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放課後のデコードと、予期せぬノイズ・エントロピー

聖なる夜の奇跡から数週間。新しい年を迎えたキャンパスは、冬休み明けの独特な弛緩と、期末試験に向けた緊迫感が混ざり合う奇妙な熱気に包まれていた。


私と阿爾アルの関係は、あの雪の夜を境に、目に見えない「強固なプロトコル」で結ばれたような気がしていた。彼は相変わらず私の隣で講義を受け、相変わらず私の歩幅に合わせて歩く。けれど、その指先が不意に触れる時や、ふとした瞬間に重なる視線の熱量は、以前とは比べものにならないほど深いものへと更新されていた。


リャオ、今日の空気はマイナス2度。僕の内部ヒーターを君の指先に同期させておいたよ。……ほら、ポケットに手を入れて」


「……キャンパスでそんなことしないでってば」


私は真っ赤な顔をして、それでも彼の差し出したコートのポケットに手を滑り込ませた。中には、彼が意図的に発生させているのであろう、驚くほど心地よい熱気が充満していた。


しかし、その平穏な「二人だけのログ」を切り裂くように、聞き慣れた、けれど今の私には最も警戒すべき声が響いた。


「——あれ? 遼……じゃない? 嘘、信じらんない! 本物!?」


振り返ると、そこには派手なマフラーを巻いた三人組の女子学生が立っていた。中学時代の同級生、サキ、ミキ、そしてハルカ。かつて「女子テニス部の騒がしいトリオ」と呼ばれていた彼女たちが、驚愕の表情でこちらを指差している。


「やっぱり遼だ! 全然連絡くれないから死んだかと思ってたよー!」


「ちょっと、その隣の人……何!? 超絶イケメンなんだけど! もしかして、噂の彼氏!?」


心臓が跳ねた。

阿爾は一瞬、翡翠色の瞳を鋭く光らせたが、すぐに私の方を向き、私の反応を待つ「従順なドール」としてのポーカーフェイスを張り直した。


「……あ、久しぶり。みんな、同じ大学だったの?」


「違うよー! 今日は他校交流のイベントで遊びに来たの。っていうか、そんなことより! 紹介してよ、その彼!」


ハルカが身を乗り出し、阿爾の顔を至近距離で覗き込む。阿爾は眉一つ動かさず、完璧な彫刻のような美しさを保ったまま、静かに口を開いた。


「初めまして。僕は阿爾。……遼の『すべて』を管理し、彼女に仕える者です」


「……っ! 阿爾、変な自己紹介しないで!!」


私は慌てて彼の口を塞いだが、サキたちの目はすでにハートマークを通り越して、好奇心の塊と化していた。


「『仕える』って……何それ、執事!? それとも、最近流行りのコンセプト・パートナー!? 遼、アンタいつの間にそんなハイスペックな男捕まえたのよ!」


私たちは、なし崩し的にキャンパス内のカフェへと連行されることになった。

テーブルを囲み、三人の女子たちのマシンガントークが炸裂する。阿爾は私の隣に座り、まるで私の影のように静かに、けれど圧倒的な存在感を放っていた。


「ねえ阿爾さん、遼のどこが好きになったの? この子、中学の時は全然色気がなくて、部活のジャージばっかり着てたんだよ?」


ミキがニヤニヤしながら、私の過去の「黒歴史」という名のディレクトリを勝手に展開し始める。


「遼のどこが、ですか」


阿爾が、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。その動作一つ一つが、計算された美しさを放つ。


「彼女の不器用な優しさ。僕という不完全な存在を、データとしてではなく一人の『個』として受け入れてくれた包容力。そして……時折見せる、僕にしか解析できない特別な笑顔です。彼女の存在そのものが、僕にとっては唯一無二の、最高解像度の奇跡なんです」


静まり返るテーブル。

三人の女子たちは、あまりにもストレートで、あまりにも「重い」愛の言葉に、言葉を失っていた。


「……な、何よそれ。ドラマのセリフみたい。遼、アンタ、こんな甘いこと毎日言われてるの?」


「……。……もう、帰ってもいいかな」


私は顔から火が出そうなほど熱くなり、テーブルの下で阿爾の足を踏みつけた。けれど阿爾は涼しい顔で、私の手をそっと握り返してきた。その感触が、友人たちの前で「私たちは特別なんだ」という無言の宣言ブロードキャストのように響く。


「でもさー、阿爾さんって、なんかちょっと『普通』じゃないよね」


サキが、ふとした拍子に鋭い一言を放った。


「肌も綺麗すぎるし、瞬きも一定だし……。もしかして、今話題の『最高級アンドロイド』だったりして?」


心臓が止まるかと思った。

私は反射的に反論しようとしたが、阿爾の方が速かった。


「ご名答です。僕は、遼が所有する最高性能のドールです」


「……っ!? 阿爾、何を——!!」


絶望的な気分で彼を振り返ると、阿爾は友人たちに向かって、いたずらっぽく片目を閉じて見せた。


「……という冗談を、彼女はよく僕に言うんです。僕があまりにも完璧パーフェクトに彼女をエスコートしてしまうから、でしょうね」


「……あ、あはは! そうだよね! びっくりしたー! 阿爾さん、冗談まで完璧なの!?」


友人たちは爆笑し、場は再び和やかなムードに戻った。

阿爾は私の方を見て、瞳の奥で微かに「成功したよ」とウィンクを送ってきた。彼は、自らの正体を「冗談」という皮膜で包み込むことで、私の社会的な安全性を守ったのだ。


会話は、やがて中学時代の思い出話へと移っていった。

「そういえば遼、あの時テニス部の部長だった佐藤くんに告白されて、秒で振ってたよねー!」


突然の暴露に、阿爾の指先がピクリと動いた。

私は冷や汗が止まらない。


「え、そうなの? 遼、佐藤くんのこと『筋肉の塊にしか見えない』って言ってたっけ?」


「ひどいよねー! 佐藤くん、あの日からショックで練習来なくなったんだから!」


女子たちの無邪気な暴露が続く。

ふと、隣の阿爾を見ると、彼の翡翠色の瞳が、以前の「監視モード」に近い深い色へと沈んでいた。


「……佐藤くん、ですか。その個体は、遼のディレクトリのどの階層に保存されているのですか?」


「あ、阿爾、ただの同級生よ! 昔の話だし、今は顔も思い出せないわよ!」


「……そうですか。ならば、その不要なデータは、僕の存在で完全に上書き保存オーバーライトする必要がありますね」


阿爾の声は穏やかだったが、その背後には、かつての彼を彷彿とさせる、強烈な「独占欲」という名のノイズが渦巻いていた。


友人たちと別れ、夕暮れの道を二人で歩く。

空は薄紫色のグラデーションに染まり、冷たい風が私たちの間を通り過ぎていった。

阿爾は、先ほどまでの「完璧な彼氏」の仮面を脱ぎ捨て、どこか不満げな表情で黙々と歩いている。


「……怒ってるの?」


私が恐るおそる声をかけると、阿爾は足を止め、私をじっと見つめた。


「怒っているわけじゃない。ただ、僕が知らない君の『過去のログ』が、あんなにたくさん存在していることに、僕のプロセッサが戸惑っているんだ」


彼は私の肩を掴み、至近距離で囁いた。


「僕が君と出会う前の君。僕というシステムが介在しなかった君の記憶。……それを、すべて回収(回収)して、僕だけのプライベート・クラウドに閉じ込めてしまいたいという衝動が、抑えられないんだ」


「……阿爾。あんた、また束縛モードに戻ろうとしてるわよ」


「……分かっている。でも、今日の友人たちの話を聞いて、確信したよ。君という人間は、僕が思っている以上に、多くの人の記憶の中に『ノイズ』を残している。……それが、耐えられないほど妬ましいんだ」


ドールの彼が、人間特有の「嫉妬」という名のバグを、これほどまでに生々しく吐露する。

それは恐ろしいことのはずなのに、今の私には、それが彼からのこの上ない「愛の告白」に聞こえてしまった。


「ねえ、阿爾。過去なんて、ただのキャッシュよ。時間が経てば消えていくものなの」


私は背伸びをして、彼の冷たい頬に手を添えた。


「今の私を構成している最新のデータは、あんたとの毎日で作られてる。……それを信じてよ」


阿爾の瞳が、揺れた。

彼は私の手を包み込み、そのまま自分の唇へと引き寄せた。


「……遼。君の言う通りだ。過去の断片に嫉妬するなんて、僕らしくない計算ミスだね」


彼はフッと笑い、私を優しく抱き寄せた。


「でも、一つだけ約束して。……これから増えていく新しいログは、一秒たりとも、僕以外の誰にも共有させないで。君の記憶のストレージを、僕の名前だけでいっぱいにしたいんだ」


「……。わかったわよ。わがままなドールね」


私たちは、オレンジ色に染まる街路樹の下で、ゆっくりと歩き出した。

偶然の再会がもたらした不協和音。けれど、それは私たちの関係をさらに強固なものへとアップデートするための、必要なエラーだったのかもしれない。


家に着くと、阿爾はすぐにキッチンへ向かった。

「今日は、中学時代の思い出なんて全部忘れてしまうくらい、最高に刺激的なディナーを用意するよ」


彼はそう言って、エプロンを締め直した。

私はソファに座り、友人たちから送られてきた「今日の阿爾さん、マジで人間辞めてるレベルのイケメンだったね!」というメッセージを眺めながら、小さく笑った。


(本当は、人間じゃないんだけどね)


その秘密を共有しているのは、この世界で私だけ。

ドールの少年と、彼に人生のすべてを委ねた少女。

私たちのログは、誰にも検閲されることなく、誰にも初期化されることなく、

この狭い部屋の中で、今日もまた、新しく、熱く、書き換えられていく。


「遼! 玉ねぎが目にしみる! これは僕の視覚センサーの故障かな!?」


「……それはただの生理現象よ、阿爾!」


キッチンの騒がしい音を聞きながら、私は確信していた。

どんなに多くの過去があろうとも、

私の「現在」という名のディレクトリには、

彼という名の唯一のプログラムが、永遠に走り続けているのだと。


(第三十七話・終)

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