プロローグ:空飛ぶ影と、世界の境界線
「ぶくぶくぶくぶく、ぺっ」
ノルズ山脈の隠れ洞窟の外。まだ朝靄が残る冷涼な空気の中、俺は即席で作った木製の歯ブラシを片手に、盛大にうがいを吐き出した。
異世界に転移してからというもの、俺が最も死守したかった現代知識の一つが「口腔衛生」だ。虫歯になって魔法の利かない痛みにのたうち回るのだけは御免だからな。
「ふぅ……。今日もいい天気だし、紙の生産効率も上がってる。コープの運営も軌道に乗ってきたし、言うことなしだな」
腰に手を当て、伸びをしながら何気なく朝の空を見上げた、その時だった。
「……ん?」
ノルズ山脈の切り立った崖の向こう、高い高い雲の隙間を、何かが横切った。
鳥にしては大きすぎる。猛禽類か何かだろうか。
俺は目を細めて、その影をじっと追いかけた。影はぐんぐんと高度を下げ、朝日を浴びてその輪郭をくっきりと浮き上がらせる。
「……は?」
口が、あんぐりと開いた。
持っていた歯ブラシが、指の間からポロリと地面に落ちる。
それは、鳥ではなかった。
人間のような胴体と頭部を持ち、しかし腕の代わりに見事な一対の『翼』を生やした存在――つまり、人が、空を飛んでいた。
それも一人や二人じゃない。三羽……いや、三人ほどが、見事な編成を組んで、東の断崖絶壁の方へと滑空していくのが見てとれた。
「ひとが、人が、空を飛んでるううううううううう!?」
俺の叫び声が、朝の山脈に虚しくこだました。
「朝っぱから喧しいぞ、フジワラ。せっかくの優雅な瞑想の時間が台無しだ」
洞窟の入り口から、眠たげに目をこすりながらオーエが姿を現した。相変わらず無駄に顔が良い亡国の王子だが、寝癖が盛大に跳ねているせいでカリスマ性が台無しである。
「オーエ! 大変だ! ととと鳥人間だ! 人が、ガチの人間が羽を生やして空を飛んでた!!」
胸ぐらをつかまんばかりの勢いで詰め寄る俺に対し、オーエは心底めんどくさそうに溜息をつき、俺の手をパシパシと叩いて退けた。
「落ち着け、お前は本当に大袈裟だな。ただの『有翼種』だろう。お前ですらエルフやドワーフのことならよく知っているだろう」
「いや、エルフもドワーフも基本は陸上生物だろ!? 三次元の立体機動を自前でやってる奴らがいるなんて聞いてないぞ!」
「ふん。イル・ソンガ帝国はな、フジワラ。人間だけが至高という狂信的な思想を持っているが、その足元には数多くの『まつろわぬ亜人』たちがひしめき合っているのだ」
オーエは寝癖を手のひらで雑に直しながら、退屈そうに人指し指を立てた。
「東の断崖絶壁に住まい、空を駆ける『有翼種』。西の複雑な入り江に潜み、歌で航海者を狂わせる海の覇者『人魚種』。そして南の広大な湾へと続く平野部の外縁、その深い森に潜む『獣人種』……。帝国はこれらを武力で抑えつけ、互いに交流させぬよう分断統治しているにすぎん。驚くほどのことではない」
「なるほど、分断統治……。って、そんな重要情報をなんで今まで黙ってたんだよ!」
「聞かれなかったからな」
オーエは不敵に、精度高く、そしてどこか狡猾な光を瞳に宿して笑った。
「だが、ちょうどいい。そのハルピュイアやセイレーンの存在が、今の我々にとって最大の鍵になるのだからな」
「え? 鍵ってどういうことだ?」
「くくく……。さあ、会議の時間だ、フジワラ。コープの次なる一手を決めるぞ。行くぞ、我が知恵袋!」
オーエは思わせぶりに俺の肩を叩くと、さっさと洞窟の奥へと戻っていった。俺は地面に落ちた歯ブラシを拾い上げながら、これから始まる不穏な予感に、小さく身震いするしかなかったのだった。
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