36:「次は、古い鍵を拾う」最終回
夜の駅。
仕事帰りのあなたは、終電を待つ人もまばらホームを歩いていた。
ベンチの側に、古い鍵が落ちている。
拾い上げると、錆びた金属がひやりと掌に触れた。
鍵の頭には、三本の古い傷が刻まれている。
「これ、知っている」
そう思った。
けれど、いつ、どこで見たのかは思い出せない。
電車を待っていると、向かいのホームに女性が立っていることに気付いた。
電車を待っている様子はない。
ただ、こちらをじっと見ている。
目が合った。
あなたは思わず目を逸らす。
次に顔を上げた時、女性の姿は消えていた。
その直後、スマートフォンが震えた。
通知が一件届いている。
『まだ鍵を持っていますか?』
送信者の名前を見て、あなたは息を止めた。
自分の名前。
電話番号も、自分のものだった。
駅員に届けようと、あなたは鍵を握り直す。
その時、ホームの端にある古い扉が目に入った。
普段は誰も気に留めない業務用の扉だ。
なぜか、そこから目を離せない。
近づいて鍵穴を覗く。
古い鍵を差し込んでみる。
ぴたりと合った。
開けるべきではない。
そう思うのに、手は止まらなかった。
扉の向こうには、地下へ続く狭い階段があった。
一段、また一段と下りて行く。
やがて階段は、古い待合室のような場所に繋がっていた。
電灯はついている。
けれど、部屋には誰もいない。
壁一面に、無数の紙が貼られている。
あなたは一枚を手に取った。
そこには、見覚えのある出来事が書かれていた。
雨の日のバス停。
「ありがとう」と声をかけられて振り返ったのに、誰もいなかった。
別の紙には、朝の街を行進する、ぬいぐるみの音楽隊。
さらに別の紙には、目も鼻も口も眉もなくなった友人。
何度も繰り返した一日。
人肉で作られたケーキ。
そして、温かい家庭だと思っていたものを、自分の手で終わらせた夜。
忘れていたはずなのに、読む度に記憶が蘇ってくる。
壁の一番新しい紙が目に留まった。
そこには、
『次は、古い鍵を拾う』
と書かれている。
あなたは息を呑んだ。
予言ではない。
この文章は、誰かが起きた出来事を書き残している。
そして、その筆跡には見覚えがあった。
自分の字だ。
部屋の奥には机がある。
机の上には、一冊のノートが置かれていた。
それを開くと最初のページには、
『短い話を書こうと思う』
とある。
次のページには、
『今日は駅で古い鍵を拾った』
その先をめくる。
最後のページに、たった一行だけ書かれていた。
『これを読んでいる自分へ。次は、この鍵を誰かに渡してください』
背後で、足音がした。
「やっと見つけた」
振り返る。
そこにいたのは、さっきの向かいのホームに立っていた女性だった。
女性はあなたの手元を見る。
「あなた、ずっと忘れていたでしょう」
「何を?」
女性は答えない。
ただ、古い鍵を指さした。
「それを渡せば、終わるから」
「誰に?」
女性は、あなたの背後を指さした。
ゆっくり振り返る。
階段の下に、誰かが立っている。
駅で鍵を拾った時と同じ服と鞄だ。
そして顔も同じだ。
もう一人のあなたが、こちらを見ていた。
その手には、古い鍵が握られている。
鍵には、三本の傷。
「これ、落とし物ですよ」
あなたは、自分と同じ顔をした相手に鍵を差し出した。
もう一人のあなたは、何も言わずに鍵を受け取った。
そして、少しだけ笑った。
「ありがとう。これで最初からやり直せる」
その言葉を聞いた瞬間、視界が暗くなった。
*
夜の駅。
仕事帰りのあなたは、終電を待つ人もまばらなホームを歩いていた。
ベンチの側に、古い鍵が落ちているので拾い上げる。
錆びた金属が、ひやりと掌に触れた。
鍵の頭には、三本の傷が刻まれている。
あなたは鍵を見つめる。
「これ、前にも拾った気がする」
なぜ、そう思ったのか、自分でもわからない。
あなたは少しだけ笑った。
「まあ、いいか」
そして、古い鍵をポケットに入れた。
完




