10:ノルズの夜明け
「……お断りだ。そんな忌々しい亜人の化け物と手を組むなど、帝国の法に反する。我々は貧しくとも、偉大なる光の帝国の一級市民……純人だ! 汚れ多き亜人の奴隷どもと関われば、魂が汚れる!」
「そうだ! 亜人の分際で、人間に指図するな! 山へ帰れ、化け物め!」
ノルズ山脈の麓にある開拓村の広場。
山から木材を切り出してもらうという『外注(商談)』のために訪れた俺たちを待っていたのは、悲しいほどの激しい拒絶だった。
一人の農民が、地面の泥をすくい、セクレタリアに向けて投げつけた。
ベチャリ、と彼女の綺麗な麻の衣服に、黒い泥が飛び散る。
セクレタリアは悲しそうに目を伏せ、一歩、俺の背後へと身を隠した。
農民たちは、帝国の過酷な税に苦しめられ、明日餓死してもおかしくないほど搾取されている被害者のはずだ。なのに、自分たちよりさらに下の身分と規定されている亜人を見下すことで、建前の一級市民としてのプライドを保っている。
帝国が数百年かけて刷り込んってきた、支配のための『心の首輪(分断統治)』。彼らは、その首輪に自らしがみつき、差し伸べられた救いの手を、人種偏見という名の感情で叩き落とそうとしていた。
そこへ、最悪のタイミングで夜闇を割って現れたのは、松明を掲げた帝国の役人たちだった。
商人の密告か、あるいは定期的な見回りか。真鍮の鎧を纏った役人が、馬の上から拡声の魔導具を握りしめ、ここぞとばかりに農民たちを扇動し始める。
「ナァノ朝の生き残りが、亜人と結託して帝国に反逆しようとしている! 忠良なる臣民よ、この者たちを捕らえ、帝国の秩序を守るのだ!」
その言葉に、農民たちの間に「反逆者」「化け物」という恐怖と怒りが爆発的に広がった。
彼らは手に持っていた鍬や鋤、薪割り斧を構え、俺たちを完全に包囲する。
最前線にいた大柄な農民が、ギラリと鈍い光を放つ大きな薪割り斧を振り上げた。暴力の波が俺たちを飲み込もうとした、まさにその瞬間だった。
「――クク。アハハハハハ!」
松明の赤い炎が揺れる広場に、オーエの、あの脳髄を直接引っ掻くような「狂気の笑い」が響き渡った。
あまりにも場違いで不気味なその大爆笑に、農民たち、そして役人の動きまでもが、まるで時間が止まったかのようにピタリと凍りつく。
オーエは笑い声をピタリと止めると、頭深く被っていたフードを乱暴に払いのけた。夜闇の中で月光を浴びて怪しく輝く白銀の髪、そして、形成の狂いもない美しい青色の瞳が露わに入る。
その、見た者すべてを本能的に平伏させるような圧倒的な気品。ナァノ朝第三王子――オーエ。
「お、王族……!? 半年前のクーデターで皆殺しにされたはずの、王国の生き残りか、あれは!」
役人が怯えを隠すように声を裏返らせた。
実際のところ、オーエは戦う力など爪の先ほどもない。今だって、俺の後ろに隠れながら、俺の袖を裏で必死にギュッと掴んで、指をガタガタと震わせている。
だが、彼がひとたび背筋を伸ばして口を開き、その狂気的なまでのカリスマを放ち始めた瞬間、彼は間違いなく世界の中心になる。
「農民どもよ、よく聞け」
オーエは青い瞳を冷酷に細め、せせら笑った。
「貴様らは、エルフが自分たちの富を奪いに来たと怯え、泥を投げつけ、憎んでいるな? だが、それは決定的な間違いだ。貴様らの富を、未来を、尊厳を奪っているのは、あの帝都の玉座でふんぞり返るイル・ソンガただ一人だ!」
「な、何を言う! 我々は帝国の恩恵を受け、一級市民…純人として暮らしているのだ!」
村長が必死に叫び返す。しかしオーエはそれを、一言で一刀両断にした。
「黙れ、奴隷め。皇帝は貴様らを『民』などとは思っていない。『いつでも替えの利く、使い捨ての便利な駒』としか見ていないのだ。一級市民? 笑わせるな。貴様らが毎日、血を吐くような思いで収穫した作物の大半を、重税として毟り取っているのはどこのどいつだ!? 貴様らの子供が、帝国の都合のいい戦争のために兵隊として引っ張られていくのは何故だ!?」
農民たちが、ハッとして息を呑んだ。それは彼らが毎日、飢えと戦いながら、見ない振りをし続けてきた現実の地獄だった。
「今日、彼らの言葉に踊らされてエルフを排除すれば、明日は貴様らが、別の理由で奴隷にされる番だ。なぜなら、あのソンガ帝国には、貴様ら一人ひとりの権利を守る『仕組み』など、どこにも存在しないからだ!」
オーエは懐から、一冊のノートを誇らしげに高く掲げた。
すでにドワーフのバリスタたちの名が、不滅の油性インクで刻まれている、あの『市民登録ノート』だ。
「私はすでに、ナァノ朝の王子としての身分など捨て去っている! いいか、人間だから上なのではない、エルフだから下なのでもない! 私たちは等しく、己の足で立つ『市民』だ! このノートに名前を刻んだ者は、生まれや種族に関係なく、誰もが対等な一票を持ち、自分たちの法を自分たちで決める権利を持つ! 支配者に首輪を繋がれるだけの、家畜の時代は今夜、ここで終わりだ!!」
オーエの声が、大衆の脳髄を激しく揺さぶる。
だが、農民たちはまだ、偏見と恐怖の首輪を完全に外せずにいた。
「そ、そんな綺麗な理想だけで、腹が膨れるか! 帝国に逆らえば、私たちは干からびて死ぬしかないんだ!」
一人の農民の悲痛な叫び。
そこで、オーエはニヤリと、最高にえげつない笑みを浮かべた。思想の演説の後に、彼は用意していた最大の「現実」を叩きつける。
「ならば、これを見ても同じことが言えるか?」
オーエの合図で、俺は背負っていた大きな麻袋を地面にドスンと落とし、紐を解いた。
松明の光を浴びて、広場に溢れ出たのは――バケツをひっくり返したような、大量の『帝国の金貨と銀貨』だった。ジャラジャラと鈍い音を立てて輝く本物の富を前にして、農民たちの目が完全にギラリと色めき立った。
「これは、我々が作った『紙』という新たなインフラが、帝国の市場をハッキングして稼ぎ出した正真正銘の金だ。いいか、村人ども。我々の仲間に加わり、紙の原料となる木を切り出し、運ぶ役目を引き受けろ。そうすれば、帝国の役所が提示する『倍の日給』を、この金貨で毎月、全員に支払おう!」
「ば、倍の日給……っ!?」
村長が、大柄な農民が、腰を抜かさんばかりに驚愕した。
「帝国に従えば毟り取られるだけだが、我らの『市民の連帯』に参加すれば、その労働は正当な対価(富)となって貴様らの腹を満たす! 人間だから、亜人だからではない! 自らの生活を、未来を豊かにしてくれるルールに、誰の所有物でもない己の意志で一票を投じろ!」
ドゴォン!! と、頭を殴られたような衝撃が農民たちに走った。
理想の思想と、圧倒的な現実の経済。この二つが同時に脳髄へと感染した瞬間、彼らの『心の首輪』は、音を立てて完全に粉砕された。
「……やってやる。帝国の不条理に怯えて飢えるのは、もう真っ平御免だ!」
最前線にいた大柄な農民が、ガタガタと震えながら、手に持っていた大きな薪割り斧を地面にポロポロと落とした。それを皮切りに、広場の農民たちの手から、次々と鍬や鋤が滑り落ちていく。
「お、おい! 貴様ら、何を血迷っている! 武器を拾え! その反逆者どもを捕らえるのだ!」
馬の上の役人が慌てて怒なり散らすが、もう遅い。農民たちの目は、すでに帝国を恐れる「奴隷」のものではなかった。己の足で立ち、自らの未来を選択しようとする「市民」の目だった。
数十人の農民たちは、役人を取り囲むように一歩ずつ前へ進み出る。
「役人様、悪いな。俺たちは今日から、亜人を追い出す『家畜』をやめて、自分の頭で考える『市民』になる。……お前たちの重税の書類を楽に処理してやってるあの『紙』が、誰の手で作られてるか、帝都の皇帝によく報告しておいてくれや!」
「ひっ……、う、動くな! 反逆者どもめ!」
農民たちの圧倒的な迫力に気圧され、役人は馬の首を翻すと、命からがら夜闇の向こうへと逃げ去っていった。勝負はあった。武力による屈服ではない、思想と経済の完全なる勝利だった。
静まり返った広場で、衣服を泥で汚されたセクレタリアが、呆然と、しかし深い感動を湛えた目で農民たちを見つめていた。
一人の農民が、バツが悪そうに頭を掻きながら、セクレタリアの前に歩み出る。そして、泥のついた不器用な手を、そっと差し出した。
「……すまなかった、エルフの姉ちゃん。服、汚しちまって。……俺たちの切り出した木、高く買ってくれよな」
セクレタリアは一瞬目を見開いた後、自身の尖った耳を嬉しそうに揺らし、その手をしっかりと握り返した。
「はい、喜んで。……ようこそ、私たちの共同組合へ」
人間と亜人が、種族の壁を超えて、対等な『市民』として初めて握手を交わした瞬間。
のちに歴史書に『ノルズの夜明け』として刻まれることになる、世界で最初の市民蜂起の光景が、今ここに完成したのだった。
俺の後ろで、オーエが「クク、ハハハハ!」と、世界が塗り替わる瞬間を幻視して、いつものように不敵に笑っていた。その細い指は、もう二度と怯えで震えてはいなかった。
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