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3.自由

 ひときわ輝く満月の夜だった。

 またジュール殿下はおらず、鎖をひいて砂浜に出た私はただ波打ち際をひとり歩き回った。星屑をまいたような海。


 今夜、私は外に出る前に魔物(リュイエ)に聞いた。


『どうして私を鎖でつなぎたいの』

『君が僕のところに戻って来てくれる自信がないからさ』

『人間みたいな理由ね』

『そう思うかい』


 魔物はニヤニヤ笑った。


『いってらっしゃい、綺麗なフルール』

『ええ、行ってくるわ』



 シャラシャラ……。砂浜についた足跡が鎖でどんどん消されていく。


「こんばんは、フルール姫」


 ジュール殿下が闇から抜け出たように立っていた。何かの決意を秘めた澄みきった双眸、片手には一振りの剣。


「これは我が帝国に伝わる聖剣です。これならあなたの鎖を切ることができるでしょう」

「……それで?」

「あなたを自由の身にしてさしあげます」

「自由になってどうしろと仰いますの。わたくしはあなたの妃にはなりません」

「構いません」


 強風が吹き、空ではどこからか飛ばされてきた雲で月が陰った。光が消えた海。闇の中で彼は続けた。


「愛が欲しいなんて望みません。ただもう、あなたが悪魔の鎖につながれているのを見るのにも、月明かりでしかあなたを見ることができないのにも、耐えられないのです」

「わたくしは自由など望んでおりません」

「それは悪魔にそう思い込まされているだけです」


 私は夜の底で彼の澄んだ瞳だけを見た。迷いのない目。私を救い出そうとしている目だ。誰のために? 理解して心が冷える。ああ、彼自身のために、だ。私にとって何が救いか勝手に決めつけている目。


「座りませんか」私は言った。「お話をしたいのです」


 そうして海に飛び込むまでのことをすべて殿下に話した。父や二人の兄達のこと、三度の結婚のこと、その結果のこと。海に飛び込んたあと、魔物(リュイエ)が私の命を助けたことも。


「わたくしは自分で地上の一切のものを捨てたのです。海の魔物はわたくしから何ひとつ無理に奪おうとしませんでした。……与えようとも。勝手に救われた命と、それによって生きることになった時間を除いて。わたくしが頼めば、鎖も解かれ、きっと殿下の仰る自由も与えられるでしょう」


 そうだ、魔物は勝手に私の命を救い、勝手に世話をし、勝手に枷をつけた。私は拒否しなかったが、リュイエ自身ちゃんとそれを自分が勝手にやったことだと思っているだろう。魔物らしい気儘さ。

 そのくせ私が拒否すれば、すべて好きにさせてくれたことだろう。私が断るようなことを、本当に魔物は無理に奪おうとも、与えてこようともしなかった。


 殿下が今「自由」を私に押し付けようとしているのと、なんという違いだろう。


 私が望んでリュイエが叶えてくれたのは、質問に答えることと食事を出してくれたこと、外に出してくれたことだけ。そしてそれが私が魔物に望んだ全部。殿下には何も望んでいない。


『どうして私を鎖でつなぎたいの』


 そう、リュイエはつなぎ()()だけ。無理矢理枷を付けようとしたわけではない。


『君が僕のところに戻って来てくれる自信がないからさ』


 自信なんて、魔物が言うにはあまりに愚かな言葉だ。私はリュイエが、朝のこの質問だけははぐらかした気がしてならない。リュイエ、魔性のもの、海の魔物。


「わたくしは三人の夫を破滅に導いたと言われております。魔女のように。殿下もわたくしのためならば破滅しても構わないとおっしゃいました」

「それは……」

「ジュール殿下、悪魔とはなんでしょう。悪しきものとはなんでしょう、魔物とは、人間とはなんでしょう」

「あなたと俺は人間です、それだけは確かなはずだ」


 ああ、なんと澄んだ瞳。恐ろしいほど。


「鳥は鳥で鹿は鹿で群れを作ります、フルール姫。あなたは悪魔に囚われている間、何年間もなんの変化もない。人間は歳をとり、変わる生き物です。あなたは人のもとに戻らなくてはなりません」


 殿下が立ち上がり、剣を鞘から抜いた。いつの間にか再び顔を出した月の光で刃が輝く。彼は少し離れて私の両手両足首から伸びる鎖をまとめて掴んだ。


「海の悪魔は遠い昔に大罪を犯し、海に封じられたものだそうです。海から出ると全ての力を失ってしまうため、決して出てくることはない」


 満月は、魔の力が満ちる時でもある。


『満月の夜になったら外に出してあげる』


 その意味。魔物の力でつくられた枷と鎖。力が最も満ちる時でなくては、リュイエは自分の力の小さな欠片でさえ海の外に出せない。


(あなた)が浜辺に出て歩くのは、捨てたとはいえ地上を愛しているからですよ」


 ささやきと共に皇弟ジュールの剣の切っ先が鎖に触れた。

 私は止めようとしたのだろうか。どちらにしろ、気付いたときにはもう鎖は切れ、枷はあっけなく海中に消え去っていた。


 殿下は、ほっとしたように微笑した。座ったままの私の手を取る。


「これであなたは自由です」本当にあっけない。


 指先に唇が落とされた。陽光のように優しい目。


「俺の城へいらっしゃいませんか。お嫌なら宿の手配でも何でもします。あなたは自由の身なのですから」

「自由?」

「ええ、もうあなたをつなぐものはありません。どこへなりとも行けるのですよ」

「そう。――では、魔物のもとに帰りますわ」


 鎖があろうと無かろうと変わらない。立ち上がり、ぽかんとする皇弟に笑う。


「ジュール殿下、今までのご親切感謝申し上げます」


 そう、私は海の底の魔物に、離れないと約束したのだ。


 ふと、リュイエが私を鎖でつないだ本当の理由は「鎖が無くても私が戻ってくる」ことが怖かったからではないかと思った。魔物に恐怖という感情があるのなら、だけど。

 リュイエはどんな顔をするだろう。


「本気なのですか」

「わたくしは地上のすべてを放り捨てて海に飛び込んだのです。本当なら姫と呼ばれる資格すらありませんわ。フルール・フロリーヌ・クレ・コルヒチン・ゼフィールは王女としての責任を全て放棄した大罪人です」

「フルール姫……」

「ただのフルールで構いませんわ。殿下のおかげで全てがわかりましたの」


 私は罪人だ。王女としての責任、婚姻という仕事、国、国民全てを放り出し逃げた。私が死んだとなれば同じ船に乗っていた人間全部が処刑されていたとしてもおかしくない。


 運命の女(ファム・ファタール)、破滅を呼ぶ女。……その通り。私はとても罪深い。


 それなのに放り出した地上に未練を持ち、魔物に願って地上を歩いていた。海の底では以前と変わらず贅沢な生活を送って。


 そう、どこまでも愚かに。


「もう二度と地上には出てまいりません。魔物と共に海に沈みますわ」


 私が地上を愛しているのなら、人間を、国を愛していたのなら、そしてそれを自分で捨て去ったのなら、二度と出てくるべきではなかったのだ。何もできないくせに、する気もないくせに、馬鹿な私。


「ごきげんよう、ジュール殿下。帝国の繁栄と殿下のご多幸をお祈り申し上げます。ご健勝であられますよう」


 深く深く膝を折って、背を向けた。後ろで砂を踏む音がしたけれど、もう皇弟の声は聞こえなかった。


 私は海の中を進んだ。一歩一歩、沈んでいく。

 凍えた月、溺れるほどの星、潮騒の音。

 ふいに枷のない右手首が掴まれた。

 引っ張られる。堕ちていく。



「おかえり、フルール」



 世界中の色が踊り、窓の外に人魚が泳ぐ、魔物の宮殿。

 海水で服をぐっしょり濡らした私の手首を、乾いた服のリュイエが掴んでいた。瞳だけを濡らして。


「君が戻ってくるのは分かっていたんだ。君は約束を破る人間ではないからね。でも、鎖と枷だけが落ちてきたとき、僕はとっくに無くしたはずの心臓が握り潰されたような気がした」


 妖しいまでに美しい虹の双眸から、水晶に似た涙が落ちる。


「いっそ、行ってしまってくれれば良かったのに」


 魔物の冷たい手と指。凍えていた瞳を溶かすような涙。ああ、やっぱり、リュイエは恐れていたのだ。鎖を切った私が、自らの意思で戻ってくることを。真の意味で孤独で無くなることを。


「僕は自分の存在の永遠性は知っているけれど、永遠の愛や友情なんて信じちゃいないんだ」

「リュイエ」

「なのに。それなのに、この気持ちはなんだ」


 リュイエは私の手首を握ったまま涙をこぼし続けた。


「この止まらないものは何だ。君は何なんだ」

「あなたが勝手に生かした魔女よ」

「ずっと僕のそばにいる気かい」

「いけないかしら」


 手首を引かれた。涙で濡れた妖麗な顔が近付いて、精いっぱい背伸びをしたリュイエの唇が、私の唇にそっと触れた。「いけなくなんてない」温かく、少し塩辛い口付け。


「僕のフルール……」


 顔を離したリュイエの顔には蠱惑的な魔物の笑み。彼は初めて私に言ったのと同じ台詞を、同じ表情でささやいた。


「ずっと僕といてくれるなら、不幸な目にはあわせないよ――」






 月の光も太陽の光も届かぬ海の底。

 海の魔物は地上に出ない。




 愛してる。




 さあ、愚かな王女(わたし)の話はこれでおしまい。

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