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奇跡の先に君がいた  作者: 朝凪 紡


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1/7

不可抗力…?

それはある日、私の何気ない日常に現れた——

起きるはずのない、小さな奇跡。


「ふぅ……」

一息ついて、勤務先のホテル脇にあるベンチへ腰を下ろす。

初夏の風が頬をなで、どこか懐かしい匂いを運んできた。

徐に、空を見上げる。


転勤して、はや四か月。

新しい職場にも慣れてきたはずなのに、こうして気を抜くと、決まって頭に浮かんでくる人がいる。

(好きになるつもり、なかったんだけどな~…)

元職場の同僚。

今でも名前を思い出すだけで、胸の奥が少しくすぐったくなる。


あの頃の私は、仕事にも心にも余裕がなかった。

勢いのまま想いを伝えてしまったことを、後悔しているわけじゃない。

ただ、もう少し違う伝え方をしようと思っていたのに。


転勤してから二か月間——

私は一度、連絡を絶った。

振り返らないと決めたから。


だけど、ある日ふと思った。

(もう、よくね?)

そんな一言で、固めたはずの決意は案外、あっさりほどけた。


それからは、今日あった出来事を意味もなく、送る日々。

返事がなくてもいい。

一年だけ、自分で決めた期限まで、彼を想うことを自分に許す。

彼がどう感じようと、それだけは変えないと、もう一度心に決めた。

「……まぁ、私も早く、好きじゃなくなりたいんだけどね」

そう呟いた、その時——

不意に、足の甲へ小さな重みが乗った。


「……ん?」

恐る恐る視線を落とす。

そこには、一匹のハムスターが、まるでそれが当たり前かのような顔で、乗っかっていた。

「え、えぇ…?なんで、こんなところに、ハムスターがいるの?」

思わず辺りを見回す。

けれど、飼い主らしき人の姿どころか、周囲には人ひとりいない。


もう一度視線を落とした。

ハムスターなら、落ち着きなく動き回るはずだ。

なのに、この子は逃げようともせず、私の足の上で小さく丸まったまま、じっとこちらを見上げている。


私はそっと、両手で包み込むように抱き上げた。

(ブルーサファイア…)

その毛色を見た瞬間、胸が小さく締めつけられる。

先日旅立ってしまった、うちの子と——

ハム次郎と、同じ品種だった。

それもあって、簡単に地面へ下ろすことなんてできなかった。

それに、野良にしては、毛並みがつやつやである。

「やっぱり、どこかのお家の子?」

そう声をかけながら、両手の中の小さな命を、そっとのぞき込んだ。


羽柴はしばさん!」

遠くから名前を呼ばれ、慌てて振り返る。

目に映ったのは、職場の先輩だ。

「はい!」

「ごめん!ちょっと手伝ってほしいことあるから、来てくれる?」

「もちろんです!今、行きます!」

私の返事を聞くと、先輩はそのままホテルの方へ戻っていった。

そして私は、手のひらにいる、手放せない子を見つめた。

「どうしよう……。置いていったほうがいいんだろうけど」

どうしても、そうする気にはなれない。


少しの間迷ったが、ダメもとで、聞いてみることにした。

「一緒に、来るかい?」

(いや、聞いたとてっ!)

即座に、自分で自分にツッコミを入れた、次の瞬間——

ハムスターは私の手のひらの上で、ぺちょっとお腹をつけるように伏せた。

「えっ…、うそん…」

そんな可愛いことをされたら、連れていかないなんて選択肢は、どこかへ吹っ飛んでいった。

言葉が分かるのかと思うと少し怖いけれど、今は考えないことにした。

(可愛いは、正義)

「……それにこれは、不可抗力だから」

誰に向けた言い訳なのか、自分でも分からない。

けれど、私は小さく笑いながら、軽い足取りで、ホテルへ向かって歩き出した。


先輩に一声かけ、私はそのまま一度、ホテルの自室へ戻ってきた。

ベッドの上にそっと手を下ろし、ハムスターが自分から降りるのを待つ。

「ごめんね。今、何もないんだけど……仕事に行かないといけないから」

そう声をかけながら部屋を見渡し、記憶をたどる。

(っあ!)

あることを思い出し、私は踵を返した。

冷蔵庫を開けると、そこには蒸したトウモロコシが入っていた。

(ハム次郎も、トウモロコシ大好きだったよなぁ)

当たり前だった日常の光景が、今も頭をよぎる。

私はトウモロコシを三粒ほどもぎ取り、ベッドへ戻った。


ハムスターは、おろした場所から一歩も動いていなかった。

そのことに、私は内心ひどく動揺する。

(放し飼いしても、大丈夫そうすぎる…)

「はい」

しゃがみ込み、目の前にトウモロコシを置く。

するとハムスターは、両手で器用にトウモロコシを持ち上げ、もぐもぐと食べ始めた。

(か……可愛すぎる…!)

思わず目を閉じて、天を仰ぐ。


(って、そんなことをしてる場合じゃない!)

我に返り、慌てて立ち上がる。

「ケージも回し車もないし、どうしよう…ベッドから落ちたらいけないし」

現在、床も、決して綺麗とは言えない。

私は苦肉の策で、近くにあった服を積み重ね、ハムスターがよじ登れないくらいの高さの囲いを作った。

その間もハムスターは、小さな黒い瞳で、じっと私の動きを追い続けている。

(起きてるのに、そんなに、動かないことある?!)


「これなら登れないはず!あと二時間で定時だから、ちょっと待っててね」

変わらず私を見つめる姿に、胸の奥から愛おしさが込み上げる。

ゆっくり手を伸ばし、頭を撫でると、嫌がる様子はない。

そのことにほっとしながらも、離れがたい気持ちを胸の奥へ押し込めた。

「冷房寒かったら、布団に入るんだよ」

そう言い残し、私は再び仕事へ戻った。


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