第二十話 日記
三時間後――。景正は同じ廊下を歩いていた。どこともなく中空を見つめ、上からひもで吊るされているかのようにふわりふわりと、横から何かの力を加えれば、あっさりと倒れてしまうだろう。
「『私は最低の総理』か……」
自分を笑えば少しは楽になれるのかもしれない。彼は心の中でとことん自分を笑い飛ばすことにした。
(皆は私のことを無能者とか臆病者よ、と非難するだろう。ああ、そうさ私は臆病者さ。私はこういう人間だったのさ。この私が総理になった事を不運に思うがいい)
しかし、その結果から得たものは空しさだけであった。景正の体がさらに軽くなり、やがてその姿は執務室へと消えた。
この直後、官邸では各党の幹部や法律の専門家が集まり、直江信太郎を主導として、少年法改正案の作成が夜を通して行われた。政府は犯人の要求を全面的に受け入れる事にしたのだ。
「みなさん、どうもお疲れ様です。この法案は夕方の法務委員会に提出します。各党で法案の内容の是非をよく検討してください」
午前六時、直江の言葉と共に一同は散会した。少年法改正案の完成−。直江はその足で会見場に向かった。朝のニュースはこの出来事にほとんど費やされる事になる。
一方、警視庁捜査一課では神取が頭を抱えていた。事件発生以来一度も家には帰っておらず疲労もピークに達している。
「岡部さん……」
一昨日の岡部邸での出来事で、一家の事件への関与を確信していたはずの彼は、それに疑念を持ち始めていた。あの一家が昨日の事件を本当に起こすのだろうか? そんな彼の頭に新しい予感が浮かぶ。
(彼らは何らかの形で犯人に利用されているのでは?)
そう思うと彼はますます頭を抱えてしまう。そんなとき、杉並署から一人の刑事が訪れた。
「どうも突然、すいません」
久保田という刑事は、大変恐縮そうにペコペコと頭を下げた。そしてソファに腰掛け、お茶を一気に飲み干すと、今朝起きた出来事について語り始めた。
午前六時三十分、杉並署にあるアパートの大家から電話が入った。
「二〇六号室の男性が家賃を滞納している。何度も連絡を取ろうとしたが取れない。夜逃げかもしれないので部屋を捜索してほしい」
普通なら刑事がわざわざ出向くことではないのだが、今回の誘拐事件に関連して失踪者が出ている(隼人や岡部一家のことである)ことから、何か関連があるのでは、と久保田刑事が駆けつけ中へと入った。
部屋の主の名は「高杉一郎」という。
「男は中にはいませんでした」
久保田刑事はそこまで言うと、またお茶を一気に飲み干した。よほどお茶が好きなのだろう。聞き役の神取は彼の動きにあわせて顔を動かした。再び彼は語り始めた。
最初は夜逃げかと思った久保田刑事であったが、衣服や荷物を持ち出した形跡が無かった。彼の実家の電話番号を調べてかけてみても彼は不在であった。それどころか今年に入ってから連絡すらないという。
大家に聞いたところ彼はあまり人と接する事はなく、訪れる人もいない。友人と旅行という可能性も無い。もっとも友人がいるならば十日もしないで捜索の電話がありそうなものだ。
「その男の部屋にはこれが……」
久保田刑事がカバンから出したものに一課は騒然とした。里美の写真を集めたアルバムだった。本人に気づかれないように隠し撮りされたものだろう。里美以外の人物も写っている写真もあるが、他人は全て、黒マジックで塗りつぶされていた。
さらにもう一つ、彼の日記帳。里美に対する愛情と憎悪の念が狂気と共に入り混じっており、それが毎日このノートにぶつけられていた。
日記の最後の日はこう書かれている。
一月二十六日
今日はなぜだろう。あの人に会えなかった。
いつも彼女がいるところを探し続けたというのに。このところ彼女が一人でいるときが少ない。男がいつも側にいる。いつものあの男だ。
あの男は彼女の笑顔をいつでも見られるのだろう。僕はこんなに苦労しているというのに。いつか彼女はあの男のせいで僕の事などを忘れてしまうのだろうか。寂しいよぉ…。
こんなに愛しているのにどうしてあの男と一緒なのだろうか。
こんなに愛しているのにどうして僕とお話してくれないのだろうか。
そうだ、迎えに行こう。あの人を。僕たちだけの世界へ。あの人の顔は恐怖と血で汚れるだろう。しかしそれは一瞬の事だ。あの人とお話したという記憶は永遠に残る。そこに彼女の髪の毛一本さえあれば、僕は永遠に行き続けられる。そうだ、きっとそうだ。
では行ってきます。
「完全に頭がおかしいですね」
横で見ていた角田刑事は半ば呆れ顔で他の日のページをぺらぺらとめくる。
「目黒署の高橋刑事に連絡してここに来たわけですが……。その男の血液型とここに書かれている里美さんの血液型とは同じようですな」
神取の目が鋭く光り、角田の手が止まった。あの家の血痕が高杉のものだとしたら里美は――。
久保田刑事は二人に構わずお茶を飲むと
「すでにDNA検査は始まっているようです」
二人はその言葉を最後まで聞かずに部屋を飛び出した。




