表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/9

はじまりの醤油ラーメン

 大きな失敗をしたわけじゃない。


 取り返しがつかないことでもない。


 それでも、帰り道に少しだけ足が重くなる日がある。


 あのとき、別の言い方があったかもしれない。


 あの選び方でよかったのかもしれない。


 小さな引っかかりが、消えないまま残る。


 夜の街は静かだった。


 人通りも少ない。


 いつも通っているはずの道なのに、今日は少しだけ違って見える。


 角を曲がる。


 見慣れない路地があった。


 こんな場所、あっただろうか。


 奥に、灯りが見える。


 赤い提灯。


 理由は分からない。


 でも、なぜか気になった。


 少しだけ迷ってから、足を踏み入れる。


 暖簾をくぐる。


 店内は、静かだった。


 音が少ない。


 整いすぎている気がする。


「いらっしゃいませ」


 男が一人、カウンターの奥に立っている。


 どこか現実から浮いているような、整った顔立ち。


 でも、よく見ると。


 少しだけ、違和感がある。


 何が違うのかは分からない。


 ただ、同じではない気がした。


 席に座る。


 カウンターの端が、少しだけ気になる。


 誰もいないのに、そこだけ空気が薄いような気がする。


 白い丼が並んでいる。


 その一つの縁が、わずかに欠けていた。


 なぜか、その欠けた部分から目が離せなかった。


 男は何も聞かない。


 それでも、鍋に火が入る。


 湯気が上がる。


 静かな動き。


 正確すぎる手つき。


 その一瞬。


 湯気の向こうで、輪郭が揺れた気がした。


 黒い影が、重なったように見える。


 瞬きをする。


 元に戻る。


 気のせいだと思うことにした。


「……どうして、この店はあるんですか」


 自分でも、なぜ聞いたのか分からない。


 ただ、聞いておきたかった。


 男は、すぐには答えなかった。


 少しだけ考えるようにしてから、静かに言う。


「必要とされる限り、でしょうか」


 それだけだった。


 十分だった。


 ラーメンが置かれる。


 醤油ラーメン。


 特別な見た目ではない。


 どこにでもありそうな、普通の一杯。


 湯気が、ゆっくりと立ち上る。


 一口、飲む。


 懐かしい味だった。


 初めて食べるはずなのに、どこかで知っている。


 もう一口。


 胸の奥にあった引っかかりが、少しだけほどける。


 消えるわけじゃない。


 でも、そのままでもいい気がする。


 全部食べ終える。


 満たされた、というより。


 少しだけ整った、という感じだった。


 立ち上がる。


 店を出る。


 夜の空気は、変わらない。


 それでも、少しだけ軽い。


 振り返る。


 店は、ない。


 ただの路地。


 それでいいと思った。


 歩き出す。


 明日も、同じように仕事がある。


 同じように迷うかもしれない。


 それでも、進んでいくしかない。


 角を曲がる前に、もう一度だけ振り返る。


 そこに、灯りが見えた気がした。


 ほんの一瞬。


 カウンターの奥に立つ男の姿が、少しだけ揺れる。


 その輪郭が、別の誰かに重なる。


 黒い服の影。


 すぐに消える。


 確かめる前に、灯りごと消えた。


 気のせいかもしれない。


 そう思いながら、前を向く。


 そのとき、後ろで暖簾の音がした気がした。


 振り返らない。


 もう、進むと決めたから。


 夜のどこかで、また誰かが足を止める。


 そのとき、あの店は、そこにあるのかもしれない。


 まだ途中の人のために、灯りは消えない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ