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僕が鉄の檻を開いたとき、泉さんはうずくまったままで、微動だにしなかった。動けなかったんだ。長期間、檻の中に閉じ込められていたから、足腰が弱っていたんだ。さらに食中毒で衰弱していたんだ。瀕死の状態だったよ。
頭の中は、泉さんを助けることで一杯だった。なんとしてでも彼女を助けようと、善意で一杯だった。その善意が、泉さんを苦しめることになった。
泉さんを担いだんだけど、病弱な僕でも軽々持ち上げられるほど、彼女は軽かった。それほど、やせ細っていたんだ。
そして、施設の唯一の出入り口から脱出した。
外に出て、最初に感じたのは、空気だった。冷たくて、無臭で、清新な空気だった。塀で囲まれていたから、施設は風通しが悪かった。外の空気は久々だった。胸一杯に吸い込んだよ。普通の空気を吸えるだけでも、幸福だった。普通が幸福だって、気づけた。
正直に言ってしまえば、施設の外へ抜け出す行為そのものは、いつでも可能だったんだ。獄長の鍵の管理は杜撰だったし、鍵を盗んで、施設から脱出することはできたんだ。
だけど、施設の外へ出てからが問題だった。最寄りの民家まで五十キロもの道程があったんだ。五十キロだよ。フルマラソン以上の距離さ。歩いて行くのは困難だった。考える時点で間違いさ。獄長が健在だったら、ミニバンを飛ばして即座に連れ戻しに来ただろうね。その後、どんな目に会うか、わかるよね。
交通手段といえば、獄長のミニバンだけだった。それも、MT車さ。オートマだったら手探りで運転できたかも知れなかったけど、MT車の運転はだれもできなかったんだ。
じゃあ、どうやって五十キロを乗り越えたのかって?
歩いたんだ。信じられないかも知れないけど、本当に五十キロ以上を歩いたんだ。あの夜を、必至に必至に歩いたんだ。
言うまでもないけど、僕たちの体調は万全ではなかった。いいどころか、悪かった。最悪のコンディションだった。飢えていたし、疲労も溜まっていた。睡眠不足で、頭が回らなかった。
それでも僕は、泉さんを担いで歩いたんだ。
施設の外は、真っ暗だった。山奥だったから、外灯なんてなかった。人工的な明かりが一切存在しなかった。月明かりすらなかった。自然の夜だった。
見えるものがなかった。道路も見えなかった。自分の足も見えなかった。自分の手も見えなかった。目の前に手を上げても、認識できたのは輪郭だけだった。
音も無かった。無音だった。泉家がある高級住宅街よりも静かだった。草木の囁きはもちろん、風の音すらなかった。自分の足音ですら、無音にかき消された。
自然の夜を体験した経験のある現代人は少ないと思う。いまの時代は、どこへ行っても明かりがある。どんな場所にも明かりはある。明かりのないい場所がない。
だから、だれも自然の夜を知らないんだ。
手を差し出せば掴めそうな、身を任せれば泳げそうな、目や耳や口や喉や肺や腹や脳まで溶かしてきそうな、あの夜が恐ろしかった。
一度でも倒れたら、だれにも見つけてもらえない夜だった。
明かりの届く場所に戻ることは、命懸けなんだ。
泉さんを背負って歩いている途中で、感覚が麻痺した。目に映るのは夜だけで、自分が進んでいる感覚がなかった。時間の感覚もなかった。自分を確認するためには、目標にするなにかが必要なんだ、
自分が溶けて、霧散するようだった。自分と夜との境目が曖昧になった。
それでも、歩いた。泉さんを担いで歩いた。
自分が誇らしかった。だれかを助けているという自分に酔っていたんだ。
地獄が始まるのは、ここからさ。
僕の行為が、好意が、裏目に出るんだ。泉さんを苦しめるんだ。
地獄への道は善意で舗装されているんだ。
人を担いで五十キロ以上歩くのは不可能だと、施設を出る前に気づくべきだったんだ。ほんの少しでも考えれば、気づけたはずなんだ。
泉さんは、施設に残して行くべきだったんだ。僕ひとりだけで、脱出すべきだったんだ。あの苦しみは、僕ひとりだけで十分だったんだ。
僕は道の半ばで倒れたんだ。足が動かなかった。手も動かなかった。呼吸するだけで精一杯だった。色々と無理が祟ったんだ。
泉さんは僕に感謝すると、これからは自分ひとりでで歩くと、両足で立ったんだ。彼女は、一歩一歩踏み出したんだ。
正直、ありがたかった。これ以上担げなかったんだ。
泉さんの歩きに、僕は感動したよ。泣いてしまったよ。頑張れ頑張れと応援したんだ。自分がなにをしているのかも理解せずにね。
あのときだったら、あの距離だったら、まだ間に合ったんだ。
即座に、施設に引き返すべきだった。いったん施設に戻って、泉さんを安静にさせて、自分ひとりで再出発すべきだったんだ。あのとき、ああしておけばと、いまでも後悔している。
自分ひとりが負うべきだった債務を、泉さんにまで負わせてしまったんだ。僕以上に苦しんでいたのに、あの地獄の道を歩ませたんだ。
道しるべや目標になりそうなものがなかったから、あの場に泉さんを置いていったら、二度と見つけられない。
あの道程を超えるのが、どれほど苦しかったかは身を以て知っている。泉さんの苦しみは、僕の苦しみ以上の苦しみだった。
僕はね、僕の人生の延長線上に、泉さんを置いてしまったんだ。
僕は、父さんと母さんと同じだったんだ。ピジョンスクールに入った経緯が、そっくりそのまま自分に返ったんだ。因果応報さ。ただの偽善者さ。
歩いて歩いて歩いて歩いて歩いて、なにもかもがわからなくなった。
泉さんは、泣かなかった。ピジョンスクールへ押し込まれてから、彼女は一度も泣かなかった。
泉さんは教えてくれた。泣いたってだれも助けてくれないんだと、逆につけ込まれるんだと。僕がピジョンスクールで得た、唯一の教訓だ。
苦しんで歩いて、歩いて苦しんだ。いつかは普通にたどり着けると、いつかは抜け出せると歩いた。ふたりで手を取って、歩いた。抜け出したかったんだ。
そして、抜け出せたんだ。曙光が見えたのと同時に、家が見えたのは偶然だったのかな。僕が人生ではじめて自分の力で手に入れられた幸福だった。




