仮初めのピースフル 2
やがて、山に建てられた大学が見えてきた悠は肩で大きく呼吸をして、膝に手をついた。
急げと言われていたが、目前だからと気を抜いたのだ。
いつまでも走れるはずもなく、当然のことだった。
頬の汗をぬぐいながら、大学への道をゆっくり歩む悠だが、その時、途端にメモリデバイスがけたたましく鳴り震えた。
恐る恐る通信を繋ぐと、冷ややかな沈希の声。
『斎賀君、私はさっさと来いと言ったはずだ。そんなところで油を売ってる暇があるのかね?』
「ど、どっから見てるんですか。少しくらい休ませてくださいよ」
『休むなら私のところへ存分に来て休めばいいだろう。ともかく、早く来てくれ。ついでに、大学内のコンビニで食事を買って来てくれ。後数分ほどで死んでしまいそうだ。だからなるべく早くな』
「腹減ってるだけか!アンタまた買い貯め切らしたのか!」
『余裕ぶってはいるが内心ヒヤヒヤさ。ふはははは。早く来てくれ。お願い』
「わかったよ!すぐ行くから待っててください」
お願い、と懇願してきた声はそれまでの沈希の声と比べてハリと覇気がなく、少なくとも一日はなにも食べていないことがうかがえた。
悠は大学まで全力疾走し、コンビニでまで一目散に駆け込むとありったけの食材を買い込んだ。
店員は「またこいつか」と、時々血相を変えてありったけの物を買い込んでいく変人に慣れてしまったのか別段気に留めることもなく流れ作業で処理していく。
そして大量のレジ袋を手に、悠は大学のエレベーターを使って沈希の研究室へ急ぐ。
彼女の研究室は最上階に位置する見晴らしのいいガラス張りの部屋。
偉そうなところに居を構えているものだ、と心の中で毒づいて研究室の戸を開ける。
「入りますよ」
戸を押して入った研究室はもぬけの殻。
ここで暮らしているというのに、生活感の欠片すら感じられないことから、沈希は今『ここ』にいないことを察することが出来る。
「やっぱあっちか」
悠は中で一度荷物を下ろすと、書斎に入っている二冊の本を手に取る。
一冊は太宰治の『人間失格』。
もう一冊はどピンクと肌色で構成された『お兄ちゃんと私』というエロ漫画。
その二つの位置を入れ替え、かちり、と音がしたのちにその近くに置いてあるキーボードに、本棚の奥に隠されている発信装置から受信したパスワードを打ち込む。
14桁の長ったらしいパスワードの入力に成功した次に、荷物を持ち研究室を後にして再びエレベーターに乗り込む。
エレベーターの階層パネルを上から順に全て点灯させ、そのうち『2』『5』『8』をもう一度押すとエレベーターの扉が閉まり、下へ向けて移動を始める。
天井近くにある階層を示す表示はやがて一階を通り抜け、突然3D表示に切り替わってB1、B2、B3と地下へ地下へと降下していった。
やがて、B25の表示でエレベーターは停止し、煙を吐いて戸が開く。
そのまままっすぐ、最低限の明かりしかない暗い廊下を歩いて進み、長ったらしい仕掛けを超えて目的の場所へたどり着いた。
戸を押すと、古めかしい音を立てて扉が開き、その内装が悠の視界に飛び込んだ。
戸を開けてまず目に入ったのは、だらしない格好をした白衣の女。
目を剥くほどの美人だというのに、伸びきった髪とくたびれた雰囲気のせいで全てを台無しにしている女だった。
全体的にだらんとした力の抜けた体勢で椅子に体重を預け、悠を待ち構えていた。
音に反応し、来客に気がついたのから彼女はその体勢のままキャスターのついた回転椅子を無造作に蹴って悠の前に差し出した。
「んん?……ああ、いらっしゃい斎賀君。君が来てくれて嬉しいよ。まさに天に昇る気持ちだ。もっとも、別の意味でも天に昇りそうなんだけどね。ハハハ」
「くだらねーこと言ってないで、ほら。持って来ましたよ。藍野沈希先生」
「おお、助かるよ。さ、座りたまえ」
蹴り渡されたようなものに座るのは些か気分が良くなかったが、それが気難しい彼女の最大限の譲渡だと知っている悠はそこに腰を下ろした。
「いや、侵入者対策に二重三重のセキュリティと罠を設置したはいいけど、そのせいで自分ですら外に出るのが億劫になってしまったよ。さて、これだけの食料で私の命はどこまでもつだろうね」
「不穏なこと言わないでくださいよ。もうここ狙ってくるやつなんていないですし、セキュリティを一つくらいに絞ったらどうですか?というか一番最初のやつ、なんで人間失格とエロ漫画なんですか」
「こんな本を読んで喜んでる奴は人間失格だって私からの温かいメッセージさ。なかなか凝ってるだろう?」
「……あの仕掛けを知ってる人がこの世界に何人いるんですか?」
「ん?その仕掛けだけなら知ってる奴は割といるさ」
「そうなんですか?」
「あぁ。君はスパイというものを侮っているね?私の仮の研究室があるだろう?あそこ、実は監視カメラだらけなんだよ」
悠はここにきて、自分の行動の筒抜けさに絶句した。
「君があの本を抜き差ししている場面は各国の産業スパイに見られているのさ。例えばだね……花瓶だ。花瓶の中に確か三つくらい隠しカメラが仕込まれてきたはずだよ」
「そ、そうなんですか。でもなんで知っていながら放置してるんですか?」
「言っただろう?私は二重三重のセキュリティを張っていると。知っているかい斎賀君。知らないなら覚えておきたまえ。人を罠にかけるとき一番効果的なのは、相手が得意になっているときだよ。そういった情報戦で勝つならまず相手に気持ちよく勝利したと思い込ませることだね。勝っていると思い込んでいる人間を騙すことは実に簡単でね。その無様な姿を見ていると笑いが止まらないよ」
悪魔のような笑いを浮かべる沈希に背筋を凍らせる悠だが、彼女とのファーストコンタクトの時に浮かべていた邪悪な笑みと比べるとまだマシだというものだった。
「……さいですか。それで、具体的にどうやって騙してるんですか?」
「あはは、よく聞いてくれたね。話したくて話したくて仕方がなかったんだ」
沈希はレジ袋を漁りつつ、淡白な口調でギミックの解説を始めた。