生んだ。恋人たちが誓い合う愛ではなく、子が母を、父が娘を想いやるような努力や世間体ではなく確かに五感に加わるようなそんな感覚を感じた。いままで家族以外の他者には感じえない唯一無二の存在だと認識せざるを得なかった。その時に冴子が見せた笑顔にはそんな力があった。
昭和を感じさせるアラジン式ストーブの上に乗っているやかんの注ぎ口からは湯気がらせん状に立ち上がる。静かに耳に入ってくるラジオの優しい声が季節感溢れる曲やエピソードを物語りそれをたまに書類をめくる音が遮るだけだった。そんなどこか田舎の落ち着きを醸し出す風情の中で庄吉と美紀は淡々と仕事をこなしていく。庄吉は書類との格闘に耐え兼ね眼鏡を額にずらし天井を見上げた。
「ふぅぅぅ~あ~~~」
そんな庄吉のかわいらしい声に思わず美紀が笑った。
「お~ごめんごめん!もう年だね~美紀ちゃんコーヒー飲む?」
美紀はにやける口を片手で押さえながら小さく頷いた。庄吉は照れ笑いを浮かべると赤くなった耳を摩りながら席を立った。庄吉はカップにコーヒーを注ぎながらチラチラ美紀の方を見る。美紀はまた書類とペンを持つ右手から目が離せない。
「美紀ちゃんタフだね~首こらない?」
美紀は机にくっついたまま首だけ上げた。
「あ、大丈夫です。学生の頃から勉強ばっかりしてたんで・・」
「そうかそうか。美紀ちゃんって犀星高校だっけ?」
「はい。」
「あそこウチの五郎も目指してたんだけどダメだったな~アイツ今こそスーツ着て文化人に魅せてるけど頭はあんまりよくなんだ(笑)」
「そんなことないですよ。私も要領悪いんです。友達と遊ばずに勉強ばっかりしてましたから・・・」
「偉いよ~ちゃんとお父さんお母さんのいいつけ守ってしっかり勉強したんだから。中々できることじゃないよ。」
「いえ、それしか取り柄がないんです。女なんて勉強しても何にもならないのに。もう結婚しないといけない年なのに・・・」
「な~ん、美紀ちゃんならすぐ結婚相手見つかるよ!美人なんだし!」
「いえでも性格暗いしまともに男の人と話できないんです。ネットの中でなら平気なんですけど・・・それに出会いもないし・・」
庄吉は一瞬考え辺りを見回し自分を見下ろした。
「そ、そうだね・・・」
美紀はうつむき、庄吉は天井を見上げた。そんな時、部屋の戸が静かに開き妙子が顔を覗かせる。妙子はうつむいている美紀を見て驚き庄吉の方を見た。庄吉も妙子に気付き無難な表情を繕う。
「ど、どうしたの?美紀ちゃん。」
何も反応しない美紀に変わり庄吉が答えた。
「い、いや。美紀ちゃんの結婚相手の話してたんだけど・・」
「えっ!?美紀ちゃん結婚するの??」
美紀が勢いよく真っ赤な顔を上げ妙子を見る。
「ち、ちがいます!」
妙子は美紀の怖い眼差しに耐えきれずまた庄吉の顔をみる。
「いや、結婚相手いないかな~って話だ・・・」
妙子の表情がガラッと変わり睨みつけるように庄吉を見るとすぐに美紀に目を移した。
「ごめんね美紀ちゃん。おばさん勘違いしちゃった・・・」
美紀は赤らめた顔のまま体裁を取り直し妙子に小刻みに頭を下げた。
「い、いえいえ。私の方こそ取り乱してすいません!」
「ごめんね・・でも結婚相手探してるの?」
「そんなわけじゃないんです!全然!」
「美紀ちゃん可愛いのにね~どうかしら五郎は??会ったことあるよね?」
美紀はまた顔を赤らめうつむきまた沈黙が襲った。妙子の悪戯な笑いに庄吉は驚き身を乗り出した。
「ば、ばか!美紀ちゃんだってバツイチは嫌だろ~ねぇ?」
庄吉と妙子は二人で美紀を見るが顔が上がってこない。
「ごめんね、美紀ちゃん!冗談よ!そうよね、美紀ちゃんみたいな・・・」
妙子の話している途中に急に美紀が頭を上げ、二人は身を引いた。
「五郎さん素敵な方です!でもお話したことがなくて・・・」
二人は顔を見合わせ、また美紀の方を見る。三人で愛想笑いを浮かべその空間を取り繕った。
「ただいま~!!」
加奈の大きく元気な声が新田家の玄関に鳴り響く。加奈は行儀よく靴を揃えるとラブの居る居間に一目散に早足で向かう。フローリングに靴下を滑らせながら居間になだれ込む。
「ラヴ~!加奈帰ってきたよ・・・?」
加奈の目に飛び込んできたのはラヴのゲージの前にいる女性の細い背中。その女性は加奈に気付くとゆっくり振り返り加奈に微笑みかけた。
「加奈ちゃん、おかえりなさい。」
加奈は突然の事に驚き後ろにたじろいだ。目を大きくその見知らぬ女性を見ると一言も声がでなかった。そんな時、台所から妙子が笑いながら出てくる。
「加奈ちゃん、この人おじいちゃんの会社の人で美紀さん。」
妙子が美紀を紹介するが加奈は下を向き足でフローリングをなぞるだけだった。そんな様子を見かねて美紀が話しかける。
「こんばんわ、ごめんね。驚かせちゃったね。」
加奈は下を向いたまま妙子の陰に隠れるようにお尻にしがみついた。
「ただいま~あれ?美紀ちゃん?どうしたの?」
車を車庫に入れ、遅れながら五郎が今に入ってきた。
「こんばんは。お邪魔してます。」
「美紀ちゃんね今日ウチで晩御飯ご馳走しようと思って。」
妙子が加奈の頭を撫でながら五郎に説明した。
「あ~そうなんだ。どうぞどうぞ、ゆっくりして。ってなんで加奈そんなとこにいるの?」
「人見知りしてるみたい。」
「加奈大丈夫だよ!ほら、御飯できるまでお姉ちゃんと遊んでもらい。ほらラヴも一緒に。」
加奈はまだ妙子の陰から美紀を見ている。
「ごめんね。だんだん慣れてくると思うから。」
「いえいえ、こっちこそ急にお邪魔して・・」
美紀が喋っているとラヴがひとりだけのけ者にされているのが気に食わなかったのか吠えだした。
「ラヴ?」
加奈が身を乗り出し美紀の前を早足で通り過ぎるとラヴの元へ駆けつけ抱き上げた。
「ラヴ寂しかったの?加奈帰ってきたよ!」
そんな加奈を3人は微笑ましく見守っていた。美紀は抱き上げられたラヴに近づき頭を撫でた。
「よかったね~ラヴ。加奈ちゃんが来てもう寂しくないね。」
突然、加奈がラヴを美紀から引き離した。
「さわんないで!私のなんだから!」
美紀は手をそのままにし固まり睨みつける加奈の目から離せなかった。身を硬直させたのはは五郎も妙子も例外ではなかった。五郎は生唾を飲み込むと加奈に諭す様に話しかけた。
「加奈、そんないじわるしないで。お姉ちゃんにも触らせてあげて。」
「うるさい!」
加奈は五郎を睨みつけるとラヴを連れて二階を駆けあがっていった。思い沈黙が辺りを包み皆、思考を巡らせていた。その中でも美紀の動揺は大きく目はキョロキョロと定まらない様子だった。
「す、すいません。なんか犬のことになるとムキになっちゃうみたいで・・ホントに気にしないでください。」
「ごめんなさい。出過ぎたことしちゃったみたいで・・」
「いやいや。そんなことないですよ・・・ただちょっと加奈も神経質になっていて、今はちょっと・・・」
「さ、さあご飯食べましょ!」
その夜、食卓に加奈の顔が並ぶ事はなかった。五郎は何度も二階に上がり加奈を説得するが頑なな表情を崩すことはなかった。五郎の声が聞こえないのかラヴと二人だけの世界に入って出てこようとはしない。美紀の食欲も進まない様子で豆粒ほどのコメの塊を口に運び顎をただ動かすだけであった。美紀を気遣い何度も話しかけるが会話の火が広がることがなかった。五郎は美紀を歩いて送り届けると思い足取りを自宅に向けた。自宅の玄関を開けると妙子と庄吉が心配そうに出迎える。
「美紀ちゃんどうだった?」
五郎は無言で首を横に振る。五郎は二人の間をすり抜けると二階に上がえり加奈のいる寝室のドアを開ける。加奈は疲れたのかラヴの隣で寝入っていた。そんな加奈を抱きかかえるとそっとベッドに寝かせ布団をかける。五郎は胸の奥から出てくる淀んだ空気をなんとか押し出した。そんな五郎の胸の内も知らずにラヴはしっぽを振って五郎の足元から離れない。そんなラヴを抱きかかえひとり喋るように囁きだした。
「加奈どうしちまったんだろうな?ん?」
ラヴは五郎の鼻にの匂いを嗅ぎ舐めだす。
「そうかそうか。加奈はいい子か、ごめんごめん。」
五郎はラヴに笑顔を見せると抱きかかけたまま寝室を後にした。居間に戻る五郎に妙子が駆け寄る。
「どうだった?」
「ああ、寝てたよ。」
「寝てた?そうかそうか。」
五郎は妙子の傍を通り過ぎるとラヴをゲージの中に入れゆっくり振り向いた。
「再婚はしないよ。」
「え?どうした?」
「とぼけても無駄だよ。美紀ちゃん。そういうつもり夕食誘ったんだろ?」
「・・・」
「夕食の時の二人の態度、誰だって気づくよ。」
妙子は庄吉に視線を送るが気づきながらもテレビを見たまま微動だにしない。そんな庄吉に苛立ちを隠せずキッチンテーブルに置いてあるリモコンをとるとスイッチを切った。さすがの庄吉も五郎の方を向かざるを得ない状況になってしまった。
「いや、お父さんはほら、あれだよ・・・美紀ちゃんも結婚相手に困ってるから、じゃあ五郎はどうかなって・・まあそんな重く取るなよ。」
そういうと五郎の右手にあるリモコンをそっと取り電源を入れた。五郎はそんな無責任な両親の行動に腹の虫が治まらなかった。
「加奈のこともあるんだからもうちょっと考えて行動してくれよ。
今一番大事な時なんだから。」
「でもそんなこと言ってもお前もずっと独り身でいるわけにもいかないだろ?周りの友達もみんな結婚してることなんだし・・」
「うるさい!ほっといてくれ。」
そういうと足音を立て廊下を突っ切っていった。そんな五郎に掛ける言葉も見当たらず妙子は胸の前で手をコネながら立ち尽くすしかなかった。そんな妙子の視線の先にはため息を立て肩を落とす庄吉の姿が力なく映るだけだった。
心療内科外来の待合室では子供から老人までの幅広い患者がソファーを埋め走り回る子供を追いかける親が忙しなく行き交う。
「また子供?」
「はい、そうですけど」
桐谷は渋い顔で看護師を見上げた。看護師は桐谷とは打って変わって笑顔で答える。
「はぁ~最近多いんだよな・・まあ、入れて。」
「はい!舛添さんどうぞ~!」
看護師がカーテンを開け元気よく患者の名前を呼ぶと後ろから小学いくらいの男の子を連れた母親が入ってきた。男の子は恥ずかしいのか母親の横から離れない。母親はいかにもいいとこの奥さんという感じの高級ブランドスーツに身を包みきつい香水が桐谷の鼻についた。
「はい、剛君。ちゃんと先生にご挨拶して。」
しかし、その子は挨拶するどころか母親の陰に隠れてしまった。
「もう!剛君!」
あきれた愛想笑いを浮かべると向かい合ったPCから離れ母親の後ろに隠れた子を探す様に視線を落とす。
「どうしたのかな~先生にお話ししてもらえないかな~」
桐谷は作り笑いを浮かべると一変し頑なな表情をとった。
「どうしました?」
母親が肩で一回呼吸し話し始めた。
「あの、ウチの子、先生もわかるでしょ?すっごい人見知りなんです。もう小学2年生にもなるのに人とまともに話せなくて友達も少ないみたいなんです!この子に何度言っても人見知り治らないから・・・先生!なにか病気なんでしょうか?この子にはまだ歩けない時から人には会わせてますしウチになんの非もないと思うんです。」
その母親が放った特急列車の様な言葉の羅列が桐谷を襲う。
「はぁ~どうなんだろ?発達障害を疑われてる?」
母親は目を大きくまじまじと桐谷の目を見つめている。その気迫に押しつぶされそうになりながらも平静さを保っていた。
「そ、それじゃあ学校の授業についていけないとか、発音がおかしいとか、走ることができないとかってあります?」
桐谷が話し終わるや否や母親の体は小刻みに震えだし鋭い眼光を桐谷に飛ばす。
「ウチの子がほかの子よりできないっていうんですか!!馬鹿にしないで!うちの子はね、テストでも一番、今年の徒競走でも1番だったんですから。ねぇ!剛君?ウチの子に限ってそんなことはございませんわ。それなのに何様よ!あんた!もういい、帰りに受付にクレーム言って帰りますから!さあ剛君!いきましょ!」
目の前にある竜巻が過ぎ去り残ったのは桐谷とその看護師の空いた二つの口だけだっだ。
「原因は親だな・・・」
桐谷のかすれた声に看護師は無言でうなずくのがやっとだった。
「ん?ここどこ?」
加奈が目を覚ますと元住んでいたアパートのカーペットの上で横たわっていた。寝ぼけた頭を起こし辺りを見回すと住んでいたときのまま何も変わらない風景が広がっていた。よく遊んでいたおもちゃに四六時中見ていたテレビ、DVDが綺麗に並べられている。加奈は不思議に思いまた辺りを見回す。あの時は乱雑に置かれていた物がちゃんと整理整頓されている。キッチンを見に走る。やはり食器棚には綺麗に洗われた食器が立ち並びシンクもピカピカに光っていた。加奈が夢にまで見た光景が今現実に目の前にある。加奈は不思議な気持ちになった。どこか誰かに見守られているような、そんな安心感が体中に広がっていく。いつもは洗濯物で一杯のソファーに寝転がった。ソファーから見上げる天井には黒いシミの様なものがついている。
「気付かなかったな~あんなとこにシミがあったんだ。」
こうやってのんびりソファーに寝っ転がれるくらいの安心感を感じたのはいつからないんだろう、加奈は想いを巡らせながらただボーっとそのシミを見つめていた。するとシミは徐々に広がっていく。加奈は見間違いかと何度も目を擦りみるが間違いなくシミはだんだん広まっていく。そのシミはやがて天井一面を覆い尽くし、横の壁まで染みていく。加奈はその時ようやく気付いた。シミは黒ではなく赤だった。
「なに?血!?」
加奈の脳裏に断片的ではあるが走馬灯のように過去の記憶が蘇る。包丁?血の付いた、床に落ちて、ママは・・・
「かぁ~なぁ~」
加奈はブリキの操り人形の様に小刻みに震えながら声のする方へ目を向ける。そこにはシーツに包まれた血だらけの母親冴子が睨みつけるように加奈を見下ろしていた。
深夜、ふと五郎が目を覚ます。何か違和感を感じた。夜中に目が覚めたにしてはすっきりと上がる瞼にもいつもとは違う何かを感じた。スッと体を起こし隣を見るがそこに寝ているはずの加奈はいない。
「加奈?」
嫌な予感がした。背筋を伝う冷気を鳥肌が五郎に教える。五郎は加奈がいないことが大変な事なのは分かっていたがしばらく動くことができなかった。いつもトイレの時は必ず五郎を起こしていくのが日課だ。加奈はひとりでトイレには行けない。五郎は静かにシーツを横にどけると尖った砂利の上を歩くようにゆっくり一歩づつ前に進んでいく。真っ暗闇の中、手作繰りで電気もつけずに月明かりだけが頼りだった。その時の五郎には電気を付ける勇気もなかった。
「かな?どこだ?」
音に敏感になっている五郎でも階段がきしむ音は消すことができなかった。脳を貫くような鋭利な破壊音が静まり返った空間に鳴り響く。五郎は力なく手すりを頼り、体重を膝から逃がした。辺りは不気味に淀んだ空気が立ち込め、何度も背後に何かの気配を感じた。何度も何度も振り返り恐怖と格闘する。いつもは2秒にも満たない距離を何十秒も何分もかけ進んでいく。その時、何かの匂いが鼻を伝って胸に入ってくる。匂いの中に温度を感じた。何か生暖かい、尿が内股を伝う様な居心地の悪さを感じた。開けっ放しの居間のドアをゆっくり確認するように覗く。キッチンの窓から入ってくる光が微かに入り込む。
「加奈!ここにいたのか!」
加奈はゲージの前で座り込みラブの頭を撫でている。暗がりであまり見えないが加奈は何かを口ずさみながら手を動している。その加奈の鼻歌がどこか不気味だった。五郎は全身を襲う凍てつくような感覚から声を震わせた。
「か、加奈~寒くないか?風邪ひくぞ!パパと一緒にお布団入るよ!」
「は~い」
加奈は口ずさんでいた歌を辞めるとすっくと立ち上がり五郎の元へ駆け寄ってきた。五郎の膨らんだ下っ腹に顔を埋めると両手で強く抱きしめた。五郎はそんな加奈を見てどこかホッとした。加奈の冷えた体が寝巻の上から伝わってくる。
「こんなに体冷えてるじゃないか~さあすぐに二階に上がるぞ!」
五郎の手が加奈の背中から手に回ったとき何かが手にまとわりついていた。
「ん?なんだ?」
五郎は近くで手を見ようとしたが匂いで一瞬にそれが何かわかった。
「血だ!か、加奈!怪我してるのか!加奈!」
五郎は呼びかけながら加奈の体を弄る。しかし、加奈は一向に反応しない。
「くそっ!暗い!明かりは!」
五郎は居間の壁を伝いスイッチを入れた。部屋に明かりが灯った五郎の目に飛び込んできたの赤い塊と化したラヴと絨毯に着いた大量の血痕、そして血塗られた包丁だった。五郎はあまりの出来事に胸悪く吐き気を必死で押さえるのがやっとだった。声を出そうとするが中々思う様に出てこない。加奈は依然向こうを向いて立ったままだ。
「か、かな・・・おまえが・・・」
加奈はまた何か口ずさみだした。五郎は耳を澄ました。それは歌じゃない何か喋っている。なにかの言葉を何度も何度も繰り返しながら歌の様に口ずさんでいる。五郎は加奈の元へ足を引きずるように近づき両手で肩を強く掴んだ。
「加奈!なんとか言いなさい!」
加奈の声が鮮明に聞こえてくる。
「・・・なんてないやいっ!ひとりがコワいのはコドモなんだぜ!ボクはひとりでもへーきへーき。だってオトナだもん。オトナになるにはツヨくなくっちゃね!ボクはひとりでもコワく・・・」
「なにいってんだ!加奈!しっかりしろ!加奈!」
五郎何度も血の付いた手で加奈の柔らかい頬を叩いた。
「・・・ラヴ悪い子なの・・・」
「悪い子?ラヴがどうしたんだ?加奈を噛んだりしたのか!」
「違うの。かなのあたまの中にずっとラヴがいるの。なにしてる時でも・・・ラヴがいなくなると困るの・・」
「居なくなると困る?じゃあ殺したらダメじゃないか!もう帰ってこないんだぞ!」
「いなくなると困るからころしたの。これでもう大丈夫。かなだいじょうぶ・・・」
五郎は何か言いたげに目で訴えるが唇を噛み締めた。震える両手が加奈の両肩にすがるように力なく落ちていく。真冬の池にはまり呼吸ができなくなりその場にいることもままならない感覚が五郎を襲い、視界に白色が広まっていく。自分の小刻みに洗い吐息を耳に覚えながら次第に意識が遠のいていく。
「五郎!お前いつもトロいんだよ!遅刻すんだろ!」
「待ってよ!」
「待ってらんねぇ。」
遮るもののない日差しがアスファルトを焦がし、耳を突くような蝉の高音が体力を容赦なく蝕んでいく。校門前の駄菓子屋はかき氷の旗を掲げ涼しげな風鈴の音が五郎を弱気にさせる。五郎はいつも一つ年が上の健太といつも登下校を共にしていた。とはいっても朝に弱く学校嫌いの五郎を何とかしようと庄吉が健太に頼んだ。健太は五郎とは対照的な性格で負けん気が強くしっかり者だった。小学校でも中心的な存在でサッカー部のキャプテンを任されるような期待される子だ。それに引き換え五郎はサッカー部での練習についていくのがやっとで内気でクラスではいじめられてさえいた。つまりのび太と出木杉君までの差がある二人が登下校すること自体が違和感だった。五郎は周りの友達から「舎弟」だとか「子分」だとか散々な言われようで、ひとりで立てない人間に周りの目は冷ややかだった。五郎は健太の後を追う以外に学校で生きる術はなく、何かと健太の背中を探していた。会話で躓いたとき、先生に授業中充てられたとき、いじめられたとき、忘れ物したとき、いつも五郎の脳裏には健太の後姿が浮かんだ。そんな頼りない五郎に待っていたのは下校の時の容赦ないダメ出し。五郎が泣こうが、健太に掴みかかろうがお構いなしに口は動く。しかし、五郎はどこにも行くあてがない。健太と一緒に居るしかなかった。健太や五郎の周りにはハイエナがたくさん付きまとっていた。学校一番の人気者に敵は多く、健太の座を狙っているのは一人や二人ではなかった。そんなある日、いつも通り吾郎は健太の背中を追いながら家路についていた。健太もいつもと変わらず遅れをとる吾郎に脇目も降らず我が道を歩む。吾郎も部活でつかれたふくらはぎに鞭打ちながら健太から離れないよう必死だった。そんな中、吾郎は制服のボケットに違和感を持った。足を前にだせばいつもポケットに入った財布が吾郎の太ももを擦る。しかし、今日だけはすーっと制服のズボンが太ももにくっつくだけ。
「あっ!」
思わず吾郎の声が漏れる。いつも静かな吾郎の奇声に思わず健太が振り向いた。
「どうしたんだよ。」
「不機嫌そうな健太の声が響いた。いつもオドオドしてる吾郎たが今回は理由が違うようだ。「だからどうしたんだって!」健太の怒鳴り声に吾郎がひるんだ。
「さ、財布!ない!」
「はぁ~?どうすんだよ!」
「部室かな?授業終わってからジュース買ったし…そうだ!間違いない!」
健太がさっきまで寄せていた眉間の山はみるみるうちになだらかな平地になり、釣り上がった目尻は頭を垂れる稲穂のように力なかった。
「もう勝手にしろ…」
腹の底にたまった重い空気を押し出すように放った言葉と吾郎を残しひとり帰り道を歩いていく。段々小さくなっていく健太の背中が寂しく、せつなかった。なにひとつまともにできない自分のふがいなさに涙が出てくる。吾郎もひとり今まで歩いてきた道を肩を落とし進んでいく。またこの道を戻らないと行けないと思うと足の力が抜けていく。理科室に置いてあるガイコツの模型のようにプラプラさせた頼りない腕と足に身を任せなんとか校門前にたどり着いた。そんな正気の抜けた吾郎だったがひとつあることを気にかけていた。こんな遅い時間に残っている上級生は吾郎にとって恐怖でしかなかった。放課後の開放的な空気が今までいい子を演じてきたストレスを一気に放出させる。そんな荒くれ者を制止する先生はもう家族と食卓を囲んでいるだろう。吾郎は祈った。頼むから部室の電気よ消えていてくれ、神様!お願いだから、今日だけは見逃してください!何度も何度も神様にお祈りしたが実らなかった。煌々と灯る部室の蛍光灯はモザイクガラスから漏れ、崩れた台形をコンクリートに投影する。部室から漏れる笑い声が吾郎の鼓動を悪戯に高鳴らせ全身の感覚を麻痺させる。もしかしたら俺の財布をネタに皆で笑いあっているのかもしれない。いや、お金をくすねて笑ってるんだ。確か月初めに母親がくれるお小遣5000円がまだ入っているはずだ、そのお金でお菓子とかジュースとか買って…だからこんな遅くまで皆で残ってるんだ。物陰に隠れながらあらぬ妄想に駆り立てられ吾郎の心は恐怖で満たされていった。そして吾郎は一歩後ずさりする。そしてもう一歩…ドンドン部室から離れていき、いつしか財布なんかどうでもよくなっていた。自分が傷つくのが怖かった。そんな吾郎に天罰が下ったのだろうか?「おい!新田だろ?なにしてんだよ。」
「い、いや、なんでもないです!」
吾郎が足早にその場を去ろうとしたが遅かった。
「待てよ。部室に用があんだろ?」
なにもかもお見通しのようなにやけた顔が何よりも怖かった。吾郎を連れ先輩はグイグイ恐怖の館に向けて突っ込んでいく。
「ジャーン!」
その先輩は吾郎を見世物のように皆の前に突き出す。
「おっ!えっ、新田か?お前どうしたんだよ。健太と帰ったんじゃないのか?」「あ、あの…財布…忘れて…」
部室中が笑い声であふれる。
「お前はホントダメな奴だな。健太がいないとなんもできないんだな。」
皆、腹を抱えて笑っているがひとり鋭い眼光で吾郎を睨んでいる。
「気にいらねぇ…健太のやつ。」
和やかな軽い空気が一変し重苦しく張り詰めたモノにかわる。
「どうしたんだよ、達也。」
「オレは前からあいつの偉そうな態度に頭きてんだよ。あいつのせいでどんだけしんどい練習させられてるか…」
「そうだよな。あいつ真面目すぎんだよ。」
皆、下を向き重い沈黙が訪れる。状況が変わるかもしれない達也の一言に自分の地位を照らし合わせ次どうするべきか思考を巡らせる。
「みんなあいつキャプテンでほんとにいいの?」
達也が顔をあげ脅しとも取れるような顔付きで見渡した。達也はサッカーの腕はイマイチだがチームのムードメーカー的存在で先輩、後輩問わず信頼が厚かった。一方、健太は技術こそ右に出るものはいないが我が道を突き進む性格で周りが見えないことも度々あった。健太と達也の不仲説は有名だったが今まであからさまに争うこともなくサッカー部は上手くまわってきた。
「達也まさかお前さきちゃんのことでおこってんじゃ…」
「ちげーよ!そんなんじゃねぇ!どっちなんだよお前!俺につくのかつかねぇのか、どっちなんだよ!」
達也にまくし立てられ同級生達ですらたじろぐ。
「オレは達也だな。お前の方が楽だし…正直サッカーは楽しめればいいから…」
「オレも~」
「達也できまりっしょ!!」
部室内がまた盛り上がり出す。ただ、吾郎だけが自分の意見を言えずに愛想笑いを浮かべる。自分を守ってくれる唯一の存在を否定されても怖い先輩を前になす術がなかった。その時の吾郎の頭にはこの場をどう切り抜けるか、それしかなかった。
「おい!新田くん。きみはどっちにつくの??」
悪魔のような高笑いの中、吾郎に視線が集まる。まともに前を見ることもできない吾郎は靴についた泥が乾き砂になっていくのを羨ましげに見つめる。小刻みに震える自分の体がまるで他人のカラダのように全く感覚が戻って来なかった。でもなぜだろう?どこからか勇気がわいてくる。まるで夢の中で起こった出来事で現実ではないみたいに…一度死んでもまたやり直せるようなそんな感覚に襲われた。そして吾郎は震える唇の間から、か細い声を捻り出す。
「ぼ、ぼくは…達也さんが…いい…」
心の中にいる自分とこっちの自分では意見は一致しなかった。こっちの自分が合理的な回答を選んだんだ。恩情にも勝る防衛本能がだらし無い自分をさらけ出す。
「ひでぇやつだなお前…健太に世話になってんじゃねぇのかよ。」
吾郎は何も言い返せない。達也は一回ため息をつくと顔をあげ吾郎の目を睨みつける。
「それがお前の出した答えなんだな?それがどういう意味かわかって言ってんだろうな?」
後ろでは他の先輩たちが薄ら笑いを浮かべ五郎の脅えた顔を見下ろす。蛇に睨まれた蛙には正常な判断能力など存在しない。ただ、生きることだけが答えなのだ。
「わかった、じゃあ明日から俺らの仲間に入れ。」
先輩のひとりが焦り声をあげる。
「おい!達也!こんな奴仲間にいれんのかよ!」
達也に掴みかかるが逆に笑って見せた。
「まあ、見てな。」
その不適な笑いに誰もがいい知れない恐怖心を抱いた。達也は立ち上がり五郎の肩に手を回すと至近距離まで顔を近づけた。
「明日から俺の後ろを歩け。朝から家に帰るまでずっとだ。わかったな?」
吾郎は何度も小刻みに頷き一目散に部室から出ようとドアノブに手をかけた。
「おい!待てよ!」
達也の怒鳴り声が轟く。体が固まった老人のように振り返った吾郎の胸に何かが当たった。
「うわぁ!」
情けない奇声とともに腰砕けになった吾郎は掃除もろくにされていない砂だらけの床にしりもちをつく。
「わすれもんだよ!」
しりもちをついた吾郎の目の前にはあれだけ焦がれた財布が力無く転がっていた。吾郎は慌てて震えた右手で財布を掴むと部室から飛んで出た。笑い声を背中で振り払いながら駆け出す。頬を伝う涙がニキビに触れ沁みることも何も…鼻水を啜る音にしゃっくりと荒れた息遣いが混じり合い泣き声さえもまともに出せなかった自分に嫌気がさし人目も憚らず道路の端でうずくまった。田舎の車も通らない獣道にはコオロギと鈴虫の呑気な音色がいつもと変わらず鳴り響いていた。そう、なにひとつ変わらない…変わったのはヒトが変わったと思い込んだ幻想だけ…暗闇の中で臆病者が勇気を出して罪滅ぼしをするかのように恐怖心と格闘する。枯れる涙は空腹を誘い、罪悪感は猫背をより一層際立たせるその日、遅く帰った吾郎は初めて自分の意志で宿題をやり終えた。父親、母親と会話する事もなく自問自答するように頑なな表情を崩す事はなかった。翌朝も早くに支度を整え自ら登校する吾郎に驚きと喜びを噛み締める庄吉と妙子の中に疑いの気持ちは微塵も存在しない。遅れてやって来た健太に嬉しそうに事情を説明し表情を曇らせる健太の事などお構いなしにまくし立てる。健太を見たのはそれが最後になった。健太はサッカー部のキャプテンを下ろされ居づらくなったのかサッカー部も辞めた。部室にあるシューズやユニホームを持ち小さな背中で去っていく健太を大衆に紛れながら吾郎は見つめていた。いつも追いかけていた大きな背中があんなにも寂しげで小さくなってしまったのか…罪悪感ともうあとには戻れない焦燥感に押し潰されそうになる自分に合理的なこじつけを与え安心感を得る。達也は健太の悪口が好きだった。健太の傍から離れなかった吾郎には悪口の肴が余るほどあった。吾郎は後輩の中でも達也から気に入られる唯一の存在となり同級生の中でも権力を持つようになる。唯一の味方を裏切ることに神様は賛同したのだ。それが善行なのだろうか?吾郎は学校での居場所を初めて見つけた。荒くれ者の達也が後ろ盾にいることが最大の平和をもたらす。いつしか吾郎は健太を裏切ったことが善いことで健太の傍にいた頃が憎らしくなっていった。達也は正義のヒーローで健太は悪役そんな途方もない間違いを信じ疑わなくなった。健太はサッカーを辞め勉学に励むようになる。元々、勉強もできた健太にとってサッカーができなくなく有り余るほどの体力を消耗させるのに持ってこいの教科書の山は未来へ続く掛橋に見えたのかも知れない。いくら勉強ができようが小学生の心を掴むのはサッカー選手だったから達也も気にはとめなかった。女の子も例外じゃない。達也が好きな女の子は達也を好きになり健太からは皆離れていった。勉強ができる奴は学校から嫌われる運命にあり、先生の保護なしには生きていけない。健太は痩せた、みるみるうちに痩せていった。そんな健太に一言も言葉をかける事もなく、見て見ぬ振りをするだけ…そして瞬く間に時は過ぎ、達也、健太の卒業式の日を迎える。 サッカー部では卒業生を後輩がユニホームを着て胴上げするのが慣例になっている。吾郎達後輩は皆、達也のもとへ駆け寄り騒ぎ立て、いかに自分が偉大な存在かを学校中にアピールする。暗黙の了解でこのような儀式を許されているのはサッカー部だけだ。部活動していた卒業生もしていなかった卒業生もただ脇役となり嫉妬心を愛想笑いに変え、見上げるより他なかった。健太も例外ではない。吾郎は今でも忘れられない。あんなに色黒で筋肉質だった健太が白く痩せこけ羨むともなんともいえない愛想笑いを浮かべひとり校門を出ていく姿が脳裏に焼き付いている。誰よりも健太に感謝しなければならない吾郎は今、健太をハメた人間の肩を持ち上げている。吾郎の中にしまい込んだはずの禁断の扉がまた開きだしちょっとずつ頭の中に漂い出す。ーおまえは卑怯者で臆病者、なんのとりえもない汚い奴ー そんな健太の声が耳に纏わり付き、次第に我に帰っていく。いつも健太の後を追いかけた純粋な小学生、学校には友達も居場所も存在しない。テストは全くわからない、サッカーでも後輩に追い抜かれこれ以上ダメな人間はいない…ただ、そんなダメな人間にも捨ててはいけないモノは心のどこかに大切にしまっていた。それは道徳ともモラルとも言われるもの…もっと身近な言い方ではヒトとして…つまりそれらを守らなければヒトに値しない生き物であり、ヒトとは呼ばれないのだ。ヒトでなければ人権すら与えられない家畜同然の扱い、つまり殺されても罪に問われることのない存在であるという事になる。それを自分で認識していれば自殺行為にもなるし、していなければ生存競争の中で進化に欠けた弱者であることを認めざるをえない。弱者は強者に喰われる神のルールに従うのみ。冬眠から覚めた夥しい数の蛇が身を削りながら日光に向かって突き進むように醜くも力強い生命を感じさせる奥深い美しさで魅了する。
"…改革法案は衆議院を通過し参議院での採決を待っている状態です。与野党は目立った争議もなく落ち着いており各党共に和やかな雰囲気で談笑しています。以上国会議事堂前から中継で…"
「う、う~ん…」
吾郎はソファーに沈んだ身体をなんとか起こし、右手で頭痛に耐えながら耳障りなテレビの方向をに顔をやる。どうやらここは居間のソファーのようだ。悪夢から覚めた安心感はなく、愛犬が横たわっているはずの場所には塵ひとつないほど綺麗に片付けられていた。あの出来事が間違いなく現実に起きた惨劇であると認めるより他なかった。居間の空虚感が痛いまでに吾郎の胸を突き頭を抱え座っていることさえできなくなっていく。ソファーに俯せになりクッションの下に顔を埋め自分の存在を消す。闇の中で聞こえる心臓の鼓動が曖昧な記憶をひとつひとつ鮮明なモノに置き換えていく。身震いするほど現実離れした場面が蘇って来る。今考えても理解できない娘の行動…血生臭い両手、纏わり付く赤く染まった毛玉り…一体何なんだ、残酷な行いに何があるんだ?
「吾郎!起きたのか?」
学校の時から変わらない、気を全く使わない妙子の声が吾郎の耳に突き刺さる。吾郎は微動だにせず、歪めた顔をソファーに押し付けたまま小さく返事をした。妙子はそんな頼りない声に呆気に取られながらも険しい表情は崩さない。
「あんた!何呑気なこと言ってるの!加奈は今二階で寝てるけど…」
まくし立てる妙子の声に耐え切れず吾郎は勢いよく両手でソファーを跳ね退け、声の主を睨みつけるとまた両手で頭を押さえ座り込んだ。手の平で何度も髪をコネながら目は一点を見つめている。妙子はその様子を心配そうに見つめ、胸に手を当てながら重い唾を喉元に流し込む。報道番組の解説者の声が無意味に響き渡り、沈黙に着色をつけるのがやっとだ。いつのまにか髪をコネていた両手は力無くカーペットの上に置かれ、垂れ下がった目尻に重い瞼と無精髭の廃人化した吾郎は固まりこびりついた唇をようやく動かす。
「病院つれてくわ…」
妙子は呆然と只そこに立ち尽くし、ため息もつけないくらい重苦しい空気が肺を締め付ける。時が止まり外界とのつながりが遮断され、色も感じないくらいに全ての感覚が麻痺していく。異音を放つ耳に支配され思考回路は道を失い、ただ虚ろで霧立った世界が広がっていく。




