第二十四話 採決
開会の時刻が迫る。議場へ向かう議員たち。それを追う報道陣、彼らを制止する警備員と議事堂の入り口は息もつけぬほどの混雑ぶりだった。その人の固まりからやっとのことで抜け出した陽子は、一人の男に呼び止められた。
「これは……、熊沢委員長」
日本共民党委員長、熊沢健であった。彼もあの入り口から入ってきたのであろうが、いつものことながらスーツ、ネクタイ、髪型と乱れが少しも無い。自身の髪の乱れに気づいた陽子は、思わず片手で頭を押さえた。
「このたびの永井幹事長の決断、大変な事でしたな」
「はい……、でもおかげで娘に危害が加わる事はありません」
「そうですか……、私の党も大変でした」
歩きながら、と健はこれまでの党の情勢を話し出した。各議員から彼に対する非難が噴出し、一時は議員全員が反対票を投じることに決定したという。しかし一昨日の事件以降、反対の声は収まったものの、話題は熊沢委員長の更迭論へと変わった。
「法案賛成の条件として、私は委員長更迭、次期の選挙の不出馬が決まりました」
さらりと自身に降りかかった災難を語った。
「仕方がないです、兄の頼みですから。兄は……私の学生運動の大先輩ですから」
議場への入り口を通過して、そのまま二人は休憩室へと向かう。
「七十年代の安保闘争のとき、兄は私にとって憧れの存在でした。大学の卒業証書なんていらぬ、と退学覚悟で警察と戦っていました。履歴書の内容だけを気にしていた私はその言動に惹かれ、やがて兄と同じように学生運動に走りました」
「お兄さんは……、その後どうさなされたのですか?」
あれほど学生運動で活躍した健の兄だが、陽子はその兄に会った事は無い、議員をしているとの話も聞いた事は無い。
「今は運動から離れて焼鳥屋をやっております。父が倒れたもので、家業を継いだのです。だから運動は私が引き継ぐ事になりました」
「そうだったのですか……」
その時、健の様子になんらかの乱れが生じたのを陽子は気づいた。
「その兄が……、私に泣きながら頼んだのですよ。どうか俺の息子を助けてくれと。お前にとって法案賛成とは死んでも言えぬことだろう。俺もお前と一緒に闘っていたからお前の気持ちが痛いほど分かる。しかし頼む、と」
皺の無いスーツから取り出した白いハンカチが、健の顔を拭くごとに皺になり、涙のしみがつく。
「熊沢委員長、開会まであと五分ですよ」
遠くのほうで声が聞こえると、すぐにハンカチをしまった。陽子に顔を向けたときにはいつもの健に戻っていた。
「さあ、行きましょう」
健の変化に対応しきれず、彼への慰めの言葉を考えていた陽子は、彼に促されるままに議場へと向かった。
入院中の景正を除く四百七十九名の衆議院議員全員がそれぞれ着席した。
総理大臣席に座るのは、景正の指名を受けた直江信太郎総理代行である。
彼の頭にはその時の景正の悲痛な叫びがまだ残っていた。
「直江……、私は総理だが一人の人間なのだよ」
直江に今後の対応を頼んだ後、不意に景正がかすれた声で呟いた。
「私は一国の総理大臣だ。しかし愛する家族がいる。趣味もある、好きな食べ物も嫌いな食べ物もある。よく見るテレビ番組をある。当たり前だろ?」
「……」
「それを守ろうとしてどこがいけないのかね。私は国民全体のことしか守れないのかね。人間である上杉景正としての大切なものは守れないのかね」
「しかし、総理大臣は公人で……」
「そんな事は分かっている!!」
景正の声が荒いものとなった。
「しかし浩子は公人ではないぞ、普通の女子高生だ。その浩子が危険な目に遭っているのを黙って見ていろと? 浩子は公人ではない、私は公人だが、浩子の祖父である。浩子を守る義務があるのではないか? 総理大臣になる事は浩子の祖父である事を放棄する事か!?」
叫びすぎて疲れたのだろう、大きく何度も息をつくと景正は窓の外に目をやった。
「あいつらに聞かせてやりたいわ」
外は彼の辞任を要求するプラカードと彼を罵るデモ隊で埋め尽くされていた。
議事開始のベルが鳴った。直江ははっと我に返り襟を正した。
午後三時二十分、少年法改正法案の賛否を決める衆議院本会議の開会である。
それから三時間、法案に対する答弁が続いたが、犯人の目を恐れ、また「どうせ通過するのだ」、との考えがあってか真剣な議論にはならず、さほど問題にならないささいな部分に集中した。八百長と評されても文句の言えないものだった。
答弁が終わった後はいよいよ採決である。採決は記名投票で行われる。民自党の議員が呼ばれ、議長席の下の投票箱へ順番に向かう。
予定通り、出席した全民自党議員二百九名が賛成の白札を投じた。安田ら「維新会」の面々は、自らの戦略の布石と言うこともあり、犯人に屈したと言う気負いを見せず、堂々と白札を投じた。
公民党・民進党・社労党・共民党と五政党の議員全てが白札を投じ、無所属議員の出番となった。
数時間前民自党を離党したばかりの議員が、緊張する右手を震わせながら反対の青札を投じる、四百二十九人目にして始めての青札に場内はどよめきとこもった拍手が鳴り響いた。
犯人たちに対するせめてもの抵抗と言うべきか、賛成議員たちは皆机に手を隠して叩いた。中には隠しているつもりでもカメラにしっかりとおさめられている者もいた。
(これでこの国の政治にまだ希望が持てる)
畠山は手を叩きながら反対を投じた彼らを羨ましく思えた。同じような思いを持っている議員は決して少なくない。
続いて真柄に率いられた旧公民党議員がはっきりとした足取りで青札を投じる。旧民進党議員も迷わずに投票箱を通過した。
しかし、永井ら旧社労党になって投票が止まってしまう。最初の永井ははっきりとした意思を持って反対を投じたものの、ほとんどの議員は永井に騙されたかっこう(本人たちから見れば)でこのような事態になってしまったため、青札を投じようにも覚悟が出来ないのだ。
離党後に自らの覚悟を決め、投票したのは半数で、残りは投票箱の前でおろおろしたり、そこへ向かうまでの階段で立ち止まって動かなくなったりと、情けない姿をさらした。
「なんだ、牛歩か? 一体いつの時代の人間だ」
どこからかそう野次が飛び、会場はどっと笑いに包まれた。
圧巻なのは離党しながらも賛成の白札を投じてしまった議員がいたことである。
「お前は一体何のために離党したんだ!?」
野次や罵声や笑いから逃げるようにしてその議員は自分の席へと戻った。
午後八時五分、全ての議員の投票が終了した。
「賛成四百三十五、反対四十四。よって賛成多数により、少年法改正法案は可決されました」
「うおおおおおおーっ!!」
会場に議員たちの拍手と歓声がこだまする。中には万歳をする者も、その歓声の中、直江総理代行は苦悩の表情で各党の議席の方向にそれぞれ一回ずつ頭を下げて退室した。反対を票じた議員は沸き立つ議員を押しのけ、無言で去る者、「我々は負けん」と叫ぶ者さまざまであった。
その様子はテレビを通じて病室の景正の目にも入った。彼は直江に対して何度も手を合わせて頭を下げた。
そんな彼の目に大げさに万歳をする野上の姿が入った。勢い余って今にも後ろに倒れようとする野上、その姿は隣に無言で座っている畠山と比べて滑稽なものに映った。
議員たちの歓声は議事堂へと向かう神取の耳にも入った。彼はその歓声の意味する所を知って呆然としたが、
「まだ参議院がある」
と、人だかりを押しのけて直江の姿を探した。彼の右手には一枚のポスターが握られていた。




