不可抗力…?
それはある日、私の何気ない日常に現れた——
起きるはずのない、小さな奇跡。
「ふぅ……」
一息ついて、勤務先のホテル脇にあるベンチへ腰を下ろす。
初夏の風が頬をなで、どこか懐かしい匂いを運んできた。
徐に、空を見上げる。
転勤して、はや四か月。
新しい職場にも慣れてきたはずなのに、こうして気を抜くと、決まって頭に浮かんでくる人がいる。
(好きになるつもり、なかったんだけどな~…)
元職場の同僚。
今でも名前を思い出すだけで、胸の奥が少しくすぐったくなる。
あの頃の私は、仕事にも心にも余裕がなかった。
勢いのまま想いを伝えてしまったことを、後悔しているわけじゃない。
ただ、もう少し違う伝え方をしようと思っていたのに。
転勤してから二か月間——
私は一度、連絡を絶った。
振り返らないと決めたから。
だけど、ある日ふと思った。
(もう、よくね?)
そんな一言で、固めたはずの決意は案外、あっさりほどけた。
それからは、今日あった出来事を意味もなく、送る日々。
返事がなくてもいい。
一年だけ、自分で決めた期限まで、彼を想うことを自分に許す。
彼がどう感じようと、それだけは変えないと、もう一度心に決めた。
「……まぁ、私も早く、好きじゃなくなりたいんだけどね」
そう呟いた、その時——
不意に、足の甲へ小さな重みが乗った。
「……ん?」
恐る恐る視線を落とす。
そこには、一匹のハムスターが、まるでそれが当たり前かのような顔で、乗っかっていた。
「え、えぇ…?なんで、こんなところに、ハムスターがいるの?」
思わず辺りを見回す。
けれど、飼い主らしき人の姿どころか、周囲には人ひとりいない。
もう一度視線を落とした。
ハムスターなら、落ち着きなく動き回るはずだ。
なのに、この子は逃げようともせず、私の足の上で小さく丸まったまま、じっとこちらを見上げている。
私はそっと、両手で包み込むように抱き上げた。
(ブルーサファイア…)
その毛色を見た瞬間、胸が小さく締めつけられる。
先日旅立ってしまった、うちの子と——
ハム次郎と、同じ品種だった。
それもあって、簡単に地面へ下ろすことなんてできなかった。
それに、野良にしては、毛並みがつやつやである。
「やっぱり、どこかのお家の子?」
そう声をかけながら、両手の中の小さな命を、そっとのぞき込んだ。
「羽柴さん!」
遠くから名前を呼ばれ、慌てて振り返る。
目に映ったのは、職場の先輩だ。
「はい!」
「ごめん!ちょっと手伝ってほしいことあるから、来てくれる?」
「もちろんです!今、行きます!」
私の返事を聞くと、先輩はそのままホテルの方へ戻っていった。
そして私は、手のひらにいる、手放せない子を見つめた。
「どうしよう……。置いていったほうがいいんだろうけど」
どうしても、そうする気にはなれない。
少しの間迷ったが、ダメもとで、聞いてみることにした。
「一緒に、来るかい?」
(いや、聞いたとてっ!)
即座に、自分で自分にツッコミを入れた、次の瞬間——
ハムスターは私の手のひらの上で、ぺちょっとお腹をつけるように伏せた。
「えっ…、うそん…」
そんな可愛いことをされたら、連れていかないなんて選択肢は、どこかへ吹っ飛んでいった。
言葉が分かるのかと思うと少し怖いけれど、今は考えないことにした。
(可愛いは、正義)
「……それにこれは、不可抗力だから」
誰に向けた言い訳なのか、自分でも分からない。
けれど、私は小さく笑いながら、軽い足取りで、ホテルへ向かって歩き出した。
先輩に一声かけ、私はそのまま一度、ホテルの自室へ戻ってきた。
ベッドの上にそっと手を下ろし、ハムスターが自分から降りるのを待つ。
「ごめんね。今、何もないんだけど……仕事に行かないといけないから」
そう声をかけながら部屋を見渡し、記憶をたどる。
(っあ!)
あることを思い出し、私は踵を返した。
冷蔵庫を開けると、そこには蒸したトウモロコシが入っていた。
(ハム次郎も、トウモロコシ大好きだったよなぁ)
当たり前だった日常の光景が、今も頭をよぎる。
私はトウモロコシを三粒ほどもぎ取り、ベッドへ戻った。
ハムスターは、おろした場所から一歩も動いていなかった。
そのことに、私は内心ひどく動揺する。
(放し飼いしても、大丈夫そうすぎる…)
「はい」
しゃがみ込み、目の前にトウモロコシを置く。
するとハムスターは、両手で器用にトウモロコシを持ち上げ、もぐもぐと食べ始めた。
(か……可愛すぎる…!)
思わず目を閉じて、天を仰ぐ。
(って、そんなことをしてる場合じゃない!)
我に返り、慌てて立ち上がる。
「ケージも回し車もないし、どうしよう…ベッドから落ちたらいけないし」
現在、床も、決して綺麗とは言えない。
私は苦肉の策で、近くにあった服を積み重ね、ハムスターがよじ登れないくらいの高さの囲いを作った。
その間もハムスターは、小さな黒い瞳で、じっと私の動きを追い続けている。
(起きてるのに、そんなに、動かないことある?!)
「これなら登れないはず!あと二時間で定時だから、ちょっと待っててね」
変わらず私を見つめる姿に、胸の奥から愛おしさが込み上げる。
ゆっくり手を伸ばし、頭を撫でると、嫌がる様子はない。
そのことにほっとしながらも、離れがたい気持ちを胸の奥へ押し込めた。
「冷房寒かったら、布団に入るんだよ」
そう言い残し、私は再び仕事へ戻った。




