最終話 三度目のエカテリナ
「ユロフスキー公爵令嬢エカテリナ! 王太子である私アレクセイは、君との婚約を破棄する!」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
私はもう一度目と二度目で死んでいます。
幽霊のつもりでゆらゆらと生活していたら、以前よりも早く婚約を破棄されました。
レーヴナスチナ様のお腹が大きくなっているからかもしれません。おめでたいことですね。
ですが……今度はお飾り妃になるつもりにはなれませんでした。
だって私は幽霊なのです。
王太子の婚約者として日々の教育はなんとかこなしていましたが、とても公務を果たす気力はありません。『やり直し』の発動で大切な護符の緑色の宝石が色を失ってしまったのですもの。残っているのは琥珀色の宝石だけです。
琥珀色の──
私はイヴのことを思い出しました。
一度目も二度目も私のことを思いやってくれた優しい幼なじみです。今回はなぜか前よりも早く在学中に隣国へ留学しています。彼に婚約者はいません。一度目も二度目も今回も。だからこそ婚約破棄された後の私に求婚してくれていたのです。
形だけでも婚約して欲しいとお願いするのは図々しいことでしょうが……
とりあえず手紙を書いてみました。
『やり直し』のことも一度目と二度目のことも書きました。
夢でも見たのかと笑われるかもしれません。ですが、あの日護符を見つめていた私に一番最初に気づいてくれたイヴならば、この不思議な話も信じてくれるような気がしたのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「良かったな、エカテリナ!」
「嬉しいわ、イヴ!……あ、駄目よ……」
戸惑いながらの拒絶は無視されて、留学から帰って来たイヴが私を抱き締めてキスをしました。そんなことまでする予定ではなかったのですが。
キス──殿方とする唇へのキスは、学園への入学前にアレクセイ王太子殿下と数回しただけです。軽く舌を伸ばされて、心臓の動悸が激しくなりました。
イヴのキスはそれとは違いました。薄い唇を押し付けてくるだけです。だけど私の体を抱く腕は強く熱く、幽霊だった私に命を注ぎ込んでくるようでした。
「イヴ……」
形だけの婚約を頼む図々しい手紙に、イヴはすぐ返事をくれました。
幼なじみとしての最低限の情はあるだろうからと、アレクセイ殿下の前で恋人の振りをしようと提案してくれたのは彼です。形だけの妃として選ばれないようにです。もちろん形だけの婚約にも了承してくれています。
唇を離してから言ったずっと想っていたという言葉は演技──のはずです。なのになぜか、心臓が飛び上がるのを感じました。
不機嫌そうな顔で祝福の言葉を残して、アレクセイ殿下が去っていきます。
ずっと心の中で不貞を働いていたと宣言したようなものだから、不快に思われるのは当然ですね。
殿下の背中を見送っていたら、不安げな顔でイヴが言いました。
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」
「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」
お飾りの妃など置かず、愛し合うおふたりが結ばれるのが一番ですもの。
恋人の振りを言い出してくれたのは彼ですが、お飾りの妃にならないことを望んだのは私です。今の私は……いいえ、以前の私も公務をこなせる気力はありませんでした。だから仕事の途中で亡くなるようなことになったのです。
レーヴナスチナ様はアレクセイ殿下の愛で支えられています。出産が終わって教育を受ければ、きっと立派な妃となられることでしょう。
私はふと、持ち歩いている護符を見つめました。
「どうしたんだい? ああ、本当にふたつの宝石が色を失っているね」
「ええ。すべて私の妄想だったのかもしれないけれど……あなたの瞳と同じ色の琥珀色の宝石が残っていて良かったわ」
「……」
「イヴ? どうしたの? なにか嬉しいことでもあった?」
同い年ですが、イヴは私よりも誕生日が遅いのです。
アリーナ姫殿下やフリストフォール様に妹分として可愛がられるのは嬉しかったのですけれど、私は自分も下の子を可愛がりたかったのです。ユロフスキー公爵家にいるのは兄だけで、弟妹はいません。親戚の中でも私が一番年下でした。
だからか、彼に対しては姉のように振る舞ってしまいます。
「うん、とても。……エカテリナ。俺は嘘なんかついてないんだ。君が好きだよ。ずっとずっと前から、君を愛してた。形だけの婚約でも構わないくらい、君が好きだ」
「私みたいな女のどこがいいの?」
「どこかな?」
「イヴ?」
「あはは、それは君にも秘密だよ。だれかを好きになるっていうのは、その人間だけの大切な気持ちなんだ。理屈じゃない。損得じゃない。だからアレクセイを愛する君を応援してた。……幽霊みたいな君を見ているのが辛くて逃げ出してしまった情けない俺だけど、これからは形だけの婚約者として君を守るよ」
砂糖がけの木の実の味が口の中に蘇ります。私の命をつないでくれた、イヴからの思いやり。
あの甘い甘いお菓子よりも、今重ねた偽りのキスのほうが甘い気がしました。
私はもう幽霊ではないのかもしれません。
「……ずっと形だけなの?」
「エカテリナ?」
「いいえ、なんでもないわ」
──お飾りの妃にならないための嘘は、いつしか真実になりました。
一週間後の卒業パーティのときには、私はすっかりイヴを愛していたのです。
気がつくといつも琥珀色のものを探しています。大好きな優しい男性の瞳の色を。
たぶんもう『やり直し』はしません。
最後に残った宝石を使うのは私ではなく、私の血を引くだれかでしょう。
もしかしたらイヴと同じ、宝石と同じ琥珀色の瞳を持っているだれかかもしれません。