拾弐月?日 ?曜日 肉欲
――ただ、ひたすらに、求めていた。
何を、という問いはもう意味を持たない。
喉が渇けば水を飲む。ただそれだけのことだ。
理由は後からついてくるか、あるいは最初から必要なかったのかもしれない。
欲するから、そうしていた。考えるよりも先に、身体と心が動いていた。
それが欲望なのか、義務なのか、あるいは救済なのかはもう、区別はつかない。
最初は一人ずつだった。
ベッドに呼び、正面から向き合い、声を聞く。相手の息遣い、指先の震え、視線の揺れ。そうしたものを一つひとつ確かめるように、時間をかけた。
自分の中に芽生えた何かが、確かに相手へ届いているか。拒まれていないか。足りているか。それを慎重に、何度も、何度も、確かめ、愛を注いでいた。
相手の瞳が潤み、声が震え、名前を呼ばれるたびに、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
(ああ、届いている。満たしている。満たされている)
そう思うことができた。できていた。
けれど――いつからだろう。一人では、足りないと感じ始めたのは。
最初は些細な違和感だった。満たされたはずなのに、余白が残る。与え切ったはずなのに、まだ注げる何かが内側に溜まっている。
対象が変わり、また一から確認作業をするのが億劫になっていった。
気づけば、周囲には複数の気配があった。重なり合う体温。交錯する視線。耳元で交わされる、熱を帯びたささやき。
拒む理由が、どこにもなかった。
むしろ――これこそが正しい形なのだと、自然に思えてしまった。
俺は求められている。だから、与えている。それだけのこと。
一人ひとりに向けていたはずのものは、いつの間にか境界を失い、溶け合っていた。
個別の区別は薄れ、ひとつの流れとなって、まとめて流れ込む。
愛を、まとめて、余すことなく。
それが当然で、それが幸福で、そうでなければ、満たされない。
◇ ◆ ◇
どのくらい、そうしていたのだろうか。時間の感覚は、ゆっくりと壊れていた。朝と夜の境目が曖昧になり、何日が過ぎたのかも分からない。
ふと、意識の縁をなぞるように、声が届いた。
「……啓人さま」
聞き慣れた灯の声だ。
「少し、休みましょう。何か食べませんか」
その言葉を聞いた瞬間、初めて自分が空腹であることを思い出した。
いや、正確には――空腹だったことすら、感じなくなっていた。
「……そうだな」
喉から出た声は、思ったよりも低く、掠れていた。長く使っていなかった器官を、無理に動かしたような感覚。
灯は、それを気に留める様子もなく、いつものように静かに微笑んだ。
しばらくして、運ばれてきたのは――カレーだった。
湯気の立つ皿。はっきりと形の残った具材。
肉。人参。ブロッコリー。
その組み合わせを見た瞬間、胸の奥が、かすかにざわついた。
「……なんだか、懐かしいな」
思わず、そんな言葉が漏れる。
「安価で決めたカレーの具材に、似ている気がして」
灯は一瞬だけ目を細め、それから、どこか含みのある笑みを浮かべる。
「そうですね。啓人さまらしい選択です」
スプーンを取り、一口、口に運ぶ。
……うまい。
余計な感想はいらなかった。ただ、うまい。
どこか癖のある味わいの肉だが、噛むほどに旨味が滲み出てくる。
今まであまり食べたことのない種類だと、直感的に分かった。
「この肉、あまり食べたことがない気がするな……」
そう言うと、灯はまるで天気の話でもするような口調で答えた。
「この前の啓人さまの演説に感動した方がいらっしゃって、ぜひ、啓人さまの血肉にと、言ってくれたのです」
「……そうなんだ」
それだけ言って、またスプーンを運ぶ。
牛でも、豚でも、鳥でもない。だが、不思議と違和感はなかった。
むしろ、夢中になっていた。
灯は続ける。
「安価は、絶対ですよね」
その声は、穏やかで、どこまでも優しい。
「逃げないって、言いましたよね」
「そうだな。安価は、絶対だな」
答えると、灯は満足そうに頷いた。
「これで、ようやく果たされましたね」
何が、という問いは喉元まで上がり、そこで霧散した。
考える必要がないと、なにかが奥で告げていた。
(やっぱり、カレーはおいしい)
そんな、間の抜けた感想だけが、頭の中を漂う。
皿が空になる頃には、奇妙な感覚が胸に広がっていた。
満腹のはずなのに。それなのに――足りない。
もっと欲しい。もっと、満たされたい。いや、満たしたい。
「……灯」
呼ぶと、彼女はすぐに近づいてきた。
「まだだ」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「まだ、足りない」
灯は一瞬だけ俺を見つめ、それから、深く、深く頷く。
「承知しました、啓人さま」
その後、部屋に新たな気配が増えていく。
期待が入り混じった視線。俺を求め、受け入れる準備の整った女たち。
胸の奥が、再び熱を帯びる。
「……全部、だ」
誰に向けた言葉でもないが、伝わった。
また、重なり合う。境界が溶け、個が薄れ、ひとつになる。
名前も、数も、意味を失い、残るのは、愛だけ。
愛を、注ぐ。今、残っているものが尽きるまで。
足りなくなったら、また補充して、注ぐだけだ。
まだだ。
まだ、足りない。




