奇跡
恋の力とは、恐ろしい。
今日の私は、自分でも驚くくらい仕事が捗っていた。
普段ならへとへとになって、効率が下がってしまう仕込みも、気づけば予定より三十分も早く終わっている。
「……好きすぎでしょ」
自分で自分に呆れる。
仕事に集中しようと考えないようにしていても、逸る気持ちは抑えきれなかったらしい。
退勤した途端、頭の中は、彼でいっぱいになった。
ガチャ…——
震える手で、ゆっくりと扉を開ける。
(疲れすぎて見た、願望かもだから……)
期待と不安が入り混じる胸を押さえながら、部屋へ足を踏み入れた。
「お疲れ」
聞き慣れた声に、心臓がどくん、と大きく跳ねる。
部屋の奥では、一颯が椅子に腰掛け、本を読んでいた。
こちらへ、顔を向ける。
何の違和感もなく。
その姿を見た瞬間、朝から何度も疑っていた気持ちが、消えていく。
夢じゃない。
本当に、彼がここにいる。
「……お疲れ」
返事をするのが精一杯だった。
どうすればいいのかわからず、視線を逸らす。
聞きたいことは山ほどあるのに、どの言葉から口にすればいいのか、まったくわからなかった。
そんな私を見て、一颯はふっと笑う。
「明日は休みなんでしょ?ゆっくり寝る準備してきなよ」
「あ、うん」
そう返事をして、私はそそくさと寝支度を始めた。
(……一個だけ言わせて)
(なんでそんな自然にできんの?!え?こっわ、なにあいつ…)
ぬるめのシャワーを浴びながら、熱くなった顔を冷ます。
けれど、落ち着こうとすればするほど、朝の出来事が頭を巡ってしまう。
結局、心臓は最後まで、静かになってはくれなかった。
支度を終え、ベッドに腰を下ろす。
一颯も本を閉じ、こちらへ向き直った。
「まぁ、気づいたらハムスターになってて。戻んないし、なんとなく新幹線乗って、なんとなくここに来たら、羽柴さんがいたって感じ」
何の前ぶりもなく、始まって終わった説明。
「うん。すごい話だし、すっごい簡潔だね」
真顔で返す。
聞いてる感じ、彼自身も、何が何だかわかっていないのだろう。
「戻れてよかったね」
「うん」
部屋に沈黙が落ちる。
何を話したらいいかわからない。
どうにか話題を探していると、ふと大事なことを思い出した。
「てか、今日どうやって寝る?」
私の部屋には、ベッドが一つしかない。
「あ~…というか、昨日俺が言ったこと覚えてる?」
「言ったこと?」
昨日の記憶を辿る。
(めっちゃ泣いたよね…)
「あ、え?え、」
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
一颯も少しだけ照れくさそうに、仄かに頬を赤く染めていた。
「え、でも私、振られてるよね?」
「振った覚えはないけど」
「はぁ?あ、ごめん思わず本音が…」
「ひどいわ~」
わざとらしく肩を落とし、首を垂れる一颯。
(この感じ、マジで…)
良くも悪くも気まずい話になると、すぐ茶化して誤魔化す。
昔から変わらない、彼の癖だ。
「いやいや、『友達って感じかな』って言ってたじゃん」
「どう思ってるか聞かれたから、答えただけ」
「え?恋愛対象じゃないってことじゃないの?」
「……あの時は、何とも言えなかったんだよね」
「なんそれ」
全身から力が抜ける。
散々悩んでいた時間は、一体なんだったのだろう。
(まぁ、勝手に悩んでただけではあるけれども…!!)
いつも通り、自分でツッコミを入れつつ、目をぎゅっと瞑った。
「……今は、好きだよ」
一颯はそっぽを向きながら、そう言った。
予想外の言葉に、彼の顔を見つめたまま、思考が止まる。
何をどうしたらいいか、わからない。
そんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
嬉しい。
嬉しすぎる。
今すぐ飛びついてしまいたいくらいに。
「何か、言ってくんない?」
固まった私の顔を、彼が覗き込む。
「あ、ごめん。ありがと……えっと、その、じゃあ恋人になってくれる……ってこと?」
目尻が熱い。
涙が滲んでくる。
「…まぁ」
その短い返事で十分だった。
無理なことは、無理だとはっきり言う人だ。
だからこそ、その曖昧な返事が、何よりも確かな答えだった。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。
「え」
気づけば、音もなく涙が頬を伝っていた。
「え、そんなに?」
どこか困ったように、それでもいつもの調子で笑う。
「そんなにだよ…ぉ…」
「泣くなって。……って言っても、無理か」
「うっ…」
ハムオだった頃。
彼は、私が誰にも見せられない顔まで、ずっと見ていたのだ。
泣き虫なことも、もうばれている。
全部、知っているのだ。
彼は下を向いたままの私の頬へ、そっと両手を添えた。
「……う?」
自動的に、顔を上げさせられる。
涙が溜まった目のまま彼を見ると、一颯は少し照れくさそうに笑った。
「てことで、一緒に寝ようか」
「え?」
あまりにも自然だった。
一颯はそのままベッドへ入り、当たり前のように布団をかぶる。
「え、待って無理だって」
涙はすっかり、引っ込んだ。
「なんでよ、今更じゃん」
平然と言うくせに、耳だけは真っ赤だ。
(可愛いかよ…)
「それに…これからずっと一緒でしょ」
「っ!?今なんて?!」
聞き捨てならない発言に、勢いよく身を乗り出す私。
一颯は、天井から目を離さない。
「もう、はよ寝なさい」
そう言って、掛け布団を大きく持ち上げる。
「え、ちょっ……」
次の瞬間、ふわりと布団が私ごと包み込んだ。
「わっ!」
そのまま布団越しにぐいっと引き寄せられ、勢いのままベッドへ倒れ込む。
「ちょ、ちょっと!」
もがいている間に、掛け布団はすっぽり私を包み込み、一颯が隣へ横になる。
「はい、おやすみ」
一颯は布団を軽く整えながら、呟いた。
「……おやすみ」
そう返すしか、もう、できなかった。
そうして私の積年の願いは。
奇跡という形で、私のもとへ帰ってきてくれた。
Anothe story:”奇跡の先で知った君”
一颯sideも、よろしくお願いいたします。




