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No.1 目覚め

 

 リランは青年が目覚めたと聞いたとたん、走った。嬉しさと不安を抱いて。彼女は今や負傷者の宿泊施設になっている酒場"スピア"のドアを荒っぽく開け、二階へ続く階段を駆け足で上がった。それから廊下の突き当たりの右の部屋へと飛び込んだ。

 ドアを開け、駆け込みながら部屋の四方を見るもなく、リランの視線は一点に集中した。--彼の瞳に。

 緑だ……きれい……。


 「こら! いくら彼のことが心配でも病室に飛び込んで来ちゃいかん」


 青年の横で椅子に座っていたレハイル帝国の老いた医者が驚きながらリランに注意した。しかしリランは医者の方に見向きもしないで、ずっと一点をみている。ベッドの上で座っている青年も一点をみていた--否、見つめていた。リランと青年の視線が絡み合った。

 

 「こら!! 聞いとるのかね?」


 今やかなりの体力を消費させることになる大声をだして、医者は椅子から立ち上がり再び注意した。


 「あ、す、すいません。その、ずいぶんと彼が目覚めなかったものですから、その分うれしくなっちゃって」 


 「全く、病室を何だと思っとるんだか。彼はまだ安静にしなきゃならんのだぞ?ったく、最近の若いやつは……」


 そう言って医者はリランを見ながらため息をついた。


 「……別にここは病院でも病室でもないし。ただの酒場だし」


 リランは小声でそう呟いた。


 「聞こえとるぞ! いいか、患者と患者のベッドがあってそこに医者が診断にくれば、そこはもう病室じゃ!ついでに見舞いに来とる奴もおるしの!まったく問題だらけじゃというのに」


 医者は再びため息を吐き、少し待っててくれと言って部屋を出ていった。リランは青年のベッドの横にある医者が座っていた椅子に掛けた。サイドテーブルには黒い鞄が置いてある。


 「これキミの?」


 「いや」


 「そう」


 「……」


 「よかった、目覚めてくれて。キミは一週間以上も寝たきりだったのよ。でも包帯とれてるわね。体はもう動くの?いつ退院?」


 「……あんたは?」


 「あ、ごめんなさい、まだ自己紹介してなかったわね。私の名前はリラン。リラン・アッシェーテ。この村の漁師の娘よ」


 「村?」


 「ええ。そういえばあなたはどこまで聞いたの?あなた事故にあったのよ。ここはメリピート村、あなたはここの上を通るルートの飛空船に乗ってたの」


 「飛空船……」

 

 青年は頭に何も浮かんでないような顔をした。


 「そうよ。知ってるでしょ、キミもそれに乗ってたんだから。それでその飛空船が嵐にぶつかって墜落しちゃったの。で、私達村人はレハイルの兵や近くのエルフたちと一緒に救出していったのよ。そこでキミを引き上げて私が看病してたってわけ。わかった?」


 「……そうか。ありがとう、助けてくれて」


 「いいよお礼なんて。当たり前のことしただけ。あんな事故の負傷者をほっとく人なんていないんだから」


 そう言ってリランは背を伸ばした。


 「う~ん。でもなんだかどっと疲れが来ちゃった。キミが起きて安心したからかな。ところでキミの名前はなんていうの?」


 「……わからない」


 「え?」


 「わからない」


 青年は真剣な顔つきでリランを見た。嘘をついている顔ではない。リランは予想だにしていなかった青年の言葉に固まってしまった。リランが次の言葉を発する前にドアの方からしゃがれた声がした。


 「そこが問題じゃな」


 ドアの側に先ほどの医者が酒とグラスを抱えて立っていた。










 「じゃあ彼は記憶喪失ということですか?」


 リランは医者が持ってきた酒を飲みながら言った。サイドテーブルに黒い鞄と酒と青年用のグラスが置いてある。医者がさっき椅子に掛けながら置いたものだ。


 「そうじゃ。自分に関係あるものだけな。例えば親や兄弟、親友、故郷、自分の職業、年齢、名前、恋人。しかし生活に関することはなんの障害もない、と言い切りたいところなんじゃが……」


 医者のはっきりしない物言いを聞いて、リランは先ほどの会話を思い出した。

 “あなたはここの上を通るルートの飛空船に乗ってたの”

 “飛空船……”

 そのときの彼の顔……。


 「もしかしたら生活に関することにも……?」


 「うむ」


 医者は頷いた。そしてサイドテーブルに置いてある鞄から束になった紙を取り出した。


 「これはワシが彼に対して行ったテストの結果というか、彼の現状を簡単に示すものじゃ」


 リランは医者から紙を受け取った。青年はその紙を一瞥したがすぐに陽光がさす窓へ目を向けた。すでに一度見ているのだろう。


 「これって……」


 「彼に関する記憶しているものとしていないもののリスト、表じゃ。大雑把じゃがな」


 紙束の一枚一枚に日常生活でよく使われている名詞や世界の国々の名前、そこで使われている通貨の名前、単位、日常生活に関する常識的なことが箇条書きで書かれていた。そしてその単語などの端に丸印やばつ印が書かれている。


 「彼には常識的な記憶が、知識があるときとないときがある」


 「あるときとないとき?」


 「うむ。例えば彼は魔法の知識がある。聞いたのは基本的な事だけじゃが、これは立派な教育を受けていたことを示す」


 医者はここで一拍おいた。


 「だが一方ではレハイル帝国や飛空船といった普通ならば知っているはずのものを知らない。いや、覚えてないと言うべきか。後者は自分が乗っていたし、前者は魔法の教育を受けている者ならまず知っている国じゃ。何せこの大陸で一番でかく豊かな国じゃからな」


 リランは青年を見た。青年はサイドテーブルに置いてある酒をグラスに注いだ。


 「このように彼は今非常に不安定だ。普通のことを知らない、かと思えば一般人とは思えない知識がある。残念ながらワシはこの手の専門家ではないからこれぐらいのことしかわからん」


 「患者の前であまり不安なことは言わないでください」


 リランはなんて無神経なと思った。彼は記憶を無くしてるのだ。頼るべき人を、支えになっていた人を忘れてしまったのだ。そんな時に医者から不安なことは言われたくないだろう。


 「おっと、すまんの」


 医者はすぐに謝った。まるで最初から責められるだろうと知ってかのように。すると青年がリランの言葉に付け加えるように言った。


 「それにいくら俺を助けてくれたといっても、他人にあまりベラベラと人の診断状況を言うなんてどうかな」


 青年は少し目を細めた。

 

 「! あの、ごめんなさい」


 「いや、あなたは謝る必要はないよ。勝手に医者が話をしただけだ。それで結局俺の診断結果や今後は?」


 医者はドアの方へ歩き、廊下に人がいないかを確認してから青年の方へ戻ってきた。

 

 「あ、あの!出ていきます」


 「いや、待ってくれ。あなたは俺の命の恩人だし、今この世界で俺が知る人間の二人の内一人だ。ここにいてくれてもいい」


 青年はリラン見て頷いた。リランは迷っていたが聞くことに決めた。その時、一瞬医者が口の端を吊り上げた。


 「よし。では君の診断結果はさっき言った通り記憶喪失。そして君の今後になるが、この近くに賢者の森というエルフが住んどる場所がある。そこにはエルフの賢者達が集う。エルフは人より長寿で魔法にも奥深い。ゆけば専門的な治療をしてくれるだろう。どうじゃ?」


 青年は数瞬考えたのち、決断した。


 「行くしかないだろう」



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