8:崩壊する秩序
帝都の大通りは、まるで魔法にかけられたかのように静まり返っていた。
俺たちが歩みを進めるたび、周囲の帝国兵たちは武器を置き、道を開けていく。恐怖で支配されたはずの街が、いまや「静かなる意志」に満たされている。
「フジワラ、見ているか。これが民主主義の『景色』だ」
オーエが静かに呟いた。彼の指差す先では、かつて帝国の上層部に虐げられていた人々が、互いに手を取り合い、自分たちの言葉で語り合っている。
命令に従うだけの歯車だった彼らが、今、自分の頭で考え、自分たちで街の秩序を守ろうとしているのだ。
帝国軍の残党たちが慌てて防衛線を築こうとするが、その前に立ちはだかったのは武装した兵士ではなく、街の住人たちだった。
「俺たちは、もう誰かの道具にはならない」
その言葉一つで、帝国軍の士気は霧散した。イル・ソンガが数式で構築した「恐怖のピラミッド」は、頂点である皇帝の権威が揺らいだ瞬間、土台から崩れ去ったのだ。
俺たちはそのまま、帝都の心臓部である王宮へ向かった。
厳重な警備が敷かれているはずの正門は、守衛さえも持ち場を放棄し、どこかへ消えていた。
残されたのは、ただの石造りの門と、無力な紋章だけ。
「行こう、オーエ。……イル・ソンガとの決着をつけに」
王宮の奥、玉座の間。
そこには、かつての栄光の残滓の中で、たった一人でチェス盤に向かうイル・ソンガの姿があった。
彼は俺たちが入ってきたことにも気づかないかのように、盤上の駒を動かし続けている。その動作は機械的で、どこか狂気を孕んでいた。
「……計算が、合わない」
イルが呟く。
「なぜだ。なぜ、このシステムが崩れる? 飢えも与えず、恐怖も与えず、ただ効率的に運用していただけだ。民は幸福だったはずだ。なのに、なぜ彼らは自由を求め、この秩序を破壊する?」
俺は一歩前に踏み出した。
「あんたの言った『幸福』は、あんたの都合の良い幸福だったんだよ。俺たちは、彼らに自分たちで決める権利を返しただけだ。それが、どれだけ非効率で、どれだけ不安定でも、それが人間の生き方だからさ」
イル・ソンガがゆっくりと顔を上げる。その瞳には、天才としての冷徹な光ではなく、理解不能な事態に対する純粋な困惑が宿っていた。
「首を撥ねろ、と言っても、君たちは聞かんのだろうな」
「ああ、我々の平和憲法は見せしめのような処刑を許してはいない」
オーエは続ける。
「人間は、不合理な生き物だ」
かつてのポンコツ王子とは思えないほど深く、重い声で告げる。
「貴様はそれを計算から外した。だが、その不合理さこそが、我々が明日を生きるための原動力なのだよ、皇帝」
オーエの手には、武器はない。あるのは、民衆が署名した、新しい国への「誓約書」の束だけだ。
イル・ソンガは、その束を見つめ、溜息をひとつ吐いた。
完璧だった計算機が、初めて自らの失態を認める。
「……なるほど。私には、一生かかっても解けない難問だったようだ」
玉座の間に響くのは、チェスの駒が盤面を打つ硬質な音だけだった。
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