12話 邪龍①
リシャールにとってこの瞬間ほど命の危機を感じたことはない。
目の前に圧倒的な威容。
通常のドラゴンとは一線を画す存在、邪龍。科学者である彼も一目でこれが邪龍だと見抜けた。
「ゥゥゥ……」
邪龍の小さな唸り声。
それだけで一般人は気を失いそうになる。
戦い慣れたドラゴンスレイヤーでさえ、簡単には切り込むことも撃ち込むこともできない。また気付くこともできずに仲間の一人が殺されたことも理由の一つだ。本来するはずだった六人での連携が失われたことで、大きな攻めの手札が一つ失われている。
しかし幸いにも邪龍は攻撃することなく、ただ様子を伺うだけだ。周囲を見渡し、何かを探しているようにも見える。
逃げるなら今がチャンスだ。
更に彼らにとって朗報がオープンチャンネルで流された。
『一〇一小隊の諸刃だ。全部隊に通達する。邪龍が出現し、全滅の危機に瀕した。これより一〇六小隊が囮役として邪龍を引き付ける。その間に撤退せよ』
また勝手に撤退指示を出しているキサラギに苛立ちを感じる暇もない。リシャールとしてはこの邪龍をどうにかしてくれるならば何でもよかった。
少し心に余裕が生まれたことで、大切な実験体であるキャトルのことを思い出す。
首を動かさずとも、視界の範囲内で簡単に見つかった。
(く……邪龍の足元とは運の悪い)
邪龍は出現と同時にドラゴンスレイヤーを圧し潰した。キャトルが潰されなかったのは奇跡に近い。ただ潰されたドラゴンスレイヤーの血肉で酷く汚れており、肉片と区別がつきにくくなっている。
(回収は諦めるほかないというのか。私の研究を……)
リシャールにとってキャトルは代えがたい実験体だ。
しかし実験も命があってこそ。選択するべきは回収ではなく自分自身の逃走である。一歩、また一歩と後ずさりする。それに合わせて護衛のイーグル小隊もリシャールの前に出た。決して攻め込むことはしない。確実に下がって、まずは距離を取る。
邪龍の射程圏内から外れてしまえば、後は脱兎の如き逃げに徹するだけでよい。
「そのまま、下がってください」
イーグル小隊の隊長は小さく告げる。リシャールは邪龍に注目しつつも頷いた。幸いにも今は邪龍も様子を見るだけであり、攻撃を仕掛けてくる雰囲気ではない。確かに凄まじい重圧を放っているが、殺気ではなくただの存在圧である。誰かに対して向けられている圧力ではない。これが逃走できる唯一の可能性だ。
もしも邪龍が誰かに対して殺意を向けたら、戦闘が始まる。
一歩。
また一歩。
確実に一歩。
邪龍から少しずつ離れていく。
どれだけ離れても、何故か邪龍は人間に興味を示さない。普通のドラゴンならば、人間を見つけたら捕食するために問答無用で襲ってくるはずだ。しかし邪龍は人間を捕食対象と見なしていない。匂いを嗅ぐような仕草をしつつ、キョロキョロと周囲を観察しているだけである。
「三歩、あと三歩で走ります。その後は後ろを気にせず走ってください。多分、俺たちが逃げた瞬間にキサラギの足止め役が奇襲を仕掛けるつもりです」
「分かった。シモン君、ヴァンサン君も聞こえたね?」
「はい」
「キャトルの回収ができないのは残念ですが」
「流石に諦めてください」
キャトルの実験データだけは回収済みなので、実験の面目は保たれた。
これ以上は望み過ぎである。
「あと二歩」
だからリシャールも諦めた。
貴重な実験体と手に入れた実験データならば、後者の方が大切だ。それにこの状況で欲張るほど子供ではない。
「あと一歩」
邪龍は相変わらず人間に興味を示さない。
今のところ危険と言えば上空に集結しつつある小型や中型のドラゴンで、オペレーターも注意を呼びかけている。しかしどういうわけか小型や中型は近寄って来なかった。
「今だ」
その呼びかけと同時に、リシャールは振り向いて走りだそうとする。二度と振り向かず、体力が尽きても逃げるつもりだった。
だが、振り返る際に視界の端で映った光景が彼の心を鈍らせる。
邪龍が足元のキャトルを見つけ反応を変えたのだ。
何かを探いしているのは見て分かっていた。
その何かのお蔭で自分たちに興味を示さないことも察していた。
だが、その探していた何かが足元に転がっているキャトルだったのだ。ただ、邪龍の身体構造上の理由で今までは見えていなかったのである。
獲物を見つけた邪龍の動きは速い。捕食するために牙を剥き、喰らいつこうとする。
それを見たリシャールは思わず足を止めてしまった。
「待っ……」
リシャール自身でまずいと思うも、一度止まった体はすぐに動かせない。この遅れは大きい。
「このマッドが! 走れって言っただろ!」
もう気遣っていられないとばかりにリシャールの護衛担当であるドラゴンスレイヤーが彼を抱える。それも荷物を抱えるように、左脇にだ。普通は大人一人を抱えたまま走るなど不可能に近いが、身体能力が向上しているドラゴンスレイヤーなら関係ない。
それでもなお運動不足の科学者が走るよりも速く駆け抜ける。その代償に抱えられたリシャールは酷い揺れを感じていた。
しかしリシャールは目の回るような視界の中、最後に目撃していた。
キャトルを喰らおうとした邪龍に背後から奇襲を仕掛ける一人のドラゴンスレイヤーの姿を。
◆◆◆
シオンは囮役を買って出た瞬間から、覚悟を決めるとともに奇襲の瞬間を狙っていた。見ればRDOの者たちは邪龍を刺激しないよう一歩ずつ下がり、逃げだす瞬間を伺っている。
奇襲を仕掛けるのに最高の瞬間は自ずと訪れると考えた。
彼らが逃走に切り替えたその一瞬は邪龍も気が逸れているはずである。
(背後から心臓を穿つ!)
その時を見誤ることなく、シオンは飛び出した。
そして確実に邪龍の背後を取った。対竜武装にありったけのデミオンを流し込み、攻撃性能を強化する。この切れ味ならば大型ドラゴンの竜鱗すら切り裂ける。小型と同程度の大きさしかない邪龍ならば、心臓まで貫くこともできるだろう。そう思っての一撃だった。
しかし、邪龍は反応を変えた。
逃げる人間ではなく、足元に転がっていた少女に興味を示したのだ。
そして当然のように、躊躇いなく喰らおうとする。
(こいつ……さっきからこの少女を探してたって訳か!)
納得すると同時に焦りが生まれた。
(このタイミングだと俺が心臓を貫く前に喰われる)
ここでシオンの取るべき選択肢は二つだ。
一つは少女キャトルを見捨てて囮とする。その間に邪龍の心臓を貫く。この方法なら確実に邪龍を討ち取ることができるだろう。仮に邪龍の竜鱗を貫けなかったとしても、一撃を無条件で与えられる絶好の機会である。
そしてもう一つが助けるという選択だ。今は完全に背後を取っている状況。つまり奇襲を仕掛けることができるという点は変わらない。それを利用し、背後から頭部を狙えばその衝撃で邪龍の捕食行動を阻害することができる。つまり、少なくとも一回は少女を守れる。
効率という面では前者しかない。
少女を犠牲に邪龍を殺せるならば最高。殺せなかったとしても、時間稼ぎにはなる。そして少女を助けたところでシオンと少女の死は確定的だ。何かの奇跡でも起こらない限り生存はあり得ない。
(だが……! 俺は!)
シオンは戦闘機械ではない。
感情を持った人間だ。
竜人を殺せば心が痛むし、ドラゴンから人を守れなければ後悔もする。
確かに理性は人を人たらしめるものだが、それは感情も同じ。感情を失い、ただ理性だけで判断するのは機械と同じ。
シオンは自分を化け物だと認識しているが、機械のように感情がないわけではない。
(化け物として生きるより、人として死ぬ。せめて、最期は人らしく――)
刀を持ち替えた。
走馬灯のように蒼真の顔が頭に浮かぶ。化け物と罵る彼が死ぬ前に出てくるとは皮肉だ。
(――この少女だけでも助ける!)
最大限のデミオンを流し込んだ対竜武装を振るう。
狙うは頭だ。
深紅に発光する刃が迫り、邪龍の頭部を引き裂こうとする。邪龍が少女を喰らうより早く、シオンの一撃は届いた。
だが、刃は叩き付けた瞬間に折れる。
「は?」
呆気にとられたのも束の間。
続いて背中から衝撃を受けた。同時に喉の奥から何かが沸き上がり、抑えきれず吐き出す。その液体はドラゴンのように鮮やかな赤色だった。
◆◆◆
シオンを犠牲に部隊が撤退を進める中、拠点では防衛に残っていた部隊も撤退準備を進めていた。夜通しの見張りを終えて眠っていた部隊からすれば、まさに寝耳に水の話である。
「RDOの連中は全員車に乗った! あと帰ってきていないのはどの部隊だ!?」
「一〇一と一〇二が近づく竜を撃退してくれている。私が把握する限りでは三〇六と三一一がまだよ」
「待て待て。三〇六の連中ならさっき戻ってくるを見たぞ?」
「あああああああ! もう! 訳が分からん!」
そして控えめに言って大混乱であった。
邪龍の出現、無数のドラゴン、そして混雑する通信環境。もはやまともに状況を確認できているものなどいない。オペレーターは必死に戻っていない部隊がいないか呼びかけているが、ノイズが邪魔をして正確な確認も取れていなかった。
正一たち三一七小隊もよく分からないままに集合した部隊の把握を急いでいた。
「取りあえず、乗ってきた車に乗ってもらう! それで判断しよう!」
「ちょっと正気? 索敵役が足りないわよ?」
「あの数を相手に索敵も何もあるわけねぇってか?」
「ふざけないで玄!」
「別にふざけては……」
「喧嘩はそこまでだよ。玄の言った通り、あの数が相手じゃ索敵なんて意味がない。討伐はエース級に任せて、俺たちはさっさと逃げる。それが最善なんだ。俺たち程度じゃ……小型も単独で倒せない程度じゃ足手纏いにしかならない」
拠点としたのは富士樹海の東の端だ。デミオン濃度の低い場所であり、広大な竜の巣からすれば様々な意味で序の口である。それが幸いして、大量のドラゴンが竜の巣中央部から襲ってくるまで多少の時間がある。
ドラゴンの大軍が拠点まで到達するのが先か、竜の巣から脱出するのが先か。
そしてもう一つ、邪龍が自由になる前に撤退を完了させなければならない。一〇六小隊の隊長にして唯一の隊員であるシオンが足止めしている間に逃げ切れなければ、邪龍が襲ってくる可能性も高い。
「あ! 見ろ正一!」
「な……RDOの連中、勝手に逃げるなんて!」
「どうする?」
「仕方ないから放っておこう。人数の揃った車から発車して貰おう。それと、エース級にもそろそろ戻って貰わないと」
「……ちっ! 腹は立つけど仕方ねぇ」
「玄はオペレーターを通して確認を。俺と浅実はもう一度、目で確認するよ」
「分かった」
「ええ」
こうしている間にも銃声は鳴り続け、ドラゴンの咆哮が木霊する。先鋒として接近していた十体以上のドラゴンは次々とエース級に討ち取られ、順調に数を減らしている。しかし二小隊ではそれが限界だ。これ以上増えると押し留めることができなくなる。
(シオンも……どうか生きて帰ってくれよ)
流石にもう死ねとは思わない。
いや、生きて帰るのが難しいと分かっているからこそ、そう願ったのかもしれない。
ともかく、正一はそう祈った。
◆◆◆
飛翔するドラゴンの心臓を狙撃弾がぶち抜く。
デミオンの供給が失われたことで、その小型ドラゴンは地に伏した。
「次」
そう呟いて諸刃は次の標的を狙う。
鬱蒼とした樹海に隠れて狙い撃つ彼のスタイルにドラゴンは翻弄されるばかりだ。
一方で近接攻撃担当の蒼真と青蘭も木に隠れながら不意打ちを続けてドラゴンを倒している。銃を一発撃って地上に引き付け、地上に降りてきたところを仕留める。ここでコアを回収するつもりもないため、ドラゴンの急所は心臓とコアのどちらを狙っても良い。
「おらっ! トドメは任せたぞ青蘭!」
「はいはいっと!」
蒼真が中型の首の付け根を連撃で切り取り、心臓を露出させる。巨大な中型ドラゴンを刀一本で仕留めるのは難しい。ドラゴンの急所である心臓とコアが奥に隠れているからだ。また仮に心臓を露出させたとしても、時間を空ければ再生してしまう。特に心臓やコアに近い部分は再生が早くなるのも道理であり、仕留めるのは難しくなる。
そこで連携するのだ。
今の攻撃で蒼真は一旦離脱し、中型ドラゴンは悶えている。青蘭は中型の真下から、つまり死角から姿を現し、露出した心臓を一突きしてトドメを刺した。
この間、僅かに二秒。
流れるような連携から繰り出される不意打ちこそがキサラギのドラゴンスレイヤーの強みである。目にも留まらぬ速さは必要ない。敵の知覚範囲を正確に把握して、認識の外から命を刈り取れば良い。それがシノビの戦い方である。
「やっぱ二人がかりでも諸刃より遅いか……」
「ちょっと蒼真。次はアレをやるわよ」
「ああ」
二人はまた身を隠す。
たったの二日だが、もう樹海での動きには慣れた。拠点へと飛んでいく中型ドラゴンに銃型対竜武装で攻撃を仕掛け、地上におびき寄せたところを連携で倒す。その繰り返しだ。
「キリがないわね」
「だがあと少しだ。もうすぐ全滅できる」
「でもその間に新しいのが来るわよ? 多分ね」
『オペレーターから一〇一小隊および一〇二小隊へ。早く撤退しろ! もう車を出す!』
ドラゴンの数も少し減ってきたと感じ取れる。引き際としても丁度良い。
少し離れた位置で狙撃していた諸刃も木々の間を縫って蒼真と青蘭に合流した。
「引くぞ。これ以上は余計なドラゴンを引き付けるだけだ。それにシオンが邪龍を留めておける時間も無限じゃない」
つまりシオンを待つ気はないということだ。
しかしそれは覚悟してのこと。正直なところシオンを気に入らない者は多いが、死ねとまで思っている者は少ない。仲間を犠牲にしての逃走だ。気後れもする。
だが、それは犠牲を無駄にすることだ。
逃走させて貰う立場として、必ず生き残らなければならない。たとえ無情な判断だとしても。
蒼真と青蘭も頷き、素早く拠点へと走る。勿論諸刃もそれに続いた。重い装備を抱えていても、ドラゴンスレイヤーの身体能力は身軽な一般人を超える。
防衛ラインを拠点から近く設定していたこともあり、十秒と経たず拠点へと辿り着いた。そして今にも発進しそうな大型車の屋根に飛び乗る。
(一〇二の奴らも着いたか)
蒼真が隣の車両を見ると、同じく防衛ラインを維持していた一〇二小隊も撤退していた。オペレーターの言葉が正しいとすれば、邪龍を相手にするため残ったシオン以外は撤退したことになる。
そして撤退が完了するや否や、全ての車両が発進した。
『早く皆さんも車の中に! 光学迷彩を展開します!』
竜の巣上空には数えきれないドラゴンが飛び回っている。そして空を飛ぶドラゴンと地を走る車では前者の方が速い。相手にしきれないほどのドラゴンから逃げるためには隠れるのが一番だ。
全員がサンルーフから車内に入ると同時に車両表面が歪む。
「つまらん死に方をしやがって……」
蒼真は世界で一番嫌いな、戸籍上の弟を思って呟く。
先に行ったRDOの者たちが乗っていた二台を除き、四台の車が樹海の木々に紛れて消失した。




