第1話 死んだと思ったらウイルスでした。
*この作品はフィクションです。作中の人物・事象は実在する何者にも関係ありません。
世界中を旅するのが僕の夢だった。漠然とはしていたものの、幼いころからいつか必ず叶えてみせると誓っていた。
そして今日、その一歩が始まるはずだった。
福岡空港のロビーに着くと、僕はもう一度荷物の点検をした。今もし問題が見つかったとしても、どうこうすることはできないが、心配性の僕はついついもう一度、もう一度と見てしまうのだ。洋服、風邪薬、財布、携帯の充電器、それにパスポート。全てをもう一度確認し終えると、最後に航空チケットを取り出した。行き先はインドネシアのジャカルタである。
受付の女性にチケットを渡すと、案内してもらえた。
「新田純也様ですね。10時50分発のジャカルタ行きの便になっておりますので、保安検査ののちに搭乗口へと向かってください。」
特に問題になるようなものも持ってはいなかったので、保安検査もすんなりと通過できた。少し早めだったので携帯とパンフレットで時間を潰した。
搭乗口が開いたので早速乗り込んだ。22にもなって飛行機が初めてだったので興奮してしまっていた。僕の座席は窓際だったが、空を見たいと思っていたので絶好である。
そのうち、他の客たちもぞくぞくと搭乗してきた。老若男女様々だったが、僕の隣に座ったのはビジネスマン風の男だった。僕よりも少し年上らしく見える。彼は座るなりカバンからパソコンを取り出してカタカタと仕事をし始めてしまった。
しばらくすると、客が全員座席に座ったらしく静かになった。一、二分するとアナウンスがあった。今からいよいよ離陸するらしい。もしものときの酸素マスクなどの説明もあったようだが、夢中でよく聞こえていなかった。
説明が終わると、ガタガタと車輪が鳴って窓の景色が動き出した。まだ見ぬ異国に対する期待は今や最高潮にまで膨れ上がっている。滑走路の方まで移動した機体は唸りながら徐々に加速しはじめた。
周りからの反応は冷ややかであったものの、大学を休学して世界中を旅するという選択はやはり間違っていなかった。今この瞬間にこんなに素晴らしい気分になれているのだから。
振動が無くなり、景色が傾いた。いよいよ宙へと浮き上がったのだ。初めての感覚に少々の恐怖もあったが、それ以上の胸の高鳴りである。
そのうち耳が痛くなってきた。キーンとして、中々の痛みだったが、それすらも新鮮で嬉しいものだ。気圧がどうのこうのと事前に調べていたので対策に持ってきたガムを口に放り込んだ。
さあ雲を切ろうかというところ、突然ガタンと音が鳴り機体が揺れた。ただごとではないと乗客たちがざわついているところにアナウンスが響いた。
「乗客のみなさま、機長の畑中です。当機にエンジントラブルが生じました。このままでは危険なので、福岡空港に引き返して緊急着陸いたします。」
大いに驚いたものの、何より僕は楽しい気分に水を差されたので不愉快になった。もちろん恐怖もそれなりにあったのだけれど、墜落することはないだろうとたかを括っていたし、戻ってしまえばまた違う便を用意してもらえるだろうと考えていた。
キャビンアテンダントの人たちが忙しなく歩き回って混乱している客をなだめていたところ、機体の左側から凄まじい轟音が鳴り響いた。そちらに目線をやった頃にはもう目の前は真っ赤、僕の意識はそこで途絶えてしまった。
気づけば、赤黒くジメジメとした空間に一人横たわっていた。故障した飛行機の中で炎に飲まれたところまでは覚えている。まさかそれで生きているなんてことはないだろうから、ここはあの世なんだろうか。そうだとしたら見た目的にもさしずめ地獄に落ちたということだろう。
「ようやくお目覚めになったのね。」
上からそう聞こえてきた。
「どちら様ですか?」
と尋ねると、急に目の前に黒いもやが降りてきて、その中からあからさまに禍々しい見た目の少女が現れた。長い群青色の髪を靡かせる彼女は、格好を除けば人間の見た目である。ただ、身に纏っている瘴気のようなオーラはとても常人のものとは思えなかった。
「ごめんなさいね、先に姿を見せるのが筋よね。でも神様っぽいことしてみたいじゃない。」
おかしなことを色々言い出したので混乱してしまうが、話を合わせておいた方がいいのだろうと思い
「神様なんですか?」
と、とりあえず聞いてみると彼女は得意げな顔になり語りはじめた。
「いかにもそうよ。私こそが貴方をあの世行きの運命からすくい上げたのだから、感謝しなさい。」
するとここはあの世ではないようだが、ではいったい何なのか。
「どこなんですか、ここ?」
「肺よ。」
「はい?」
「分からないかしら、人間の肺よ。」
言われても意味が分からない。もう少し分かりやすく説明してはくれないだろうか。人間の僕が人間の肺にいるってわけ分からないじゃないか。
「貴方、今の自分の見た目をみてごらんなさいよ。」
下を見やると自分自身の身体がもちろんあるわけだが、それは見慣れたものではなかった。というか、随分と気色の悪いものであった。紫色の体からいくつも、ひだのような、触手のようなものが伸びていたのである。思わずヒッと情けない声が出てしまった。
「貴方は今、人間じゃないのよ。」
「じゃあ何なんですか!これは。」
「ウイルスよ、今のところ一個体しか存在しないオーダーメイドの新型のね。早いところ貴方はそれに転生したのよ。」
ウイルス?何で僕が。そもそも状況が飲み込めないが、現に僕の体はウニョウニョしているのだから、この女神様に言われたことを信じるしかないだろう。でもやっぱり納得いかない。
「どうしてよりによってウイルスなんですか!もっと他にも色々あったでしょう!」
半分突っかかるように聞くと女神様は大したことないように答えた。
「仕方ないじゃない。私、疫病神なんだもの。動物とかは無理よ。あ、異世界とかフザけたことは言わないでちょうだいね。あれはフィクションだから。そうそう都合良くはいかないのよ。」
これだってフィクションだと思いたくなる。飛行機で焼死したと思えば肺の中で疫病神と対面しているという状況。死んだ時点で運の尽きといえばそうなのだが、だからってこれは酷いだろう。
「そういえば自己紹介がまだだったね。疫病神やって早四千年になるイルディーズよ。イルちゃんって呼んでね。ちなみにもう君の名前は知ってるよ、新田純也くん。だって私が君を選んだんだもの。」
自分のことが既に知られているのが軽く恐怖である。僕は生前から疫病神に目をつけられていたのか。というか、死んだのもこの疫病神のせいなんじゃないのか?
「まあ、晴れて君はウイルスになったんだし、ウイルスなりの生活を楽しんでみれば?」
「いや、ウイルスの生活って何するんですか?」
「とりあえずは同類増やして世界中に蔓延するのを目指せばいいんじゃないかしら。それができればウイルスとしては大成功の万々歳よ。」
世界中......
「世界中を見て周れるってことですか?」
「当たり前じゃない。ウイルスなんだから、どこでも飛んでいけるわよ。」
そうか、もう僕は人間じゃないんだ。ウイルスとして、パスポートも無しに自由に飛べるんだ。誰の目も気にすることはないのだ。
考えていたのとは随分違うけれど、理不尽も不可思議も絶えないけれど、もしかしたら夢が叶うウイルスライフになるのかもしれない。そんな淡い希望が一筋差した心地である。