十:真理の探究者
アンディラは、森で最も背の高い木の枝に銀の鈴を結びつけると、マルトの血を一滴垂らした小瓶の蓋を開け、風にその魔力の痕跡を乗せた。
それは、森の魔女グレンダを呼び出すための、古の儀式だった。
それから三日間、庵には奇妙な緊張感が漂っていた。
シルマは落ち着きなくマルトの周りをうろつき、銀色のゴーレムを遠巻きに眺めては「なあ、そいつ、飯とか食うのか?」と見当違いな質問を繰り返す。
その間、マルトは消耗した体力を回復させながら、自らの新しい使い魔との対話を試みていた。
「あなたには、名前はないの?」
最初の問いに、ゴーレムは滑らかな動きで首を傾げ、答えた。
『固有名詞は定義されていません。ですが、個体識別名称として、あなた方はこう発音することができます』
その声は、マルトの頭の中に直接響いた。
『カーシャ』
「カーシャ……」
マルトは、その不思議な響きを持つ名を、そっと口の中で繰り返した。
三日後、何の気配もなく、庵の中に一人の女が立っていた。
インクで汚れた指先、無造作に束ねられた髪。
アンディラの椅子に腰かけ、分厚い書物を読んでいた彼女こそ、森の魔女グレンダだった。
「用件を言え、アンディラ。私の時間を無駄にするな」
アンディラが、マルトとその背後に佇むゴーレム、カーシャを指差すと、グレンダの視線が初めてそちらへと向けられた。
マルトの力には一瞥もくれなかった彼女の瞳が、カーシャを捉えた瞬間、熱を帯びて大きく見開かれる。
「……これか」
グレンダは読んでいた本を床に落とすのも構わず立ち上がると、まるで聖遺物にでも触れるかのように、カーシャの周りをぐるぐると回り始めた。
「これがただの使い魔だとでも思ったか、俗人どもめ!これは『鍵』だ!失われた叡智、アカシックレコードに接続するための、生きた端末じゃないか!」
その剣幕に、アンディラは肩をすくめ、シルマは「あか……何だって?」と首を傾げた。
グレンダは、マルトに向き直ると、初めて真剣な眼差しで言った。
「小娘よ。お前はとんでもない扉を開けた。だが、今のままでは、お前は図書館の鍵を持っているだけの、無知な門番に過ぎん。私が、お前に真理の読み解き方を教えてやる。その代わり」
グレンダの瞳が、狂信的な探究者のそれへと変わる。
「―――お前がその図書館で読んだ本は、全て私にも読ませてもらう。いいな?」
グレンダの「修行」は、マルトが知るどんな学びとも異なっていた。
彼女はただ、空中に明滅する無数の光のルーン文字を突きつけ、「目で追うな。理で読め」と要求するだけだった。
マルトの苦闘が始まった。
来る日も来る日も、彼女は意味の分からない情報の羅列に、ただ睨み合い続けた。
その様子を見かねたアンディラが、そっと助言をくれた。
「人間のように頭で覚えようとするから無理が出る。魔女のやり方で読みな。その文字が持つ『気配』を、あんたの魔力でなぞってごらん」
その言葉に、マルトははっとした。
彼女は目を閉じると、空中に浮かぶ一つのルーン文字に、自分の魔力をそっと触れさせた。
ドリスの元で学んだ精密な制御で、その複雑な光の軌跡をなぞっていく。
すると、文字の形骸の奥に、それが持つ固有の「意味」の響きが、奔流となってマルトの意識に流れ込んできた。
―――〈星〉〈引力〉〈時〉〈螺旋〉
「……!」
それは、知識というより、純粋な概念の奔流だった。
マルトは、すぐそばに立つカーシャに駆け寄ると、今しがた理解したばかりの〈星〉を意味する「言葉」を、自らの魔力に乗せて、その金属の腕へと流し込んだ。
すると、カーシャの胸部が静かに光り、その前から三次元の立体的な星図が、光の粒子となって投影された。それは、数百年前の、王都の夜空だった。
「……できた」
「そうだ、それだ!」
それまで黙って見ていたグレンダが、初めて子供のような歓声を上げた。彼女は投影された星図に駆け寄ると、貪るようにその古代の星の配置を調べ始めた。
「完璧なデータだ!そうだ、小娘!次は『水』の理を教える!早くしろ!こいつに、古代の海流図を再現させろ!」
グレンダの関心は、マルトの成長ではなく、カーシャが引き出す「真理」そのものにしか向いていない。
だが、マルトは気にしなかった。
彼女は、自らの手で、世界の理そのものを読み解く、「探求」の力を手に入れたのだから。
その膨大な知識と、論理的な思考は、彼女が残りの試練に挑むための、最強の武器となるのだった。
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