エピローグ:足の不自由な少女
帝国の崩壊から、季節が二つほど巡った。
絶対的な力で世界を支配していた「ソンガ帝国」は、今や歴史の教科書の中に収まる古い物語となった。人々は「民主主義」という未熟だが温かな生活の中で、泥臭くも生きている。
街の復興を告げる槌音は、今日もどこかで響いている。
製紙業の親方であるドワーフのバリスタは、自身の工場で出来上がったばかりの紙の感触を確かめ、満足げに頷いていた。
「良い紙だ。この紙には、嘘も偏見も乗らねぇ。俺たちの国の記録は、こうあるべきよ」
かつては兵器を鍛造していた彼の手は、今や新しい社会を紡ぐための真っ白な紙を生み出し続けていた。
広場に面した議事堂では、人間の議長ヒューが議長席に座っていた。
「……種族間の利害の不一致、理解しました。ですが、どちらの意見も無視すべきではありません。互いの『共通の利益』はどこにあるか、もう一度だけ模索の場を設けましょう」
ヒューは公平な視点で各勢力を諭し、対話を促す。かつて人間だけを贔屓しようとした影は微塵もなく、ただただ民全体の未来を想い、些細な声も聞き逃すまいとする矜持があった。
通り沿いにある巨大な建物では、新聞社の編集長、エルフのギルバートが、部下たちに熱弁を振るっていた。
「いいか! 我々が報じるのは、誰かの主張ではない。事実という名の鏡だ。人々が自ら考え、判断するための武器を届けるのが、我ら『ニホン共和国通信社』の使命だ!」
かつて、ただ業務に徹して記すのみだった彼は、今やペンで世界を変えるジャーナリズムのトップとして、その瞳を鋭く輝かせている。
オーエの秘書であるセクレタは、庁舎で膨大な資料を整理していた。エルフの奴隷であった頃の虚ろな目は、彼女にはもうない。常に誰よりも先回りして他者を思いやり、オーエのポンコツ気味な部分すらも完璧にフォローする、この国の影の功労者だ。
そして、共和国の遙か外れ、緑豊かな辺境の村。
村の小さな教卓で、イル・ソンガは子供たちに計算を教えていた。
「……いいかい。割り算が間違っていれば、配分は必ず不公平になる。正しい計算は、正義の第一歩だ」
「リィ先生の言うこと、むずかしくてわかんないよー」
かつて傲慢な思考を巡らせていた頭脳は、今や「隣人の作物がよく育つにはどうすればいいか」という、地に足のついた知恵のために使われていた。
*
街の喧騒を離れ、オーエとフジワラは、懐かしさを噛みしめるように、かつて二人が出会った孤児院の門をくぐった。
庭先では、見知らぬ少女が小さな花壇に水をやっていた。彼女は二人の足音に気づくと、驚いたように肩を震わせ、松葉杖をついて立ち上がった。
「あ……あ、あの……?」
彼女は怯えたように目を泳がせ、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「……だ、誰……ですか? ここは、その……関係者、以外は……」
オーエは優しく微笑み、フジワラは少しだけ腰を屈めて手を振った。
「驚かせてごめんよ。昔、この孤児院を手伝っていたんだ。少しだけ、懐かしくてね」
「そ、そう……なんですか……」
少女――モノは、少しだけ警戒を解き、おずおずと尋ねた。
「お、お名前は……?」
「私はオーエ。こっちはフジワラだ」
名前を聞いた瞬間、モノの瞳が大きく見開かれた。
「……あ、あの、し、しんぶん……の……? あ、あ、あの……!」
彼女は感極まったのか、あるいは恐縮したのか、顔を真っ赤にして口ごもってしまう。
「あ、わ、わたし……ここには、最近……きたばかりで……」
その時、建物から懐かしい院長が顔を出した。
「おや、お客様かと思ったら……!」
彼はオーエたちを見て、静かに微笑んだ。そして、傍らにいる少女に優しく声をかける。
「この方たちは、この国を作った人たちだ。……怖がらなくていいよ。オーエさん、フジワラくん、こちらはモノ・ソンガさんだ…… 」
ベンチに腰を下ろし、三人は穏やかな時間を過ごした。
モノが語る、兄の姿。
いかに合議制に裏切られ、いかに王国を恨むようになったか。その真実。
帝国の力を惜しげなく注ぎ込み、モノの身体の治療に宛てたこと。
そしていま辺境で暮らす兄の近況。計算に縛られていたかつての姿はなく、今は村の子供たちに慕われた、ささやかな「一人の人間」としての暮らし。
それは、オーエとフジワラ、二人が求めた「民主主義」の一つの小さな結実だった。
時間が過ぎ、オーエとフジワラが立ち上がる。
これから庁舎に向かわなければならない。新しい国の、新しい決断のために。
「……あの、えっと」
モノが、松葉杖を支えに立ち上がり、二人を呼び止めた。
「また……あ、会いに……きて、くれますか……?」
彼女のたどたどしくも真っ直ぐな言葉に、オーエは足を止め、振り返った。
「ああ。必ずまた来るさ」
門へと歩き出す二人の背中を、モノはじっと見守っていた。
不器用な歩みでも、前に進む足取り。二人が作った、そして世界が選んだ新しい「明日」が、その背中の向こうに広がっている。
「……いってらっしゃい」
彼女の呟きは、柔らかな風に乗って、二人の背中へと消えていった。
物語は終わらない。ただ、新しいページが、今、めくられただけなのだ。
(完)
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