番外編①『タダと焼き鮭』
番外編①『タダと焼き鮭』
――これは、シンが最初の時代から消えた後。
タダたちが南から少し押され、北へ移り住んだ頃の話である。
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北へ来てから、魚は増えた。
南に居た頃より、川が太い。水も冷たい。そのせいか、秋になると鮭が大量に戻って来る。
最初に見た時、タダは少し笑った。
「多すぎだろ……」
本当に、川が魚で埋まっているみたいだった。
槍を突けば当たる。浅瀬へ追い込めば暴れる。下手すると、蹴っても獲れる。
獲れすぎるくらい獲れる。
だから皆、最近はよく魚を食う。
鹿より多い日もある。
その代わり、寒かった。
北の風は強い。海から吹く風は湿っていて、夜になるると火の近くでも背中が冷える。
だが、まぁ。
食えるなら何とかなる。
タダはそういう風に生きていた。
南では最近、人が増えていた。
川へ行けば別の集団が居る。獲物を追えば先に火が見える。言葉の違う怒鳴り声が聞こえる。
大きな戦ではない。
だが面倒だ。
だから北へ来た。
その程度の話だった。
新しい集落は、昔誰かが住んでいた場所の近くに作った。
半分埋まった穴がある。
焼けた石がある。
黒い土がある。
崩れた柱がある。
人が暮らしていた匂いだけが残っている。
かなり昔のものらしい。
タダにはよく分からない。
ただ、火を焚いていた場所は何となく分かる。
人が長く住んだ土地には、独特の匂いが残るからだ。
その夜。
海風が強かった。
火の前で鮭を炙っていると、後ろから獣脂の匂いがした。
老婆だった。
いつの間にか立っている。
手には、小さな焼き物を抱えていた。
丸い目をした、妙な形。
目の周りだけ不自然に大きい。
シンがいた頃に、『シャーコーキ!』だの『ドグー!』だのと訳の分からない事を言っていたアレだ。
腹が大きく、腕は短い。
人にも見えるし、獣にも見える。
子供みたいでもあり、年寄りみたいでもある。
妙な形だった。
老婆は、それを火の近くへ置いた。
周りへ鮭の頭と、鹿脂と、砕いた木の実を並べる。
それから、小さく歌い始めた。
歌というより、風の音みたいだった。
言葉かどうかも分からない。
だが火の音と混ざると、不思議と落ち着く。
タダは鮭を返しながら聞いていた。
「またそれやるのか」
老婆は頷く。
「冬が来るからな」
「魚、沢山居るぞ」
「魚だけじゃ越せん」
老婆は、焼き物へ鹿脂を指で塗る。
その手つきは妙に慣れていた。
何十年も、何百年も同じ事をしてきたみたいだった。
タダは、火の向こうの焼き物を見る。
ここへ来た時、似たような物が土の中から幾つも出てきた。
崩れた穴の近く。
古い火の跡。
捨てられた骨の側。
昔ここに居た連中も、こういう物を火の前へ置いていたらしい。
タダは、それが少し面白かった。
皆、やる事はそんなに変わらない。
魚を食って。
肉を焼いて。
冬を怖がって。
火の前で祈る。
それだけだ。
「何なんだ、それ」
タダが聞くと、老婆は少し考えた。
「道だ」
「道?」
「帰る道」
老婆は、丸い目を撫でる。
「冬は、人を連れて行く」
火が爆ぜた。
脂が落ちる。
じゅ、と音がする。
「だから、戻る道を忘れないようにする」
タダには、半分くらいしか分からない。
だが昔から、皆そんな感じだった。
山へ入る時も。
海へ出る時も。
獣を獲る時も。
必ず何かへ話しかける。
石だったり。
木だったり。
火だったり。
川だったり。
そうすると、何となく上手くいく気がする。
それだけの事だ。
シンなら、この焼き物を見て大騒ぎしただろう。
「すげー!本物だあ!」
とか言いながら、延々老婆に質問していた気がする。
妙な男だった。
火を見ると座り込む。
肉を見ると嬉しそうに笑う。
木の実を擦り潰して魚へ塗ったり、訳の分からない食い方ばかり試す。
だが、たまに妙に美味かった。
タダは今でも時々真似する。
半分くらい失敗する。
それでも何となく続けていた。
老婆は歌いながら、空を見上げる。
「昔は、もっと暖かかった」
またその話か、とタダは笑う。
「本当だ」
「昔って、どのくらいだ」
老婆も少し笑った。
「海がもっと近かった」
「ふむ」
「木も多かった。山も静かだった」
その言い方は、まるで見てきたみたいだった。
タダは鮭を齧る。
脂が多い。
熱い。
美味い。
確かに最近、少し寒い気はしていた。
春が短い。
雪が残る。
魚の戻りが遅い。
だが、今すぐ困るほどじゃない。
鮭は居る。
鹿もまだ居る。
栗も胡桃もある。
火もある。
なら、まぁ何とかなる。
風が吹く。
冷たい。
火が揺れる。
老婆は、丸い目の焼き物へ脂を塗り続ける。
その姿を見ながら、タダはぼんやり思った。
たぶん昔の連中も、こうやって冬を越したのだろう。
魚を焼いて。
火を囲んで。
寒さを気にして。
春を待つ。
人は居なくなる。
だが、そういう事だけは妙に残る。
火の前では、誰かが魚を焼いている。
たぶん、ずっと昔から。
(おわり)




