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青の住人  作者: 濱野 十子
六章 青の在処
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10

 青い空が一瞬、真っ白に埋め尽くされる。……爆発だった。

 眩い閃光が雨のように降り注ぎ、シェルターは爆散した。無音だが、爆発のほどを伝える衝撃波が、海面を波立たせる。

「憐れな、トランジエント」

 さざめく波に揺られ、オフショアは小型潜水艇フリッパーの操縦席に立ち、空を見上げる。

 分解されてゆくシェルターは、巨大であるが故に、一瞬で全てのパーツが消えることはない。徐々に大気圏で焼き尽くされる破片や、一度目の大爆発の時に散った破片が空を飛んでいるのが見てとれた。

 あの、小さな鳥のような破片のいずれかは、アンピトリテの眠る柩であるのかもしれない。だが、オフショアの心の中には、同胞の死に対する感情はなかった。

 同じアンピトリテであろうとも、摩擦熱に焼き殺されてゆく彼等は、決してオフショアの群れではないからだ。

「お前は信じた。だから、あの子は希望を持ち続けてしまった」

 黒塗りのフリッパーの横には、もう一隻のフリッパーが波に揺られている。所々が欠け、焼け爛れていて、キャノピーはどこで消失してしまったのか、付いていなかった。

「思いの叶う日がこないとわかっていても、救いのない希望を持ち続けてしまった。憐れで愚かなトランジエントは、それでもお前を信じていた」

 沈没寸前のフリッパーに、容赦なく海水が入り込んでいる。その、水浸しになった操縦席に蹲るようにして、蠢くものがあった。

それは、もはや肉塊と同等の存在だった。

 熔けた皮膚は爛れ、固まり、原型を思い出せないほどに崩れてしまっている。微かに上下する体の動きがなければ、それが人であることはおろか、生きているかすらわからなかっただろう。

「リドフォール・レイ・スクーノト・アルビレグム。お前に利用されているだけとわかっていても、トランジエントは月へ行き、心臓を食べさせた。お前が望むから、あの子は応えた」

 名を呼ばれ、肉塊――リドフォールは、爛れて引っついてしまった瞼を、ぺりぺりと乾いた音を立てながら開いた。

 濁った眼球がぐるりと動き、金色の瞳がオフショアを見上げる。

 リドフォールに自我が残っているのかはわからない。オフショアの能力は、カチとは違っていた。

オフショアは感情の乏しい瞳で、蹲ったまま動けないでいるリドフォールを見下ろす。言葉が伝わろうと、伝わらなかろうと、少しも関係ない。どうでも良いことだ。言わずにはいられないから、単に紡いでいるだけにすぎない。

 オフショアはリドフォールの中に居るだろうトランジエントを見透かすように、目を細める。

「憐れな子」

 慈しみであり、嘲りであり。無感情な声であるのに身の竦むような憎悪を与える声だった。

 リドフォールは爛れた皮膚によって塞がれた口から、くぐもった悲鳴を上げる。

「あの子は、最期の最期まで、お前を生かそうとしていた。その思いを、お前もまた信じていた。赤い光はお前を焼き尽くすことはなく、だからこそ、こんなに醜くなってまで、ここに存在している」

 何かを必死になって訴えているリドフォールに向かって、オフショアは銃を突きつけた。小さな手に収まるほどの小さな拳銃だが、急所を穿てば充分に望む威力を発揮してくれるだろう。幸いなことに的は動けない。絶対反響定位能力を持っていないオフショアでも、剥き出しの額を撃ち抜くことは容易かった。

「この時のために、真朱の能力を研究していたのだろう?」

 突きつけられる銃口を見つめている金色の瞳は恐怖に戦き、血走っている。

 リドフォールが率先して行っていた、真朱の再生能力の研究成果によって、現代医療の水準は大幅に高くなっていた。

 死体同然と形容して良いリドフォールも、適切な治療を受ければ、命だけでなく、もとの美貌を取り戻すことだって充分にできるだろう。

「……なぜ……わかった……」

「オフショアの能力は過去を視る力。トランジエントの見た未来は、トランジエントの死によって過去となり、オフショアに伝わった。過去と未来は表裏一体」

 オフショアは引き金に指を掛けた。

「あの子が望んだ結末だろうと、オフショアは受け入れられない」

「僕が……僕が死んだら、真朱は一人になってしまうよ。寂しがる」

 もぞりと身じろぎ、リドフォールは銃口ではなく、オフショアへ視線を向けた。

 僅かに目を細めたオフショアに、リドフォールはここぞとばかり、乾いた皮を破りながら叫んだ。 

「お前だって、それは望むところではないはずだよ! 僕がいなければ、真朱は生きられない! だから、お前は僕を殺せない」

「トランジエントは結末を、お前に見せはしなかったようだな」

 声に混じるのは、同情だった。あからさまな溜息に、リドフォールは顔を強張らせた。

「罪は償えなくても、傷を癒やす時が来なければならない。お前は贖罪を与えたが、真朱の傷を癒やすことはできなかった」

「……ああするしか、救えなかった」

「ならば、その時点で、すでに役割は終えている」

 乾いた炸裂音が、海上を響き渡った。

 紫煙をのろしのように長く煙らせる銃を、海へオフショアは投げ捨てた。

 艇内に溜まった海水に沈み込むリドフォールから視線を逸らし、海原を見つめる。

 波が高くなった。

 ヒメガミが近づいてきているせいだろうとオフショアは思った。黙って出てきてしまったため、ノートは怒り狂っているに違いない。少しでも小言を減らすために、オフショアは操縦席に座り、通信装置のスイッチを探した。

「止める者は、もういない」

 いつの間に近づいてきたのだろう。三角形の背鰭が、リドフォールを乗せたフリッパーと併走するように、海面から突き出していた。

 徐々に浸水してゆくフリッパーを支えているようにも見える黒い背鰭は、一匹のイルカのように思えた。

「共に連れて行きたいのなら、行くといい」

 青鈍色のイルカは甲高い鳴き声を残し、背鰭を海へと沈めた。

 全ての機能が停止したフリッパーは、波に転がされるまま転覆し、イルカの後を追うように急速に沈んでゆく。

 オフショアはフリッパーが沈み、小さな渦が波に消されるのを待ってから、通信装置のスイッチを持ち上げた。

 すぐに、波音に似たノイズがスピーカーから流れてくる。

『オフショア! あなた、一人で何をしているの!』

 聞こえてくる怒声は、ノートのものだ。

 なだらかな水平線の彼方に、ヒメガミの大きな船影が現れる。

『返事がないのよ! 真朱もカチも、シェルターと一緒に消えてしまったのよ!』

「大丈夫、カチが連れて帰ってきてくれる」

 泣き崩れるノートに、オフショアは炎を吹き上げているシェルターを見上げた。

 流星群のように降り落ちるシェルターの欠片。

 地上へと帰還する前に燃え尽きる破片雨の中でたった一つ、燃え尽きずに海へと向かって落下してくる光があった。

「そして、地上は声に満ちる」

 二度目の爆発が空を真っ白に染め上げた。

 太陽よりもなお眩しい光が空から降り、海は光を受け止めて鏡のように煌めいた。白よりもなお純粋な色は、瞬きほどの刹那の間、色という色を全ての人の目から奪った。

 青いばかりの世界がリセットされる。

 オフショアは強い光の中で、網膜を焼かれるのも構わず、ずっと空を見上げていた。

 白一色の世界の中で生まれ出る者を、ずっと見つめていたのだ。

『……なに、あれは?』

「アカシャ」

 色が戻った空に、雲とは違う質量が浮かんでいた。

 鮮やかな青い空に翼をはためかせ、高々度を飛んでいるのは、鳥を新たな擬態に選んだアカシャの群れだった。

 光の中から現れた幾億ともしれない無数の鳥たちは、それぞれが明後日の方角へと向かって飛んでゆく。

 まるで雪のように舞うアカシャの群れの只中を突っ切り、流星は巨大な水柱を上げて着水した。

 遅れてやってくる大きな波に揺られながら、オフショアは深い藍色の海へと視線を落とした。

「――お帰り」

何もかもを飲み込み、内包する海は、柔らかい吐息の混じるオフショアの声を波と波の間に優しく取り込み、深い奥底へと沈めていった。


                                             終


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