14 少年期の終わり
中庭でとある騎士と王女の恋の芽生えの賭けについて話されていたのと同じころ――……。
くしゅんっ。
初めて聞いた騎士のくしゃみに、アンジェリカは目を丸くした。
騎士の立つ方を見れば、白い肌がうっすらと桃色になっている。いつもなら顔を見れば視線をこちらに向けてくれるのに返さないところをみると照れているのだろう。
第十一王女アンジェリカの部屋は明るい陽射しが差し込んでいる。開けた窓からは、時折やさしい風がそっと入ってくる。
寒くはない気温であるが、騎士のくしゃみが風によって何かが刺激になったのか、はたまた不調のしらせであろうかとアンジェリカは気にかかりはじめる。
迷った末、結局我慢できず、手紙を書き進めていた羽ペンをいったん脇におき、アンジェリカは机の上においてある壺を手に取った。扉の脇に立つ騎士のところへと持っていく。
蓋をあけ、騎士の前に壺を差し出した。
「おひとついかがですか?」
「……これはなんでしょうか」
「シャヌの果実の飴玉です」
アンジェリカが壺を差し出したままじっと見つめると、騎士は晴れた青空の色の瞳でアンジェリカを見つめ返した。
「シャヌの果実?」
「えぇ、喉に良いのです。くしゃみにも」
「……」
アンジェリカの説明にほんのちょっとだけ眉を寄せる騎士。
ふわりとした金の髪は最近、すこしずつ癖があまりみられなくなったなとアンジェリカは思う。
出会った頃はほわほわのやわらかなひな鳥の子どもの毛のようだったが、たったこの一年ほどで髪質がしっかりしてきたようだ。加えて、最近は時折柑橘の香油の香りがするので、整えたりもしはじめたらしい。
そういえば孤児院のこどもたちも、泥だらけであそび、寝ぐせも絡んだ髪もなんのそのだった子が、いっきに髪型を気にしたり身なりに気をつかう年頃を迎えたりしたものだなぁと思い出す。
アンジェリカを守ってくれる騎士様は、それはそれは美しい天使の姿だけれども、最近ははっきりとアンジェリカよりも背が高くなり、肩幅もしっかりしてきた。
いろいろと貴族としての教養や知識を教えてくれるときに本を朗読してくれることもあるが、その声もしっかりとした低音となってきている。
今、ちょうど侍女が王女の衣服の片付けのために部屋を離れ、しばし騎士と二人なこともあり、アンジェリカはいつもより長めに騎士のことを見た。
本来なら、こうやって見続けることは貴族の女性は行ってはいけないことらしい。
「なんです?」
「髪……金色が濃くなってきましたね」
出会ったころの白金のふわふわを思い出してそう言うと、騎士はちょっと眉を寄せた後、口を開いた。
「……我が家系は、年齢が上がると共に髪の金色が濃くなるようです。父も祖父もそうだったと聞いています」
それを聞いて、あぁやっぱりあのふわふわの白金の髪はひな鳥の羽のようなものだったのだと思う。
雛の羽毛を見られて貴重だったのだな……と思い返し、その上でだんだん大人の金の毛になってゆくのかと考えると、人気絶大な若き騎士の成長を間近で見ている幸せな立場に、感慨深い気持ちになった。
この騎士は伯爵さまの家系の出身と聞いている。
庶民の暮らしからいっきに王城での王族の暮らしへと移り変わったアンジェリカは、貴族の――伯爵家の暮らしなど想像もつかないが、おそらく豪華で華やかで、そしてこの騎士様の御父上であればさぞかし美男なのだろうなと考えた。
ぼんやりそんなことを考えていると、ふいに騎士はアンジェリカから目をそらした。
……いけない、見つめ過ぎたわ。
アンジェリカは自分の失態に気づいてそのまま目を伏せた。すると、持っていた壺に、長い指がのばされるのに気付いた。
大きくて筋がはっきりとしている手――。
この手だけは、出会ったころもこんな風にしっかりした手だったなぁと思う。この手が針みたいなものを飛ばして盗賊を倒し、アンジェリカを守ってくれたこともある、変わらぬ強い手だった。
その手が、壺から小さな赤い玉をひとつ取り出す。
思わず、顔を上げて再び青い目を見る。
「召し上がるのですか?」
「……すすめてきたのはそちらでしょう」
「えぇえぇ、そうです! いくつでも、どうぞ!」
「……一つでよいです」
騎士はすばやく飴玉を口に入れてしまった。もう少し目で追いたかったなぁなんて思い、けれどもアンジェリカは今度こそあまり長く見つめ続けてはいけないと自分を叱るようにして、そっと目をそらし壺の蓋を閉じた。
すると、騎士が呟いた。
「懐かしい味がします」
「シャヌの実は喉を傷めたときに使いますから……」
「……以前いただいた、ジャム」
「え?」
「孤児院からいただいたジャムを、私にくださったでしょう。あのジャムの味がするのですが……もしかして、シャヌの実とはあのジャムの元の果実なのですか?」
騎士の言葉に、アンジェリカは「あぁ……」と合点がいった。
以前、渡したジャムとは、孤児院のジャムことだ……。
アンジェリカは数か月前のことを思い出した。孤児院へのお忍びを最後にしようと決心したあの日、孤児院の果実を収穫し、ジャムを造らせてもらった。すべて孤児院においておくつもりだったが、院長の好意でひと瓶分けてもらった。
その日はさまざまな緊張する出来事があったけれど、一番最後、眠る前に騎士を呼びジャムをわたそうとしたとき、騎士の袖にパナーニャジュース独特の青の染みに気付いた。
それを見てアンジェリカは、なんとも言えない愛おしい気持ちになった。孤児院のこどもたちでも身体を大きくしたい子が飲んでいたからだ。騎士は庶民の飲み方を知らぬだろうと、ついついジャムを混ぜる飲み方を伝えたのだった。
孤児院でも体を大きくしたいと願う子はパナーニャを飲みたかがったが、飲んでいる事実は隠したがるものだった。ゆえにアンジェリカは騎士もまた、私に気付かれたくはないだろうと、知らぬふりをしていた。そのまま。忘れてしまっていた。
騎士が実際にパナーニャジュースを飲み続けたのかはしらないが――すくなくとも騎士はアンジェリカをどんどん追い越す勢いで背丈がのびているので、彼の願いはかなったということだ。
ジャムが少しでも役立っていると良いなと思いながら、アンジェリカは目を細めて騎士に答えた。
「いいえ違います。シャヌの果実はもっと小さくて果実も果汁も黄色なのです。その飴玉の赤色の色素をとっているのが、あのジャムと同じ原料なんですよ」
説明すると、騎士は少し黙ったあと小さい声でたずねてきた。ちょっと構えるようにしてたずねる素振りは、なぜか出会った頃のまだ今よりも小柄だった騎士を思い出させた。
「……あのジャムの果実、この飴の赤色の……実の名は?」
問われて答えるのに、アンジェリカはほんの少し躊躇した。
騎士は、実の名を知っていてアンジェリカをからかう気持ちで尋ねたのだろうかと少しだけ疑ってしまったからだった。けれど、すぐにそもそもこの騎士はからかったりするような性質ではないと思いなおす。
アンジェリカは、そっと顔を上げた。ほんの少し照れる気持ちがわいてきて、口調がかたくなる。
「あのジャムの果実……孤児院の庭に実っていたのは、アンジェ、です」
「アンジェ……?」
成り行きとはいえ、自分のかつての孤児院での愛称を騎士に呼ばれて、ほんのすこしくすぐったい気持ちでアンジェリカは頷いた。
「そうです。アンジェの果実です。実は、私の名前の由来でもあるんです」
「由来……」
「私は産み落とされ、名付けも間に合わず母は亡くなったので……院長が孤児院にあるアンジェの樹にちなんで名をつけてくださいました。アンジェの樹のようにたくさんの幸せの実を結ぶようにと」
話すと、アンジェリカの中で孤児院での思い出、院長先生やこどもたちとの泣き笑いがいっきに思い出されてあふれてきた。
楽しいことだけではなかったはずなのに、つらいこともあったはずなのに、それでも苦しいだけではなくて忘れたくない日々だった。たとえ、もう戻ることはなくても。
「……アンジェは黄色い実なのですが、ジャムにするために種をはずすと種のまわりだけ果実があかいんです。その色素が混じり、ジャムは煮詰めると赤くなるんですよ。院長がロマンチストで……その赤色は愛の色だってよく言っていました。他者を慈しむ想い、情熱は、一見したらわからない。けれど、ちゃんと中で存在しているんだって。燃えるような想いを秘めた実なんですって」
懐かしくなり目の涙がにじんだ。
でも、ここで泣いても騎士を困らせるだけであり、すぐに侍女も戻ってくることもわかっていた。
アンジェリカはぎゅっと一度つよく瞼を閉じて開き、涙を散らした。
「昔語りが過ぎましたね……お手紙を書き終えてしまわないといけないのに」
アンジェリカはそう言って、顔をあげて微笑みを騎士に見せた。
そのとき、青空の瞳と眼差しがかち合った。
高さが同じだったのに、あれよあれよというまに見上げるようになった騎士の顔。
まぶしい気持ちと、大きくそだってゆく騎士のことを頼もしくおもう気持ちと――。そして、自分をいつも守ってくれることの感謝と、自分もまたこの騎士にほんの少しでも何かを返せたら良いのにという切実な願い――。
いろんな思いがこみあげてきて、けれども言葉という形には何一つならなくて、ただアンジェリカは微笑みつづけるだけしかできなかった。
風が王女の部屋の窓から入り、侍女が不在なことから少し開けてある扉から抜けてゆく。
風は二人のあいだも通り抜けてゆく。
いたずらのように、アンジェリカの髪が風にかるく揺れた。一筋、二筋の髪がさらりと風を追ってゆく。
騎士から目をそらし、指先で風に遊ぶ髪をとどめようとした時だった。
騎士の形の良い唇がかすかに動いた。
「……アンジェ」
風がそっと耳元を撫でてゆくような、ささやき声だった。
けれども、アンジェリカの耳は確実に捉えた。
囁きの小さな声音だというのに、甘い果実のような……とろりとした響きをはらんでいた。
名を呼ばれたのか。
それとも、果実の名を呼んだのか――……。
騎士の心はわからない。風のようにとらえられない。
ただアンジェリカの心は、その声を聞いたとき震えた。
瞬きして、騎士を見た。
成長してゆく、自分を守り続けてくれる騎士を。
白の基調に金の飾り、王族を守り、国の栄えを願い自らを捧げんとする――近衛騎士を。
見れば、もう視線を揺るがせられないのに。
……あまりに甘い芳香をまとっているかのような、アンジェと呼んだ声に応じるみたいにして――アンジェリカの内なる芯が彼女の知らぬ間に赤く染まり始める。熱がじわりとともる。
まだ自覚はない。
けれど何か内なるものの変化を感じ取りながら、アンジェリカもまた、震える声のまま知らず知らずのうちに騎士の名を呼んでいた。
今まで何度も信頼と共に口にしてきた名を――。
「……ギルバート」
アンジェリカははっとした。
そして自分の失態をはじるかのようにうつむき、頬を赤らめた。
自分の声が、今までにない、あまりに甘ったるい響きだったように思い恥ずかしくなったのだ。
「アンジェリカ様。いかがいたしました」
騎士はいつもどおり自分を呼ぶ。その呼びかけを聞いて、先ほどのささやく声は聴き違いだったのかもしれないと思い、アンジェリカは恥ずかしくなり「いいえ、何も……」と答えたきり床を見つめた。
うつむく王女は気づかなかった。
アンジェリカに対になるように、主の呼びかけに応えた騎士もまた耳の先まで赤くなっていたことを。
主の赤くそまった頬、伏せられた震える長いまつげ、騎士を呼んだふわりと甘い声に痺れて動けなくなっていることを。
騎士がどんなにか内心あせりながら。
「アンジェリカ様……」
と必死に……取り繕うように応じたかのか、王女は気付いていなかった。
また、騎士も完全な戸惑いの中にある。
………王女の名を……愛称のアンジェ……を、思わずささやくように、呟いてしまった。
まさか自分が王女のことを愛称で呼びかけるなんて、そんな不敬あり得ない。あり得ない行為だ。そうだ、ついつい「果実の名」を繰り返してしまっただけなんだ。
そう思いこもうとするのに。
つい口にしたとたん、今まで気づかなかった、王女の肌の白さと頬や唇の赤みが目にちらついた。きっちりドレスを着込んでいる身体のその華奢さと女性らしい丸みをもった線の絶妙なバランス、自分を呼ぶ声音の甘さ。
ずっとそばにいたはずなのに意識していなかったところに初めて目がいって、ギルバートは自分自身に戸惑っていたのだった。
若き近衛騎士ギルバート。
彼の内ではまだ、アンジェリカに向かってどうしたいだとか何をしたいだとか形にはなっていない。
けれども今、何かが生まれた。
アンジェの実の名前を知った瞬間――自分の愛称と同じという果実の名を恥ずかしそうに少し頬を染め口にした王女を見た途端。恥ずかしさゆえか、長いまつげのいたいけな震え。それに気付いた刹那。
王女を守ると一心不乱だったギルバートの心に、もっと何か強いもので王女とつながりたいという気持ちが芽生えたのだった。もっと王女の知らぬ顔を見てみたい。誰にもみせたこともない顔を自分だけが知りたい。
王女を見つめる青空のようだったギルバートの瞳に深海の青がぽとりと滲む。深い青はギルバートの瞳に陰影をつけ、それまでになかった艶を生み出す。
それはまるで、アンジェリカの心の芯が赤い火照りと呼応するかのよう。
ギルバートの青みに深さが増し、アンジェリカの炎がさらにじわりと熱をあげる。
ただ名を呼んだだけ。
けれど今のふたりの間には言葉にならない甘い芳香がただよい始めている。
新しい感情の芽生えは互いに知らぬ間に始まりをむかえた。
そしてギルバートは、少年期をそっと過去にした。
膨らんでいた蕾が花開き芳香を放ちはじめたかのように。
今まさに騎士と王女がまとい始めた甘い雰囲気と自己の衝動をもてあます憂いを――それを人は――なんと呼ぶであろうか。
先輩騎士ランドは額を押さえ、王と第八王子はにまにまと祝杯をあげる用意をするかもしれない。
また、孤児院の院長はアンジェの樹が熟れて芳香を放ったと喜ぶのかもしれない。
だがそれは、まだ形わからぬ先のことであり、それはまた別の物語。
【ギルバート少年は近衛騎士】 fin.
これにて完結です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!




