お風呂
城で迎える二回目の夜になった。
今日もキツネとお風呂に入る。お風呂がお気に召したのだろうか。
白いキツネには綺麗な泉の方が似合うけれど、こういうのも新鮮だから良いものだ。
とはいえ、昨日のことがあるので今日は石鹸では洗わなかった。どうせ汚れているわけでもない。
お湯を溜めた小さな容器に丸まるキツネは、全身お湯に浸って毛はぺちゃんとしている。かわいい。
『あれが精霊術師と呼ばれる人間だよ』
あの人たちは誰だったのだろう、とふとぶり返した疑問が口からこぼれると、キツネが答えてくれた。
精霊術師とは……今日王女様との話でも出てきた気がする。
「精霊の力を借りて、精霊の力を奮うっていう人たちのこと?」
『そう』
元々そういう人たちがいることは知っていて、その彼らのことを精霊術師と言うのだった。そうだった。
彼らが、実際の……。
「人のはずなのに精霊の気配が混ざっていて、とても不思議だったわ」
『精霊の力を借りるわけだからね。そういう風になるんだよ』
「それに、何だかよそよそしい? というか、初めて精霊のことを怖いと思ってびっくりしたわ」
『怖かった? ごめんねティナ、もっと早く行けば良かった』
「ううん、いいの。それに精霊だって、皆皆優しいばかりじゃないわよね」
ぺったりとした毛並みのキツネを撫でて、呟く。
人だって、全員が親切でなかったりするのは知っている。
だけれど、物心ついたときから感じてきた精霊の雰囲気があまりに柔らかく、優しかったから思い込んでしまっていたようだ。
『確かに精霊にも個体差はあるけど……あれは別だよ』
──ずっとこの辺りにいる精霊は憐れだ、とキツネは言った。
青い目はいつ見ても綺麗だけれど、今、その目は生きてきた長い歳月を表しているようだった。
深い、深い、水の底を思わせるようでもあった。
『精霊術師というのはね、召喚陣と呼ばれるものを描いて精霊を召喚するんだ。下位の精霊は問答無用で呼び寄せられるようなもので、上位にもなると任意だけどね。今日部屋の中にいた人間の足元に模様があったでしょ? ああいうもの』
奇妙な模様を思い出した。あれは、光っていた。
『喚び出された、もしくは喚び出しに応じた精霊は、精霊術師と契約という特別な結びを作る。それで精霊が人間に力を貸す関係になるんだ。下位の精霊がどうかは知らないけど、大抵はその人間が持つ力を気に入ってそれを得ることを対価に従ったり、力を貸したりしているみたいだけどね』
「人間が持つ力って?」
『精霊を喚べる人間にはね、普通の人間が持たない力の源があるんだ。人間は魔力とか呼んでるみたいだね。ティナにもあるよ』
「私にも?」
『うん。だからティナもしようと思えば精霊と契約して、精霊の力を奮うことが出来るようになる』
ティナはふーんと話半分に聞いておいた。そういうことをする必要に迫られる未来は見えない。
それに契約とは何だか堅苦しくて、不自由な関係にも感じられる。例えばアルヴィーとそうなるのは嫌だ。
「アルヴィーも人と契約したことあるの?」
『僕? ……まあ過去に一度だけ。昔のことだよ』
この精霊の昔がどの程度昔なのかは正確には分からないけれど、口振りからするに随分『昔』のようだ。
『ねえティナ』
「なに?」
『ティナは王にはなりたくない?』
いきなり、キツネは尋ねてきた。
ティナはぱちぱち瞬いてから、お風呂の縁にもたれて、またキツネに手を伸ばす。
「なりたいとは思わないし、私に勤まるとは思えないもの」
『勤まらないなんてことないよ』
「そんなこと言っても……私がそうふさわしい要素がないと思うの」
ティナは都より遠い地に住む、領主の娘だ。田舎なので、国の最新の状況も知らないような有り様なのだ。
「今のまま、王族の方が王になられる方がいいわ。それでは駄目なわけではないでしょ?」
『人間は今のままで良いと思っているかもしれないけど、僕からするとお勧めしないね』
他の神の獣が選んでいるのだから、と思って言ったのだが、キツネはそんなことを言う。
「どうして?」
『うーんとね……かつて今の王族と呼ばれる人間の祖先は、精霊に愛され、彼らもまた精霊を愛して共に生きていくような人間だったんだ。一族全てがそうだった。だからこそ、神は彼らが地上を治めるようにと、獣も使わした』
アルヴィーの語り口は実際見たようなそれだった。
『だけど代を重ねるごとに、彼らの精霊に対する在り方は変わってしまった。精霊はね、本来は地を豊かにするものだ。それなのに、彼らは戦に利用し始めたんだ』
精霊術師とは、昔々は土地に恵みを与えるために精霊と接触を図るための存在だった。
しかし次第に精霊術師による、精霊の力を利用した兵器化とも言えることが始まったという。
『そのせいで、特にこの辺りにいるのは血にまみれた精霊だよ。精霊術師が精霊と契約し、戦をし、血を流してまたここに戻ってくるからだ。そういう精霊たちはここに縛りつけられている。もちろん、それ以外の精霊もいるけどね』
「それは、精霊にとって良くないことなのね」
『うん。国というものが増えたこともあるんだろうけどね……。戦いによって流された血は穢れとなって蓄積される。この地を治める人間の在り方も重なって、愛想を尽かせた上位精霊がその他の地へ行くと、ついて他の精霊も離れる。この地自体から精霊が離れつつあるよ。このままだと、国の中心とされるこの地から土壌の豊かさは消え、人間からすると大分先の話になるとしても、最悪滅びるだろうね』
滅びるとは、穏やかではない。
『獣も長く彼らの側にいすぎたのか、人間の戦で血を浴びすぎたのか……ちょっと壊れているとしか思えないね。地を見ずに、人間ばかりを見て生きている。下位精霊が消えてしまうような汚れた土地が出来ようと、彼らは人間の味方になる。獣だって神に産み出されただけで、神そのものじゃなくて、完璧じゃない。確かに人間の味方となるように作られた存在だけど、在り方に変化が迫られる時に適応出来ていないのは問題だよ』
「……そういう土地は、精霊が元通りには出来ないの?」
『多くの精霊が集まって力を注ぎ込めば、今なら可能かもね。――だからティナが王になればいいんだ。精霊がもっと集まる。人間の長が気に入った人間だと、集まった精霊はやる気に満ちて、役に立ちたくなる。どんなに救いようもなく穢れた土地だろうと、皆で土地を豊かにする』
キツネは身を乗り出して、ティナに語る。
『僕らだって、いるならそういう人間がいる地がいい。だから僕はティナがいる地にいたんだから。居心地の良い他の地に引っ込んでる精霊も出てくるよ』
「それなら、今からでも精霊たちが土地を綺麗にすればいいんじゃないの?」
『ティナ、大地はここだけじゃないんだ。他にも人間がいなくて、争いがない土地は残ってる。長くいた土地でも、そっちの方がいいと思ったら、精霊はどこにだっていけるから出ていくよ』
地は広い。ティナにとっての世界は、王都に来るまでは故郷だけだったが、地図でだってもっと先にも地は繋がり、広がっている。
精霊に国はない。人間の国に縛られることもないはずの存在なのだ。
国を渡り歩く行商人を思い浮かべた。彼らは国々を回るとはいえ、ちょっと違うか。人のいる場所にしか行かないのだから。
精霊は違う。人間に見切りをつければ、どこにだって行ってしまうのかもしれない。
そうすれば、この国がとても豊かなのは精霊の力が土地に影響しているというから、土地は枯れていってしまうのだろうか……。
『でも、精霊が愛する子がいるなら別だ。ティナが国を治めれば国を豊かにする。ティナが帰りたいって言うのなら、ティナの周りだけを豊かにするよ』
キツネはそんなことを言う。
どことなく極端だ、とティナは思う。それに何だか自分という存在が重要にされすぎているようにも思えて、ちょっと困る。
自分が家にいて、なおかつ国から精霊が出ていかずにいてくれる方法はないだろうか。そんなに、何でもかんでもうまい話はないということか。
考えすぎてか、頭がぼんやりしてきたティナは難しい顔をした。
「……アルヴィー、おおげさに言っていない?」
『全く。まあ確かに今すぐ全ての精霊がいなくなって、ここの土地が枯れ果てるわけじゃないよ。でもね、ティナ。精霊の愛し子と呼ばれる人の子は、原初からいたわけじゃないんだ。突然だよ。神の祝福を得て、精霊が愛したくなる君たちは、僕が知る限りでも世界に一人ずつ現れ始めた』
「……世界に一人? 今、私以外にはいないの?」
『おそらくね。そういうことは聞かないから。そうやって時々愛し子が現れるようになったのは、神がかつて地上を任せた人間の変わりようを見て、代替わりするべきだと生み出したのかもしれない』
ティナもね、と透き通る青はティナの顔を映していた。きらきらと、愛しむ優しい感情を乗せて。
『だけど、すでに王を選ぶ役割だと決められていた獣の目が曇っていたから、獣は愛し子に気がつかなかった。先日になって、やっと目が覚めた獣が現れた。――ラザレスだよ』
ぼんやりと、黄金色の瞳をした犬の姿を思い出して、次いで人の姿を思い出した。
玉座について欲しいと、真っ直ぐに目を合わせて言ったラザレスは、神の獣だ。王族を選ばずに、ティナを選んだ。
『まあ現れたら現れたで、予想外の事態も起きたんだけど』
「……?」
『……ティナ、大丈夫?』
「なにが?」
青い瞳が、こちらを見上げている。
キツネがお湯を溜めた容器の中でもぞもぞして、立ち上がろうとしている様を、ぼんやりと見ていると、小さなキツネはペタりとティナの腕に足をくっつけた。
次に鼻をくっつける。鼻はお湯に浸かっていなかったからか、ひんやりしていた。
『すごく顔が赤いし、体温も高い。そういうときって、具合が悪くなってるときだ。ティナ、大丈夫?』
「そういえば、ちょっと熱いかも……」
お風呂に浸かりすぎたらしい。のぼせて、上がるときふらふらとしてしまった。
お風呂から上がると、髪はアルヴィーが乾かしてくれた。そんなキツネの毛並みも、お風呂に入ったとは思えないもふもふさだ。
ラザレスはと探すと、窓辺で、外を見ているようだった。背中を向けている。
「ラザレス?」
ラザレスが振り向いた。
「顔が赤いな。どうした?」
「ちょっとのぼせてちゃって」
「そうなるまで入るなよ」
まだ赤みが引いていないらしい。
歩み寄ってきたラザレスが、ティナの頬を包むように手のひらで撫でた。
「外、暗いのに何か見えた?」
見える庭はすごいけれど、明るいときに見た方がいいのではないだろうか。
案の定、窓の外は暗くて景色はよく見えない。
「俺は目がいいからな。暗くても見える」
そうなのか。何となく羨ましい。
外は暗くとも、まだ寝る時間ではない。昨日は一日目で部屋もベッドも目新しくて、ベッドの上を跳ねていたりしていたけれど。今日はもうそんなこともない。
早めにベッドに入る発想もなく、ティナはどうしようかなと窓の外を見ていた。
ノックされたのは、そのときである。
昨日はお風呂のあとは完全に誰も来ることはなくてのびのびしていたのに、誰だろう。
ティナが扉の方を見ると、短くラザレスが返事をして扉が開かれた。女性が入ってきた。
「失礼致します。エドガー殿下がおいでになっていらっしゃいます」
「エドガー殿下?」
誰だったか、とティナは疑問に思ったが、数秒ほど遅れてあ、と心当たりを思い出した。
今は手元にないカードの差出人の名前だ。




