第十五話 ガラス戸の向こう側
とある住宅の前に神取と角田は立っていた。田原弁護士が今まで関した少年事件の被害者の調査は確実に進んでいた。今まで調査した中で隼人と里美を除くほとんどの被害者とはその日のうちに会え、話は聞けたものの、今回の誘拐事件に関する情報は何も得られなかった。全員の事件当日のアリバイも成立していた。
一課の課長である神取が、こうして現場に立っているのは事件が進展しないことへのあせりからではない、この日とこの家の住人に特別な思い入れがあるからである。
住人の名は岡部幸成という。そして今日二月三日は彼の息子夫婦の命日。
彼の息子は三年前三茶デパートで少年に刺され、その生涯を閉じた。妻は同じ日、車にはねられ即死した。
三年前、通夜の席で彼が見た岡部夫婦と孫の政也は無念の表情と涙を押し殺し、毅然と弔問客の応対にあたっていた。
「このたびは……」
と挨拶する神取に対し、
「これは刑事さん、捜査の最中にこのようなところまで来ていただくとは……。息子夫婦も喜んでいると思います」
と丁重に頭を下げた。
神取としては捜査の一環として通夜に出席しただけに、この対応には少し戸惑った。
「さんざん苦労させられましたが、いい息子と娘でした」
そう言う幸成の目じりにうっすらと光るものがあった。それは彼が唯一見せた涙であった。
この事件の捜査にこの夫婦の悲劇が上がって以来、彼は妙な胸騒ぎがしていた。「岡部夫婦がこの事件に関与しているのではないか?」自分の感を信じる彼としては思いたくも無かったであろう。
しかし思った以上は自分の目でそれを確かめたい、その思いが彼をここまで運ばせたのである。
(もし、感が外れていたら線香を二本上げさせてもらおう)
祈りつつインターホンを押す神取。応答は無い。
「岡部さーん」
続けてインターホンを押す。そして叫ぶ。
「岡部さーん、いませんかー」
「課長!」
角田が止めに入った。
「どうしたのですか、課長? たまたま全員が外出しているなんてよくあることではありませんか」
「そうだったな……」
我ながら刑事らしくないことをした。と神取は反省した。
「寝ているのかもしれん、庭に廻ってみる」
池の鯉が元気に泳いでいる。庭にはほこり一つなく、毎日手入れがされているようであった。
やはりたまたま出かけているだけなのだ、と安堵した神取だったが……。
「岡部さん……」
庭に面した廊下に、息子夫婦の遺影と、家族がまだ幸せだった頃の旅行写真が、飾られていたのである。写真の前には線香と花束。明らかにここに来る人に見てもらう事を意識している。
「課長、この家の留守をまかされたというお隣の奥さんです……?」
神取を呼んだ角田も、この異様な光景に驚いたようだ。
その婦人の話によると、岡部一家が家を出たのは一月二十三日の明け方だった。
「ここ二ヶ月海外へ旅行する事になったので鯉や庭の手入れをお願いします、とおっしゃったのです。岡部さんとは長いお付き合いで私もいろいろお世話になっていましたから喜んでお引き受けさせていただきました」
彼女の岡部一家への好意は本物のようだ。彼女の表情や話すしぐさから、家族へのそれがにじみ出ている。おそらく彼女も近所の人から好かれているのだろう。角田は頭の片隅でそう思った。
別の片隅に一つの疑問が浮かんだ。
「しかし、今日は息子夫婦の命日ですね。その日に家を開けるのはともかく海外へ行くのでしょうか」
「息子さんはアメリカにたくさんお友達がいました。その人たちと一緒に過ごすのだ、と……」
とその婦人は遺影を見つめ。
「日本では法事が出来ない代わりに、毎日あの写真をあそこに飾って線香や花束も絶えず上げてくれっておっしゃっていました。その代金まで頂いたのですが、とんでもありません。後でお返ししようと思っています」
婦人はそう言うと、遺影のまえに立って、服の汚れもいとわず膝をつき、手を合わせた。
「本当に息子さん思いの方でしたよ。坊ちゃんも素直で……。幸せに暮らしていたのですよ、三年前までは……」
婦人の声が震える。
「事件があった後、近所の皆さんで、何かできる事は無いか、と聞いたのですが、かえって皆さんにご迷惑をかけました。と頭を下げて……。あの人が何も謝ることではないのに……」
泣き崩れる婦人を角田が支えた。よろよろ歩きながら婦人は角田と共に自宅へと戻った。
「岡部さん、やはりあなたは……」
言葉が続かない。神取は彼と写真を隔てるガラス戸に手を触れた。このガラスの向こうには写真だけではない何かがある。岡部一家の幸福・悲劇・無念、様々な思いが向こう側にあるだろう、彼はそれを感じたかった。
しかし捜査令状が無い神取はその向こう側へ行く事が出来ない、いやあっても行くべきではない、行っても彼らの思いは実感できないのだ。と彼は思った。
今はただこうするしかない、と彼は先ほどの夫人と同じく膝をつき、手を合わした。
感傷に浸っているのは僅かな時間だった。ふと視線を感じた神取は玄関へと目をやった。庭を覗き込もうとしている少年と目が合った。
「おい、何をしている」
婦人を送った角田が少年の後ろから声をかける。少年は彼を押しのけ走り出した。
「待て!!」
元サッカー部で関東地区大会でも上位だった角田のスピードにかなう者はいない、間もなく少年は神取の前に突き出された。
「なぜこの家を覗いていたんだ?そしてなぜ逃げた。」
「許してください、僕はただ……謝りたかっただけなんです。」
「誰に謝るというんだ」
角田が抑えている彼の右腕を締め上げる。
「痛いっ!岡部さんにですよ……」
「角田、彼を車に乗せろ。話がしたい」
「車に? 僕を警察に連れて行こうというのですか? 僕はもう悪い事をしてません!!本当です!僕を放して下さい。許してください!」
少年は心から神取に訴えた。その姿に彼のある予感が確信に変わった。
「安心してくれ、別に逮捕しようとかいうわけではない、ただ話が聞きたいだけだ」
車に乗せるのは彼に対する配慮であった。少年は神取を信じ車の後部座席に乗り込む。神取のみがそれに続き扉は閉まった。




