第一章 18 今日は
そうして、何事もなく一夜が明ける。
普段は非常に寝起きが悪いのだけれど、この日だけは別だ。いつも起きている時間より少し早くに自然と目が覚めた。
眠気とは違った理由で薄っすらと霞がかった頭で今日一日の予定を思い出す。
……問題はない。ずっと続けている、慣れたことだと言っても過言ではない。
すっと目を閉じて、ゆっくりと息を吐いて。目覚めた意識が体に馴染んだころ、いつもの時間にいつもの声が襖の向こうからかけられた。
「……おはようございます。ホムラさん、朝ですよ」
「おはよう、ハル。着替えたらすぐ行くから」
「ふえっ!?」
がたっと派手な音がして、心底驚いたというようなハルの変な声が響いた。
「え、あれっ……ほ、ホムラさん……起きられたんですか……?」
「うーん、気持ちはわかるけども失礼だなハルは……トールから何も聞いてないんだ?」
「ご、ごめんなさい……えっと、僕は何も」
今ごろトールはいつもの顔で笑っているんだろうなとため息をつく。なんやかんやで、あの二人は揃って悪戯好きな性格をしている。
「今日はちょっと特別なんだ。とりあえず、先に戻ってて」
「あ、はい。わかりました」
ぱたぱたという軽い足音が遠ざかるのを確認したあと、もう一度目を伏せる。
思考も意識もクリアだけれど……その奥深くでぐるぐると渦巻くものは変わりない。というか、この感覚にも慣れたものだ。
いつもだったら勘弁願いたいものだけど、今日ばっかりは仕方ない。諦めて、気をしっかり持って前を向くとしよう。
今日予定していることは、俺にしかできないもので――俺にはできなかったものである。
◆
「ハル、今日は一日外へ出るぞ。トーコと三人でだ」
前置きも何もない私の言葉に、ハルはその赤い瞳を瞬かせた。
どういう理屈かは知らないが、主がハルに施した外見偽装の精霊魔術は効果時間が非常に長い。どうやら私達の耳や尻尾を見えも触れもしない状態にするのとは違うようで、主かハルが解除すると意識しない限りそのままだと言っていた。
ハルの言葉を借りるなら、魔術だと言えば何をしてもいいわけじゃない、というやつだろう。
思考が逸れた。
「えっと、ホムラさんも言ってましたけど……今日はなにかあるんですか?」
きょとんとした顔でハルが首を傾げる。先程は何も言わずに送り出したものだから、さぞ面白いものが見られたことだろう。残念ながらその場に私はいなかったが。
さて、食卓を見渡してみるもトーコは最初から説明などする気がなく、主は目を閉じてもくもくと食事を続けていた。いつもより噛む回数が多いあたり、まぁいつも通りと言える。
つまり、現状で口を開くのは私しかいないわけだ。
「一言で言うと、神事だ」
「……神事」
「今日は主がイナリ様へ祈りを捧げる特別な儀式の日でな、私達の存在は邪魔でしかない」
「その……儀式は、ホムラさんがお一人で?」
「ああ、私達にできる手伝いはこの場を離れることだ」
そう言って私はそっと主へ視線を向ける。釣られるようにハルもその目を動かした。
主は先程から変わらず、正座で背筋をピンと伸ばしたとても綺麗な姿勢で食事を続けている。その所作は普段の主の姿からは想像できないほど見事なもので、昨日のような気の抜けたところは一切伺えない。
……ここまでしっかりしていると、逆に大丈夫なのかと若干心配になるな。
そんな緊張感に満ちた主を見たあとで我が相棒の姿を見ると――うむ、安心感がある。
「あの、一日外でということは、夜はどうするんです?」
外出の準備をしている最中に、ふとハルが思い出したように言う。
それはもちろん……と言おうとしたところで私も気がついた。そうだ、今回からハルが一緒にいるのだ。
「あー……いつもは私とトーコだけだから、いくらでもやりようがあったのだが……ハルのことを忘れていた」
「えぇー……」
呆れられたが、とりあえず笑って誤魔化しておく。場合によっては宿を取ることも考えるとしよう。
「……いいよ、暗くなったら帰ってきても」
「うん?」
と、そう思っていたら突然背後から声をかけられる。
どこか眠たげにも思える声で、気配も小さい我らが主がそこにいた。
「途中から、奥の部屋に入ってるから。騒いだりしなければ問題ない」
「……そうか、主がそう言うなら甘えさせてもらおう」
私がそう言うと、主は小さく頷いて「じゃああとはよろしく」とそのまま部屋へと戻っていった。端から見ると今にも寝てしまいそうな雰囲気であった。
気づけばハルが心配そうな顔で主の部屋の方を見ていたが、そんな暇はない。
「ほら、ハル。さっさと行くぞ」
「あっ、はい!」
外ではすでにトーコが待っている。早く行かないとうるさいことになるだろう。
◇
ハルと一緒に山で鍛錬をするのにも慣れたものだ。ハル自身に強い目標があることもあって、私としても教えやすい。風の加護も考えれば将来は安泰だといえる。
そうしてついでに見つけた山菜などを街に卸したあと、さてどうしようかとなったのである。
「適当に、散歩がてら買い物で良いのではないか? 現状で必要なものなどはないのだろう?」
「ん。あとは趣味」
「……寝具か?」
寝ること以外にトーコの趣味が思い浮かばない。実際トーコは眠そうな顔をしていて……いや、こいつはいつもこうだ。騙されてはいけない。
あとありそうな趣味と言えば……。
「ああ、主を弄るための何かか?」
「ネタ探しともいう」
「程々にな」
微苦笑とともに返す。当然のことなのだが……二人とも主のことが大好きなものでな。
一方で、この三人だけで街に下りるのは初めてだからか、ハルはなんとも落ち着かないようであった。先程なんかは変なものを見るような目で私達を見ていたものだから、つい手が出てしまったものだ。
……まぁ、なんだ。夫婦の真似事をする私達が気持ち悪く見えるのは我慢してほしい。
と、先程はそうであったが、今のハルはどうやら違うようで。
私達の会話を聞いていて思ったというか、逸した意識が戻ってしまい気になって仕方がないといった様子である。
躊躇っているようにも見えたので、仕方なしにこちらから話を振ってやることにしよう。
「それで、ハルはさっきから何が聞きたいのだ?」
「……っ!」
「まぁ、大方予想はできるが……主のことだろう?」
ハルは一瞬躊躇ったものの、素直に頷いた。
「ホムラさんの様子が明らかに違っていたので……なにかあるのかなと」
「ふむ……とりあえず、主が予定していた今日の神事についてから説明しようか」
「お願いします」
「まず何をするのかだが、大したことではない。主は日中ずっと瞑想と清めをしている。重要なのは深夜に行う儀式なのでな、日中はその準備といったところだ」
「あ、じゃああの眠そうな雰囲気はその瞑想のためですか?」
「半分正解だ」
では残りの半分は何か、という話になるわけだが。
「ところでハル、一般的に今日は何の日か、知っているか?」
唐突な話の変わりようにハルは怪訝な表情をした。だがそれも一瞬のことで、すぐに質問に答えようと考え始める。
「……特に、何かあるとは聞いていませんが……この街では何かあるんですか?」
「いや、この街どころか、どの国でも同じことだ」
「……わかりません」
「イナリ様は今でこそ神として存在しておられるが、元はただの狐であった。その死後に神格を得てイナリ様となったわけだが……最初のうちは神というよりも妖であったのだな。妖狐から始まり……いや、これは今はいいか」
「あやかし……」
「あの国の妖に関して、とても重要な意味を持つのが今日だ」
私はすっと、一本だけ指を立てた。
ハルもよく知っているだろう?
「今日はな、満月なのだ」
報告が遅くなりましたが、10月頭まで私用で更新が遅くなりがちです。遅くとも一週間に一度は更新しますのでご了承ください。




