五月病のノイズと、甘すぎる特効薬
ゴールデンウィークという長い夢が覚め、日常という名の現実が戻ってきた。
大学のキャンパスは、連休明け特有の気だるい空気に包まれている。いわゆる「五月病」というやつだ。
「はぁ……」
講義中、私は何度目かも分からない溜息をついた。
ノートの余白には、気づけば阿爾の横顔に似た輪郭をペンでなぞっている自分がいる。
彼と離れているわずかな時間。以前なら「解放感」だったはずのこの空白が、今はどうしようもなく落ち着かない。
スマホを取り出す。
ペアリングを解除したから、彼が今どこで何をしているかは分からない。
メッセージを送ればいいのだけれど、自分から連絡するのは「負け」のような気がして、画面を見つめたまま指が止まる。
『今日のボランティア、順調?』
そんな短い一文を打っては消し、打っては消し……。
ふと画面に自分の顔が映り、そのあまりに情けない表情に私は愕然とした。
「私、重症じゃない……」
玄関越しのサプライズ
夕方、心身ともに疲れ果てて帰宅し、玄関の鍵を開ける。
いつもなら阿爾が「おかえり、遼」と出迎えてくれるはずなのに、家の中は妙に静かだった。
「……阿爾? 居ないの?」
少しだけ胸がざわつく。まさか、またシステムに不具合が? それとも、誰かに——。
焦ってリビングへ駆け込むと、そこにはキッチンで格闘している阿爾の背中があった。
「あ、遼! おかえりなさい。……ごめん、あともう少しで終わるから、そこから動かないで!」
彼はなぜか私の顔を見ようとせず、必死に何かを隠している。
漂ってくるのは、バターと砂糖が焦げる、たまらなく甘い匂い。
「……何してるのよ、こんな時間に」
「今日は連休明けで、遼が疲れているはずだって計算したんだ。だから、元気を出すための『物理的パッチ』を用意しようと思って……」
阿爾が差し出したお皿の上には、形が歪で、ところどころ真っ黒に焦げたクッキーが並んでいた。
「……あはは、やっぱり難しいね。温度管理は完璧だったはずなのに、僕の手が震えちゃって」
彼は恥ずかしそうに、粉まみれになった指先を隠した。
かつてデジタルで完璧に家事をこなしていた彼が、私のために「不器用」を選び、失敗した結果の産物。
私はその中の一枚、一番形の悪いやつを手に取って口に放り込んだ。
「……苦い」
「ご、ごめん! すぐに捨てて——」
「でも、すっごく甘いわ」
私は笑いながら、もう一枚を彼の口にも押し込んだ。
阿爾は驚いたように目を見開いた後、クッキーを噛み締め、ゆっくりと飲み込んだ。
「……本当だ。僕の味覚センサーが、これを『世界で一番幸せな味』として記録したよ」
五月の午後のアンサンブル
私たちは床に座り込み、焦げたクッキーを二人で分け合った。
外は少しずつ日が長くなり、オレンジ色の光が部屋を包んでいく。
「遼、五月病っていうのは、心が冬に戻りたがっている状態なんだってね」
阿爾は私の肩にそっと寄り添い、甘い匂いのする指先で私の髪を弄った。
「でも大丈夫。僕が毎日、新しい『春』を上書きしてあげるから」
「……大げさなドールね」
私はそう言いながらも、彼に寄り添う力を強めた。
大学での不安も、孤独感も、この甘くて苦いクッキーの味と一緒に溶けていく。
隠し通しているはずの私の想いは、もうすぐ、バックアップが取れないほど溢れ出しそうだった。




