十一月二十五日 月曜日 始動
目を覚ました瞬間、土日のことを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
同時に、頭の片隅で現実的な問題が、遅れて顔を出した。
(……工場、今日行って、転職の話をしないとな)
考えただけで、少しだけ胃の奥が重くなる。
これまでずっとお世話になった場所だ。
嫌いではなかったし、自分にはそれしかないと思っていたし、変わるなんて言葉は、自分には似合わないと思っていた。
でも照宮さんの紹介で新しい仕事をすることに決めた。
身を起こし、カーテンを少し開けると、朝の光が部屋に差し込み、昨日までと同じはずの部屋が、どこか他人行儀に見えた。
簡単に朝食を済ませ、洗面所で歯を磨く。
鏡の中の自分は、相変わらずの三十歳の男だ。髪も、顔も、体型も、昨日までと何も変わっていない。
なのに――目だけが、少し違って見えた。
(……何が変わったんだろうな)
答えが出る前に、玄関のチャイムが鳴った。
「……?」
思わず時計を見る。まだ朝の早い時間だ。
(……こんな時間に誰だ?)
少しだけ警戒しながら、玄関へ向き、ドアを開けた。
「おはようございます、啓人さん」
そこに立っていたのは――照宮さんだった。
一瞬、思考が止まる。
「……え?」
間抜けな声が出た。
「朝早くから、すみません」
そう言って、少しだけ申し訳なさそうに微笑む。
「どうしたんですか……?」
「会社に報告したところ、できるだけ早く来てほしいと言われまして」
あまりにも自然な口調で言われ、理解が追いつかない。
「いや、俺……まだ工場にも、転職の話をしてないですし……」
そう言うと、照宮さんは軽く首を振った。
「その件でしたら、大丈夫です」
「……大丈夫?」
「こちらで、退職の手続きは進めておきますので」
一瞬、言葉を失った。
「啓人さんには、サインと印鑑だけお願いできれば」
差し出された書類に視線を落とす。
「啓人さんの工場の方には、こちらで説明しておきます」
「……いいんですか、任せてしまって」
「はい。問題ありません」
照宮さんの不思議な説得力に、俺は逆らえず、机の上で書類にサインをし、印鑑を押す。
朱肉の赤が紙に残るのを見て、胸の奥で何かが切れた気がした。
(……これで、もう後戻りできないな)
不思議と後悔はなかった。
「荷物は、このままにしておいて大丈夫です。後から会社のものが運びますので、今日は必要最低限のものだけで」
「……わかりました」
言われるがまま、バッグに通帳などの貴重品や着替え、スマホの充電器だけを詰める。
思った以上に、すぐ終わった。
(俺の生活って……案外、軽いな)
外へ出ると、黒いワゴン車が停まっていた。
「どうぞ」
促され、後部座席に乗り込むとドアが閉まり、静かに車が走り出す。
見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
◇ ◆ ◇
やがて車は、広い敷地の前で止まった。
「……すご」
思わず、声が漏れる。
立派な門。その向こうには、手入れの行き届いた庭と、日本家屋が広がっていた。
音が、ない。都会なのに、妙な静けさがある。
俺は、ふと気になったことを口にした。
「あの……」
「はい」
「照宮さんって……もしかして、ヤのつく仕事の……秘書だったりします?」
一瞬、嫌な間が空く。
「ふふ」
照宮さんは、小さく笑った。
「違いますよ。安心してください」
それ以上は何も言わなかったが、不思議と不安は消えていた。
「こちらです」
母屋から少し離れた建物へ案内される。
「この離れが、私たちの部屋になります」
「……俺、会社の寮みたいなところを想像してたんですが」
「二人で住むには、十分でしょう?」
平屋だが、広く、静かで、落ち着く空間だった。
荷物を置くと、すぐに言われる。
「昼から仕事の説明がありますので、その前に食事にしましょう」
しばらくすると、別の人が昼食を運んできた。
ごく普通の定食だったが逆に、少し安心する。
「今後は食事はこのように運ばれます。食器は、玄関の外に出しておいてください」
二人で向かい合って食べる。奇妙なほど、自然だった。
食後、部屋を移し説明される。
「ここは――『しゅうえんかい』というグループです」
「……終焉、会?」
思わず眉をひそめてしまう。
「なんだか、物騒な名前ですね」
すると照宮さんは、くすっと小さく笑った。
「よく言われます。でも、そっちの『終焉』じゃありませんよ」
「……?」
そして、少しだけ指で空中に円を描く。
「終わる円と書いて、終円会です。物事が一度終わり、また次へとつながっていく。その区切りを意味しています」
終わりであって、断絶じゃない。円のように、また巡る。
その説明を聞いて、胸の奥にあったざらつきが、少しだけ溶けた。
「……なるほど」
確かに、それなら――物騒どころか、どこか優しい名前にも思える。
「はい。私たちは、いわゆる『物語』を提供しています。私たちが提供した『物語』をもとに、小説、アニメ、映画、ドラマなどの制作のお手伝いをしています」
そう説明され、俺は思い出した。
「……もしかしてこの前観た『ネクロマンサー建国記』も」
「ええ。あれも、ここで生まれた物語です」
胸の奥が、ざわりとした。
「あの物語から、何かを感じ取ってもらえた」
照宮さんは、真っ直ぐ俺を見る。
「だから、啓人さんなら、私たちに賛同してもらえると思いました」
その言葉を受けて、すぐには返事ができなかった。
(……話が大きすぎる。俺に、そんなことができるのか?)
昨日まで溶接工だった三十歳の俺が、物語を『提供する側』になるなんて、現実味がなさすぎる。
俺は作家でもなければ、表現者でもない。特別な言葉を持っているわけでもない。
それに――この場所は、どう考えても普通じゃない。どこか、現実から半歩ずれている。
(……怖くないと言えば、嘘になる)
でも、その一方で、頭の奥に、別の考えが浮かび上がってきた。
掲示板。安価。自分では選べないと思っていた人生を、他人の言葉に背中を押されて、進んできた日々。
あのとき、誰かが言葉を投げてくれなかったら、俺は今も同じ場所で、同じ毎日を繰り返していた。
(……助けられたんだよな、俺)
直接顔を合わせたこともない、名前も知らない誰かの言葉に、救われた。
(もし、俺が選んだ物語が――誰かの迷いに、ほんの少しでも光を当てられるなら)
答えは、自然と決まっていた。
俺は、ゆっくりと息を吸い、照宮さんを見た。
「……正直、俺に務まるかはわかりません」
そう前置きしてから、続ける。
「怖いですし、自信もないです」
それでも。
「俺も、助けられたことがあるんです」
照宮さんの目が、少しだけ細くなる。
「自分じゃ動けなかったときに、誰かの言葉に背中を押してもらった」
だから、と。
「もし俺が選ぶ物語が、誰かの選択を助けることになるなら……協力します」
それは、流された答えじゃなかった。
誰かに決められた選択でもなかった。
俺自身が、選んだ言葉だった。
◇ ◆ ◇
その後仕事の説明を受ける。しばらくは、この離れで生活しながら学ぶらしい。
肝心の給料の提示額を見て、思わず目を見張る。
「こ、こんなにもらっていいんですか……?」
「もちろんです。スカウトですから」
そう言われるとやる気が出る。
夕食を共にし、食後、照宮さんが言った。
「ちょっと早いですが一緒に、シャワーを浴びましょうか」
こんな時間からと反論しようとして気づく。
この家には時計がない。スマホも、いつの間にか手元にない。
「どうしました? ……あぁスマホですか。すいませんが、しばらく預からせて頂いています。時間に囚われていては、いい物語は作れませんから」
「そ、そんな急に、困るよ照宮さ……」
「……灯って、呼んでください」
少しだけ照れたように、そう言われた。
反論しようとしたが、そんな顔で言われたらどうでもよくなってきた。
「……灯……さん」
声に出すと、胸が少しだけ高鳴る。
「はい」
微笑む灯さんに導かれ、シャワールームへ向かう。
(……とんでもない場所に来た気がする)
でも、灯さんがいるなら――それでいい。
どうでもいい。
俺はもう、後戻りするつもりはなかった。




