第二十六話 夫婦の説得
神取の指示により隼人らの顔写真を載せたポスターは、夜を徹して全国に貼り出された。有名大学を卒業したエリートから、田舎の交番勤務の警察官までの総動員である。夜が明けた頃には首都圏・甲信地方では街のいたるところにポスターが貼られていた。各テレビ局は朝のニュースで隼人らを「行方不明者」として公表し、視聴者に捜索の協力を呼びかけた。
その効果は神取の予想以上に早く現れた。
午前十時、岡部夫婦は隼人を連れて山荘から一時間以上車で走り一番近いスーパーに着いた。昨夜の雪がまだ駐車場のフェンスに残っている。隼人はふと、その向こう側の湖を見た。風が無く波一つ立てないその水に隼人は重苦しさを感じた。その青の中に白い物体が一点、白鳥が自らの力でその水を動かそうと隼人の視界を横切っている。
「隼人さん、風邪をひきますよ」
政子の声に促されて隼人は店へと入った。
店員と客が次々に彼と夫婦を見る。その瞬間、彼の脳を薄氷にひびが入ったような音が突き抜け、両肩の筋肉が何者かに捕まれたかのように自由が利かなくなった。周りが自分を受け入れていないという予感を彼はいつもこのように感じる。
(こいつら……)
隼人は周囲の人々を見回した。みんな目線をそらす。岡部夫婦は隼人や周りの異変に気づくことなく食材を選んでいる。事件発生から九日、その準備期間も含め食材の買出しは全てここで行っていたために、店員の中に夫婦のおなじみの人ができていたようだ。
夫婦と店員とのいつもどおりのやり取りの中で、隼人は店員に対する違和感を冷静に見つめていた。
そんな隼人の耳に主婦たちの会話が入る。
「あら、奥さん、あの青年じゃありませんの」
「まあ、写真で見るより人相が悪いみたいですね」
「あそこにいる夫婦もあの写真の……?」
隼人はその会話を無視して岡部夫婦にすぐに店を出るようにと伝えようとした。
一歩踏み出したとき、視界の片隅に自分の顔が入った。正面からそれを捉える。
『この人たちを探しています。彼らはインターネットで知り合った自殺志願者たちです。数日前から音信不通となっています。どうか皆様の暖かい力で、彼らの命を助けて下さい』
そう書かれた見出しの下に隼人、里美、岡部一家、隆の六人の顔写真が載っていた。
「親父さん、おかみさん、早く」
隼人は二人の腕をつかむと、先ほどの主婦たちを押しのけ店外へと出た。三人の乗った車が駐車場を飛び出した頃、スーパーの店長は警察へと電話をかけた。「失踪者を発見しました」と、あくまでも彼らを行方不明者だと思っている店長は、その後の警察の取調べの激しさに舌を巻いた事であろう。
「隼人さん……、降ろしてくれないか……」
商店街を抜け人通りが無い寺の裏の路地でやっと事情を知った政也が隼人にこう訴えた。
「親父さん……」
「警察はもう、私たちのことを知っているのですよ。ほら、あの電柱。こんなところまで私たちのポスターがある。今日の買い物で村中の人々が私たちのことに気づいていると思います。私たちが警察に出頭して時間を稼ぐから、その間に山荘に戻って彼女たちの解放を考えて下さい」
隼人はハンドルを激しく叩き叫んだ。
「いや……、絶対にそうはさせない。もうすぐなんだ! 少年法改正案は衆議院を通過した。参議院の通過もあっと言う間だ。俺たちの本当の願いが俺たちの手でもうすぐ実現する。改正のための捨て石と自らを決め付けていた俺たちだが、もうすぐ俺たちの手で改正が実現されるんだ!」
ハンドルを手に握ったまま、隼人は後ろを振り向き口元を震わせながら夫婦の顔を見つめた。
「だから俺たちは捕まるわけにはいかないんだよ……」
政也は力強く、隼人の右拳を叩き、そしてそっと包んだ。
「いえ、隼人さん。だからこそ私たちは捕まらなければなりません」
目を大きく見開き何かを言おうとする隼人を政也は手で制した。
「確かに私たちが逃げ切ればもうすぐ少年法が改正されるでしょう。しかし犯罪者に脅されてできた法律など誰が信じようとするでしょうか。必ず少年法は元に戻されます。そして二度と改正されることは無い。国民は私たちの犯罪に恐怖を覚え、面子をつぶされた国会議員は深い屈辱を覚える。そんな人たちがとても私たちの要求する改正案を自ら作ろうとは思えない」
太陽の光に溶かされた林の雪が木の下へと落ちる。その水滴の鮮やかな音は車内にもかすかに入り込む。
「だから、今捕まるべきなんです。昨日通った改正案は廃案となるでしょうが……。今ならまだ私たちの訴えに耳を傾けてくれる人たちがいる。少年法について真剣に考えてくれる人たちがいる。時間が経てば経つほど人々の心の中には私たちの訴えは消え、私たちへの恐怖と恨みしか残らなくなる……。だから、今捕まるのです」
「隼人さん、これはあなたが最初に私たち家族に言った事ですよ」
頭をうなだれた隼人が自分の右手を包む政也の手をもう一つの手で激しく叩いた。
「しかし……、俺はもう終わりたくないんだ。捕まるなんて、捨て石なんかで一生を終わりたくない。幸せになるんだ。取り戻した希望を大切にしたいんだ。そのために自らの願いをこの手で実現するんだ」
政也がさらにがっちりと隼人の手を抑える。
「たとえ今捨て石になっても、将来、少年法が改正されれば、それは自ら願いを実現した事になりませんか? あなたが私たちに最初に提案した事こそ隼人さんの将来の人々に対しての希望と信頼に満ちたものだと思っています」
隼人の手の力が抜けた。先ほどから続く雪の滴の音は、力なく、しかし確実に彼らの車の中へ、そして彼らの耳に入っていく。
「好きにしてくれ……」
隼人はそう言うと車のロックを解除した。
「隼人さん……、必ず彼女たちを解放するんですよ」
力強く声をかける政也に隼人は首を横に振った。
「それとこれとは話が別だ」
「隼人さん!」
滴の音が遠くのサイレンの音に掻き消されていく。
「あなた、早く行かないと。隼人さんまで巻き込まれてしまいますよ」
政子が政也の肩を力強く動かす。
「ねぇ、隼人さん。あの子たちは確かに政治家さんの家族だけど、あの子自体は何も悪い事はしていないのよ。その子たちの命を奪うなんて……、何も悪い事をしてないのに命を奪われるなんて……、私の息子や彩子さんと同じじゃない。そんな人たちを少しでも減らそうと少年法を改正させるのでしょう? そんな私たちが自らそういう人たちを増やしてはいけないでしょう」
サイレンの音が近づいていく。政子は今まで隼人に見せたことの無い力で政也を車外へと引っ張り出し、ドアを閉めた。
「隼人さん! 必ず彼女たちを帰すんだ。それこそがあなたや私たちが望む少年法改正の一番の近道になるんだ!」
その言葉は必死でアクセルを踏む隼人にとってはすでに遠いものとなっていた。
(俺は幸せになりたいんだ……。その願いがかなわないのなら……。また希望が奪われるのなら……)
サイレン音を逃れながら隼人が山荘に戻ったのは昼の三時を過ぎた頃だった。隼人が車を降りたその時、その音を聞いたのか里美が飛び出してきた。
「……、一体どうしたというのよ。まだ食材は一日分残っていたからいいけど……。あなたのお昼ごはんはもう無いからね。あっ、でもおじさんとおばさんの分は……?」
昨日のこともあってかいつもより機嫌が悪そうに毒づく里美だったが、車から降りてきたのは隼人一人だと言う事に気づいた。
「あれ、おじさんやおばさんはどうしたの」
隼人は無言でその場に立ったままだ。しばらくたって何かを言おうとしたが、すぐに言葉を引っ込める。それを数回繰り返した。最初はイライラしていた里美だが、だんだんその意味するところが分かってきたのか、表情が暗いものとなっていた。
近くの木が雪の重みに耐え切れず、持っているものを全て落とした。その音をきっかけに隼人が
「里美……」
やっと言葉を発した。
「終わりにするぞ」




