君の笑顔に花束を 第拾部
先輩は、対峙している私たちの間に、のほほんととした足取りで割って入ると、私たちの存在を無視するかのように、お墓に花を添え、線香にライターで火をつけた。
そのまま、お墓の前にしゃがみこむと、両手を合わせて、静かに目を閉じる。
私も、笹峯さんも、そのあまりにも超然として私たちをおいてけぼりにする一連の動作に、あっけにとられて何も言えずにいた。
しかし、私はあることを直感的に感じ取っていた。
おそらく先輩は、私の行動などお見通しだったのだと思う。そして、お墓参りのついでに、あるいは私をフォローするついでにお墓参りに来て、笹峯さんと私の会話の区切りがつくまで、離れて耳をそばだてていてくれたのだろう。私たちの聴覚は、人間のそれよりもずっと鋭い。だから、こんなにタイミング良く現れることは、私を思いやってのことでもあったのかもしれない。
先輩のお参りは大した時間ではなかったのだろうが、私にはそれがとても長く感じられた。先ほどの推測で、先輩の優しさの一端に触れた感じになっていた私に、先輩はのんびりと声をかけた。
「実習生」
「――はい」
「俺――な、間違っていたよ。恭子さんが死んだとき、彼女のご両親は、皮肉にも『未練がなくなって』天上へと送られた。だから、俺は他のどんなエージェントにも、反発する言葉を失ってしまった。彼女の両親は、無念だったろうな、そんなやりきれない感情のまま、天上へと送られた。だから、俺は、俺自身が許せなかった。誰よりも許せないのは、自分自身だったんだ」
先輩は、そう言って立ち上がると、私に弱々しい笑みを見せた。それから軽く肩をすくめ、次に笹峯さんに視線を移した。
「笹峯、俺はお前に反発しなきゃいけなかったんだ。あの時、恭子さんが絶望の中で天上に送られた時、彼女の代弁者として、お前を徹底的に否定しなければならなかった。俺はあの時、『俺は死んだんだ』、そう思っていた」
先輩は頭をボリボリ掻くと、私を一瞥して、先を続けた。
「だが、『異端』と呼ばれるそんな俺を慕ってくれる存在が、『落ちこぼれ』と呼ばれても頑張っている存在が近くにいてくれて、俺は、俺であることに少しずつ自分を取り戻し始めた」
笹峯さんが、珍しくやや苛立ちを込めた溜息をつく。
「やれやれ、お前と僕とじゃ話は平行線のはずだろう? 決して交わらない二つの線、それが新藤、お前と僕のはずだ。考え方の相違は顕著だ。でも、お互いの事を尊重する。それを誰よりも受け入れていたのは、お前自身じゃないか」
だが、先輩は、のんびりとその言葉を否定してみせた。
「それが間違っていたんだよ」
笹峯さんは眉をしかめてみせた。
「わからないな。だから平行線なんだって。お前がこうやって春日恭子の墓に花を供えるのも、手を合わせる『ポーズ』も、僕には理解不能だし、大体が、人間は天上に行ったら『無』になるんだ。僕たちが何をやってもいいと言っているわけじゃないが、結果が同じなら、やってることは同じじゃないか? 同じ穴の狢だよ」
「それが、三流のニヒリズムだと言っているんだ、俺はな」
俺はこう思うよ、と言い、先輩は笹峯さんに反論を加えた。
「例えば、『喉の渇き』が、『水の存在を証明する何よりもの証』のように、『未練』の存在は、『人の魂のその先を証明する何よりもの証』じゃないか? 俺たちは、確かに、人間の『想い』から生み出されたのかもしれない。では、何故その『想い』が俺たちを作ったのか? それは、人間が『必要とした』からだ。つまり――」
先輩は、静かに、だが、しっかりと、語気を強めた。
「俺たちは、『人間に必要』なんだよ。何故か? 人間の『その先』のために必要だからだ」
笹峯さんがかぶりを振る。
「『その先』が『無』であってもかい?」
「ああ、そうだ。その先が『無』であっても、人間たちは俺たちを『必要とせざるを得ない』。そこには、俺達には分からないが、なにか『意味』があるはずなんだ。確かに、『人間は無になる』のかもしれない。だが、決して、――『無意味』になることはない」
笹峯さんは、たいして感銘を受けた様子もなく、大仰におどけてみせると、
「やれやれ、どこまでも平行線だな、僕たちは。僕のが三流のニヒリズムだというなら、新藤、君のは、三流の楽観主義に過ぎないんじゃないか?」
「そのことに反論しないとでも思うか? 俺は、何度でも言う――人間は、決して、『無意味』な存在ではない。それは、信じることしかできないのかもしれない。でも、だったら、俺はそれを信じるよ。誰がなんと言おうが――異端と呼ばれようがな」
笹峯さんは、うんざりしたようなため息をつくと、「やれやれ」と繰り返して、私に視線を移した。
「ほら、結局はそういう精神論に落ち着いちゃうんだ。神の存在を証明した気にでもなってるのかい? 遊馬ちゃん、これが、こいつの正体なんだ。君はどう思う?」
突然私の意見を求められて、私は目に見えて狼狽えた。
先輩の意見と、笹峯さんの見解。
どちらが間違ってるとも言えない。
そして、私の自身の『想い』はまた、ふたりの考え方とは異なっている――おそらくは。
「――私は……頭が悪いから、先輩たちの話にはついていけません」
私は、先輩に弱気な視線を向けた。
先輩は軽く頷いた。お前の考えを言ってみろ、というように、先輩は安心感をもたらすような存在感で私を促す。
そんな先輩に応えるように、たどたどしくではあるが、私は私の考えを示すことにした。
「でも、実際はもっと、ずっと簡単なことだと思うんです。それを、今までの実習で教えられてきたつもりです」
私は、それがどんなに稚拙であっても、私の考えの核心を伝えようと、大きく息を吸い込んだ。
「――笹峯さん、私は、人間の魂の先が『無』であっても、決して意味がないものであるとは思いません。その点に関しては、先輩と同じ見解を持っている――そう思ってもらっても構いません」
笹峯さんに、力を込めてしっかり言ったあと、今度は先輩を振り返る。
「先輩、私は、人間の魂それ自体に意味がある、なんて言うつもりはありません。私、思うんです。人間の魂は、『魂に価値がある』のではなく、『魂が価値をもつ』のではないかって」
私は、二人に、等分の答えを用意したつもりだった。
今まで出会ったクライエントたち。その魂は、決して無意味なものではない。
が、大きな目線で俯瞰すれば、大きな流れの中のひとつの駒に過ぎないのかもしれない。
私は、その二つを同時に受け入れ、同時に否定しようとしていた。
――なぜなら、何よりクライエントたちにそう教わったからだ。私の言葉は、私のものであって、私のものではない。そんな確信があった。
「少し、突飛なことを言いますね」
私は少し俯くと、一息ついて胸ににぎりこぶしを当て、顔を上げた。
「――私はこう思うんです。人間は『私たち』として生まれ、生き、死んでいく。……人間は、決して『私』という単体では、成立しないんだと思います」
それは、紫苑ちゃんが、美紀ちゃんたちの〝想い”と「共に」天上へ行ったように。もちろん、美紀ちゃんたちの『魂』が同伴したわけではない。しかし、『紫苑ちゃんの魂』には、紛れもなく、親友の存在が寄り添っていた。
「下手な喩えで恐縮なんですが……、例えば、お父さんがいなくて、お母さんが子供が生まれたあとすぐ死んだら、赤ん坊は一人です。でも、『お父さんとお母さんがいた』ことは、子供にとっても親にとっても……いえ、もっと大きなところから見たとしても、紛れもない――事実ですよね? だから、人間たちは、どんな形にせよ、生まれた時から『私』でいることはできないんです。そう、そしてそれは死んでも変わりません」
そう、弥生さんと明日香さんのように。どんなに切ろうとしても切れない、つながった『何か』がある。
今まで出会ってきたクライエントは、自らの役割を最後までまっとうし、天上へ送られた。時には、紆余曲折しながら、迷い、怒り、悲しみ、そんなことをすべて受け入れて、新たな一歩を踏み出した。それが、無意味だなんて片付ける思いは到底ない。
だが、クライエントたちは、決してクライエントが一人ですべてを解決して、納得して天上に行ったわけではない。天上に行ったあとでも、何かの繋がりを、長く細い、だが、決して切れない糸のようなものを、例え『その魂が無になってしまった』のだとしても、生者の生きる現世とつなげている。いや、それは単なる『事実』として、たとえ人間の魂の行き着く先が『無』であってもつなげざるを得ないのだ。
……正直、自分で自分が何を言っているのかわからない。
なぜならそれは、『先輩と笹峯さんとの論戦』を聴いていて、直感に導かれた言葉だったからだ。
――だが、それは、同時に、紛れもない私の「真実」だった。
ああ、そうか――、私は気づく。
私は、先輩がいてくれるから、こんなにも悩み、考え、自分自身でいることができるのだ。先輩の暖かい後ろ盾が私を優しく包んで、守ってくれている。今まで出会ったクライエントがそっと私を勇気づけ、背中を押してくれているから、こんなふうにたどたどしいながらも、自論を展開できるのだ。
「つまり、人間たちは『私たち』として生まれ、生きて、死んでいく……過去も、未来も、そして今も……。決して単体の『私』になることはできない。だからこそ、死後も『無』になることはできないし、逆に、その存在する意味を、単体の魂に求めてもしょうがないんです。人の魂は、総和の中の一つであって、一つ一つが集まった総和ではないんです。『私たち』は、『私』にはなれない――そう運命づけられているんです」
そこまで一気に言い終えて、私は再び俯いた。
その表現はどこまで伝わったろう? そもそも、意味なんてあったのだろうかと思うところすらある、拙い、破綻した感情の押しつけ。自分には、自分の説にはそれ以上の価値も感じられず、自分自身の未熟さにほとほと嫌気が差していた。
「私は先輩のような哲学も、笹峯さんのような実務家の思想も持っていません……今は、まだ。――でも、人間たちが『私たち』以上のものになれないのなら、その行き着く先が『無』であったとしても、まだ生きてる人間たち、いいえ、私たちエージェントの中にでもいい、他の人間たちや私たちエージェントの中に『自分』を残し、『私たち』として人生を完結したならば……人間は最後の瞬間にどうして生きてきたことを後悔しますか?」
私は、息をゆっくり吸い込んで、しっかりと言った。
「人間たちはみんな、人生という名のレールに乗せられて走る列車に、一緒に乗り合わせている乗客のようなものです。それぞれ、降りる駅は違います。そんな宿命を背負わされた人間が、それぞれの終着駅へと至った時、同じ列車に乗り合わせた、次の駅へと向かう人間たちに、『自分』という存在を残していくため、手助けをする。そのために、私たちエージェントは存在するのではないでしょうか?」
長い長い独白を言い終えると、しばらくの間、その場を静寂が支配した。
――どれだけ時間が経ったのか。
やがて、笹峯さんが、失望したように両手を挙げた。
「やれやれ、人選を誤っていたようだな。遊馬ちゃん、どうやら、君と僕とは分かり会えそうもないことがわかったよ。残念だけどね。この前の話は無しということでいいね? 君は君なりにエージェントとして頑張ってくれ。あ、これは皮肉じゃないよ? 分かり合えないなら、お互いに無干渉であればいい、というのが、僕の信念なんだ。わかるよね?」
「――はい。すみませんでした、笹峯さん」
「ノープロだよ、遊馬ちゃん! ノープロブレム! 何より、僕が困るわけではないからね」
カラカラと笑いながら、
「さて、見事に振られた僕は、颯爽とここを去ることにしたのであった!」
と、清々しいまでの明るさと透明感を込めた声を上げると、笹峯さんは踵を返した。
そんな、最後まであっけらかんとした笹峯さんに、残された私と先輩は、顔を見合わせて――次の瞬間には、苦笑いを交わしあった。
「――終わったな」
「――終わりましたね」
そう言い合うと、先輩は私から、つと視線を外し、
「それにしても実習生、お前の考え方にも、気付かされることが多々あったよ。よくそんなにしっかりした意見を言えるようになったな」
そう言って、私の頭をくしゃりと撫でた。
「先輩と笹峯さんの考え方を聴いて、今まで出会ったクライエントのことを考えてたら、言葉が自然と出てきたんです。恥ずかしい話ですけど、自分が何を言ったか、よく覚えてません」
そう言うと、先輩は苦笑した。
「やれやれ、せっかく褒めてやったのにな。まあ、お前と俺は違う。それがよくわかったよ。でもそれでいいんだ。俺のコピーにはなる必要はない。お前は、お前で居続ければ、それでいいと思ってるよ。そして、それがお前の出した答えなら、自分で、自分自身で考えたことなら、俺は全力でそれを支持してやる」
先輩は、わしゃわしゃと私の髪をまさぐった。
「そんなにクシャクシャにしないでください。セットが崩れちゃいますよお」
私が口を尖らせると、
「知ったことじゃないね。さて、帰るか」
悪びれることもなく言い放った。
私は先輩の大きく、暖かく、重みのある掌を心地よく感じながら、
「はい」
と、清々しい気持ちで、深く頷いた。




