真夜中の「バグ報告」と、二人の非同期睡眠
阿爾が「人間らしい生活」にこだわり始めてから、我が家には奇妙な習慣が一つ増えた。それは、深夜二時に行われる「夜食のデバッグ」だ。
ドールである彼は本来、夜間はスリープモードで充電していればいい。しかし、彼は「遼と同じ夢を見られないのなら、せめて君が寝ている間の『静寂』を共有したい」と言い出し、私が課題で夜更かしをするたびに、妙なテンションで付き合ってくるようになった。
「遼、脳の糖分が不足しているようだね。僕の計算によると、今の君には『背徳感』という名のスパイスが必要だ」
そう言って阿爾がキッチンから持ってきたのは、山盛りのポテトチップスに、バニラアイスとハチミツをかけた謎の物体だった。
「……阿爾、これ、体に悪そうなんだけど」
「それがいいんだよ。人間は、体に悪いものを摂取する時に最も『生』を実感する……と、ネットの掲示板に書いてあった。さあ、僕と一緒にこの『バグの味』を堪能しよう」
阿爾は自分では食べないくせに(味覚センサーが壊れると言って)、私がそれを口に運ぶのを、まるで世紀の実験を見守る科学者のような目で見つめている。
「……美味しい。悔しいけど、最高に美味しいわ」
「そうだろう? 君の瞳孔が3ミリ開いた。満足度は88%だね」
彼は嬉しそうに、私のノートの端に「ポテトチップス・パッチ成功」とメモを書き込んだ。
深夜の静寂の中、私たちはリビングの床に直接座り、窓の外の街灯を眺めていた。
「ねえ、遼。人間は寝ている間に『夢』を見るけれど、僕にはそれがない。代わりに、僕は夜の間、君の過去の写真をスライドショーにして脳内で再生しているんだ」
「……それ、ちょっと怖いわよ」
「でも、さっき不思議なことが起きたんだ。君が赤ちゃんの頃に泣いている写真を見ていたら、僕の冷却システムが誤作動して、目から透明な液(洗浄液)が溢れてきた。……これは、僕のハードウェアが君の記憶に『共鳴』したっていうことかな?」
阿爾は、自分の翡翠色の瞳を指でなぞった。
それは単なる液体の漏出かもしれない。けれど、彼にとってはそれが「初めての涙」に近い体験だったのだ。
「それはバグじゃなくて、あんたが私の過去を、自分のことみたいに大切に思ってくれたからよ」
私がそう言うと、阿爾は少しだけ顔を赤らめて視線を逸らした。
結局、課題が終わる前に私は猛烈な眠気に襲われ、ソファで力尽きてしまった。
意識が遠のく中、誰かが優しく毛布をかけてくれるのを感じた。
そして、耳元で微かに聞こえる、電子機器特有の「キーン」という高い、けれど心地よい稼働音。
阿爾は、私が眠っている間、ずっと私の手を握っていた。
彼の指先から、微弱な電流が流れているような感覚。
「……遼、おやすみ。君が夢の中で迷子にならないように、僕の信号をずっと出しておくからね」
ドールの彼は眠らない。
私が意識を手放している間、彼は暗闇の中で私の寝顔を「監視」するのではなく、「見守る」という新しいタスクを実行し続けている。
翌朝、目が覚めると、テーブルの上には「昨夜の遼の寝言:ハンバーグ、もう一個……」という、最高に恥ずかしいバグ報告書が残されていた。
普通じゃない。
けれど、この少しだけズレた日常が、私にとってはどんな完璧なシステムよりも愛おしかった。
「……阿爾、今夜はあんたの洗浄液が出ないような、楽しい話をしてあげるわよ」
私はキッチンで朝食の準備を始めた彼の背中に、そっと声をかけた。




