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第1話 不幸は訪れる

プロローグです。

「誰か」から逃げる女性。

物語の始まり。

そして、お茶会。

 私は走っていた。




 月明りのさす静かな夜。




 後ろも振り返らず、息を切らせて。






 追ってくる影におびえながら私は走っていた。




 闇に沈む城内は冷ややかで。




 私の履いたヒールが奏でる足音だけが無情にも無人の城に響いていた。






 私が何をしたというのか。




 私は考える。






 答えは出てこない。




 それもそのはずだ。




 私の頭はすでに恐怖によって支配されている。






 何も考えられないし、何も変えられない。






 私の後ろにぴったりとくっついて離れないその影から何とかして逃れる――。






 ただそれだけが私の心を占めていた。






 後悔や懺悔もない。






 あの時こうしていれば、この時こうしていれば。




 そのような悠長な悩みなど、この死の恐怖の前には無価値に等しかった。






 何度も転びそうになる。




 ロングドレスが足元にまとわりついてくる。






 煩わしい。






 煩わしいけれど、直している時間もない。






 少しでも足を止めればすぐに追いつかれる。




 追いつかれるから走る。






 心臓の音が、うるさい。




 空気をうまく、吸えない。






 それでも走る。




 走って走って、やがて私は足を止める。






 そこは行き止まりだった。




 高く固い壁が何も言わずに私を見下ろしている。






 私はその壁に背を預ける。




 私に追いついた影が闇から浮かび上がってきた。






 ……影は次第に人の形をとる。




 窓から差し込む月明りが、それは人なのだと私に認識させる。






「あなた、誰なの!?」






 私の叫びにそれは答えない。






「…………」






 影は何かを口にしたが、私にはよく聞き取れなかった。








 殺される。




 本能的な恐怖。




 影はゆっくりとその左手を私に向ける。






「やめて……」






 懇願する私の言葉はむなしく。




 指から闇がほとばしる。






「やめて……殺さないで!」






 闇は大きな球状になって私の体をすっぽりと覆った。






 視界が埋め尽くされる。






 初めは何も感じない。






 しかし、やがてそれは私の心臓を正確に捉えた。






 胸が内側から膨張していく。






 ……苦しい、苦しい!






 私の体は痛みにわしづかみにされて、乱暴に振り回されている。




 闇が消え去った時には私は力なく膝をついていた。






 私、死ぬのね……。




 私の意識は消えていく。






 死ぬ時はやけにあっけないものだ。








 倒れゆく私の前にやってくる影。






 あなた、誰なの?






 顔は見えない。






 明度が明らかに低い。






 男か女か、それさえも判別できない。






 その時、月明りがさして。




 影の首元が一瞬きらりと光った。








 鈍い輝き。




 それは銀色のペンダントだった。






 何かの文様の施された大ぶりのペンダント。






 何の意匠かしら。






 どこかで見たことがあるわ。






 うつろな目で見上げる私の頭に、それはとどめを刺すように手をかざす。






 ……まあそんなことどうでも良いか。






 だって私はこれから死ぬのだから。






 私はゆっくりと目を閉じた。










 四月某日、リース城。






 湖に浮かぶ島に建てられたその城内では、その日も貴婦人たちのお茶会が開かれていた。






 みなそれぞれに豪奢なドレスに身を包み、浮かれた話に花を咲かせる。




 どれだけ食べても食べきれない砂糖菓子たちがテーブルに並べられる。






 テーブルからテーブルへとお茶を注ぐメイドたちはさしずめ働き蜂で。




 可憐な仕草でこの世の蜜を味わう貴婦人たちは、花から花へと舞い踊る色とりどりの蝶だ。






「アイリーン様、これをどうぞ。お食べにならないのですか?」






 髪の長い美しい貴婦人がアイリーンと呼ばれたその女性に話しかける。




 丁寧に細工された砂糖菓子が、彼女の手によってアイリーンの前に置かれた。






「あら、ありがとう」






 アイリーンは広間を眺めていた両目を貴婦人に向ける。




 その瞳は見る者をはっとさせるほどに深い緑色をたたえていた。






 虹彩の中には微細な光が揺れて。




 大小さまざまな色が散りばめられている。






 赤、黄色、緑。




 見る者、見る角度にとって如何様にもその姿を変えるような。






 宝石のようなその瞳に射抜かれた貴婦人は、おずおずと言う。






「いえ……何か元気がないように見えたので。どうかされたのですか?」






 アイリーンは少し微笑む。






「……何でもないわ。ちょっと考え事をしていただけ」






 そして紅茶をひとくち口に運んだ。




 香り高いアールグレイ。




 口の中に広がる上品な苦み。






 アイリーンは今、二つの憂いに心を燻らせていた。






 一つは「良い」こと、一つは「悪い」こと。




 世の中は凡そ二つの出来事に分類できる。






「そうなのですね、アイリーン様。それはどんなことなのでしょうか?」






 髪の長い貴婦人が心配そうにアイリーンをのぞき込む。




 アイリーンは横目で貴婦人を見る。






 彼女は美しかった。




 まるで美術館で見る西洋絵画だ。






 柔らかな顔立ちに透き通るような肌。






 そのような女性には、私の悩みなど無関係でなければならない。




 可憐な羽が濡れないように。




 その重みで土が足につかないように。






 彼女も、豪華絢爛なこの広間で語らう、まるで空をひらひらと舞う蝶たちも、この上なく美しい。






 こんな世界が本当にあったなんて。




 アイリーンは心の中でひとりため息をつく。






 ……私、生き延びれて良かったわ。




 これが、「良い」ことの方。




 美しいお嬢様に囲まれて生活できることの素晴らしさ。






 どのように書いたら。




 美しい一編の小説に仕上がるかしら。






「悩みすぎは体に障りますわ」






 アイリーンが黙っていると、髪の長い貴婦人がアイリーンに言った。






「アイリーン様、何かあったならこの私にでもお話しください。何か力になれるかもしれません」






 伏し目がちに尋ねる貴婦人に、アイリーンは首を振って答える。






「大丈夫よ、本当に何でもないの。顔を上げて頂戴」






 アイリーンは明るく言う。






「心配させてごめんなさいね。今は一緒に楽しみましょう。私、あなたともっとお話がしたいわ」






 アイリーンが優しく微笑むと、貴婦人の表情がパッと華やいだ。






「アイリーン様……私なんかで良ければ」






 貴婦人がアイリーンに笑いかける。




 しかし楽しい時間はすぐに消え失せてしまうことになった。






「あら、私も交ぜてもらっても良いかしら、アイリーン『様』」






 貴婦人との楽しい会話は、突然隣に現れたその女性によって粉々にされてしまった。






 緩く巻かれた豊かなピンクゴールドの髪。




 どこか甘さを感じさせるような整った顔立ち。




 二人を見下ろすその姿には、他の者にはない気品のようなものが宿っていた。






「バーバラ様……」






 髪の長い貴婦人がつぶやく。






「ずいぶんとお優しいのね、アイリーン『様』」






 まるでお人形が口を開いて喋っている。




 アイリーンにはそうとしか彼女を形容することができなかった。






 もしこの世に美しさの理想像というものが確かに存在するのなら。




 彼女は神の手によって作られたのだろう。






 どこを切り取っても息をのむほどの美しさ。




 何もかもが完璧に作られて生まれてきたようなその姿。






 ティアラ。




 イヤリング。






 ペンダント。




 指輪……。






 彼女を飾るどんなきらめきも。




 彼女の前ではただの端役に過ぎない。






 この広間の中で一段と美しさを放つバーバラと呼ばれたその女性は。




 挑戦的なその瞳をアイリーンに向けてきた。






 アイリーンに勝るとも劣らない。




 その天空をのぞき込んだような青い瞳で。






「確かに調子がおかしいみたいよ、アネモネ」






 髪の長い貴婦人――アネモネはバーバラに話しかけられて、びくっと肩を震わせた。






「普段はもっと意地が悪いもの。私なんて足元に及ばないくらいにね」






 バーバラは穏やかに笑う。




 気品、と言ってもそれは触れる者を傷つける類のものだ。






「気を付けた方が良いわよ。この性悪女、爪を隠しているわ。とんでもなく鋭い爪をね」






「そ、そんなことは……」






 アネモネは顔を紅潮させる。




 表情に困惑が浮かぶ。






「あら、そうだったかしら、『愛すべき』バーバラ」






 ……彼女について惜しむらくは。




 唯一、神に文句を言うとしたらそのスケールであろう。






 椅子に座るアイリーンは彼女を見上げる。




 正しくは見る、ほんの少し上方を。






「『愛すべき』だなんて、そんなありがたい言葉……嬉しいわ。やっぱりあなたは口が達者ね」






「そうかしら? 私は私の心の赴くように喋っているだけよ」






「あら、心からの言葉ありがとう。でもそれは」






 刺々しく、近寄りがたい。






 それはまるで。






 まるで棘に覆われた薔薇のような鋭利さで。






「『憎い』の間違いではなくて? 猫かぶりのアイリーン様」






 バーバラはアイリーンに言い放った。










 正直、アイリーンは言い返せなかった。




 アイリーンはこの城の中でも飛びぬけて性格の悪い令嬢として知られていたのだ。






 それはバーバラだけでなく、他の人たちの反応を見ても明らかだった。




 みなアイリーンの前では口をつぐみ。






 そしてアイリーンを恐れていた。






 何をしていたのかは詳しくは分からない。




 ……おそらく何かひどいことをしていたのだろう。






 しかし。




 アイリーンに転生した私――愛理にとってはそれは過去の話だった。






 皆から冷たい目で見られても。




 避けられても。






 もうこの私は『愛理』なのだ。






 悪役令嬢ではない。






 私は意地悪く立ち回ることはできないし、波風も立てたくない。




 敵なんて一人も作りたくない。




 




 みんなとただ仲良くしたいのだ。






 このままいくと、私、死ぬからね。






 だから。




 私はできることなら死ぬまでの間、楽しく生きたい。






 だから。




 私は誰にでも優しくするし。




 このお嬢様たちの美しさも堪能する。






 ……ただ一人をのぞいて。






 ことあるごとに私に突っかかってくる、このバーバラとかいう女性をのぞいて。










「まさか、憎いなんてことないわ、バーバラ」






「あら、怖いわ。でもその方があなたらしくてよ」






「どっちが本当の私かしらね」






 ふふふ。




 どちらからともなく声が漏れる。






 視線がぶつかり。




 笑顔の仮面を付けた二人は、激しい輪舞を踊るのだった。








「ねえ、知っているかしら? 猫って本当に好きな人にしか本心を見せないのよ」






 アイリーンはにこやかに言う。






「あらそうなの。じゃあ私は懐かれているってことなのかしら?」






「多分ね」






「あら、光栄だわ」






 多分本当は懐いていないし、バーバラも懐かれていても少しも光栄じゃない。






「私、大好きなあなたにもっと甘えたくなっちゃった」






 アイリーンはバーバラに言う。






「こっちに来てもっと話しません?」






「ご一緒して良いんですの?」






 嬉しい。




 と、つぶやいてバーバラはちょこんと座る。






「私とも楽しいたのしいお話ししましょうね?」






「ええ、お話ししましょう、『お人形さん』?」






 




「……は?」








 アイリーンはまじまじとバーバラを見る。






「あなたって本当に可愛らしいわ。美しくて可憐で」






 アイリーンは心を込めて。






「本当に心の底から、『小さくて』可愛らしいなって。……私もなってみたいなあ」






 あなたみたいに小さい子に。






 そう言ってアイリーンはバーバラの頭を撫でた。






 バーバラの心に水が染み込んでいくように。




 徐々に彼女の顔が赤く色づいていく。






「アイリーン様……!?」






 隣でアネモネが口に手を当てる。






 ……バーバラにその言葉は禁句だった。






 美しさは時に完璧を求める。






 バーバラが願ってやまないもの。




 それは背の高さだった。






「……その手をどけなさい」






 バーバラはアイリーンをにらみつけると。




 その小さな手で、アイリーンの手をつかんだ。






「私に触れてよいのはお兄様だけ。あなたの手なんて……」






「あら。ごめんなさいね」






 そういえばこの子。




 お兄様のことが大好きだったわね。






「なら、私もあなたの好きなところをお話ししてあげましょうか」






 バーバラが立ち上がる。






 手をつかまれたアイリーンもつられる様に。




 広間の貴婦人たちの視線に貫かれた。






「皆さん今からこのお方のお話でもしませんか?」






 賑やかだった広間にバーバラの声が響き渡る。






「アイリーン様がいかに美しく、いかに悪戯な猫であるか……その気まぐれ心にどれだけ私たちが翻弄されひっかき傷をつけられたか。私にお聞かせくださいませ」






 広間は、みなのひそひそ声で埋め尽くされていく。






「そこのあなた、私に教えてくださらないかしら」






 バーバラに話しかけられた遠くの席に座る貴婦人は口ごもる。






 誰もバーバラには逆らえない……。






 しかし過去のアイリーンを知る者にとっては、アイリーンのことを悪く言うのも憚られる。






 その結果、彼女は下を向くしかない。






「あら、遠慮しないで。だってここは楽しいたのしい舞台の上。私たちは単なる影にすぎない」






 バーバラは芝居がかった声で続ける。






「やめなさいよ、バーバラ。みんな困っているわ。私も言い過ぎて悪かったから」






 アイリーンは手を振りほどこうとする。






 が。






 意外にもその力は強く、振りほどくことができない。






「のどの調子が悪いのかしら? 大きな声が出せないのなら私がそちらまで行きましょうか?」






 そう言って、バーバラは歩き出した。






「皆さんでそこの猫さんを断罪しましょう。言いにくいならこの私が代わりに言ってあげますわ……」






 アイリーンの中で何かが蠢く。






 視界が、歪む。






 ほんの少しだけ物事のつながりが消えて。






 ほんの少しだけ違う場所に、つながり合った。






「え?」






 バーバラの体が一瞬、宙に浮く。






 そして。




 そして、何かの力に背中を押されたように。






 バーバラは派手な音を立てて、うつぶせにすっころんだ。








 バタンーー!








 ……鳴り響いた音はあまりにも大きく、貴婦人の間に沈黙が流れた。






 ……。






「……大丈夫ですか?」






 どこからともなく心配の声が上がる。






「いた……」






「え……?」






「いたーーい!






 起き上がったバーバラの頬は赤くはれ上がっていた。






「ぼさっとしていないで、誰か早く医者を呼んで!」






 アイリーンはわめく。






「何なの一体! ……急に足がもつれたわ!」






 広間に沈黙が立ち込める。






 たゆたう霧のように。




 貴婦人の口から出た呪いの言葉が。




 




 広間を音もなく覆っていく。






「もしかして呪い……?」






「どうしましょう、呪いがここにまで……」






「アイリーン様……」






 アネモネが不安そうに私を見る。






「……大丈夫よ。これはあの呪いなんかじゃない」






 アイリーンはアネモネを勇気づけるように言った。






「きっともうここでは何も起こらない思うから」






 アイリーンはアネモネを抱きしめる。




 ……ほのかな花の香りがした。






 そしてアイリーンは背を向ける。






「アイリーン様……? どこかに行かれるのですか?」






「ちょっと外の風に当たりたいの」






「分かりました……。お気を付けくださいね。呪いは、目に見えるものではありませんから」






 ……。






 アネモネはバルコニーに向かう。






 大丈夫、もうここでは何も起こらないから。






 アイリーンは確信している。






 私に悪意を向ける人以外には何も起こらないはずだものね。








 アイリーンは背後にいる何かに語りかける。






 返事はない。




 目に見えない「何か」は、ぞぞ、と蠢いて再び闇の中に消えていった。






 ――転生したは良いけれど。




 この「呪い」も私についてきちゃった……。






 呪いに愛されてしまった令嬢はひとりため息をついた。






 月明りのさす静かな夜に。






 アイリーンは遠くに浮かぶ無数の星々を眺めるのだった。










 呪いは二つ。




 愛と憎しみ。




 私と城。




 




 ――私と、アイリーン。






 愛理はあの言葉を思い出す。




 あの青い空間で聞いた。






 あの天使の言葉を。






  「ハラハラわくわくの愛憎渦巻く世界へようこそ……」






 渦を巻き。




 どこまでも流れ落ちていくような。




 黒く重い。


 


 愛憎の世界へ。

ep2はお茶会の話になります。

物語の主人公アイリーンのある日の出来事……。

アイリーンのことが嫌いなバーバラとの舌戦。

アイリーンに取り憑いた呪いが巻き起こす騒動。

バーバラとのお茶会での一幕になります。

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