十一:心の番人
マルトが八歳の誕生日を迎える、数日前のことだった。
アンディラが、沼の最奥に位置する、苔むした古い祠を指差した。
「最後の試練だ、マルト。あの『忘れられた祠』の番人の祝福を得な。……いいかい、ここの番人は力も、知恵も試さない。試されるのは、あんたの魂そのものだ。何を見ても、何を聞いても、自分を見失うんじゃないよ」
マルトは静かに頷くと、一人で祠へと足を踏み入れた。
シルマと、その傍らに佇むカーシャも、固唾を飲んでマルトを見守っている。
内部は薄暗く、ひやりとした空気が漂っている。
だが、一歩、また一歩と奥へ進むにつれて、周囲の風景がぐにゃりと歪み始めた。
古びた石の壁は、王城の華麗な大理石へと変わり、カビの匂いは、祝宴で焚かれた花の香りへと変わっていく。
気づけば、マルトはあの日の、六歳の誕生日を迎えた、王城の大広間の中心に立っていた。
そして、目の前に、ありえないはずの者たちの姿が浮かび上がる。
父王ヴァルド三世、母である王妃、そして兄レオンハルト。
だが、その表情は、彼女の記憶にあるものとは違った。
彼らの瞳には、憐れみも、戸惑いもない。ただ、純粋な侮蔑と失望の色だけが浮かんでいた。
『なぜ、お前は健康に生まれてこなかったのだ』
父の声が、責めるように響く。
『お前のせいで、王家の威信は地に落ちた。お前は、我が血の恥だ』
『完璧な王女として、あれほどまでに機会を与えてさしあげたのに』
母の声が、冷たく突き刺さる。
『結局、あなたは出来損ないでした。私の、失敗作です』
そして、兄レオンハルトが、一歩前に出る。その瞳は、あの別れの日のように冷たい。
『お前など、いなければよかったのだ。病弱で、役立たずで、挙句の果てには魔女だと?お前は、私の、そしてこの王国の汚点だ』
それは、事実ではない。
だが、マルトが心の奥底で「自分はそう思われているに違いない」と、ずっと恐れ続けてきた、彼女自身の恐怖そのものだった。
幼い心が作り出した悪夢が、今、番人の力によって完璧な幻影として目の前に立ち塞がる。
足が震え、涙が溢れそうになる。心が、折れそうだ。
(……ああ、そうだ。私は、ずっと、出来損ないだったんだ)
幻影の言葉に、魂が引きずり込まれそうになった、その瞬間。
マルトの脳裏に、いくつもの声が響いた。
―――『あんたの名はマルト。どんな嵐にも流されない、強い花だ』
アンディラがくれた、本当の名前。地に根を張る、強さ。
―――『折れるか、名剣になるか、そいつ次第だ。立て!』
ドリスが叩き込んだ、屈しない意志。鋼の、心。
―――『幻影など、ただの虚構データに過ぎん。真理を見抜け』
グレンダが示した、物事の本質を見抜く、探求の視点。
そして、シルマの屈託のない笑い声と、カーシャの無機質な声。
『あんた、そんな顔もできるんだね!』
『マスターの価値は、過去の評価では決定されません』
マルトは、溢れそうになった涙をぐっとこらえ、顔を上げた。
彼女は、目の前の幻影たちを、まっすぐに見つめ返した。
「……そう。その通りよ」
その声は、震えていなかった。
「私は、あなたたちの望んだ『完璧な王女』にはなれなかった。役立たずの、出来損ないだったわ」
彼女は、自分の弱さと過去を、初めてはっきりと認めた。そして、続けた。
「―――でも、だから何?今の私は、沼の魔女マルトよ!」
その宣言が、呪いを解く鍵だった。
幻影はガラスのように砕け散り、華やかだった大広間は、元の古びた祠の姿へと戻る。
祠の最奥、祭壇の上で、柔らかな光が一つ、静かに瞬いていた。番人だ。
声が、マルトの心に直接響く。
〈自らの影と向き合い、己の心を受け入れた者よ。見事なり、二つの世界の娘。汝の魂に、古き守り手の祝福を授けよう〉
光がマルトの胸に吸い込まれ、温かい何かが満ちていく。
それは、彼女の古い傷跡を、優しく癒していくようだった。
八歳の誕生日を目前にして、マルトは、ついに三つの祝福を全て手に入れたのだった。
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