請う
咆哮が、鼓膜と空気を揺らし、端から消えていく。
それと同時に、片方の輝きが失せた。次いでもう片方も。
何が起こったのか目を凝らそうと瞬きをしたあとには、二柱の巨大な獣の姿はなくなっていた。
あるのは、宵の暗さのみ。
「アルヴィー、消えたわ」
『戻ってきたよ』
後ろから、うめき声と、重いものが床に落ちたような音がした。
すぐさま振り向くと、王子様が倒れており、ラザレスが戻ってきていた。
「ラザレス」
近づくと、顔を上げたその目は、爛々と光る黄金色をしていた。
「怪我してない?」
「……」
「ラザレス?」
「……ああ、してない」
見えるところにも怪我はない。見える範囲で確認すると、さっき唐突に感じた不安が消えていく。
ほっと息をついていると、床に倒れている王子様が目に入った。
ぴくりとも動かない。
「ねえ、……王子様は大丈夫?」
『死んでないよ。気絶させられただけ』
「そう」
そちらも気絶しているだけだそうで、僅かに安堵した。
下に向けていた顔を、そっと上げさせられた。
見えたのは、もちろんラザレスの顔で。本当に微かな笑みを唇に刷いたラザレスは、ティナ、と名前を呼んだ。
その声は、やけに甘ったるかった。たぶらかすような、唆すような響き。
「ティナ、頼む」
「頼むって、何を?」
「王になるって言ってくれ」
「それは、」
ならないと、なれないと伝えていたはず。
そういえば城に来た日の夜に、そういうことを言っていた気がする。ラザレスは今、そのときと同じ目をしているように見えて……だけど、少し違う。
今は、どことなく、すがるようなのだ。
ラザレスは、すっと膝をついた。ティナの手を取る。下から、視線を掬い上げるように見る。
「俺が守るべき、従うべき、愛しき女。他の全ての候補者を排除しろと俺に命じろ。そして玉座につくって言ってくれ」
今、ここで。
決断を急かす言葉ばかりでなく、声と目に、ティナは目を瞠る。膝をついて、どうしたのか。
しかし、疑問は隅に、首を横に振る。
「どうして?」
「何が、どうしてだ」
「精霊がこの国からいなくなってしまうかもしれないのは、分かったわ。私が玉座につけば、精霊がたくさん集まって、精霊が嫌うような土地を治してくれるって。だけどそのことを王族の方に教えれば、人間が努力するわ。だって、自分たちの住む土地だもの」
黄金色の瞳が歪んだ気がするけど、ティナは続ける。
「私は国の動きも政治も分からないような娘よ。ラザレスが選んでくれたことは嬉しいけれど、王様の仕事はたくさんあるはずよ。私にはきっと無理だから」
だからと言ってラザレスが選ばなければ、来なければ良かったとは思わない。会えて良かったと思う。
「ねえ、ラザレス」
しゃがみこんで、今度はティナが覗き込みながら、掬われた手を握る。
「私、家に帰りたい」
「……王にはならないって?」
「うん」
「じゃあどうしてここに来た」
「王族の方の招待を無視するのは重罪だわ」
「……そうだったな」
「でももう招待を受けて、来て、会ったわ」
「ティナ」
それ以上の言葉を止めるように、名前を呼ばれ、手を握られる。
「ティナ、俺は、お前に玉座についてほしい」
「ラザレス」
ティナはもう片方の手を伸ばし、ラザレスの頬を掴まえる。
なぜ、そんなにも泣きそうに見えるのだろう。
「もう帰ろう」
「――ティナ」
「ラザレスと帰りたい。それじゃ駄目?」
神の獣の役割に反するのかもしれない。でも、そうしたい。
「権利を放棄する私の元には、いたくない?」
「そんなこと、あるはずないだろ」
「じゃあ一緒に帰ろう」
神の獣は王の元にいるか、眠るか。そう王子様は言っていた。
だけどティナは王になれるような育ちではない。そう簡単になれるようなものではないと思う。
「ラザレスを渡すように言う人たちばかりなら、隠れておきましょう。神の獣に選ばれた人が王になるのなら、他にいるでしょ?」
そうしてしまおう。
見つめていると、反論する声を出さないラザレスの、普段と比べると濃すぎた金色の色が落ち着いていく。
いつもの柔らかな陽の色に戻る。
「……お前は、本当に変わらない」
抱き締められた。
距離がなくなって、ぎゅう、と体で包み込まれる。いきなりだったけれど、ティナは黙ってされるがままになって、目を閉じた。
ごめんね、とちょっと思った。珍しくラザレスがこうしてほしいと言っていたのに、ティナはできないと言うのだ。
包まれる温かさを感じて、しばらく時間が過ぎる。
「忘れさせてやろうか」
「え?」
「忘れて、帰るか」
唐突な言葉にぽかんとすると、くっついていた体が少し離れて、顔が見えた。
「忘れて……?」
「ああ。ここであったことを綺麗さっぱり忘れて、帰って、何もなかったように暮らすか」
「そんなに都合良く記憶はなくならないわよ?」
「俺を何だと思ってる。神の獣だぞ。それくらいできる」
ティナが想像も出来ないことをする部分がまた出てきた。それにしても忘れる、とは。
でも、忘れるまでしなくてもいいのではないかと思う。
「うー……ん、私は忘れなくてもいいけど、それよりお城の人たちが忘れてくれたら、王族の方たちだけで王様を決める話し合いをしてくれそうよね」
「ここで会った連中に忘れさせたいなら、お前のことを忘れさせてやる」
「そんなに大勢にできるの?」
まともに会って話したのはわずかな数の人だけれど、会っただけなら結構な数になる。
けれど神の獣だからと、同じ答えが返ってくる。
「それじゃあ……ねえ、それって変な影響はない?」
「変な影響って何だよ」
「そうね……記憶がなくなって、変な気分になるとか」
「何だそれ。まあ心配するな。消す部分の記憶は、他の『記憶』にすり替える。違和感とか、変な影響はない」
「それなら良かった。その他の記憶って、例えばどんなもの?」
「そうだな……お前はすり替えられるなら、どんなものならいいと思う」
「すり替えられるなら……。難しい話ね」
「じゃあ言い方を変える。──どんな夢を見られたら、お前は幸せだ?」
耳覚えのある問いだ。いつ聞かれたのだったか。
それはともかく、どんな夢を見られたらと聞かれると……。
「アップルパイかしら」
「お前は、本当に、アップルパイが好きだな」
呆れた様子をされたけど、思いついたのがそれだった。
早く家に帰ってアップルパイを作って、精霊たちと食べられればいいな。来る前にジャムを作ったから、父と母に食べつくられていなければ、食べたい。父と母のことを思い出すと、会いたくなってきた。
のんびりと出てきたとはいえ、来てみるといないことを実感したのだ。
「アップルパイな。すり替わる記憶はアップルパイを作るか、食べるかそんな感じだ」
「出来れば作る過程は省いて食べたいわ」
それだと、もっと素敵な記憶だ。
王女様も王女様も、他の人もそちらの記憶になった方がいいに違いない。
「はいはい、分かった。じゃあ忘れろ」
「え?」
なぜか、一度離れていたその手が伸ばされてくる。
忘れろ、とどうして自分に言うのか。
「ラザレス、私はいいのよ」
「いいや、お前も忘れるんだ」
髪を避け、手は頬を滑る。特徴的な色の目が、深く、覗き込んでくる。
「お前が望むのなら、俺はお前の側に、一緒に帰ろう。一度全てを忘れ、平和な世界に逆戻りだ。──また、そこから始める」
手が、目を塞ぎ、ティナの世界を真っ暗にした。
「眠れ」
ただ一言。短い声は、子守唄の声のようだった。
夜になった世界の中、名前を呼ぼうとしたけれど、呼べただろうか。
「愛してる、ティナ」
決して聞き流してはいけない、忘れてはいけない言葉が囁かれたあと、柔らかく何かが、唇に重なった。




