第五十三話 不協和音の解析者
四月の中旬。東明高校の旧文芸部室――俺たちが密かに「ギルド」と呼ぶ拠点には、異様な音が充満していた。
それは大地が持ち込んだ、プロ用のスタジオモニターから流れる、ザラついた不快なノイズだ。
「……やっぱりダメだ。何も聞こえない。ただのノイズにしか」
凛が、苦痛に顔を歪めて耳を塞いだ。彼女の「感情安定化」の能力をもってしても、この音に含まれる「悪意」のような波形は耐え難いらしい。
この音声ファイルは、霧島誠一――かつて詐欺師であり、今は神崎コーポレーションの内部に潜入している「協力者」が、命を削るような潜入捜査の末に持ち出したものだ。神崎隆が、世界各地の闇の投資家たちと交わした「秘匿通話」の断片。
「大地の最新鋭の解析ソフトでも、復元率は0.01%以下。デジタルが、物理的な暗号の壁に拒絶されてる感じだ」
大地がキーボードを叩く指に、苛立ちが滲む。
「颯、本当にあの子にこれを見せるのか? 彼女、まだ中庭で一人でヴァイオリンを眺めてるだけだぞ」
「……彼女にしか、解けないんです。このノイズの正体は『計算』ではなく『感覚』の領域にある」
俺は部室の窓から、中庭のベンチに座る一ノ瀬陽を見下ろした。
彼女はヴァイオリンを弾こうとはしない。ただ、弓を弦の上に置き、風の音や、遠くで練習する運動部の掛け声、校舎の軋みを、恐ろしいほどの集中力で「聴いて」いた。
俺は部室を出て、彼女のもとへと歩いた。
影が彼女を覆っても、陽は顔を上げない。ただ、冷たい声で言った。
「……消えて。音が濁るから」
「一ノ瀬さん。そのヴァイオリン、四弦すべてのテンションが微妙に狂っています。特にG線。ペグが0.2ミリだけ左に寄っている。それが原因で、あなたの音には『嘘』が混じっている」
彼女の肩が、目に見えて跳ねた。
ゆっくりと上げられた瞳は、射抜くような鋭さと、深い拒絶に満ちていた。
「……あんた、何者? 聴こえるはずがない。防音室でもないのに、風の吹くこんな場所で、その程度の狂いなんて」
「俺には聴こえませんが、視えます。構造上の欠陥が、空間の歪みとして。……一ノ瀬さん。あなたのその『黄金の耳』を、世界最大の詐欺師を倒すために、俺に貸してくれませんか」
「詐欺師……?」
「神崎コーポレーションの神崎隆。あなたの父親を、見えない数字で殺した男の、本当の声を聞きたくないですか?」
彼女の手が、ヴァイオリンのネックを強く握りしめた。その瞬間、彼女の瞳の奥で、消えかけていた「才能」の火が、青く、静かに再燃したのを俺は見逃さなかった。




