第13話 愛の華
第十三話です。
これにて第二章終了です。
私は走っていた。
月明りのさす静かな夜。
後ろも振り返らず、息を切らせて。
追ってくる影におびえながら私は走っていた。
目を開けた時、その影は消えていた。
私は理解できなかった。
確かにあの時、影の放った闇は私の心臓を捉えた。
それなのに。
なぜ私は死んでいないのか。
私は周りを見る。
城内は依然として闇に沈んだままだ。
感覚は麻痺している。
この現実を現実として受け入れられない。
ただもうろうとした意識だけが。
指一本も動かせない私を辛うじて認識している。
だがそれは。
今しがた起きた出来事を夢ではないと証明していた。
私はせき込む。
血。
暗闇の中ではっきりとは見えない。
だがその手に貼りついた温度が。
その『粘度』が。
私の脳裏にその光景を思い起こさせる。
私が最後に見た光景。
鮮烈な血しぶき。
私は固く口を結ぶ。
お父様……。
私は……。
私は許さない。
私を亡き者にしようとしたあいつを。
いやそんなことよりも。
父を亡き者にしようとしたあいつを。
心臓が軋む。
まだ傷が治りきっていない。
しかしそんなものは構うものか。
この身が壊れたところで、もう失うものは何もないのだ。
私は立ち上がると、よろよろと歩き始めた。
あのペンダント……。
どこで見たか分かった。
私も持っていたじゃない。
あの子にもらった、ペンダント。
私はポケットに入ったペンダントを握りしめると。
終わりの見えない闇の中へと消えていった。
肩に置かれた手。
アイリーンは弾かれるように後ろを振り返る。
「アイリーン様、ここにおいででしたか」
サラの声がした。
薄暗がりの中で、顔は良く見えない。
きっと彼女にとっても同じだろう。
「サラ?」
「はい、そうです。アイリーン様」
女性は歩み出る。
月明りに照らされる。
その顔は見慣れたメイドのサラに違いなかった。
「驚かさないで……」
「申し訳ありません。そのつもりはなかったのですが」
聞きなれた調子。
「嘘ね。絶対驚かそうとしていたわ」
「私は嘘はつきません、アイリーン様」
「あら、そうなの」
軽口が出る。
襲撃事件、ジャックの拘束、アンとの会話……。
まるで非現実的な数時間を過ごしたアイリーンにとって。
サラとの会話はアイリーンの心を現実に戻してくれた。
「お怪我はありませんか、アイリーン様」
「ええ、大丈夫よ。あなたは?」
アイリーンはサラの体をさする。
「私は大丈夫です。あの場にはいませんでしたから……同僚と庭園にいましたので」
「そうなの……良かったわ。あなたまで傷ついていたら私は……」
クリスに続いてサラまで何か傷を負ってしまっていたら……。
私は許さない。
クリス……?
「クリス……。そうだクリス様は大丈夫なの!?」
そうクリス様だ。
私のせいで傷を負ってしまったクリス。
あれから一体どうなったのか。
「クリス様でしたら……大事ではないみたいです。急所は外れていたみたいですから」
「良かった……」
アイリーンは胸をなでおろす。
「ええ、本当に」
「私、謝らなくちゃ……」
「アイリーン様が……ですか?」
サラは聞き返す。
「私のせいなの。私が……その、避けたから」
「そうですか……」
サラはそれ以上は聞かなかった。
「それに返事もしていないの、もうそれどころじゃないかもしれないけど」
「……」
「ねえ、サラ。私なんかが相手を務めて良いのかしら?」
「……良いんじゃないですか?」
アイリーンは、はっとして言った。
「ごめんなさい、今こんなこと言われてもね。……あのね、私、やっと向き合おうと」
――。
まただ。
アイリーンは頭を押さえる。
ノイズ。
じりじりとした感情。
心の中に何かいる。
あるから分かるのではない。
無いから分かるのだ。
すっぽりと心の中に真っ黒な空白が広がっている。
声が聞こえる。
――。
ノイズ。
ゾウオ。
ノイズ。
ゾウオ。
『イ……ニクイ……ニクイ』
「……!?」
頭が張り裂ける!
何かが。
脳から眼球から。
染み出してくる。
「……ねえ」
アイリーンは尋ねる。
「誰かを殺したいくらい憎んだことってある?」
空気が揺らいだ。
呼吸のリズムがほんの少しズレた。
アイリーンはかすむ視界でサラを見た。
「さあ」
サラは言った。
「私には分かりません」
この世界には確かに愛があった。
それと同じように憎しみもあった。
遠く離れているようでいて。
その実、二つはとても近い場所にいた。
私はそれを愛していると思っていた。
だが、それは半分正解で半分間違っていた。
私はそれを憎んでもいた。
初めは気が付かなった。
慈しむように溺れるように。
大事に大事にそれを育んでいた。
しかし咲かせたのは悪の華だった。
黒く底の見えない闇が。
美しく花開いていた。
私は気が付いた。
私が育てていたのは愛ではなく憎しみだったのだ。
私は心の中の一部をそっと取り出すと。
小さな苗木鉢に植えた。
それならばこの憎しみを。
大事に大事に育てた時、何が芽生えるか。
――愛だ。
愛が芽生えるのだ。
そうして豊かに育ったその愛を。
私は、薔薇と呼んだ。
憎しみから生まれた愛を。
私は、植えることにしたのだ。
この庭を覆い尽くすほどに。
心からの願いを込めて。
次回からは第三章『憎しみの中に潜むもの』が始まります。
おそらくここまでで全体の半分ほどでしょうか。
明後日には続きを投稿したいと思います。




