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いとこのポン酢〔お嬢様騒動〕壱

― 壱 ―


 さて、この皆さんが通う精華学園は、明治の中期にお隣の男子校、静修学院が作った、女学校を前身とします。

 こちらは、小中高大とすべてを統一した教育を理念としています。

 もちろん、中途受験も随時受け入れ中。

 ついでに、おとなりの男子校、静修学院についても触れておきましょう。

 創立は慶応元年(一八六五年)と言いますから、幕末です。

 当時有力商家が集まって、揺れ動く幕府や皇家に左右されないしっかりした教育機関を作ろうと考えた人がいたんです。

 お侍さんの出身で、侍をやめて商家に婿入りした人でした。

 商家のみなさんの寄付を受けて、ちょっと立派な寺子屋ができまして、有力商家の子弟が通うようになりました。

 明治維新の荒波を、のらりくらりと切り抜けまして、明治政府とうまく遣り取りをして、私立ながら華族の通う、りっぱな学校に成長したのです。

 以来、東京に住む有力者は、好んでこの学校に子供を通わせるようになりました。

 当時は全寮制だったようですが、今は寮はありません。


 文武両道、質実剛健をうたい文句に、徹底した男子教育を行い、多くの政治家や軍人を排出した、バンカラな気風をモットーとしてきました。

 もっとも、この気風も最近では軟弱なチャラ男が増えて、なし崩しになっていますが。

 静修学院と、精華学園の間には、広い私道が通っています。

 道幅十五メートルで、差し渡り百五十メートルと言う、生徒の通行専門の道です。

 そういうところも含めて、昭和の大戦のあと、何もなくなったところに、ゆっくりとしかし、しっかりと立て直された学院は、元の規模より大きくなりました。

 突き当たりには、両校共同の図書館が建っています。

 総レンガ造りの、赤い建物は、諸先輩たちのデートの場としても、有効に活用されてきた歴史があります。

 レンガのテラスには、白いテーブルとイスが並んでいて、オープンカフェになっています。

 その反対側には学生寮。全国から、この精華を目指してきた生徒が、ここで寝起きを共にしています。

 もともと、精華も静修学院も、緑が多く校庭の周りには、公園のように花壇や、植え込みがふんだんに設えてあります。

 この中だけでも、十分にデートコースたりえる、立派なものです。

 私たち、精華の生徒は、よくこの芝生の公園で、お茶会を開いたりもします。


 筋金入りのお嬢様ばかりのこの学校。お茶やお花は、当たり前に修めた人たちばかりです。お茶会と一口に言っても、その贅沢なことは、ちょっとよその人には見せられません。

 軽い園遊会を、生徒主催で開いてしまうほど、豪華です。

 放課後の、学園の中を案内しながら、その歴史などを富子さまに話していると、前方から脇坂唖莉洲(わきさかありす)がとりまきを連れて現れました。

 この子はワキサカの本家筋に当たり、まあ、麗子の従姉妹でもあるわけです。

 ころころとよく肥えた体型は、遠目にもよくわかりますが、これでけっこうバレエがじょうずなんです。

 「黒鳥」のグランフェテの三十二回転を、ドゥーブルを交えながら、舞台の端から端まで回ってしまう、ものすごいことをやってのけます。

 脇坂唖莉洲の取り巻きは、通称『お館組』と呼ばれる、傘下企業の子弟が勤めているボディガードのようなものです。

 雁子とあやは、自称『麗子のお館組』なのですが、麗子本人はただのおともだち扱いをしています。

 麗子本人は、お館組がつくほど、たいした家ではないと思っているらしいのです。

 体型的に似たような二人が、正面から並ぶと広い学校の廊下が、一気に密度を増します。

「あら、麗子さんみなさん、ごきげんよう。今日はどうなさいましたの?」


「このものは、たれでおじゃるか?」

脇坂唖莉州(わきさかありす)と申すものでございます。同じ二年生でございますが、別の教室の者でございます。」

「そうでおじゃるか。これ、唖莉洲とやら、よしなにたのむぞよ。」

「な、なんですの、このつぶれアンマンは…」

 つぶれアンマン…言い得て妙ですが、それは唖莉洲あんたも同じこと。

「唖莉洲さん、こちらの方は、聖護院富子さまとおっしゃいます。かしこきあたりの方ですので、失礼のないようお願いしますわ。」

 麗子の言葉に、唖莉洲の目が引きつりました。

「か、かしこきって、どのくらいよ?」

 唖莉洲は、麗子に小声で聞きました。

「どうやら本家スジらしいわ。」

 麗子も、小声で返しました。


「ひう!」

 それだけで、だいたいを悟ったらしい唖莉洲は、愛想笑いを浮かべながら道を譲りました。

「お、おほほ、せっかく校内を案内していらっしゃるのに、お邪魔をしては申し訳ありませんわ。どうぞ、お先にいらしてくださいませ。」

「これは丁寧に、ありがとう。みなも、次に行くぞよ。」

 富子は、特に気に触った様子もなく、悠々と足を進めます。まるで、自分をないがしろにするものなど、世間にはいないとでも言うように。

 まあ、人がいいというか、素直というか…事象をそのまま受け入れるタイプなんでしょうね。

「はい、では次は…」

 四人が行き過ぎると、唖莉洲は胸をなでおろしました。

「ああ、あぶなかった…そんな高貴なお方が、どうしてウチの学校なんかに来るのよ?」

「だれかが御前で、口を滑らせたということでしょうか?」

「もしくは、内閣からの推薦があったかもしれませんね。ほら、麗子さんのお父様は、総務省にお強いですから。」

「どちらにせよ、迷惑な話よね。」

『御意』


 唖莉洲は、お館組の二人と、うなずきあって、先へ進むことにしました。


「白峰どの、そのイスは楽そうじゃが、どうしてかようなものに座っておるのかの?」

 富子は、不思議そうに麗子に話しかけました。

「富子さま、私の足は、歩くことができないのでございます。ですから、かようなイスに座って生活をしております。」

 富子は、きゅうに麗子の手を両手で握って、ふるえる声で聞きました。

「なんとなんと、足がうごかない?それは大変ではないか。痛いのか?痛いのかのう?」

 富子は、目にいっぱい涙を浮かべて、麗子を見つめました。

 なにものも混じりけのない、真っ直ぐな瞳。

 柔らかな黒髪からのぞく、子犬のような目は、麗子の目をまっすぐに見つめていました。

「大丈夫でございますよ。痛くもございません。ご心配、ありがたく存じます。」

 麗子が明るく笑って答えると、富子は深く息を吐いて顔を伏せました。


「そうか!私は、悪いことを聞いたのう。許すがよいぞ。」


「はい、もとより私の足の悪いことは、事実でございますので、お気になさいませんよう…。」

 富子は、気の毒を絵に描いたように意気消沈した様子で、うなだれてしまいました。

「富子さま、麗子は、一月にフランスで手術を受けまして、これでも部屋の中程度は、歩けるようになりましたわ。」

 あやが、フォローするように声をかけました。

「おお!そうであったか。それは長上。白峰どの、養生なされよ。」

「はい、かしこまってございます。」

 本質的に人がいいのでしょうね。

 だまされたり、邪険に扱われた経験がないことが、そのおっとりして素直なそぶりに表れています。

 麗子から見ても、その行動はかわいいものに映ります。

 小さなつぶれアンマンは、つぎつぎと現れる教室の多彩さに目を奪われ、校庭に出たのでした。


「あの建物は、なんであろ?」

 富子さまの指差す先は、赤いレンガの建物。

「富子さま、あれは図書館でございます。お隣、静修学院との共同の建物でございます。」

 図書館は、ちょうど両校の真ん中に建っていて、密かな逢い引きゾーンであることは、先生も生徒も、暗黙の了解の上に成り立っているのでした。

 もっとも、どちらも経営は同じところにつながっているので、経費節減に一役買っていることは、言うまでもありません。

 ただし、その規模は三階まである建物であることを考えれば、一般の学校の図書館とは一線を画し、区立図書館を凌駕する勢いであることは間違いありません。

「ほう、図書とは大量に書物のある建物であるな。拝見してもよいかの?」

 富子は読書が好きなのか、目を輝かせて聞きました。

「はい、わが校の生徒であれば、何人も利用することを拒みません。」

「よしよし、では参ろうかの。白峰どのは、いかがじゃ?」

「はい、私は平気でございます。」

 電動車いすは、するすると前に進みます。


斯様(かよう)に便利な乗り物が増えれば、東京の道もゆったりとしてよかろうにの。」

「富子さまは、東京にお住みではございませんか?」

「おお、そうよな、富子の住まいは、京都(みやこ)でおじゃる。」

 なるほど、それでは東京の渋滞には閉口されたことでしょう。

「御意。東京は道路の整備が悪ぅございますので、毎日渋滞が起きております。もっと小さな自動車であれば、それも少なくなるは道理でございましょう。」

 富子は、満足そうにうなずきました。

 やがて、レンガ造りの図書館に到着しました。

 図書館の二階では、閲覧室で大勢の生徒が静かに本を開いて勉強をしているところでしょう。

「おう、これは立派なものでおじゃる。天井まで、ずっと本でおじゃるか?」

「さようでございます。一階から三階まで、ずっと本棚が続いております。こちらで、貸し出した本は、あちらのテラスでも読むことができます。」

 あやが指差した先には、白いテーブルの並ぶカフェテラスがありました。

 そこかしこに席を占めて、精華の生徒も静修学院の生徒も本を広げたり、談笑したりと、華やかな雰囲気が漂っています。

 カフェの窓枠は白く、せり出した日よけは赤で、さながらパリのカフェが引っ越してきたような気がします。


 精華の生徒は、富子のウワサが広まっているらしく、本の隙間からちらちらと、こちらを伺っているようです。

 静修学院の男子は、いきなり現れた麗子たちに、興味津々なようす。

 サッカー部の安田の若さま、宮本さまは、あからさまに顔をこちらに向けてひそひそと、言葉を交わしていらっしゃいます。

 お顔がよろしいからと言って、頭がいいとは言い切れないのが、お二人の若様。

 たぶん、レポートができていらっしゃらないのよ。

 こんな時間に、部活もしないで図書館にいるのですもの。

「なるほどの、きれいな所じゃ。」

 富子は、うきうきした様子で、まわりを見回しています。

「富子さま、ご休息なさいますか。」

「そうじゃのう、白峰どのは疲れておらんかの?」

「はい、大丈夫です。ですが、ずっと歩いていらして、富子さまはお疲れでございましょう、ここで少しお休みされてはいかがでございましょう?」


「では、そうするかの。」

 富子は、麗子の様子をしきりに気にして、気を遣っています。

 どうも、足の悪い人に会ったことがなく、どう接していいのかわからないようです。

 室内の席は満席で、テラスの席が空いているようでした。

彼女は、麗子の意見に素直に従って、外のテラスに出ました。

「ほう、こういう場所での野点は、はじめてでおじゃる。」

 カフェの中を車椅子で横切った麗子は、雁子に声をかけました。

「雁子、抹茶がお願いできるか、聞いてきてくれる?」

「合点だぃ。」

 雁子は、すぐさま厨房に向かいました。

 雁子も、この富子という少女が、好きになっている様子でした。

「お抹茶、オーケーです。」


 厨房から戻った雁子は、麗子の耳元でささやきました。

 やがて、ベージュのドレスに、白いエプロンのメイドが、お茶とお菓子を運んできました。

 この図書館のテラスでは、これが制服なんです。

「富子さま、略式でございますが、お茶をどうぞ。」

 あやが勧めると、富子は素直に茶碗を持ち上げました。

 おっとりとしたところといい、素直な性格と言い、いかにも箱入りなところが見て取れます。

 その純な様子が、麗子には好もしく映りました。

「うむ、なかなか上手にたてておじゃる。好いお茶じゃの。」

「お褒めに預かり、中の者も喜んでおります。」

「そうか、下々のものは、よくほめて遣わすのが好いと聞くぞ。」

「左様でございますね。人は叱るより、誉めて使うのがよろしいと存じます。」

 麗子は、そう言うと、生菓子をそっと切りました。


「あら、おいしい。」

 麗子の声に、みな手元のお菓子に目を向けました。

 麗子は、お菓子に黒文字を乗せながら、富子に声をかけました。

「富子さまは、この学園にどんなことを勉強しにいらしたのでしょうか?」

 富子も、麗子に倣って黒文字を手にしたところでした。

「うむ、白峰どの、まだ正式に決まってはおらぬが、私はこんど、降嫁することになっての。住まいも、普通の家になるらしいのだ。」

 生菓子は、そっと切れて、やさしく口になじみます。

「まあ、それはおめでとうございます。お住まいは、どちらに?」

「それが、この東京らしいのじゃ。」

「まあ。」

「私には、右も左もわからぬ所ゆえ、少しもはよう慣れねばの。」

「はい、そう言うことでございましたら、私どもはどこなりと、お供いたします。」

「頼むぞよ、白峰どの。」

「麗子でございます。」

「うむ、麗子どの。」

 二人は、満足そうにうなずいて、お茶を持ち上げたのでした。


「ご降嫁されますお宅は、どのような方なのでしょう?」

「これ、雁子さん、そんなストレートな…」

「よいよい、そうよのう、かなり普通の家らしいぞよ、父上どのは、大学で昔のことを研究しておるそうな。」

「大学教授の息子さんですかー、じゃあ、ご本人も教鞭をとっていらっしゃるのですね。」

「そうさのう。」

 富子は、首をひねりながら、雁子に答えました。

 麗子は、あわてて富子に聞き返しました。

「聞いていらっしゃらないんですか?」

「うむ、なにせい急な話でのう。」

「きゅ、急って…こういう話はずっと長く話し合って、決めるものじゃないんですか?」

「まあ、そうよの。だから、まず今が船出じゃ。候補が決まったので、これから話し合いが進むのじゃろ?私も、まだ十七じゃもの。」

「ああ、なるほど、急な話って言うから、今日明日のことかと思ったけど、何年も先の話なのね。」

 雁子は、うなずいて納得したようです。

「そんなぞんざいな言葉はいけませんよ、雁子さん。」

 あやは、しきりに富子を気にしています。


「よいよい。ここは学園じゃ、友達同士はかようにぞんざいに話すものであろう?気にするでないぞよ、あやどの。」

「そうは申されますが、私どもは…」

「あやどのも麗子どのも、臣下ではないぞよ。共に友人であろ?今日から友人であろ?」

 富子は、しきりと友人と言う言葉に、重きを置いているようです。

 麗子はゆっくりと息をはいてから、顔を上げて微笑みました。

「そうですね。学園の中にまで、身分・格式を持ち込むことはありませんね。これからは、富子さまをお客様扱いはいたしません。みなさん、いいですね。」

 あやは、目を丸くしました。

「あやさん、全ての責任は私が持ちます。」

「でも、麗子…」

「そうだよ、これは連帯責任だよ。」

 あやも、雁子も、お互いに譲るつもりはないようです。

「わかったわ、みんなで富子さまを、お衛りしましょうね。」

「そうだよ。それでいいんだ。」


 春の日差しは、芽吹き始めた若葉の隙間から、四人を温かく照らしました。

「のう麗子どの?」

「麗子と呼び捨ててくださいな。」

「では麗子、あれはなんじゃろう?」

 テラスから見える重厚な建物を、富子は見つけたようです。

 赤ちゃんのような、白くてぷっくりした指が、指し示しました。

「はい、あれは音楽堂です。」

「と言うと、ピアノやヴァイオリンやらを奏でるところかの?」

「左様でございます。」

「麗子はなにが得意かの?」

「私はフルートです。ピアノは、足がペダルに届きませんので、苦手です。」

「なるほどのう、それでは一度聞かせてもらおうかのう。」

「はい、いずれの機会に。ああ、六月には、全校のクラス対抗音楽祭がございますよ。まだ出し物は決まっておりませんが。」

「それは楽しみじゃの。」


 広いキャンパスも、こうして回るとあっという間のような気がします。

 でも、細かく見て回れば、説明しきれないモノも多くあり、特に演劇部のお稽古や、茶道部のお手前などは、一見の価値があります。

 まあ、今日だけのことではないので、おいおい見せにまわりましょう。

 富子さまは、現在赤坂のホテルのスイートに滞在されていらっしゃるということでしたが、近々近くのマンションに移る予定とのことでした。

「じゃあ、お食事なんかは、どうされるんですかあ?まさか、ご自分でなさる訳にもいきませんでしょう?」

 雁子は、純粋に疑問に思ったようです。

「雁子、マンションと言っても、ピンキリでしょ?ウチみたいに、広く取っているんじゃないの?使用人も入れるように。」

「ああ、なるほど、そういうこと?。ウチの家政婦さんは通いだからねー。」

 麗子の家も、赤坂にあるマンションですが、父親が国会議員であり、地元から訪れる人も多いため、ワンフロアを使いやすいように仕切って使っています。

 事務所兼住居ということです。

「まあ、うちも、忙しくなると外から通いの人も入るし、普段でも秘書や家政婦は住み込みでいるもの。階下に、秘書や書生の部屋もとっているしね。」

「のう、麗子の家はどこなのじゃ?」

「あ、はい、ウチは赤坂にございます。」

「おお、そうか、私のホテルも赤坂というらしいぞ。のう、麗子…」

「はい?」


「その…麗子の家に行ってはいかんかの?」

「ウチへですか?まあ、私はかまいませんが、両親が腰を抜かすのではないでしょうか?」

「さようか?それでは悪いのう…」

 三人は吹き出してしまいました。

「モノのたとえでございますよ。ええ、どうぞいらしてくださいませ。歓迎いたしましてよ。」

「おお!そうかそうか、楽しみじゃのう。」

「麗子御姉さま!こちらにいらしたんですか?」

 近藤ゆう・土方遙(はるか)沖田馨(かおる)の三人が、駆け寄ってきました。

 三人とも一年A組の生徒です。

 いずれも、ワキサカ傘下の会社社長の娘ですが、麗子のお館組として、新たに精華学園にやってきた新入生です。


「あらみなさん、どうなさったの?」

「はい、聖護院(しょうごいん)さまをご案内していらっしゃると伺いましたので、お手伝いに参りました。」

「そう?では、これから富子さまと、私の家にまいります。みなさんも、ご一緒してくださいね。」

 麗子が笑いながら言うと、三人はかしこまってうなずきました。

「お茶菓子は、なにがいいかしら?」

「八丁堀の亀屋は?」

 雁子が、元気に提案します。

「和菓子二連発はまずいでしょう?」

 あやは、少し困った顔をしています。

「わかりました、じゃあ、ゆうさん、四丁目の「しろたえ」で、レアチーズケーキと、タルトタタン、シュークリームを各十個ずつ買ってきてくださいな。もちろん、(はるか)さんも(かおる)さんもお手伝いして。」

「「「はい!」」」

 三人は元気に答えました。


 麗子は、通学カバンから赤いポチ袋を出して(はるか)に渡しました。

「これで、支払いはお願いね。」

 上方生まれの麗子は、こういう小物は絶えず常備しています。

 そのときの状況に合わせて、支払いしやすいように色分けがしてありました。

 遙は、両手で押し頂いて、しっかりうなずきました。

「麗子、『しろたえ』でいいの?」

 雁子は心配そうに聞きました。麗子は鷹揚に笑って、雁子を見上げました。

「いいのよ、富子さまに一般のお味を試していただきましょう。」

「あ、そりゃいいね。さんせい。」

 顔に似合わず。けっこう大胆なというか、豪快なことを考える麗子でした。


耶柚(やゆ)寿美(すみ)はどうするの?」

 あやは、グループのメンバーを上げていました。

 尼ヶ崎耶柚あまがさきやゆは、尼ケ崎プランテーションと言う、大規模農業法人の理事長の孫ですが、ワキサカ傘下ではありません。

 西ノ宮寿美は、西ノ宮海運と言う、瀬戸内海を運行するフェリー会社の社長の娘です。

「もちろん、呼んであるわよ。」

 麗子は、携帯を持ち上げて言いました。

 携帯からは、メールが送信されていたことは、言うまでもありません。

 一行がマンションにつく頃には、二人はエントランスのソファに座っていました。

「あ、麗子、おかえりー。」

 耶柚は、くつろいだ様子で、ソファから手を振りました。

 が、その後ろから現れた姿を見て、急に立ち上がりました。


「しょ、聖護院さま、ごきげんよう。」

 噛みながらも、耶柚は富子に挨拶をしました。

 麗子は、そんな耶柚を、富子に紹介しました。

「富子さま、尼ヶ崎耶柚でございます。同じクラスですよ。」

「おお、そうであったかの?富子じゃ、よしなにの。」

「は、はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします。」

「そして、こちらが西ノ宮寿美でございます。」

「おお、西ノ宮どのは、見覚えがおじゃる。よしなにたのむぞよ。」

「はい、光栄でございますわ、聖護院さま。」

 ひとしきり、ロビーでの挨拶が終わる頃、ゆう、遙、馨の三人がやってきました。


「お待たせいたしまして、申し訳ございません。」

 近藤ゆうは、あわてながらも、精華学園の生徒らしく、優雅にお辞儀をしました。

「いいえ、だいじょうぶですよ。ちょうど、尼ヶ崎さんと西ノ宮さんを、ご紹介していたところですよ。さあ、それではまいりましょうか。」

 富子は、にこにこと頷くと、麗子の後についてきました。

 ロビーの中程には、エレベーターホールがあって、絶えず乗客のために口を開けて待っています。

 一同が一緒に乗っても、余裕のあるつくりで、するすると音もなく上昇を始めました。

 一年生三人が持った箱からは、甘い生クリームの香りが漂って、エレベーターの中を満たしました。

「よい香りじゃのう。」

「富子さまのお越しに間に合って、ようございましたね。彼女たちが、一生懸命走ってくださったので、早く到着してくれましたわ。」

「そうじゃの、みな、私のためによう走ってくれたのう。この通り、感謝しておるぞ。」

「も、もったいのうございます。」

 ゆうをはじめ、遙も馨も恐縮して、頭を下げます。


 ほどなくして、エレベーターは十二階に到着し、広い廊下にはまだ日差しが差し込んでいました。

 思いのほか案内に時間はかかっていなかったようです。時刻は午後四時を少し回ったところでした。

 事務所の前を通り過ぎ、自宅の玄関からリビングに向かったところ、父親のやや上ずった声が聞こえてきました。

 めずらしく、こんな時間に自宅に居ます。

「な、なんですと、片岡さん、それは…」

 片岡のお兄さまがおみえなのでしょうか?

「まあ、そうあわてんと聞いてください。これは、新年のお商売のときに思ったんどす。土方君は、政治向きより商売に向いてはんにゃないかと。」

「いや、しかし、彼はうちの門戸をたたいたわけですし。」

「それはわかりますが、彼は麗子ちゃんの婿がねとしても、ここで仕事をさせることは、不都合でしょう。ぜひ、僕の手元で育てたいんですわ。ご迷惑は、じゅうじゅう承知の上で、どうか僕に任せてくれまへんやろか。」

「麗子の婿がね?」

「ええ、あの二人は、互いに憎からず想っているようですしね、うちの麗は、もうはいそのつもりになってはりますえ。」

「なんと、そんなことまで?脇坂本家は、どのような心積もりなんでしょうな。」


「まあ、土方君が独り立ちして、麗子ちゃんのお世話する人が、たとえば雪絵さんのようなひとが、雇用できるレベルにしようと思っています。」

「…」

「お兄さま、麗子は家の中なら、一人でもなんとかなりますわ。」

「おや、麗子ちゃん、おかえりやす。」

 透吾お兄さまは、まるで悪びれたようすもなく、にこにことして麗子を見ました。

「お兄さま、いらっしゃいまし。お父様、お客様ですわ。今日転入していらっしゃいました、聖護院(しょうごいん)富子(とみこ)さまです。」

「しょ、聖護院?」

 父はがたりと音を立てて、ソファから立ち上がりました。もちろん、お兄さまも立ち上がって、富子さまに一礼されました。

「その言葉は、都の方かのう?」

「へえ、姉小路にございます。」

「さようか、私は吉田山のふもとでおじゃる。」

「それは、ようこそおこしやす。片岡透吾でございます。」


「うむ、なにやら良からぬ相談かの?麗子の名前も出ておったようじゃが。」

「はい、左様でございますね。麗子さんの縁談でございますよ。」

「なんとなんと、麗子に縁談とな。私も縁談がおこっての、ここに見学に来たのじゃ。」

「それは、おめでとうございます、よろしゅうございますか?みなさまお待ちのご様子ですが。」

「そうじゃそうじゃ、麗子の部屋に行くのじゃ。」

 富子は、いかにも楽しそうに、ほほえみました。

「さようでございますか。はや、お友達になられましたか?」

「そうよな、麗子はよい子じゃぞ、片岡どの。」

「光栄でございます。私の妻のいとこ殿でございます。」

「なんとのう、よい『いとこ殿』をお持ちじゃ。」

 透吾は、だまって頭を下げました。それを合図に、富子はきびすを返して部屋を出ました。


 麗子は、自分の心臓が口から飛び出るのではないかと心配になりました。

 まさか、土方が自分のことを気にしているなどと、思ってもいなかったことです。

 いえ、でもそうなりたいと思ったことでもありました。

 複雑です。自分の目の前にそれが並べられると、はたしてどうしたものか…そう思っている間に、麗子は部屋の前に来ていました。

 麗子が部屋に入ってみると、なんと、雁子はちゃっかりと、みなを部屋に通し、雪絵さんから座布団などをせしめて、全員を座らせていたのでした。

「「「おねえさまっ!縁談がおありなら、どうしてお話してくださらないの?」」」

 一年生三人の異口同音の言葉が、麗子の車いすが敷居をくぐると同時に聞こえてきました。

「そうだよ麗子、水臭いなあ。あたしにくらい、教えてくれてもいいだろうに。」

「ちょ、ちょっと待っといやす。ウチは、別に内緒にしてたわけやないよー。」

 慌てた麗子の口は、関西になっていました。

「そうなの?」

「縁談のことは、いま初めて聞いたくらいやし。」

「麗子、びっくりして言葉が戻ってるわよ。」

「うえ?」


「それで、どうなのじゃ?縁談の相手は、どのようなおのこなのじゃ?」

「富子さままで~。」

「それはそうであろ?私の相手など、顔も知らぬ男子(おのこ)ぞよ。それに比べれば、麗子はどうやら見知った相手の様子…」

 富子さまは、口に手を添えて、さも嬉しそうに「にしし」と笑いました。

 雁子も、興味津々。

「そうだよ~、富子さまのおっしゃるとおり。ねね、話はどこまで進んでいるのよ。」

「だーかーらー、私もいま知ったばかりで、びっくりしているんだから。」

 え~~ん、なんとかしてよう。

 そこへ、控えめなノックの音がしました。ドアの向こうから声がします。

「麗子ちゃん、僕やけど。」


「あ、はいお兄様。どうぞ。」

 ドアから顔を出したのは、透吾お兄さま。

 相変わらずののっぽさん。麗子は、車椅子を回して迎えました。

「ああ、ごめんなぁ、お客様やのに。突然でびっくりしたやろうけど、僕はまじめな話を持ってきたんやから、麗子ちゃんもまじめに考えてな。それと、土方くんは、僕がもらったよって、もうじきここから移ってもらうしな。」

 片岡のお兄さまは、それだけ言うと、首をひっこめました。

 土方さんは、階下から引越しするようです。なんとなく、体の半分がすかすかしたカンジになって、少し肌寒い感触が這い登ってきました。

 かなり精神的に動揺しているようです。

 精華学園の制服は、華美ではありませんが、下着にはこだわる人が多く、麗子はシルクのシュミーズと決めていて、ペチコートも一枚以上使用しています。

 それは、精華の制服が昔ながらのセ-ラー服で、しかも麗子のスカートが長めなことに起因します。

 あまり着る人もいないかと思いきや、麗子の周りにはシュミーズ派がたくさんいて、もちろんペチコートも一枚二枚は当たり前。

 三枚というツワモノまで出てくる始末で、みんな思い入れがたっぷり。

 雁子は、ペチコートはなしですが、シュミーズはシルク。

 あやも、耶柚もペチコートは一枚、寿美は三枚!もう、ふわふわです。


 ほかのクラスには、シュミーズもペチコートもなしで、しかもスカートがひざ上二十センチなどという不埒な生徒もいますが、麗子のクラスは平均的にひざ下スカートが主流です。

 富子さまも、当然ひざ下ですし、お見かけしたところきっちりシュミーズもペチコートもご使用の様子です。

 けして狭くはないはずの麗子の部屋に、九人の精華の生徒が座ると、それはもう花が開いたようにスカートが丸くなって場所を取るものですから、衣擦れの音も重なって、大変な状態です。

 フローリングの床に、厚手の絨毯がひいてあるので、それでも特に問題はありません。

「狭いとお思いでしょうが、一般的なマンションの部屋と言うものは、このような規模のものが普通と申せます。いかがですか?富子さま。」

「そうじゃのう、特に不具合は感じぬがの。人間、起きて半畳、寝て一畳と申すではないか。人が暮らすのに、それほどの広さが必要なものなのかのう?」

 富子は、ぐるりと見回して言いました。

「麗子の部屋は、けっこう広いほうだと思うけどなあ。約十畳前後でしょう?」

「ええまあ、私は車椅子で移動するから、余計なものは置けないし。」


「ああ、そうか~、ごめ~ん。」

「雁子、なんだか謝ってるように聞こえないわよ。」

「あったりまえ~、あたしと麗子の仲だもん。そんなの、わかってるじゃん。」

「まったく、こまったものだわ。」

 あやも、ため息で吹き飛ばしながら、笑ってすましています。

 このあたり、一年前とはかなり違ってきています。お互いに、気心が知れているということでしょうか。

 あやも雁子も、一緒にパリを歩いた仲でもあり、共通の話題もたくさんできました。

 ですから、ここまでなら言ってもいいという、境界線が見えているのですね。

 麗子が、むっとするぎりぎりの線と言うことですね。

 ですから、怒るに怒れないという、ストレスの溜まる状態でもありそう。


 部屋の中には、明るい笑いがこだましています。

「のう、麗子、それで縁談の相手とは、どのような人なのじゃ?なにやら、憎からぬ相手と言うておったではないか、よく知っておるのであろ?そうであろ?」

「ま、まだ覚えていらしたの?困りましたわね~。」

「そうだよー、麗子、ひょっとしてパリに行くとき、日本で用意を手伝ってくれた、あの人じゃないの?」

 雁子の言葉に、あやが反応しました。

「ああ、あの人?ちょっと色の白い、おしょうゆ系のひと。ハンサムって言うより、美男子ってカンジよね。」

「うわ~、お姉さま、そんな方がいらしたの?」

 (かおる)は、目をきらきらさせています。女子校であるせいもあって、そういう話題には飢えている子が多いのも事実。かっこうのエサといえるでしょう。

「浮いたウワサひとつ聞こえてこないお姉さまなので、心配していましたのに、けっこうやるもんですわねー」

 ゆうは、紅茶のカップを持ち上げて、優雅に言いました。遥があわててフォローしようとしていますが、大失敗。

「でもでも、十七歳で婚約は早くないですかー?」

 しょうがないので、やさしく修正。

「まあ、そうよね。議員の娘なんかやってると、そう言うお話はいっぱい聞こえてきますよ。それは、実際にお式を挙げるのは、二十歳を過ぎてからですけど、家同士の結びつきとか利害関係とか、政略とかはあたりまえですもの。」


「は~~~~、お姉さま、さめていらっしゃるの?」

「ううん、ただ、自分の希望通りに縁談が進むばかりではないと言うことですよ。時には二十歳もトシが離れていることだって、あるんですから。」

「私もそうなんでしょうか?」

「あら、馨さんには、そういうお話があるの?」

「いえ、ただウチは会津の旧家ですし、代々の造り酒屋兼蔵元ですから、そういうお話もあるのかと…」

「どうしても意に染まぬときは、私におっしゃい、なんとかしてさしあげるから。」

「ほんとですか、お姉さま。」

「もちろんよ、片岡のお兄様お姉さまは、ほんとうに頼りになるんですもの。ウチの父より話がわかってくださいますし。お顔も広いですわよ。」

「なるほど~、こう言うとき脇坂本家とつながりがあると、心強いね。」

「雁子、でもそれは、努力してダメだったときに使う手だよ。」

「耶柚は、まじめだなー。」

「それで、そのおしょうゆさんは、どんな人なの?」

 寿美は、また話を元に戻してしまいました。


 麗子は、ケーキを勧めながら、仕方なく口を開きました。

「土方さんは、父の秘書として去年の春から、書生のように下宿しながら働いていた人ですよ。まあ、美男子で背が高くて、物腰も柔らかい素敵な人です。」

「へえ~、麗子が手放しでほめてるよ~、意外。」

「でもね、大学出たての二十三歳。貧乏ですよ。」

「そんな人に、どうして麗子との縁談なんかくるの?」

「さあ?お兄さまがなにを考えていらっしゃるのか、麗子にもわかりませんよ。ただ、父の秘書から、カタオカの事務所に移ったことは間違いありませんから、なにかとんでもないことを考えているんでしょうね。」

「トンデモねえ?また、パリの展示会みたいなこと?」

「それもあるでしょう。それ以外にも、片岡のお兄さまは、食器の輸入やM&Aなどにも手を出してらっしゃいますもの。」

「企業買収ねえ。」

 寿美は首をひねりました。


「敵対的買収?」

「はい、しかもかなり前からです。」

「それは、誰が?どうして…」

「わかりません。しかし、確実にわが社の株式が買われていることは、間違いがないようです。」

 社長秘書は、自分の指先が冷たくなっていることに気がつきました。

 もちろん、社長はさらに紙のような顔色で、秘書を見つめ返しています。

「どうしてそれがわかったんだ?」

「ここ一年のわが社の株の値動きですが、徐々に上がってきています。信用の置ける調査会社に依頼して調べさせましたところ、誰かが意図的に株を買っているらしいということがわかりました。」

「一年…」

 それが、長いのか短いのか、判断に苦しむような時間でもあります。社長の額には、それが物語られるように、深いしわが刻まれていました。

「近日中にどうこうという動きがあるようには思われませんが、あるいは過半数を超えたところで、一気に乗り込んでくる可能性はあります。」

「サネイと言えば、業界では中堅の下着メーカーだ、M&Aの対象になるとも思えないのだがな。」


「おっしゃるとおりです。」

 サネイは、昭和末期に独立した下着メーカーで、中堅ながら堅実な経営でバブルを乗り切ってきました。

 昨年売り上げも、対前年度比三%増という、不況下においてもなお堅実な経営をみせているのは、社長の石橋をたたいてこねて丸めるような性格のせいだと、業界ではもっぱらのウワサです。

 五年まえ売り出した、形状記憶素材のブラとショーツのセットは、かなりのヒットを呼び、そのときの成果を評価されて、社長に抜擢された平取締役でした。

 超はつかないまでも、そこそこ高級なイメージで戦略をねり、ワゴン販売には参加しない本物を目指してきました。

 ですから、M&Aに目をつけられても、営業形態が確立されていて、取り扱いに困る相手でもあると思われるのです。

「わかった、引き続き調査してくれ。」

「はい、あ、社長。」

「なんだ?」

「うちに出資している最大の株主は、脇坂の二〇%ですが、まさか脇坂が役員を送り込もうとかは考えられませんね。」

「脇坂は、個人的な投資をしてくれているんだが、グループとは関わりが無いはずだ。」


「では、脇坂がそれを売却する恐れは…」

「ない。」

 秘書は、ため息をついて、社長室を出ました。社長室と呼ぶには、若干狭いとも思える部屋でしたが、社長はそれに文句をつけることはありませんでした。

 この部屋の住人になって三年、まさか自分の代になって戦略的に侵略されることが起こるとは、晴天の霹靂と言うべきでしょう。

 油断がありました。役員会でも、乗っ取り防衛策など、話に登ったこともありませんでした。

 いざ、それが目の前に現れてみると、何をしていいのかわからなくなりそうです。

 この際は、グループに吸収されてでも、脇坂に援護を頼むしか方法はないように思われました。

「ホワイトナイト…しかし、それを依頼できるほどの実績は…」

 ありません。

 堅実に営業してきたことしか、この会社に誇れるものはなかったのです。

 千葉九十九里にかまえた自社工場での一〇〇%国内生産も、サネイのウリのひとつで、千葉のおばちゃんたちのお針子は、二〇年もこの仕事に携わったベテランばかり。そこから生み出される奇跡のような縫製品は遠くアメリカやヨーロッパにも輸出されています。もちろん、バーゲン対象外です。

 そこまでしても、中堅の位置に居るのは、工場で生産できる総量が、ふやせないからです。慢性的な人手不足、お針子の養成にも時間がかかります。また、工場を増設して製品を増やすことは、品質の問題から考えられません。いきおい、ジレンマに陥るのです。社長は、自分が現役のウチは、このままで行こうと硬く心に決めていました。


「脇坂…か。」

 脇坂の当主、脇坂要氏は、多くの企業を抱える複合コングロマリットの総帥として君臨し、また、グループ以外の優良企業にも投資する、雲の上の存在です。その裾野は広く、向こうは霞んで見えません。また、その頂ははるか高みにあって、近年顔を見たと言う人を知りません。

 もちろん、社長も顔を見たことはありません。

 また、サネイの株は娘の麗の名義になっています。

 うわさでは、最近結婚して脇坂の家を出たらしいのですが、ウワサはウワサですから、社長はそこから思考を発展させるような愚は犯しません。

「まさかな…」

 ビルの窓から道路を見下ろして、社長は愚にもつかないことを思った、自分を笑いました。

 水面下で動いているのはどういう人物なのか、また、過半数を手に入れたとき、彼らはどう行動するのか、予想の範囲でしかありません。

 作業服に着替えれば、そのまま街工場のおじちゃんにしか見えない、人のよさそうな顔。

 創業者一族が、それこそ町工場から育てて、下請けから独立まで二〇年。独立から株式上場まで十七年。

「これで乗っ取りなんてことになったら、創業者一族は怨むだろうなあ。」

 社長さん、そういう問題でしょうか?

「いや、もちろん社員の身分や、安全が第一だけどね。」

 しかし、A型の小心者には、荷が勝ちすぎたようで、社長は胃がきりきりと痛んでくるのでした。


 一方、こちらは相変わらずの、カタオカオフィス。

「ダンさん、サネイの株購入、ばれてきたみたいですけど、どないしますー?」

 佐織は、勢い良く振り返って、透吾に聞きました。

「ばれてきたって、対抗買いでも入ってはるのか?」

「なんや、もんでますよー。」

「ふうん、今の保有株は?」

「三百二十万株です。」

「あと、百五十万株はほしいなあ。」

「ここは、全面乗っ取りしますの?」

「そうやー。一年前から少しずつ買い込んできたけど、秋から大量に買い込んだよって、そらばれるやろなあ。個人投資家やし、あんま派手にしとうはなかったんやけど。しゃあない、もう少ししてばれたら公開買い付けにまわそかな。」

「今でも、役員二~三人は送り込めるじゃない。少し様子を見たら?」

「う~ん、この会社なあ、よしこちゃんが執着してるねン。僕も資金出してるけど、半分はよしこちゃんの資金やよー。」

「へえ、なんでまたこんな小さなっちゃあなんだけど、会社にさあ。」

 奈美子も首をひねっています。

「そやけど、ここの製品はいいですよ~。ウチも使うてますけど、安売りしませんもん。」


 沙織も、よしこには譲るものの、けっこうな巨乳系ですから、下着は気になっているようです。

「大阪人の佐織に値切らせないっていうのは、たいしたもんだね。」

「所長それ、ほめてます?」

「ああ、おおいにほめてるよ~。じゃあ、あたしも投資する。よっちゃンが困らないように、向こうの事務所から買いに入るよ。」

「あんまり揉むと、値段が上がるよ~。」

「まかしとけって、百件くらい電話して、小口で買いに入るから。そいでさ、委任状ばんばん書けばいいんだろ?」

「ふうん、まあ過半数取れれば、どんなんでもええけど。」

「旦那さんも、欲がおまへんなあ。」

「あほやね、酷いことすると、社員の総スカンくらって、会社自体がパアってことにもなりまねへんえ。」

「なるほど。」

「佐織も投資するか?」

「えへへ~、とっくに二百万円ほど買ってます~。」

「へえ、上がり幅は?」


「ええまあ、千二百円が千三百八十円ですね。」

「お~~、月収ぐらいは儲かってはるねえ。」

「でしょ?これ、半年前の値段ですねん。」

「そうか、半年で百八十円上がったか。そやし、この半月で五百円以上あげたるわ~。」

「え~、千七百円ですかー?」

「そや、公開買い付けになったら、二千五百円つけたるわ。どや?」

「うひゃ~、二百万が四百万ですがなー。」

「それで、もう少し株を増やすか?そしたら、配当もアップするし。」

「そうですねえ。結婚してもこの仕事してもええですか?」

「そらええわー。重労働やないしな、赤ちゃん見ながらできる仕事やよ。」

「うわ~、おおきに旦那さん。今度の儲けは結婚資金に当てようかな~?」

「あらま、欲がないねえ。いつごろ式あげる?」

「やっぱり、秋ごろがいいですねえ。みなさん、着るものに苦労せんでもええもん。」

「そうやな、十月か十一月がええな。」

「うひょ~、こっぱずかし~。」


「なんでやねん、ほなら僕が打ちかけ買うたるわ~。お父さんの店やったら安ぅ入るし。きれいやろうなあ佐織。」

「う、打ち掛けって、そんなん結婚式終わったら、どこにしまうんですか~!せまいアパートに入りませんよ~。」

 佐織は濃い眉をハの字に曲げて困っています。

「ほならや~、ウチの大広間にでも飾っておけばええ。ちゃあんと、佐織の名前を書いておくよって、だれのかわかるし。」

「そんなんせんでも、うちかけ買う分は、祝儀にしてくださいよ~。」

「アホ、祝儀は祝儀で出したるわい。心配せんとき。」

「ああもう、無駄が好きなお人やねんから~、かんべんしてくださいよ~。」

「そやし、あんま使うところもないしな~、新しいスタッフも、土方君しか居てへんし。」

 その土方は、よしこと外回りに出ていて、お昼近くになって事務所に戻りました。

「ただいま戻りましたー、はあー、外はあったこうて、ええ天気やよー。」

「おかえり、どうだった?」

「へえ、三カ所回ってみましたけど、どうも便乗買いらしいんどす。そやし、このまま買い進めても特に問題はあらへんと思いますえ。」

「わかったよ、今度はあたしが買いに入ってもいいかい?」

「へえ、そうどすな、同じ人間ばかりが買うのも目立ちすぎますわな。そうそう、土方はんも買いに入ってもらったらどうどす?」


 よしこは、透吾に向かって、聞きました。

「そうやな、土方君、なんぼくらい貸し出ししよか?」

「ええ~、失敗したら自分もちですか~?」

「そらそうや、人生賭けなバクチは面白うないやろ。」

「うげげ、それじゃ三億ほど貸してください、僕の生涯収入はそのくらいでしょうから。」

 土方は、そうとうなバクチ人生を送るつもりなんでしょうか?

「こらまた大きく出たなあ。よっしゃ、貸しまひょ。それでどんと買いこんでおくなはれ。年利は〇.三%にまけたるわ~。」

「わかりました、じゃあ、地方も含めて買いに入ります。」

「どや、奈美子はん、土方君は度胸があるやろ。」

「まったくだ、日野の生まれだって?江戸っ子だね~。」

「多摩のはずれですよ。」


「じゃあ、今度はあたしと佐織に同行して、大阪の証券会社を回ろう。そこで、どんと買いこんで、来月アタマぐらいに公開買い付けってことでどうだい?透吾。」

「そうやね、そろそろバーンと開けてまおか。どうや?よしこちゃん。」

「そうどすなー、今日の分で四十六%どすか。そしたら、奈美子さんと土方君のぶんで五十%を越えますな~。公開買い付けの必要はおへんわー。」

「え~、よっちゃん、今日そんなに買ったの~?」

「へえ、こんな中堅の会社に一年もかけてしもて、おお手間どした。もうそろそろ、結果を出してもええんとちゃいますか?」

「しかし、なんでこんな下着メーカーがほしいのさ?」

「へえ、ウチと佐織の長年の悩みどす。」

「悩み?」

「へえ、ウチらのサイズにかわいいブラがおへんの!そやし、この会社を買収して、ウチのサイズのかわいいブラを作らせようと思いましたん。」

「うひゃ~、そんなのオーダーメイドで作らせれば良かったんじゃないの?」

「まあ、ウチだけならそれでもええんどすけど、やっぱ、全国の同じ悩みの女性に、提供したいやおへんか。」

「そらまあ、そうだけど。」

「どすやろ?そやさかい、ウチは今回がんばっているんどす。佐織も、おばさん色のブラばっかりで、うんざりしてはるんどす。」

「そうなの?」


「そうですー。十代二十代の巨乳ちゃんたちは、みんな同じ悩みをもってるんですー。おばさんベージュしかないようなサイズって、ホンマにこまるんです。」

「そうかー、そりゃ大変だね。」

「下着業界にセンセーションを!」

「僕は蚊帳の外やな~。」

「ま、旦那はんは、儲かるよって、ええやないですか。」

「そうやね~、よしこちゃんの努力にはアタマが下がるわー。」

「うわ~、今の買いで、株価が三百円高ですよ。」

「そりゃしゃあないわ、明日になればもっと上がる可能性もあるし。」

「じゃあ、今から出発するよ、みんな着替えを用意して、一時間後に東京駅に集合。」

「「アイアイサー!」」


「…別に、電話でもええのにな。」

「奈美子はん、旅行気分なんでしょ。ほっときよし。梅田で、なにかおいしいもの食べはる気ィなんやしー。」

「まあ、そうやな。ぼくらも京都にでも行ってこよか。」

「ほんま?うれしおすー。着物買うとくれやす。」

「ええよー、ほな、佐織の打ち掛けも探してこようや~。」

「打ちかけ?」

「そうや、結婚式に着るやつ。秋に結婚したいそうやよ。」

「あら、おめでたい。ほな、室町通りで探してあげましょ。」

「そうやなー、西陣に僕の友人が染色の工房出してはるから、そこで見繕ってみよかな。よしこちゃんの着物もな。」

「うれしい~。ほな、さっそく出かけまひょ。」

「おいおい、お昼はどないする?」

「そんなん、新幹線の中でもよろしおす。えっと、着替えはええけど、下着は…」


 よしこは、事務所のロッカーをごそごそと探して、巾着に入れました。

「そんなん、事務所のロッカーに用意してあるん?」

「ええまあ、さっきも言うたけど、サイズが少ないよって、いつもお店にあるとはかぎりまへん。いざというときのために、ちゃんとキープしておくんは、基本どす。」

「へえへえ、わかった。ほな、松本屋に電話しておくし。」

「へえ、よろしゅう。あ、事務所の鍵は?」

「ああ、たのむし。」

 あっという間に行動できるのは、事務所の人間がこれだけしか居ないからですが、まったく呑気なものです。

 発言通り、一行は一時間後には車中の人となっていました。

 しかし、この一日の間に、対抗買いが始まったのでした。



 二人は、三条堺町のイノダコーヒで、この情報を手にしました。

 よしこはタイトなスーツに身を包んで、PDAから目を上げました。

「現在、四十八%のところで、対抗買いが入って、どうしても過半数に伸びへんのどす。」

「ふむ…これは、旗色が悪いなあ。経営権参入はできるけどなあ。」

「それでは、自由な裁量ができしまへん。どないしまひょ?」

「こればっかしは、しとうなかったけど、麗に頼んで彼女の持ってはる株を譲ってもらおかなあ。」

「麗さんお姉さんの株どすか?」

「ああ、たぶん二十%くらいはあるはずなんやけど。」

「それを早う言うてくれたら、こんな苦労は無かったのに。」

「そやし、身内で取引はなあ…」

「ほな、どないしやはんの?」

「この際、公開買い付けに踏み切ろうと思う。その上で、カタオカの名前も表に出す。それで、麗が買い付けに手ぇあげてくれれば『よし』と言うことでどうや?」


「ま、なんでもよろしいわ。そろそろ買い付けも厳しい状況どす。その手で行きまひょ。いつ発表します?」

「そやな、今日が木曜日…やっぱし来週早々かいなあ。」

 透吾は、テーブルの上のカップを持ち上げて、のんきな顔をしています。

 よしこもそれには慣れたもので、動揺は顔に出さずに、カップを持ち上げました。

 ミルクの効いた濃い味が口に広がって、よしこはほうと息をはきました。

「こっちも桜は八重しかおへんなぁ。」

「まあ、時期が時期やよってな。まだ、吉野の上千本は咲いてはるんとちがう?」

「そうどすなー、打ち掛け見たらいっぺん行ってみまひょ、どうせ敵さんも、土日は動きできしまへんやろ。こう買いが進むと、奈美子はんの買い付けも、比例配分になりそうどすし。」

「そやなー、明日の具合で、吉野に出かけよかな。」

「それがよろしおす。」

 立ち上がった透吾に寄り添うように、よしこはいすを引きました。

 透吾の実家である、姉小路泉屋は通りを一本上がったところにあります。

 平日と言うのに、観光客は路地を行き交い、老舗と言えども一見の客の対応で大忙しの春の午後。


 ぽくぽくと歩いて移動すると、知った顔もそこかしこに現れます。

「おや、透吾ぼん、おこしやす。今日はなんぞございましたか?」

「へえ、ご機嫌伺いどす。お母さんもお元気そうで。」

 などと言った会話が聞こえてきます。

 ふらりとやってきた二人に、いつものことと実家の両親や兄夫婦は淡々としたものです。

 透吾は透吾で、さっさと台所でお茶を飲み、店に上がって反物を物色などしています。

「これなんか、似合うんとちがう?」

 透吾は、鴇色の織り柄入りの反物を、よしこの肩に当てていました。

 悪趣味一歩手前なのに、背の高いよしこが当てると、不思議と上品に写ります。

「なんで、それが出てくるかなあ?僕は、それはデッドストックで、祇園祭に回そう思うてたんやのに。」

 透吾の兄、大吾は、その様子を見て、ため息をつきました。

「値段の割に、着る人を選ぶよって、売れへんと思うたのになあ。」


「着物の方が、よしこちゃんを選んだんとちゃう?」

「そう言うこともありかいなあ?」

「透吾ぼん、お茶は飲まはったよって、コーヒーはいかがどす?」

 兄嫁のさくらが、お盆を持って座敷にやってきました。

「へえ、おおきに。かやす(倒す)とあかんよって、そっちに置いておいてー。」

 透吾は、あてがった反物を器用に丸めると、大吾に渡しました。

「ほなこれで、お仕立てよろしゅう。五月に取りに来るわー。」

「わかった、ほなこんだけ。」

 電卓をのぞいて透吾は眉を寄せます。

「たっかいな~、こんだけでどや?」

「アカン、アカン。仕入れが割れてしまうやないか。一銭もまからん。」

「そやのーて、これでどうや?」

「うわ~、まいったなあ。しゃあない、ほんで支払いは、現金か~?」

「三桁とっといて、現金かはないやろ?ほな、このカードでよろしゅう。」


「へえ、まいどおおきに。」

 着物と言っても、反物だけ買ってそれでおしまいと言うわけにも行かないのもです。

 あれこれと、買い込んで西陣に向かったのは、夕暮れ時でした。

「透吾ぼん、現在価格千七百八十円で、比例配分三十五%になってます。」

「ふむ…ブ◎ドッグソースより高いやん。やっぱ公開買い付けは、二千五百円を上回るな。」

「どないしやはります?」

「ええわ、奈美子はんが、あんじょうしてくれはるやろ。三十五%の比例でも、ことと次第によればもう少し、保有率を上げられる。それに、株式増資は間にあわんやろ。ポイズンもダメ。ホワイトナイトも、出足が遅い。もう網の中やな。」

「まあねえ、経営陣を総換えとか考えてはるわけやなし、公開買い付け前に少し話しに行ってきますわ。」

「まあ、ほしいのはよっちゃんやし、そのへんの考え方は、まかせるわ。」

「へえ、健全経営の、ええ会社で、社長はんも堅実派で通った人どす。話せばわかるんとちゃいますか?」

「話し合ってくれればの話やけどな。」

「へえ、そうどすなあ。」


 その後、麗子はまたまた騒動に巻き込まれます。

 発端は、一本の電話。

「はい、麗子です。」

 お客様の最中にかかった電話なので、すぐに切ろうと思ったのですが、相手は麗お姉さま。

「ちょっと、麗子ちゃん、明後日はお休みどすな?」

 いつになく怒った様子が迫力あります。

「はあ、はい、そうですが。」

「ほな、あさってとその次(土日)、空けておくなはれ。ええな。」

「へ?」

「今からそっち行くし、ほなな。」

 唐突に電話は切れました。

「ちょ、ちょっとお姉さま!…ああ、切れてる。」


「麗お姉さま?」

「そうなの、今からこちらにいらっしゃるって。」

「ほう、それは麗子の従姉どのかえ?」

「はい、脇坂の…今は片岡の麗お姉さまです。すごく怒ってらして、どうなさったんでしょう?」

「麗子なにかしたの?」

 耶柚は、肩をすくめて聞きました。

「だって、ここのところ連絡もなかったのよ。」

「う~~~ん、どうしたんだろう?」

「何はともあれ、富子さまがいらっしゃるのに、どうしましょう?」

「ああ、よいぞ。富子はすぐそこがホテルでおじゃる。道はわかるし、警護の者も外におる。心配はいらんぞよ、もともと急にお邪魔したのじゃからの。また、寄ってもよいかの?」

「もちろんです。いつでもお待ちいたしておりますわ。」

「それではの、富子はホテルに戻るでおじゃる。」


「あや、雁子、耶柚、寿美、警護の人が来るまで、一緒にお見送りしましょう。ゆう、遥、馨私の椅子をお願い。」

 一同一斉に立ち上がりました。

 エレベーターを通って、一階に降りるとすぐさま私服の警官が近寄ってきました。

 制服の警官は、エントランスの前に立っています。

 ダークスーツで角ばった顔のSPが、頭を下げました。

「富子さまはホテルにお戻りです。どうか、道中よろしくお願いします。」

「心得ました。ご同行はされますか。」

「あや、寿美お願い。」

「承知。」

「御意。」

 二人は、富子さまの両脇を固めました。


「ゆう、遥、背後を。」

「「御意。」」

 二人は、富子さまの後ろに立ちました。

「それでは、御来所ありがとうございました。富子様、お気をつけて。」

「うむ、じゃましたの。では、また。」

 富子さまは、にこにこと福福しく笑って、マンションを後にしました。

 制服警官も、あからさまにほっとしたようにため息をつきました。ご苦労様です。

「さて、雁子、耶柚、馨、戻りましょう。お姉さまがいらっしゃるのに、部屋があのままでは困りますし。」

「そうね、リビングにでも移動しようか?」

「そうねえ、お父様がいらっしゃらなかったらそうしましょう。」

 十二階に戻ると、父は事務所に移動したようです。リビングには誰も居ませんでした。

 大きな三人がけソファーが四台並んでいて、いかにも人がたくさん入るようなリビングでは、いろいろな悪巧みがされてきたように、広々としています。


 雪絵さんに言って、部屋からケーキを運んでもらい、紅茶を新しくいれなおしてもらいました。

「富子さまがいらっしゃると、なんだか気を遣いますねー。」

 馨は、ほっとしたように口を開きました。

「しかたがないわ、私たちもあまり高貴なかたとはお付き合いがないもの。」

「麗さまはフランスの大統領ともお親しいのでしょう?」

「そうねー、なんだか十五歳も年上の、大統領の息子にプロポーズされたとか。笑い話にされていたわよ。」

「へえ~、十五歳も年上なのに?それで独身って、クセ悪すぎなんじゃないの?」

 雁子は、やっとケーキに手を出して、満足そうにしています。

「それよりも、そんな小娘に声をかける息子は、悪い人ですよ。」

 耶柚も、タルトにありつけて、満足そうです。


「悪い人ですにゃ~、そういえば、富子さま・シュークリームがお気にいったみたいね。黙々と食べてらしたわ。」

「そうね~、なんとなく素朴で素直で、ほっとけないわね。」

 耶柚は、富子さまに対して、そう評しています。

「基本的に、人がいいんでしょうね。周りが、気を遣っていて。」

 麗子の言葉に、二人はうなずきました。

 馨は、レアチーズケーキを幸せそうにほおばっていますし、みんなけっこう緊張していたのね。

 やがて、新宿から走ってきたタクシーは、麗子のマンションの前に止まりました。

 中からは、パステルグリーンの、春らしいスーツに身を包んだ麗お姉さま。袖口と、上着の裾から豪華なレースが顔をのぞけています。

 マノロ・◎ラニクの八センチヒールの音を、かつかつと響かせて、エントランスに着きました。


 やがて、インターホンが鳴ります。

「麗子ちゃん、開けてェー。」

「はい、いま開きます。」

 エントランスの扉は二重になっていて、最初の扉は誰でも入れて、ソファなどもあるので十分待合にできますが、それから奥は中から開けないと、扉が開かない構造になっています。もちろん、麗子たち住人はそれを開くセキュリティカードを持っているので、素通りできるのですが。

 麗お姉さまは、さっさとエレベーターに乗って、我が家に現れました。

「あらあら、お客様どしたん?ごめんねえ。」

「いいえ、みなさん承知ですから、どうぞお気になさらないで。」

「そうなん?あら、しろたえのケーキやね?ひとついただいてもええ?」

「ええ、どうぞ。いまお茶を…紅茶でよろしいかしら?」


「そうやね、お願い。」

 麗お姉さまは、そう言いつつソファに腰を下ろします。

「雁子は知っているし、この子は、尼崎耶柚と言って、尼崎プランテーションという大規模農場の娘さんです。そちらは、沖田馨、沖田酒造の取締役の娘さんです。」

「そう、尼崎さんは、うちとこのグループとはちがうんやね。」

「はい、まだまだ規模の小さな会社で、上場もしておりませんから。」

「農業法人は、これから伸びるジャンルやよって、ウチも期待してます。沖田酒造さんは、うちとこのグループに入ってはるね。」

「はい、私の父は創業者の従兄弟に当たります。」

「なるほど。よろしゅうお頼もうします。片岡麗どす。」

 二人は立ち上がって頭を下げました。

 富子さまとは違った威厳が、二人を立たせたのです。

 黒曜石のように澄んだ瞳を、まっすぐに向けて言葉をつむぐ姿は、犯しがたい気品があります。


 雪絵さんの運んできた紅茶に口をつけると、ほうと息を吐きました。

「ちょっとねえ、麗子ちゃん。明後日、京都まで付き合うて。」

 唐突にそんなこと言われても…

「さっきな、用事がおして、旦那はんに電話しましてんわ。そしたら、いま三条のイノダコーヒさんでコーヒ飲んだはるやて。信じられる?ウチに一言もなしに、いきなりそんなこと。」

「はあ、お兄さまは、フットワークが軽いから…」

「そう言うもんでもおへんえ。一言ぐらい声をかけるのが、夫婦のスジ言うもんと違いますか?」

「はあ、そうですねえ。」

「明後日、現場にいって、文句言うてあげますねん。」

「はあ…」

「透吾ぼんは、いっつもウチのこと後回しにしはって、くやしいわあ。」


「それと、私がお供することの、関連が…」

「一人で新幹線やら乗っても、面白ぅないもん!」

「はあ、そうですね。」

「そやさかい、麗子ちゃん、つきあいよし。」

「…しょうがないお姉さまですこと。わかりました、お付き合いします。」

「おおきに、ほしたら友禅の振袖買うたげるわー。」

「え~?そやかて、着るときがないやん。」

「もう、若い娘がそないなこと言わんとー、まあええわ、ほなおいしいものでも食べに行こなあ。」

 お姉さまは、簡単に麗子が同行すると決めてかかっていますが、富子さまのこととか気にかかることがいっぱいあるのに、どうしましょう?

 やがて、富子さまを送って行ったメンバーも戻ってきました。


「麗お姉さま、それではこの伊丹あやがご一緒します。麗子の椅子を押すものも必要ですから。」

「いいよ、あたしが行くから。あやは、富子さまの面倒を…」

「あなたたち二人が、富子さまの係りでしょ。麗子は大丈夫よ。」

 麗子がそう言うと、麗お姉さまが口を切りました。

「ほなら、そこの一年生ほか三人、あんたたちが着いておいなはれ、麗子ちゃんのお世話してもらいます。」

「「「はいっ!」」」

 三人は声をそろえて立ち上がりました。なぜ麗お姉さまが一年生とわかったかと言いますと、精華学園の制服は、スカーフの色が緑、青、赤と学年ごとに違っているからです。

 三人は緑のスカーフをしていますから、一年生と判断できるんですね。

「集合は、朝九時東京駅、ええね。」

 そう言って、麗お姉さまはさっさと部屋を出て行きました。


「うひゃ~、あいかわらずお姉さまは即断即決だねえ。」

「び、びっくりしましたー。雲の上の方なのに、私たちにまで声をかけてくださって。」

「馨なんか、恐かったよ~。チビリそうだったよ~。」

「迫力あるよねえ、まだ二十五歳なんでしょ?」

 耶柚は、目を丸くしています。

「お姉さま、ゆうがお供で本当にいいんでしょうか?」

「いいんじゃないですか、みなさんよろしくね。」

「はい、遥はがんばります。」

「ちょっと遥ちゃん、それじゃ馨とゆうががんばらないみたいじゃない。」

「え?そうかなあ?」

「そう言うときは、遥『も』がんばるって言うのよ。」

「あ~はいはい、わかりました。」


 寿美はすまして、レアチーズケーキを食べています。

「やっぱ『しろたえ』のレアチーズはおいしいねえ。」

 これにかちんときたのは雁子。

「なんであんただけ、ノンキにのほほんとしてるんだ!」

「いや、だってあたしはなにも言いつけられていないもの。土日は映画見てのんびりと…あてててて やめやめー!」

 みんなからぽかぽかされて、寿美は悲鳴を上げました。

「あんたも三人と一緒に麗子をフォローしろ!」

 雁子は、寿美に猛然と抗議しました。

 さてさて、また麗子の周りは、あわただしくなって参りました。


 金曜日は、何事もなく授業は過ぎ去り、ブラッスリーでのお食事会となりました。

 あいもかわらず、富子さまはいろいろなものに興味がおありの様子。

 一つ一つに質問と納得を繰り前しています。

「ほう、このように食事を済ますのは、初めてでおじゃる。なるほどのう、無駄がないのう。」

「私どもには、あまり量が多くないほうが、ありがたいのですわ。」

「しかし麗子は小食じゃの。そのように小さなボウルひとつで、夕方までもつのかの?」

「ええ、私にはこれで十分なのですよ。私は、人より動くことが少ないですから、あまり食べるとかえってよろしくないのです。」

「そんなものかのう?私には少ないのう。」

「ええ、ご遠慮なく申し付けてくださいな。あやも雁子もお世話させていただきますので。」

「うむ、この和定食と言うものを食してみたいのじゃが、どうかのう?」


「承知しました、多かったら残しても、シェフは嘆いたりはいたしませんので、ご安心ください。」

「ほう、ここのシェフは、料理を残してもしかったりせんのか?」

「はい、たくさんのお嬢様たちの中には、体調の優れない方もいらっしゃいますし、小食で少しずつ食べたい方もいらっしゃいます。ですから、定量で作っておりますが、それが多い人も少ない人もあるのです。」

「なるほどのう、世の中は便利にできておるのじゃ。」

「左様でございます。」

 あやは、すらすらと説明をして、食事を注文するために手を上げました。

 黒いお仕着せのメイドが走ってきて、麗子たちのテーブルにつきました。

 そもそも、学食のブラッスリーにはメニューと言っても、三十種類程度の料理しかなく、選ぶものも知れていますので、かえってカロリー表示のほうに気が行くもののほうが多いのではないでしょうか。

 学園の総生徒数のうち、二〇%は富裕層であり、残りは一般生徒と言う事になります。

 ですが、寄付金の額が半端ではなく、学食に関しては何を食べても無料の設定になっています。

 幼稚園部、小学部では、給食のかたちで、食育を行っています。


 中学部からは、この学食の利用が許可されますが、一年生の間は先輩のお姉様に連れてきてもらわないと、なかなか一人でブラッスリーに進入できないのが現状です。

 つまりは、中学部一年生はお弁当の子が多いと言うことです。

 精華学園にはいろいろなしきたりというか、生徒間の暗黙の了解があって、代々引き継がれているのです。

 私たちのお館組もそうですが、ソロリティと呼ばれるような集まりも、すみの方で生き残っていて、華やかなお茶会などを主催しています。西洋的なお茶会はもとより、日本的なお茶会も盛んに開かれて、真昼の学園に振り袖の花が咲いたりします。

 この学食は、ブラッスリーと呼ばれる、学園の南角にある白い建物で、高等部を中心に利用されています。

 大学部のお姉さまがたには、ここと他にもう一件レストハウスがあり、そちらは落ち着いたブラウンで統一されています。

 さて、麗子は、オマールエビを使用したエビドリアと、グリーンサラダというシンプルな食事にしました。

 雁子はごく質素な天ぷらうどんという、庶民的メニュー。あやは、富子さまにあわせて和定食となりました。

 メイドの運んできた食事は、丁寧に並べられて、めいめいお箸を持ち上げたのでした。

「それで、麗子はあれからどうなったのじゃ?」

「はい、明日土曜日に京都に行くことになりました。」

「ほう、京都に?」


「はい、御所の堺町御門から下がって、姉小路と交わるところに参ります。」

「ほう、三条上ルかえ。」

「はい、従兄弟どのの、実家がございますのよ。」

「ふむ、そうであったかの、あの片岡と言う殿方じゃの。」

「そうです。そして、今回一緒に京都に行くのが、麗と申します私の従姉妹です。」

「ふうん、麗子もなにかと忙しいの。」

「さようでございますね。二日ほど留守をいたしますが、ご用の向きはあやと雁子が伺いますので、どうぞご安心下さい。」

「そうは言うが、こんどの宿題はかなり多かったように思うがの、麗子はできそうか?」

「しかたがありません、今夜のうちにすべて片づけるつもりです。」


「おう、なんとのう、さすがな覚悟じゃな。」

「遊んでいて宿題を忘れましたとは、言いわけになりませんもの。」

「それもそうじゃ。私も休みの日にはおとなしくしていようかの。」

 二人は、明るく笑い合ったのでした。午後の日差しは暖かく、木々の若芽も薄緑に輝いて、よい季節になってまいりました。

 先日、さくらも散ってしまって、寂しいと思っていたのですが、世界は少しずつ春を運んでくるものなのですね。

「それでは私たちがお邪魔しても、よろしゅうございますか?ご一緒に、お勉強いたしましょう。」

「おお、あやも雁子も手伝うてくれるかのう?それはありがたい、昼餉など馳走しようぞ。」

「光栄に存じます。それでは、明日、お伺いさせていただきますわ。」

 昼食も無事進み、その日は何事もなく過ぎたのでした。


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