第7話 公爵様への贈り物
即答だった。
他にご用事はないらしい。
護衛の靴を一足新調するためだけに、当主自らがわざわざ町へ出向く公爵家というのは、貴族社会ではごく一般的なのだろうか。分からない。実家が田舎の貧乏男爵家すぎて、比較できるような高位貴族の知り合いなど一人もいない。
「お仕事がお忙しいのではないでしょうか」
「午後の執務の時間までには戻れる。……靴屋の場所は分かるか?」
私は鞄から紹介状を取り出しかけて、そっと引っ込めた。
紹介状に店の名前は書いてある。けれど、この町の地理などまったく知らない。
「……道案内を、お願いいたします」
公爵邸の重厚な門をくぐり、いつもの護衛の癖で半歩前へ出たところで、早くも道が左右二手に分かれていた。
立ち往生して振り返ると、アルヴィン様が追いついて、私の隣に自然に並んだ。
「右だ。中央広場を抜けた先にある」
私は頷き、そのまま横に並んで歩き始めた。
下手に前へ出ても、次の角を曲がるたびに「どちらですか」とお尋ねすることになるのは目に見えていたからだ。
◇
紹介状を渡すと、初老の靴屋の主人は深々と一礼し、店内で一番座り心地の良さそうな革張りの椅子へ私を案内してくれた。
主人が奥から恭しく運んできてくれた靴は、どれもこれも今の私の古い靴とは比べものにならないほど立派なものばかりだった。泥をあらかじめ綺麗に落としてきて本当によかったと、椅子の下へ行儀よく揃えた自分の足元を見て胸を撫で下ろす。
「こちらはどうだろう」
アルヴィン様が棚から手に取ったのは、繊細な飾りのステッチが施された、艶やかな濃茶色の短靴だった。
革質は吸い付くように柔らかそうで、街歩きに履けばきっと見栄えがするだろう。
私は受け取った靴をひっくり返して、まず靴底を見た。
「あの、森の討伐でも履きたいので、底の溝がもう少し深いものが……」
「ああ、そうだな。これでは濡れた下草で滑る」
アルヴィン様は隣の靴を手に取り、迷いなくひっくり返して靴底の溝を検分し始めた。
主人が事情を察して奥から靴底の厚い頑丈な革靴を出してくると、今度は二人並んでしゃがみ込み、底の溝の深さと刻みをじっくり見比べた。
「そちらでしたら、朝露で濡れた斜面でもしっかり踏ん張りが利きますよ。お嬢さん、ぜひ足を入れてみてください」
紐を緩めて足を滑り込ませ、しっかりと結び直す。
立ち上がって体重をかけてみると、古い靴とは段違いに足首が安定した。ただ、右足の小指の付け根が、ほんの少しだけ革の縁に当たる。
この程度なら、履き慣らしていくうちに革が伸びて馴染むだろうか。私は右足を軽く浮かせ、靴の中で指先を曲げ伸ばししてみた。
「右がきついか?」
アルヴィン様に鋭く見咎められ、私は足元から顔を上げた。
「ほんの少しだけ、小指が当たる程度です」
「その少しの違和感が、森の実戦では命取りになるんだろう」
一昨日の討伐で、足元のぬかるみを避けるために立ち位置を微調整したときのことを思い出した。あの瞬間、もし足の指に痛みを感じて踏み直しをためらっていたら、確実に魔獣への対応がワンテンポ遅れていただろう。
私は主人にお願いして、同じ型で横幅に少しゆとりのあるサイズを出してもらった。
今度は、どこにも小指が当たらなかった。店内を何歩か歩いてみても、踵が浮くこともない。
軽く屈伸をして革の柔軟性を確かめてから、「こちらをお願いします」と主人に伝えた。
「先ほどのものより、ずいぶん足運びが滑らかに見える」
「はい! これなら、濡れた斜面でもずいぶん踏ん張りやすそうです」
嬉しくなって顔を綻ばせると、アルヴィン様も私の足元を見つめ、満足そうに頷いてくださった。
飾り気のない武骨な革靴だったけれど、私はこの新しい相棒が一目で大好きになっていた。
代金の支払いは公爵家のツケに回す手筈になっており、私は受領証にサインをした。
新しい靴は履き慣らすためにそのまま履いて帰ることにして、履いてきた古い靴を紙に包んでもらう。あとは店を出るだけだったのだが、アルヴィン様はまだ興味深そうに店内の棚を眺めておられた。
「公爵様、何か他にお探しですか」
「君がほかに、何か必要なものはないかと思ってな」
「いえ、こんなに素晴らしい靴を新調していただきましたので、十分すぎます」
厚手の外套も、清潔で広い個室も、美味しい食事もいただいている。
十分どころか身に余る待遇なのだが、アルヴィン様は納得いかないように眉を寄せた。
「支給品だけでは、私からの個人的な贈り物にならないだろう」
おくりもの。
私は抱えた古い靴の包みを見つめ、それからアルヴィン様の顔を二度見した。
「……私に、ですか?」
「ほかにここに誰がいる」
靴屋の主人はいる。けれど、そういう意味ではないことくらい、さすがの私でも分かる。
分かるからこそ、激しく動揺してしまうのだ。
「あの、護衛のお礼でしたら、すでにとてつもない額のお給金をいただいておりますし……」
「それは雇用契約に基づく正当な対価だ」
そう言って、アルヴィン様は棚の最上段から、豪奢な金色の金具がついた婦人用の洒落た靴に手を伸ばしかけた。
まずい。あれは絶対に私の半年分の給金が吹き飛ぶような代物だ。あんなものをいただいてしまったら、夜も眠れなくなってしまう。
「靴紐を! 靴紐をもう一組、いただけますでしょうか!」
思わず裏返った大きな声が出てしまった。
主人が目を丸くしながら、何色もの替えの靴紐を卓の上に並べてくれた。私はその中から、落ち着いた深緑色の組紐を素早く指差した。新調した靴の茶色とは異なる色合いだが、主張しすぎず、とても綺麗な色だった。
「茶色でなくていいのか?」
「この深い緑色がとても好きなんです。……普段用の靴に通して使わせていただきますので」
アルヴィン様は緑色の靴紐を見下ろし、それから私の顔をじっと見つめた。
「そうか。では、それを頼む」
小さな薄紙で丁寧に包まれた靴紐は、アルヴィン様がご自分の革の財布から銀貨を出して支払ってくださった。
手渡された包みは、手のひらに乗せても重さを感じないほど軽かった。
それなのに、古い靴を入れた大きな包みの中に無造作に放り込む気にはどうしてもなれず、私は鞄の内側の一番小さなポケットへ、大切にしまい込んだ。
◇
靴屋を出たところで、アルヴィン様が私の抱えている荷物の包みを持とうと手を伸ばされた。
その差し出された手を見て、私は思わず足を止めた。
右手の手袋の、親指の付け根の縫い目が小さく裂けていた。
まだ完全に穴が開いているわけではないが、剣を強く握って力を込めれば、そこから一気に破れが広がるのは明白だった。裂け目から、白い下糸がわずかに覗いている。
「公爵様、この手袋の綻びはいつからですか」
「町へ来る途中で気づいた。屋敷に戻ったら別のものに替えるつもりだったのだが」
先ほどまで、私の靴の小指の当たり具合をあれほど真剣に心配してくださっていた方である。
私の足の小指の違和感には即座に気づくのに、ご自分の手袋となると、あとで替えれば済むとお思いらしい。今日は討伐がないとはいえ、急に剣が必要になることだってあるのに。
ちょうど隣の店が、革の鞄や帯を扱う小間物屋だった。店先の壁に、各種の手袋が吊るされているのが見える。
私は「少しだけ寄ってもよろしいですか」と断りを入れて小走りに店に入り、吊るされた手袋の値札を端から確認した。
美しい金糸の刺繍が入った高級品は、目玉が飛び出るほど高価だった。今の私の全財産でも手が出ない。
けれど、一切の装飾を省いた実用的な茶色の牛革の手袋なら、十分に手が届く。王都を出てから乗合馬車を使わずに歩いて節約したおかげで、私のお財布にはまだ少しばかりの余裕があった。
私から公爵様に、何かを贈ってもいいのだろうか。
ほんの少し迷ってから、私は鞄の小さなポケットを指先で押さえた。そこには、先ほどいただいた深緑色の靴紐が入っている。あの包みを受け取ったときの嬉しさを思い出したら、値札を見比べているだけではいられなかった。
「公爵様、少し右手を拝借できますか」




