2章第32話 私は……
ホークの叫びはエマの胸の奥をかき乱した。
“エマ”、“334”、“アリサ”、“自由”、4つの言葉がエマの頭の中でぐるぐると回る。奇跡か必然か、それらのワードは彼女の最後の記憶の氷を溶かした。
———
目の前は一面の黒。その中にいくつもの光が星のように輝いている。
次の瞬間、その星たちが流星となって334の元に降り注ぎ始めた。流星は空を切り裂き、光の帯となって334目掛けて降り注ぐ。無数の流星が轟音と共に334を貫いた……と知覚した瞬間、光がふっと消え、意識が現実に引き戻された。
目の前に映るのは冷たい実験室の景色。
334の目からは1粒の涙が溢れる。その涙はアリサの手によって拭われた。アリサの表情はいつになく真剣だ。
実験が上手くいったのか、それとも自分は用済みになったのか。そんな思考が334の頭の中を巡る。
「334、ここから出ましょう」
アリサが手を掴む。334は彼女が何を言っているのか理解できなかった。ここから出ることが可能なのか、そもそも出たとしてどこへ行くのか何も分からない。ただ、334はいつものようにアリサの指示に従った。
いつもは多くの研究員で溢れているはずの所内には珍しくほとんど人がいない。334は導かれるままに扉の奥へと進んだ。大きなライトだけが置かれた異質な部屋に入った。
「いい、よく聞いて。あなたは自由になるのよ」
アリサは334の肩を掴みを目を合わせる。
「外で生きるための名前を考えたの、あなたは今日からエマよ」
「……エマ?」
自分のことを、そう呼んでいいのか。戸惑いながら、その名前を口にする。その名はまるで始めから自分の名であるかのようにしっくりきた。
「そう、あなたはエマ。この名前にあなたが自分の望みを持って生きられるようにと願いを託すわ」
研究所で過ごした日々には、意味など存在しなかった。ただモルモットとして生きる毎日、それが変わるのだろうか。
「私が後ろの扉を開けるから、開いたら振り返らずに走るの、いい?」
334は戸惑いの表情を浮かべながらも頷いた。アリサは334を置いて部屋を後にする。アリサが部屋を離れてすぐにけたたましい警報音が研究所全体に響き渡った。
『被検体334が脱走、繰り返す被検体334が脱走。セキュリティチームは直ちに対象個体及びその責任者を拘束せよ!』
無数の足音がこちらに向かっている気配がある。捕まるのも時間の問題だ。334の体が恐怖ですくむ。
突如、部屋の中が淡い光で満たされた。
———そこから先の記憶は元からあった通りだ。今思えばアリサの手引きで研究所の外にいた師匠に拾われ、ラヴェジャーとして生きる術を身につけた。
どうしてこんなに大切なことを忘れていたのか。
アリサは私を334という呪いから解き放ってくれた。
私は自分のためにもアリサのためにもエマとして生きなくては。
その決意に応えるようにエマの腕から溢れる光。ルークがクリスタを発現した時にすぐに行使できるように持たされていたルイン結晶が埋め込まれた腕輪が熱を帯びた。そして、まるで閉ざされていた扉が一気に開かれるように、エネルギーが解き放たれた。手首を縛る拘束具が軋み、そして——砕け散る。 自由になった腕をゆっくりと掲げ、エマは初めて自分の意志で魔法を行使したのだ。
「はははっ! 間違いない、今のはクリスタだ!」
ルークの目が歓喜に染まり、目の前で長年の悲願が達成された彼は感嘆の声を漏らした。
「334、お前は超人になれる。まずはその力で道を邪魔するあの男を殺せ」
ルークはホークを指差し、そう命令する。
彼は血まみれで機材に体重を預け、虚ろな目をしている。もはや動く力も無さそうだ。
ルークの命令に、エマは息を詰める。足が動きそうになる。それは体に染みついた“被験体”としての従順な習性。
命令に従って、あの男を殺す。痛いのは嫌だろ?
頭の中で声が響く。拒否すれば苦痛を伴う薬の投与や過酷な実験が待っている。彼の命令を拒絶するという行為そのものに恐怖という感情が植え付けられている。
違う、ホークは命をかけて助けに来てくれた……仲間だ。殺すなんてありえない。
しかし、エマは命令を強固な意思で否定した。
動かないエマを見てルークはため息を1つ吐いた。
「やはり、ソラは334の枷となるか……ならば、477、そいつを殺せ」
477は無言でナイフを振り上げる。今のホークにはそれに対抗する力は無い。
ナイフをが振り下ろされる。
その瞬間、“被験体334”という枷が壊され、“エマ”が完全に目覚めた。
エマの右手に光が宿る。光は瞬く間に収束、槍の形状へ変化した。
「させるかぁぁ!」
エマの叫びと共に槍が投げられ、空間を貫く。
477は大袈裟に後退し、回避を選んだ。鋭い直感が、あの槍を受ければただでは済まないと警鐘を鳴らしたのだろう。
それを証明するかのように槍は機材を消し飛ばしながら壁に突き刺さって消えた。
エマは跳躍し、477とホークの間に立った。
ホークが、彼女の後ろから小さく笑った。
「……おかえり、エマ」
エマは少し驚いた顔をしたあと、静かに微笑んだ。
「ただいま」
もう迷わない、もう囚われない。
私はエマだ。




