第8話 もう一杯だけ、ご一緒に
追いついてきたアルヴィン様は不思議そうに右手を持ち上げた。
店主にお願いして寸法に合うサイズを出してもらい、私は親指の可動部の縫い目を指先で強く引っ張って確かめた。二重にしっかりと縫い合わされており、これなら乱暴に剣を振るっても簡単には裂けない。
「店主さん、これをお願いします」
自分のお財布から銅貨と銀貨を取り出して支払いを済ませると、アルヴィン様が呆然とした様子でこちらを見つめていた。
「リゼット、なぜ君が買うんだ。私の手袋なら自分で……」
「靴紐のお礼に、私から贈らせてください。……今すぐ替えていただければ、安心ですし」
護衛の心配ばかり口にしてしまうけれど、お返しをしたかったのも本当だ。
ただ、いざ紙包みを手渡す段になって、急激に気恥ずかしさと申し訳なさが込み上げてきた。彼が普段使っている手袋の手首には、美しい家紋の刺繍が施されている。私が買ったのは、どこにでもある飾り気のない平民用の手袋だ。
「……お使いのものほど上等な革ではありませんが、実用には耐えると思いますので」
アルヴィン様は包みを受け取ると、少しもためらうことなく、その場で古い手袋をすっと外した。
新しい手袋に指を一本ずつ通し、革の感触を確かめるように、ゆっくりと力強く拳を握り締める。
私は固唾を呑んで、親指の付け根の縫い目を見守った。きつすぎたり、指が突っ張ったりしていないだろうか。自分の靴のサイズ合わせのときより心臓が跳ねる。
「……とてもよく手に馴染む。ありがとう、リゼット」
アルヴィン様は左手の手袋も外して、新しい対の手袋を両手にはめ直してくださった。
「指先の曲げ伸ばしは苦しくありませんか」
「ああ、完璧だ。剣の柄の吸い付きも良さそうだ」
確かめるように何度も両手を開閉して見せてくれたので、私はようやく張り詰めていた息を吐き出すことができた。
屋敷に帰ってから着けてくだされば十分だと思っていたのに、まさか今この場で身につけてもらえるなんて思っていなかった。
◇
「少し茶でも飲んで休まないか」
中央広場まで戻ってきたところで、アルヴィン様が広場の角にある小綺麗な茶店を指差した。
新しい革靴で歩き回ったのだから少し足を休めた方がいい、と彼は気遣わしげにおっしゃる。確かにその通りなのだが、彼の視線が窓際の硝子ケースに並んだ焼き菓子へ吸い寄せられているのを、私は見逃さなかった。
案内された窓際の席で、私は壁際に靴の包みを置いた。
アルヴィン様は新しい手袋を外して卓の端に綺麗に揃え、真剣な眼差しで菓子の品書きを熟読している。
「蜂蜜と木の実のタルトにするか、今が旬の梨のパイにするか……」
給仕の方が注文を取りにやってきた。
私は林檎の焼き菓子とお茶をお願いしたが、アルヴィン様はまだ苦悩するように眉間を寄せておられる。
「この梨のパイは、季節限定のものですか」
「はい。もうしばらくいたしますと、冬の焼き菓子に切り替わってしまいますね」
「……では、両方頼む」
そ、そういう解決の仕方をするのか。
てっきりどちらかを断腸の思いで諦めるものと思って見守っていた私は、思わず目を丸くして彼を見つめてしまった。
「公爵様、一人で二つとも召し上がれますか」
「君も一口食べるだろう?」
私には私の頼んだ林檎のお菓子がすでにあるのだけれど。
とはいえ、硝子ケースの中で黄金色に輝いていた蜂蜜と木の実のタルトが気にならなかったと言えば、大嘘になる。自分のお金ではなかなか手が出ない贅沢なお菓子を一口味見させてもらえるなら、純粋にとても嬉しい。
運ばれてきたタルトは、大粒の胡桃やアーモンドの上に、艶やかな蜂蜜がこれでもかとたっぷりかけられていた。
アルヴィン様はフォークで一口食べ、幸せそうに目を細めると、即座にこちらへ皿を差し出してきた。
「これは絶品だ。ぜひ食べてみてくれ」
取り皿をいただき、タルトの端を小さく切り分けて口に運んだ。
香ばしい木の実が口の中で小気味よく砕け、直後、蜂蜜の甘みが口いっぱいに広がった。
あっ……甘い。
蜂蜜のお菓子なのだから当たり前なのだが、私の想像を遥かに超えて、喉の奥が焼けるほど甘かった。
慌てて温かいお茶を飲んで喉を潤していると、アルヴィン様がさらに大きな二口目を切り分けようとなさった。
「公爵様、ありがとうございます! 私は、その……最初の一口で十分満足いたしましたので!」
「……苦手だったか?」
「いえ、木の実の香ばしさは大好きなのですが、少しばかり私には甘みが強すぎまして……」
せっかく勧めてくださったのに申し訳ないとは思ったが、ここで見栄を張って黙っていたら、容赦なく二口目が私の取り皿に乗せられるところだった。
アルヴィン様は少し残念そうにタルトを見つめた。
「そうか。私はこのくらい濃厚な甘みの方が好みなのだが」
残りのタルトはご自分の手元へ戻し、代わりに焼き立ての梨のパイの皿をこちらへ滑らせてくださった。
薄いパイ生地を崩さないよう、フォークで一口切り分ける。こちらは爽やかな果実の酸味と芳醇な香りが口いっぱいに広がり、甘さも控えめで驚くほど上品な味だった。
「こちらは、とても美味しいです!」
「なら、そのパイは君が食べてくれ。代わりに君の林檎を一口もらってもいいか」
私はまだ手をつけていなかった林檎の焼き菓子の端を切り分け、小皿に乗せてお渡しした。
アルヴィン様が口へ運ぶのを、ドキドキしながら見守ってしまう。林檎のお菓子は甘酸っぱさが際立っているから、甘党の公爵様には物足りないかもしれない。
「……うん、これも林檎の酸味が効いていて美味いな」
そう言って満足そうに頷いたあと、アルヴィン様は再びものすごい勢いで激甘の蜂蜜タルトを食べ進め始めた。
やっぱり、そちらの方が圧倒的に本命らしい。
戦場で風の刃を操り、魔獣を一刀両断する姿は、この数日間で何度も見てきた。腕の包帯に血が滲んでいないか、疲れで足取りが乱れていないかも、護衛として常に神経を尖らせて観察してきた。
けれど、目の前で嬉しそうにお菓子を頬張る姿を見るのは、これが初めてだった。
「公爵様は、よくこちらの茶店にいらっしゃるのですか」
「町で執務の合間に時間ができれば寄る。ただ、屋敷へ持ち帰ることの方が多いな」
「では、このタルトも以前から?」
「ああ、何度か買って帰った。ただ、屋敷に持ち帰ると、セドリックが書類の山の隙間に皿を置いていくものだから、仕事をしながら無意識につまんでしまって……気がつくと皿が空になっているんだ」
だから、これまであまり味を噛み締めて覚えていなかったのだと、アルヴィン様は少し苦笑いされた。
林檎のお菓子を食べ終え、私は皿に残ったパイの最後の一片を見つめた。
「それは……なんだか、少しもったいないですね」
「ああ。こうして座って味わうと、本当によく分かる」
無理に次の話題を探そうとしなくても、アルヴィン様は穏やかな表情でお茶を口に運んでいた。
私もパイを食べ終え、窓の外の広場を行き交う人々や荷馬車をのんびりと眺めた。
空になったお皿が、給仕の手によって静かに下げられる。
そろそろお屋敷へ戻りましょうか、と切り出すなら、まさに今この瞬間だった。屋敷へ帰れば服のほつれを直せるし、ゆっくりとお昼寝をする時間もたっぷりある。
公爵様の午後の執務時間までは、まだ小一時間ほどの余裕があった。
もう少しだけ、この穏やかな空気の中で、この方とお話ししていたい。お昼寝なんて、今日しなくたって明日も明後日も元気に働ける。
お茶が飲み足りないだけなら、屋敷へ戻ってからでもいい。
そう分かっているのに、卓の端に揃えられた茶色の手袋を、まだ彼にはめ直してほしくなかった。次に口を開けば、護衛としての用事ではないお願いをすることになる。
私はカップの取っ手から指を離し、アルヴィン様を見上げた。
「公爵様、もう一杯だけ、お茶をいただいてもよろしいでしょうか」




