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第四章 成長 第六十八話 帰れない砂場

第四章 成長 第六十八話 帰れない砂場


都内の公園、夕暮れ時。


西の空から急速に橙色が失われ、空は深い藍色へとその色を変えようとしていた。


滑り台やブランコで遊んでいた子供たちの歓声も、時が経つにつれて一つ、また一つと消えていき、気がつけば公園は静寂に包まれていた。


しかし、砂場にはまだ、一人の少女が座り込んでいた。


小さな手で器用に砂を山にし、何かを作っている。まるで、そこだけ時間が止まっているかのように。


神代蒼也は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。


蒼也には、人には見えないものが見える。この世に未練を残し、あるいは道を見失った「妖」たちの姿だ。しかし、隣にいる幼馴染の少女、さやかには、その少女の姿は見えていなかった。


「……ねえ、蒼也。もう暗いし、帰ろうよ。お腹も空いちゃった」


さやかが蒼也の袖を引く。彼女にとって、そこにあるのはただの空っぽの砂場だけだ。


蒼也は小さく息を吐き、静かに首を振った。


「さやか、まだ帰れない。あそこに、女の子がいるんだ」


「え?」


さやかは不思議そうに目を丸くする。蒼也は歩みを進め、砂場のすぐ近くまで寄った。


少女はまだ、夢中で砂を固めている。まだ幼さが残るあどけない横顔。だが、その肌は夕闇の中に溶け込むほどに青白く、温度を感じさせない。


蒼也はしゃがみ込み、少女の視線の高さに合わせて声をかけた。


「……君、名前は?」


少女は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、子供らしい無邪気さと、言いようのない孤独が混在していた。


「……さゆり」


少女は短く答えた。蒼也は優しく問いかける。


「もう随分暗いよ。ご両親は、いつ迎えに来るの?」


その言葉を耳にした瞬間、さゆりの表情から感情がスッと消えた。彼女は悲しむでもなく、淡々と、残酷な事実を口にした。


「……お父さんも、お母さんも、もう来ないよ」


「どうして?」


「先月ね、ここでボール遊びをしてたの。ボールが公園の外に転がっちゃって……取りに行こうとしたら、大きな音がして、トラックが……。だから、私、もう帰れないの」


蒼也の胸が締め付けられた。この場所で起きた惨劇。少女は自分が死んだことを理解していながら、それをただの出来事のように話す。死の恐怖さえ忘れてしまうほど、彼女は自分が「帰る場所」を失ったという事実に囚われ、砂場で時間を重ねていたのだ。


その時、公園の入り口に、一人の女性が立っているのが見えた。


彼女は手桶に花を抱え、痛々しいほどに痩せた背中を丸めていた。事故現場となった場所で、枯れた花を取り替えに来た母親だった。


蒼也はさやかに目で合図し、母親の方へと歩み寄った。


事情をすべて伝えることは、相手を傷つけるかもしれない。だが、このままではさゆりも、母親も、永遠に救われない。


「あの……」


蒼也が声をかけると、母親は驚いたように顔を上げた。疲れ切った瞳に、かすかな警戒心が宿る。蒼也は深く息を吸い、真実を告げる覚悟を決めた。


「突然すみません。……あの子、さゆりちゃんのお母様ですね」


「え……?」


母親の顔から血の気が引く。


「さゆりちゃんは、まだあそこにいます。公園の砂場で、ずっとお母さんを待っていました」


蒼也は砂場を指さした。母親は震える足で、しかし引き寄せられるように砂場へと歩み寄る。


さやかは、蒼也の言葉の意味を理解し、そっと母親の背中に寄り添った。さやかには見えない。だが、彼女は「死者の魂を鎮める」ための神聖な織物――死者の姿を一時的に映し出す霊布で、天女の羽衣と呼ばれる布を、蒼也から受け取っていた。


さやかは祈るように目を閉じ、透明な布を、砂場に座る「何か」に向かってふわりと被せた。


その瞬間。


何もなかった砂場に、柔らかな光が満ちた。


母親の視界に、最愛の娘の姿が浮かび上がる。


「さゆり……っ!」


母親は泣き崩れた。地面に手をつき、枯れ葉混じりの土を握りしめながら、嗚咽を漏らす。


さゆりは立ち上がり、母親の姿をじっと見つめた。


「ごめんね、ごめんね……っ! 気づいてあげられなくて、一人ぼっちにして……っ!」


母親の慟哭が公園に響く。さゆりはゆっくりと歩み寄り、母親の頬に触れようとして、その手がすり抜けることに悲しげな笑みを浮かべた。


「お母さん、泣かないで」


蒼也は母親の許可を得て、懐から一枚の護符を取り出した。


これは、迷い込んだ魂を正しい場所へと導くための依代だ。彼はそれをさゆりの額にそっと貼り付け、心を込めて印を結んだ。


「さゆりちゃん、君の場所は、もうここじゃない。光の差す方へ行くんだ」


空間がゆらりと揺らぎ、温かな粒子がさゆりの体を包み込んでいく。


さゆりは母親を見つめ、最後にもう一度、満面の笑みを浮かべた。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう」


その言葉を最後に、さゆりの姿は光の粒子へと変わり、夜空へとゆっくりと昇っていった。


まるで天に還る星のように、彼女の存在は溶け去っていった。


公園には、再び静寂が戻った。


砂場には、さゆりが作っていた砂の山だけが残されている。


母親は、まだ濡れた瞳で夜空を見上げ、震える手で空を掴もうとしていた。


蒼也はさやかの手を取り、静かに公園の出口へと歩き出した。


二人の背中越しに、星々が今までよりもずっと近くで輝いているように見えた。


死は唐突に訪れ、多くの悲しみを残す。


しかし、こうして触れ合うことのできる奇跡があるのなら、魂はきっと、いつか本当の安らぎに辿り着けるはずだ。


「……ねえ、蒼也」


「ん?」


さゆりちゃん、最後、あったかい光だったね」


さやかの言葉に、蒼也は優しく頷いた。


帰り道の街灯が、二人の影を長く地面に描き出している。


夜風はまだ少し冷たかったが、先ほどまで公園に漂っていた冷たい死の気配は、どこかへと消えていた。


明日という日が、またいつも通りに始まる。


そう信じられることが、何よりも救いなのだと、蒼也は心の底で感じていた。


第六十八話 了

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