第5話_精霊樹の花が咲く日に
翌春、精霊樹は銀白色の花を咲かせた。
その花が王都を埋める日に、ミュレナとゼルヴェインの結婚式が行われた。
王宮の大聖堂には王族、貴族、魔法院関係者が集まり、外の広場には精霊樹を救った二人を祝おうと大勢の市民が押しかけた。
ミュレナは控室で震えていた。
白い花を編み込んだ髪に、淡い銀糸のドレス。鏡の中には見慣れないほど華やかな自分がいる。
「む、無理かもしれません……」
付き添いの女官が苦笑する。
「もう皆様お待ちですよ、奥様」
「まだ奥様ではありません」
「あと十分で奥様です」
「十分……」
余計に緊張した。
そこへ扉が開いた。
「少し借りるよ」
花婿本人が入ってきた。
女官たちは驚いたものの、相手がゼルヴェインでは止められない。笑いながら退室していった。
「どうしてここに?」
「君が逃げそうだと聞いたから」
「逃げません。ただ、隠れたいだけです」
「それを逃げると言うんじゃない?」
彼は正装姿だった。黒銀の礼装に精霊樹の紋章、胸元にはいくつもの勲章が並んでいる。
ミュレナは思わず見惚れた。
「格好いい?」
「……言いません」
「顔に書いてある」
慌てて頬に手を当てたが、もう遅い。
「意地悪」
「今日くらい素直に褒めてほしいな。僕はさっきから君が綺麗すぎて、式を中止してこのまま連れて帰りたいのを我慢しているのに」
「中止しないでください」
「では予定通り僕の妻になって」
差し出された手を、ミュレナは見つめた。
三年前、彼の机の下に隠れていた自分が、こんな未来を想像できただろうか。
価値がないと言われ、捨てられた朝でさえ、これほど大切にされる日が来るとは思わなかった。
けれど今ならわかる。
誰かに価値を決めてもらう必要などなかったのだ。
ミュレナは自分の力を見つけた。
自分の意志で立つことを覚えた。
そして、自分自身を見て愛してくれる人を選んだ。
「ゼルヴェイン様」
「うん?」
「これから、よろしくお願いします」
彼女が手を重ねると、ゼルヴェインは指を絡めた。
「こちらこそ。ところで一つ訂正」
「何ですか?」
「これから、じゃない」
彼はその手の甲へ口づける。
「君が僕の机の下に潜り込んだ日から、とっくに始まってる」
「……やっぱり忘れてくれないんですね」
「一生忘れない」
「子どもには話さないでくださいね」
「子ども」
ゼルヴェインが止まった。
ミュレナは自分の失言に気づいた。
「今のは、将来的にという意味で……」
「ミュレナ」
「はい?」
「式、早く終わらせよう」
その声が、さっきまでより明らかに低い。
「どうして急にそんな顔をするんですか!」
「新しい人生設計について、二人きりで詳しく相談したくなった」
「相談だけですよね?」
「もちろん」
「目が笑ってません!」
逃げようとしたミュレナの腰を、ゼルヴェインが軽々と抱き寄せる。
「捕まえた」
「もう……!」
「諦めて。僕は三年待ったんだから、残りの人生は一日も君を逃がすつもりがない」
耳元で囁かれ、ミュレナの頬が真っ赤に染まる。
それでも、もう逃げたいとは思わなかった。
大聖堂の鐘が鳴る。
扉の向こうでは銀白色の花びらが舞い、春の光が長い道を照らしていた。
ミュレナは愛する人の腕に自分の腕を絡める。
「では、行きましょう」
「うん」
「でも、あまりからかわないでください」
「善処する」
「それ、守らない人の言い方です」
「よくわかってきたね」
ゼルヴェインは笑った。
その笑顔を見上げながら、ミュレナも笑う。
かつて自分を捨てた男がどうなったかなど、もう思い出す必要もなかった。
彼女の世界は今、目の前にいる一人で十分なくらい満たされている。
そしてゼルヴェインにとっても、それは同じだった。
銀白の花が降り注ぐ中、二人は扉の向こうへ歩き出した。
この先、彼が妻を溺愛しすぎて王宮でたびたび呆れられることも、ミュレナの研究室が侯爵邸の半分近くまで拡張されることも、彼女の焼いた菓子を巡って使用人と侯爵が本気で争うことも、まだ少し先の話である。
ただ一つ確かなのは、三年ものあいだ静かに積もり続けた男の恋情が、結婚した程度で落ち着くはずもなかったということだ。
むしろ彼の溺愛は、ここからが本番だった。
了
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