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公爵様、私より前に出ないでください!  作者: 九葉(くずは)


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第14話 二人だけで竜を迎え撃つ

 黒翼竜の胸に見立てて作られた訓練用の的は、私の想像よりも遥かに高い位置に吊るされていた。


 岩場の両側に立つ岩の突起を利用し、高さを違えて頑丈なロープが張り巡らされている。そこから滑車で吊り下げられた厚い木板の中央には、真っ赤な塗料で大きな丸い印が描かれていた。

 黒翼竜が急降下を終え、巨大な翼を広げて鋭い鉤爪を突き出した瞬間――その無防備な胸元が、まさにこの赤い印の高さになるのだ。

 私は足元の小石を靴底で均してから、もう一度頭上の的を見上げた。


「もう少し私が右へ寄った方が、公爵様は風の刃を撃ちやすいでしょうか」

「いや、そこは足場が悪い。私が半歩動く」


 背後でアルヴィン様が立ち位置を微調整した。

 私の右足の踵に、彼の革靴の爪先がコツンと軽く触れた。


「あの、公爵様、あと半歩だけ下がっていただけますか」

「近すぎたか?」

「はい。私が咄嗟に横へ重心を移動させるための幅を空けておきたいので」


 ジャリ、と砂利を踏みしめる音が背後で響いた。

 この十日余りの訓練で、すっかり耳になじんだ心地よい足音だった。右肩のすぐ近くにあった彼の体温と気配がわずかに離れ、私は右へ一歩、完全に自由な足運びができるようになった。


「ここならどうだ」

「完璧です。ありがとうございます」


 私は頷き、足元から魔力を立ち上げた。

 薄青い光の膜が二人を滑らかに包み込み、構えた腕と踏み替える足が収まるぎりぎりの幅で閉じる。


     ◇


 バルト様が王都へ帰還されてからというもの、私たちは連日、岩場での実戦訓練と現場の下見を徹底的に繰り返していた。

 黒翼竜の巣がある断崖へ大部隊で押し寄せても、逃げ場のない狭隘な地形で炎を吐かれれば全滅の危機に瀕する。何より、広大な範囲を結界で守り続けられるほどの魔力は、今の私にはない。

 そこで策定された作戦は、巣から離れた見通しの良い岩場へ竜を誘き出し、アルヴィン様と私の二人だけで迎え撃つというものだった。


 この開けた岩場なら上空の視界を遮るものはなく、竜の旋回に合わせて二人で柔軟に向きを変えながら立ち回ることができる。周囲に人家もない。巣との間には高い岩壁があり、訓練中は尾根の見張りから竜の動きを知らせてもらっていた。竜がこちらへ飛んでくれば、すぐに引き上げる取り決めだった。

 アルヴィン様が長距離の風の刃を放って竜の注意を引きつけ、私が二人を完全に防護しながら、あらかじめ決めておいた迎撃地点まで退却する。頭上からの激しい火炎を結界で防ぎきり、竜が痺れを切らして急降下してきた瞬間、翼が開いて胸元が剥き出しになったところへ、力を集中させ、同じ急所へ続けて刃を叩き込む。

 他の騎士たちは直接の戦闘には参加せず、麓の街道の封鎖と、周辺の山林から作業員や木こりを完全に退避させる警戒任務に専念することになった。合図を中継するための見張り兵も、岩場を遠く見下ろせる安全な尾根筋に配置される。


「街道と山道の完全封鎖が確認されるまでは、絶対にこちらから仕掛けないでください」


 下見の際、セドリック様は何度もアルヴィン様に念を押していた。

 山へ入る道は一本道ではない。薪拾いのために脇道に入る村人もいれば、遠回りを嫌って封鎖された旧道を抜けようとする商人もいるという。

 私たちが後顧の憂いなく、頭上の竜だけにすべての神経を集中させられる環境を整えるためにも、大勢の騎士たちの地道な人手が必要不可欠だった。


 屋敷の訓練場では、火の魔法を使える騎士に協力してもらい、疑似的な火炎防御の訓練も重ねた。

 激しい炎を受け止めている間に二人で息を合わせて向きを変え、炎が途切れて視界が開けた瞬間に、即座に的を狙う。過去の記録に記されていた火炎放射の時間よりも長く結界を維持し、そこから何回足場を変えられるかを徹底的に検証した。


 少なくとも、騎士たちの炎は熱ごと遮ることができた。

 けれど、本物の竜が吐き出す凄まじい熱量と突風の圧力を、訓練場で完全に再現することだけはできなかった。


「奴が一度炎を吐いただけで降りてくるとは限らない。上空を旋回して降りてこない間の動きを、もう三通り増やそう」


 アルヴィン様の指示に従って訓練を繰り返すうちに、二人分に極限まで絞り込んだ結界であっても、私の額からは玉のような汗が流れ落ちた。

 少しでも範囲を広げてしまえば、それだけ魔力の消耗は跳ね上がる。誰かがはみ出しそうだからと無暗に範囲を広げていては、肝心の鉤爪を受け止める魔力が底をついてしまう。

 だからこそ、私の足の位置だけでなく、アルヴィン様が私の背後で動ける可動範囲の限界を、足跡を見比べながら何度も確かめ合っていたのだ。


     ◇


 休憩の合間、私は的を吊っている騎士の方にお願いして、木板を一番低い位置まで下ろしてもらった。

 真っ赤な印の幅を両手で測り、そのまま空中へ持ち上げてみる。遠くから見上げていたときには十分な広さがあると思ったのに、目の前で確かめると、剣先を少し傾けただけでも外れてしまいそうだった。


「その印だけを狙う」


 背後からアルヴィン様が声をかけられた。

 私は頷き、的から手を離した。自分の肩幅と、赤い印の幅。二つを頭の中で重ねてから、先ほどまで二人で立っていた足跡を振り返る。


「途中で動きを止める場合も、お声をかけます。私が急に止まったせいで、狙いが外れてはいけませんので!」

「分かった。私も、撃てないときは必ずそう伝える」


 小さな失敗を、ここで全部見つけておきたかった。本物の爪が降ってきてからでは、やり直しのために的を吊り直してもらうことなどできないのだから。


 頭上で滑車が軋み、吊るされた木板の的がロープに沿って斜め上方から猛烈な速度で滑り降りてきた。

 私たちはその急降下の軌道に合わせ、息を合わせて体の向きを右へ旋回させる。本物の竜は、この的よりもずっと速いはずだ。けれど、どこで足を踏み留め、どちらの肩の脇を射線として空けるべきかは、この訓練用の的でも十分に叩き込むことができた。


 板の中央の赤い印が、アルヴィン様の狙える絶好の射角へ飛び込んでくる。

 背後で鋭い呼気とともに、木剣が振るわれた。大きな刃を狙った角度に放つには、剣を振る動きに魔力を乗せる方がよいのだという。


 不可視の風の刃が結界を滑らかに通り抜け、板の端を激しく削り飛ばした。


「……すまない、少し遅れた。もう一度頼む」


 アルヴィン様の悔しそうな声に応じ、岩陰でロープを引いていた手伝いの騎士が、新しい的を取り付けるために駆け寄ってくる。

 私は足元の小さな砂利を靴先で払い除けた。

 竜が降りてくるとき、その胸元を見極めようとして顎を上げすぎると、次に踏み出すべき足元の窪みが見えなくなってしまう。逆に足元ばかりを気に取られていては、襲いかかってくる鉤爪の角度に結界を合わせることができない。


「私が立ち止まるタイミングも、少し遅かったでしょうか」

「いや、君は合図通りに動いてくれた。私の踏み込みが間に合わなかったんだ」


 アルヴィン様は木剣を下ろし、先ほど私が右へ移動した幅を、ご自分の靴先で地面をなぞって示して見せた。


「ここまで完全に移動し切る前に撃てると思ったのだが……途中で撃とうとすると、どうしても君の右肩が射線に入ってしまう」

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