10:独裁の終焉、そして産声
王宮の広間を歩くイル・ソンガの足音が、重々しく響く。
彼は暴れ出したりはしなかった。論理が通用しない以上、「暴力」もまた、彼の完璧な世界観の中ではただの無駄に過ぎないということか。
「フジワラ、オーエ。君たちの言う『自由』という名の不条理が、一体どんな結末を招くか。地獄の底からでも見ていてやる」
イルはそう言い残し、玉座の裏の隠し通路から王宮の裏口へと向かう。隠し通路をカモフラージュする帝国の国旗を、迷うことなくイルは引き裂き悠々と出ていく。
彼は亡命するわけでも、処刑されるわけでもない。ただ、権力という装置を捨て、一人の観察者へと戻ろうとしていた。
彼の完璧な帝国は、彼自身が去ったことで、真に「瓦礫の山」と化した。
「逃がしていいのか?」
俺が尋ねても、オーエはすぐには反応しなかった。
様々な思いが去来していることが、俺にも伝わる。親兄弟を皆殺しにされたあの夜のこと。ゴミ山で孤児たちに拾われ、俺と初めて出会ったあの日のこと。
俺と二人で奴隷エルフを解放した夜のこと。ドワーフも仲間に加わり、製紙に成功した日のこと。
帝国を出し抜き紙の密輸を成し遂げた日のこと。
力ずくで押さえようとする帝国の海軍を破ってみせた日のこと。デマに踊らされる民衆に石を投げられたこと、それでも民衆が「真実」に向かう姿を目の当たりにしたこと。
そして、俺たちの「平和憲法」を書き上げた日のこと。
万感の想いを込め、オーエは首を横に振った。
「奴を殺しても、刑務所に閉じ込めても、その思想は死なない。奴が示したのは、独裁という名の論理だ。それを否定するには、奴を殺すことではなく、より優れた現実を見せつけるしかない」
「イル・ソンガ!」
オーエが最後に呼びかける。
「貴様さえ良ければ、我々は貴様を市民イルとして迎える覚悟がある!」
返事はなかった。ただ悠然と歩く背中が「否」とだけ伝えてきていた。
広場に出ると、そこには混乱の極みがあった。
インフラが止まり、食料の配給も滞っている。昨日まで「効率」によって統治されていた帝都の人々は、いきなり放り出された自由の重さに、当惑していた。
「おい、これからどうなるんだ!?」
「食料は? 俺たちの仕事は?」
不満と不安が爆発し、人々が互いを非難し始めている。
イル・ソンガの正しさが、皮肉にもこの瞬間に証明されていた。秩序ある独裁の方が、自由な混乱よりも遥かに生存効率が良いのではないか、という疑念。
「見ろ、これが君たちの結末だ」
イルがそう言いたげに、俺たちを真っ直ぐ見つめている。
オーエは、その光景を真っ直ぐに見据えた。そして、人々の中心にある噴水台の上に登ると、大声で叫んだ。
「そうだ! 不安だろう! 明日のパンがどうなるかもわからない、誰が正解を教えてくれるわけでもない。それが自由だ!」
広場が静まり返る。オーエの声が、風に乗って響き渡った。
「貴様らは、これまでイル・ソンガという巨大な脳みそに全てを委ねてきた! 考えることをやめ、ただ指示を待っていた! だが、我々が手に入れたのは、自分たちの未来を決める権利だ! 混乱するのは当然だ。自分たちでルールを作るのは、命令されるよりずっと難しいからな!」
オーエは力強く拳を突き上げる。
「我々がやりたいのは貴様らを飼い慣らすことじゃない。貴様らと一緒に、明日のパンの焼き方を議論することだ! 失敗してもいい。喧嘩してもいい。だが、誰かの言いなりになるのだけは、もうやめよう!」
一人の男が、おずおずと手を挙げた。
「……俺は、パン屋だ。組合を作って、自分たちで価格を決めていいのか?」
「ああ、もちろんだ!」と、フジワラが答える。「あんたが決めていいんだ。俺たちがそれを守る。それこそが、新しい国の憲法だ!」
イル・ソンガは、その様子を遠目から眺めていた。
彼の完璧な冷徹な瞳が、わずかに揺らぐ。
効率も、最適化も、統計学も無視した、泥臭い対話の光景。
彼が一生かけて排除しようとした「ノイズ」が、いま、新しい秩序を紡ぎ出そうとしている。
「……非効率だ。全くもって、非効率の極みだ」
イルはそう小さく呟くと、ふっと笑みを浮かべ、何か呟いたようだった。
そして彼は我々に、民衆に背を向け去っていく。その背中は、もはや独裁者のそれではない。ただ、一つの計算に破れた男の、静かな退場だった。
俺たちの背後で、街の住民たちが小さなグループを作り、話し合いを始めている。
それは、帝国という巨大なシステムが死に、民主主義という小さな細胞が生まれ始めた瞬間だった。
ニホン共和国、という名の未完成の国が、いま、不器用な産声を上げたのだ。
俺はミニマム・ドラゴンを肩に乗せ、新しい朝日の方向へ歩き出した。
独裁の時代は終わり、これからは、俺たち人間自身の、長く険しい戦いが始まるのだ。
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