第十話 サイダー
事件は四日目の朝を迎えた。久々に降った雪が、山荘の周囲を白く覆っている。
いつものようにソファーにだらーっと横たわる里美の目が大きく見開き、素早く体を起こした。
「昨日の昼ごろ、東京都港区麻布で、『部屋の住人がいないようだ』との通報がありました」
「警察が部屋を捜索したところ、部屋には荒らされた跡と血痕が残されており、何者かが侵入した形跡があることから、この部屋の住人の女子大生、加藤里美さんが侵入した何者かにさらわれたものと見て、警察では今朝から公開捜査に踏み切り……」
これは隼人に知らせないと、とテレビを消して後ろを向くと、そこに浩子がいた。
「聞いていたの……」
里美の問いかけに浩子はこくん、と頷いた。
「そう……」
これは面倒なことになってしまった。と里美は思った。何日も山荘に立てこもっているので、いずれ捜索願は出されるものだと覚悟していたが、こうなるとは……。
「あなた、誰なの!?」
里美の表情を読んだらしい。その顔には恐怖と怒りと不安が入り混じっている。
「あの血痕は誰のものなの? 本物の里美さんの? それとも……」
「そ、それは……」
浩子は目の前の里美を偽者と思っているようだ。
「ねぇ、あなたは誰なの? あの血は誰のものなの?」
浩子は里美を激しく責めるが、決して近づこうとはしない。
「目の前にいるのは本物の里美だ」
二人は同時に声をするほうを振り向いた。ぶ厚いジャンバーを身につけ、シャベルを持った隼人がいた。
「どうやら警察が勘違いをしているみたいだな。まあ……このことはいずればれることだし、いつかは話そうと思っていたが」
「じゃあ部屋の血は誰の?」
「まあ待て、こっちもいきなりだからな、そうだな……明日には必ず話す。あの部屋の件も、俺たちがなぜこの行動を起こしたかも……」
そう言うと、隼人は外へと出て行き、ロビーには再び浩子と里見だけになった。
「そ、そういうわけなので……」
里美はあたふたと階段を上っていった。
残された浩子は一人ソファーに座り、テレビをつけた。前にも見た犯罪学者がいた。
「許せません! 若い女性を狙うなんて、卑劣な行為です!! 我々は断じてこの犯人の行動を許してはいけません!!!」
(雲って結構早く動くんだな)
と隼人は思った。最初はたわいも無い考えだった。新雪の上に足跡ではなく全身の跡をつけてやろうと思い、雪かきをすぐに中断して雪の上に仰向けに倒れこんだのだが、こうして雲を見ていると時間が経つのも気にならなくなる。
(そういえば前はよく仰向けに空を見ていたな)
大きな口を開けた雲を見ながら、隼人は昔の記憶を蘇らせていた。あれは今とは全く逆の、暑い夏だった。
「死んでいるの?」
「あほか、そんなわけがないだろ」
隼人がベンチから上体を起こすと、背中についた埃を払いながら声の主を見た。隼人の彼女である加藤彩子である。妹の里美より背が高く、顔も体も大人っぽい。髪は里美より少し長めである。ちなみに朝は強い。
「いやー、あたしはてっきり隼人がこの暑さにやられたものだと思ってさ」
「そのわりには冷静であること」
「うっ……。まあそんなことは置いといて、そんな君にははい、サイダー。喉が渇いているでしょ。」
さすがに彼氏である隼人の大好物は心得ている。小学四年生の時からの付き合いといえばそれも当然か。
「どうも」
二人は遠くに見えるビル街を見ながらジュースを飲んだ。
「お金が無いときはこういうデートもいいものだねぇ」
「東京のど真ん中にこういうところがあるとは思ってなかったからな」
「日比谷公園かぁ……。公会堂の近くに行けばタダでコンサートも聴けるし、おいしい場所だねぇ」
二人とも昨年の春に大学進学のために故郷から上京し、共に一人暮らし。妹の里美もこの春二人と同じ大学に合格し、一人暮らしを始めている。
「ねぇ、隼人。この地図見て」
公園を出たところで、不意に彩子が叫んだ。
「国会議事堂がこんなに近くにあるよ」
確かにこの公園の周辺には、警視庁や国会議事堂、首相官邸などこの国の中心にあるべき建物が揃っている。
「ああ、そうだな」
「地図を見る限りでは歩けない距離ではない。あの方向ね、よし行こう」
空き缶をゴミ箱に勢いよく捨てると、彩子は走り出した。
「行ってどうするんだよ!」
「政治家さんたちや総理大臣がいるかもしれないじゃん、手を振ったら応えてくれるかも」
まるで芸能人を見に行くみたいだな、と隼人は彩子の後を追った。八月の暑い日の話である。
ドサリ
顔に何かがかかり、隼人は現在へと引き戻された。
「冷てぇっ」
顔の雪を払い、上体を起こすとシャベルを持った里美が申し訳なさそうに立っていた。
「…何やってるんだ」
「凍死したのかと思って……。あ、でも本当は足にかけようとしたんだよ」
やっぱり姉妹だなと思いつつ、隼人は再び仰向けに寝た。
「隼人こそそこで何やってるのよ。雪かきをしてるんじゃなかったの?」
そうだった、と隼人は飛び上がった。後ろを向くと、あまり綺麗ではない人型が雪の上に残されていた。
「人が寝たらどんな跡が出来るのかと思ってな」
「そんなことをしたら風邪をひくでしょ」
と言ったそばから里美はごろん、と雪の上に仰向けになった。
「……おい」
「あたしは今来たばかりだから」
隼人は里美のそばに腰を下ろした。風邪の音も雑音も、雪がかき消してくれる。雪の上に寝ると、それが一層感じられる。
「今年ももう二月か……」
「ああ」
「もうすぐ二年になるね」
「……」
二人をしばらく暗い沈黙が支配した。
「ねぇ……。あの子に全部話すの?」
里美がその沈黙を破った。
「それは分からない……。ただ、彼女は俺たちの話を理解してくれると思う。それに……」
「それに?」
「もう一人話す人間がいる。話すなら二人同時に」
「明美ちゃんね」
里美が即答すると隼人は頷き、
「そうでなきゃ彼女をさらった意味が無い」
山荘のほうから二人を呼ぶ声がした。声のほうを向くと、岡部夫婦が困った顔をしている。
「雪をどかしてくれるんじゃなかったのか」
「あっ……」
二人はやっと自分たちの仕事を思い出した。町まで車で食料を買出しに行く夫婦のために、庭から近くの林道までの雪をどかさなければいけなかったのだ。
その後、二人が大急ぎで作業を始めたのは言うまでもない。岡部夫婦も手伝い、車が山荘を出発したのはそれから四十分後であった。
車が林道へ出たのを見ると、二人は雪の上に倒れこんだ。
「これ、明日に響くかな……」
そう言ったのは、里美である。
「まだそんな年じゃないだろう」
明日に響いてたまるか、と隼人はすぐに立って、山荘へと歩き出した。
「だってあたし、二十歳だよ」
里美はしばらく雪の上に寝ているようだ。
「はいはい」
適当にあしらって中へ入ろうとした隼人だったが、不意に森の奥の一点を見つめてつぶやいた。
「確か……、あの辺りだったよな」




